#126壱行日記⑦「関西弁」
これまで俺は六回にわたり改行はおろか句読点も全く使用せずダラダラと書き連ねた文章のようなものを壱行日記と言い張って更新してきたわけで嬉しいことに俺以外にも一部の酔狂な御仁が壱行日記を書き始めたところ句読点を使わず文も終止しないという特徴のせいかなんか知らんけど文体に一定の仰々しさが出てしまい不思議なことに著者が俺やなくても何か似通ったところのある文体になるっていう事例を発見して面白おかしく思ってたんやけど新年の抱負で述べたように俺はこの壱行日記というスタイルが自分の思ったことを立て板に水を流して河を懸けるような執筆方式として理に適っているから世間にもっと広めようという野心をもってんのに文体のおとろしさのせいで書くのが難しいとか思われるのも不本意やから今回は俺の口語である関西弁で書いていこうと思って書き始めたもんで内容も関西弁についてのものにするけど俺と同年代以上要するに昭和生まれの世代の関西人なら共感してもらえるはずのこととして関西人は関西弁のことを方言だとは思っていないということが挙げられると思うんやけどいやそりゃ関西人かって別に知識や論理の水準が日本人の標準と比べて大いに劣っているわけではないから関西弁こそが標準語なんやとは露ほども思ってへんし標準語に非ずんば即ち其れ方言なりという論理も重々承知ではあるんやけどそれはそれとして直感の問題として例えば非関西出身の人間と喋ってて桒野くんって方言のまま喋るんだねなどと舐めた口きかれたらいやいや俺が喋ってんのは関西弁であって方言とちゃいますけど何言ってるんやこいつケツの穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタ言わせたろかなどと思ってしまうわけでこういう感覚はとりわけ関西人特有のものではなくいかなる地域辺境に生まれ育った者でも自分の母語については方言と呼ばれることに一定の違和感というか忌避感を有している者と思ってたのに大学生になって掃いて捨てるほどたくさん集まってきた津々浦々の田舎者といくら喋ってもいやあ方言は方言だよーなどと抜かしよるから度肝抜かれたという記憶があってはたと思いついてこないだ教え子である中学三年生たちに関西弁のことを方言と言われたら何か違和感あるよないーってなるよなって同意を求めたら鮟鱇が餌を待つようなアホ面で口をあんぐりとさせて小首を傾げとったから道理で最近若者からコテコテの関西弁を聞く機会も減ってきたもんやなと妙に得心してたりもしたんやけどここまで書いてきてやっぱり書き言葉として関西弁を用いるのは鶏を割くのに牛刀を用いるのの反対みたいな感覚に陥るわけでやっぱり文章を書くというのはインテリゲンチア仕草であってそこに日常生活の用に供する口語が混じると滑稽の様が露呈してしまうんやなあと感嘆メイヤスーしてしまいそもそも口語では関西弁全開で喋る俺も思考する際の言語は標準語で行うしなと書こうとして本当に思考するときに言語なんか使ってるやろうかとはたと疑問になりこんなことを書くと自分のことを流行りのビジュアルシンカーでございと標榜してる痛々しいやつみたいでそれはそれで不本意なんやけど思考についてはほんまによく分からんもんで他者との会話のシミュレーションやったら関西弁で行ってるのは間違いないし例えばペーパーテストのような比較的単純な問題を解こうとしているときは関西弁が思考に出ているような気もするにせよ純粋に思索を巡らせているときは正直どうやって言語化してるかさっぱり分からんのが不思議で仕方なくって今すぐ死生観について書いてください政治批評をしてくださいと要求されたらそれなりのものをぱぱっと書くことは難しいことではないから俺の中にある程度言語化された思想があるのは間違いないんやけどそれをどうやって組み立てたんやと問われるとこれはもう全く分からへんわけで自分の思想ですらどうやって構成されてんのか分からんのやとしたらいよいよ自分の存在の頼りなさも深まってくることになって一体どうやって思考してんのやろうなと思考のあり方についてのメタ思考をしてみるわけやけどその意図的なメタ思考についてすらどんな言葉で考えてんのかまるで判然としないわけやから多分俺は何にも考えていないんやろうし一般に思考というのもそのつどその場に現象してくるものでしかないと考えた方がしっくり来そうやな。
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