【1】10/10
死ぬまでに何をするか。
久々に友人たちと会って、その帰りがけで私が放った言葉。
二日酔いが醒めつつある頭に、その言葉が反芻している。
偉そうなことを言ったのだが、それなら私はどうだろう。
平日は一日中仕事に付け込まれて、休日はずっとお酒を飲んでだらだらとしている。
そうして成したかったことも忘れて、やたらと偉い信念だけが残っているように見える。
中身のない人間が放つ言葉、その言葉がどれだけ軽いものかを私は知っている。
自分でも時折、表面的なことしか言っていないと感じるときもある。
しかし、昨日放ったこの言葉は、やはり何かが違う。
物質的な質量が感じられるくらいに、身体にのしかかってくるような重みがある。
言葉の中身がどうなっているのか、私には見ることができないが。
自分の言葉なのに。
私は探究しなければならない。
外側に放出された言葉は、その人物を構成して責任を与える。
私も例外なく、私が発する言葉で私は構成されている。
言葉の中身があるかどうかは重要ではない。
ただしすでに中身があるのに、それが何かを把握していないのは問題だ。無責任だ。
私は自分の責任を背負うために、この言葉の質量を解き明かさなければならない。
とはいえ、私がその中身が見られないのはすでに認識している。
こういうときは、私からその言葉を差し引くのが合理的だろう。
そうして感じた喪失感が、言葉の中身の正体となるはずだ。簡単な数学だ。
早速私は想像する。そうして私は、そういえばそうだった、と思い出す。
私は死ぬことばかり考えている。
希死念慮ではなく、もっと前向きで、受容的な死への崇拝。
生は死へと帰結するからして、否応なく平等に死は訪れる。
ましてや、死は常に隣にあって、花が咲く手前のような、そんなおしとやかさを漂わせる。
いつの日かそのことに気がついた私は、死ぬために生きることを決めたのだった。
つまりあの言葉には、私の死生観がそのまま入っている。
休日にだらけているのも合点がいく。
一見すると矛盾しているが、そんなことはない。
私は最期のとき、自分の生涯を物語として俯瞰したい。
そのためには私の振る舞いを忘れないための、形として残るものが必要になる。
私はだらけながらも絵を描いたり、体力があればカメラを持って出かけたりもする。
そして何より、こうして文章としても私を書き出している。
あの言葉の意味は、何かを成し遂げるべきということではなくて、生きる目的を持つべきだということだろう。
また友人に会う機会があれば、同じ言葉を放ってやろうと思う。
