「だけ」が除外するもの【アンパンマンのマーチ】
※本記事は、俺の「アンパンマン」および「アンパンマンのマーチ」の解釈であり、作者のやなせたかしが「本当はどう考えていたのか」を解き明かすような不埒なものではない。
蓋しいい歳をしてネットで文章を書いて自分の心情や価値観などを開示する喜びに浸っている連中というのは、大なり小なり捻くれた幼少期を過ごしているものである。だから、日本アニメ史が誇るあの名歌のフレーズを聞いて、一度はこのように思ったことがあるに違いない。
「じゃあ、カバオくんやチーズは友達じゃねえのかよ。」
そうだ おそれないで
みんなのために
愛と 勇気だけが ともだちさ
「だけ」というのは限定の意味をもつ副助詞であるから、「愛と勇気だけがともだちさ」とは、「愛と勇気以外はともだちではない」と同義である。だから、この歌詞をもって、アンパンマンが愛と勇気以外に友達のいない孤独な勇者なのだと揶揄するのは決して誤った文法理解とまではいえない。
しかしながら、例えば日常会話で誰かが、「俺って英語と社会だけは得意なんだよねー」などと発言したとき、なるほど、では「俺」は「英語と社会以外」の一切の技能、たとえば、炊事・洗濯・営業・経理・車の運転・サッカーのリフティング・ビリヤードのブレイクショット・将棋の中盤・早押しクイズの読ませ押し・子どものあやし方・妻の機嫌の取り方・匿名での非難中傷・闇バイトの収集・鮮魚の目利き……等々ありとあらゆることは得意ではないのだ、などと判断することがあるだろうか。そんなわけはあるまい。普通「英語と社会だけは得意だ」と言われれば、それは「(学校で習う教科科目のうち・次のテスト範囲の科目のうち)英語と社会だけは得意だ」という意味だと理解するだろう。
つまり、自然言語の用法では、「~だけ」という限定の意味は、「(~と並立的に語られる諸要素のうち)~だけ」という意味であり、「~とはそもそも比較対象とならないもの」の集合は、そもそも前提とされていない。だから、アンパンマンが「ジャムおじさんとバタコさんだけがともだちさ」と歌っているのなら、それは「カバオくんやチーズ、その他◯◯マンたちはともだちではない」ことを含意するが、「愛と勇気だけがともだちさ」はその限りではない。「愛」「勇気」といった抽象的な概念と、「カバオくん」ら固有のキャラクタとは次元が全く異なるのだから、彼らは比較の対象にはなりえず、「だけ」によって除外される対象ではない。
では、「愛」「勇気」と並立される要素でありながら、「アンパンマンのともだち」ではないものとして除外される要素とは何か?それはもちろん、「(相対的な)正義」である。
一番の歌詞を引用してみよう。
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも
なんのために 生まれて
なにをして 生きるのか
こたえられない なんて
そんなのは いやだ!
今を生きる ことで
熱い こころ 燃える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも
ああ アンパンマン
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため
よく知られている歌詞と違うもので、少々面食らったかもしれない。アニメのオープニングで流されている歌詞は、実は二番のもので、この一番は劇場版など限られた機会でしか聞くことがないためである。ここで歌われるのは徹底的な「生きるよろこび」である。
よく勘違いされることだが、「アンパンマン」とは、アンパンマンというヒーローがばいきんまんというヴィランを撃退してこの世に平和をもたらす勧善懲悪の物語ではない。アンパンマンの本質的行動は、町をパトロールして飢えて困っている子どもたちに自らの顔を分け与えるという自己犠牲であり、決してばいきんまんという悪の権化を討ち滅ぼすことではない。その証拠にあれほどの暴虐の限りをつくすばいきんまんの根城に、アンパンマンが直接攻め込むことはない。まちにいたずらをしに来たりアンパンマンをやっつけようとしに来たりするばいきんまんを撃退しているだけなのだ。
アンパンマンがパンである以上、菌が増殖するのもカビが生えるのも避けられない。といって、菌の助けを借りなければパンを作ることはできないのだから、アンパンマンとばいきんまんは正義と悪の二項対立ではない。アンパンマンが戦っているのは飢えであって、黴菌ではない。
言うまでもなく、この「飢えとの戦い」というモチーフは、作者のやなせたかしの戦争体験に由来する。太平洋戦争で徴兵され「日本のため」という正義を掲げ従軍した作者は、しかし敵国の兵士たちにも同様の掲げる正義が存在することに気づいたはずだ。それぞれの正義は相対的なもので、立場が変われば先程まで悪だったものが正義にひっくり返ってしまう。だから戦争という場で殺し殺されることを、絶対的な立場からどちらが正しくどちらが悪いと裁定することはできない。
人を殺すという犯罪が敵の討滅という正義の遂行となり、殺され命を失うことも尊い名誉の犠牲となる。武器も軍隊も戦術も、悪の手段であるばかりでなく正義の手段でもあるのだから、それ自体を簡単に否定することはできない。
そのようにすべてが相対化されてしまう戦争という悲劇の中で、敵にも味方にも平等に降りかかり、いかなる大義名分をも空文化してしまう、圧倒的な苦しみが存在する。
それが、「飢え」である。
戦争における「殺」は人の生命をただちに奪うが、そのかわりにそこに(相対的な)正義の意味を与えうる。一方「飢え」は、ただちに人から生命を奪いはしない。むしろ、生命が続く限りどうしようもない苦しみを与え続ける。敵も味方も関係なく、「こんなに苦しいならいっそ早く死んでしまいたい」と「生きるよろこび」を奪ってしまう。それが、「飢え」というこの世の絶対的な悪である。
本当の正義の味方とは、敵をやっつける力をもつだけの者であってはならない。敵を討伐するという意味の正義は相対的なものに過ぎないからだ。むしろ、そうした相対的な敵と味方、善と悪の立場を乗り越えて、どんな相手に対しても飢えているものがあれば食べ物を分け与えてやる、そうして世界に「生きるよろこび」を保障する。そうした存在こそが絶対的な正義の体現者なのだ。だからアンパンマンは、自分の身を差し出して飢える者を救う。
顔が欠けると、力が出なくなるにもかかわらず。
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ どんな敵が あいてでも
「どんな敵があいてでも」「生きるよろこび」の「うれし」さを保障する、そんな絶対的な正義を実現するためには、特定の立場や価値観を前提とする相対的な正義は役に立たない。「愛と勇気だけがともだち」なのだ。
これは決して、「敵も味方もない」というような楽観的な世界観ではない。敵はたしかに存在する。それでも、敵の「生きるよろこび」をも認めることが「愛」であり、そのために我が身を犠牲にすることを厭わないことが「勇気」である。その二つのみを行動の原理とする覚悟のある者だけがアンパンマンという本物の正義になることができる。
だから、繰り返し、このように歌われるのだ。
ああ アンパンマン
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため
「ぼくら」のためでも「我々」のためでもない。
「みんな」のために、
アンパンマンはどこまでも飛ぶ。
二番以降も含めてすべての歌詞を最後にまとめて引用しておく。
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも
なんのために 生まれて
なにをして 生きるのか
こたえられない なんて
そんなのは いやだ!
今を生きる ことで
熱い こころ 燃える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも
ああ アンパンマン
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため
なにが君のしあわせ
なにをして よろこぶ
わからないまま おわる
そんなのは いやだ!
忘れないで 夢を
こぼさないで 涙
だから 君は とぶんだ
どこまでも
そうだ おそれないで
みんなのために
愛と 勇気だけが ともだちさ
ああ アンパンマン
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため
時は はやく すぎる
光る 星は 消える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ どんな敵が あいてでも
ああ アンパンマン
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため
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