被爆者三世の私。
こんなタイトルで書き始めると、いかにも重たく深刻な文章が始まりそうだけれど、被爆者三世である私自身の体験になにも特別なものはない。
母方の祖母は、16歳のときに広島で被爆した。身内に被爆者がいるとさぞ生々しい体験談を聞いていると思うかもしれないが、祖母は自身の体験を語りたがらなかった。
一度だけ、祖母がその体験を語っているのを見たことがある。相手は私の3つ上のいとこのお兄ちゃんで、一家で夏休みに帰省してきていたときだった。当時いとこのお兄ちゃんは中学生、私は小学生だった。
ダイニングの椅子に腰掛けた祖母は、真剣な様子でいとこのお兄ちゃんに何かを話していた。いつも穏やかで優しい祖母から醸し出される張り詰めた雰囲気と深刻な声がなんだか恐ろしく、私はその話の輪に入ることができなかった。かといって全く違う場所へ行って遊ぶのも気が引けた。別に私はお呼びではなかったのだが、興味がないかのように振る舞うことは祖母への冒涜のように感じたのだ。
結局私は少し離れたリビングの床に座り込み、断片的に聞こえる祖母の話に耳をすました。
おばあちゃんは多分、原爆のことを話してる。
でもそれ以上のことはわからなかった。
これ以降、二度と祖母から被爆体験を聞くことはなかった。だから私が知る祖母の被爆体験は、ほとんど母からの又聞きだ。
祖母は四人姉妹の末っ子で、両親と二番目の姉と三番目の姉を原爆で失った。一番目の姉は既に嫁いで広島を離れていたそうだ。祖母が両親や姉たちとの思い出を語るとき、そこに被爆体験の片鱗を見ることはあった。けれども改めてその体験を聞こうとすると「話したくない」「思い出したくない」というのが常だった。
今となっては状況は全く違うと思うが、私が小学生だった頃の広島では、当事者が語る被爆体験というのはさほど珍しいものではなかった。存命の被爆者一世はたくさんいたし、決して風化させてはならないという使命感を持って精力的に活動されている方々が多くいた。
広島で育った私と同世代以上の人であれば、被爆者の生の声を聞いたことのない人の方が珍しいのではないかと思う。
夏休みの登校日には毎年のように体育館に集まって被爆体験を聞いたし、平和記念資料館は遠足の定番スポットだった。これらは「平和学習」として学校のカリキュラムに組み込まれていたと思う。今はどうなのかな。
私はよく「折り鶴が折れない人は広島人じゃない」という冗談を言うのだが(本気にしないでください)、それくらい学生時代には何度も折り鶴を折った。大学に進学して、折り鶴が折れない人に出会って驚愕した。
小学生の頃は毎年折り鶴で壁画を作ったし、平和記念公園内にある原爆の子の像に捧げる折り鶴も何度も折った。
世界中から広島に届く大量の折り鶴。捨てるわけにもいかないし実は広島はその扱いに困っているらしい、と母の友人から聞いたときは少なからずショックだったが、広島のいち小学生だった自分が今までに折ったものだけでも相当な数だし、世界中と考えると無理もない話だ。あれから長い年月が経ち、今は再生紙の原料になってるんだとか。
8月6日の朝は特別だ。8時15分に平和記念式典の中継が映るテレビの前に座り、黙祷を捧げる。その日は私の曽祖父と曽祖母、そして大伯母たちの命日でもあるのだ。
その日その時間に私が不肖にぐーすか寝ていたとしても、両親は敢えて起こしたりはしなかった。ただ、目が覚めて今日が8月6日であり、もう8時15分を過ぎていると気が付くと凄まじい罪悪感に襲われた。自分だけやるべきことをやっていないような、誠実さに欠けているような気がして。
広島を出たあと、私たちが思うほど8月6日は人々の心に刻まれていないことを知りショックを受けた。東京であれば東京大空襲があったし、関西であれば阪神淡路大震災があった。どの土地もそれぞれの傷を抱えているのだ。
アメリカに住んで、"Where are you from?" と聞かれる機会が増えた。"Japan" で済めばいいが、日本のどこなんだ?と更に聞いてくる人も多い。答えたところで知ってんの?とも思うが、相手がアメリカ人であればたいていの人は "Hiroshima" を知っている。わずかに動く眉やわずかに開く瞳孔から、相手が原爆を落とした場所として広島を認識しているのがわかる。
人によっては "Oh…" と申し訳なさそうに何か言おうとしてくれるので、たいてい私は「まあこっちもパールハーバーとかね、したしね」などと言ってこの会話を終わらせる。
「え!広島って人が住めるの…?」と言われたこともある。健康被害について心配されたことも。海外ではそんな解像度なんだな、と驚いた。遠い海を隔てた極東の地に対する知識なんて、その程度なんだろう。
祖母は大きな健康被害を受けることなく、90歳で大往生を遂げた。たくさんの方が苦しんでいた中で本当に幸運だったと思う。
ただ晩年の祖母はいつも人生に対して悲観的だった。体調、家族、日々生きること、その全てに不満を漏らし、嘆いていた。会えばネガティブな言葉ばかりを口にする祖母に、私は会うのがだんだん億劫になってしまっていた。
今になって思えば、祖母はもっとケアされたかったのだと思う。ケアされるために自分は不幸であると必死にアピールしていたのだ。
そんなことにも気付かず、私は私で必死に祖母へ訴えた。ないものではなくあるものに目を向けたらどうか、このように考え方や物の見方を変えてみてはどうか、この本を読んではどうか。
穏やかで優しい祖母が恋しかった。あの頃の祖母と話をしたかった。
祖母はそんな頓珍漢なことを返してくる孫に、諦めたかのように「そうよね」と心の中で振り上げた拳を静かに下ろすものの、その目はいつも悲しそうだった。
あの日、私と祖母は祖母の家のキッチンでお茶の支度をしていた。いつものように祖母の話は日常の不平不満へとシフトし、これまたいつものように私が相槌を打って収束するかと思いきや、あの日は違った。祖母は自分の手元をじっと見つめながら「原爆が悪い。原爆が人生をめちゃくちゃにした」と吐き捨てたのだった。
なんと言えればよかったんだろうか。
そのめちゃくちゃな人生の末に生まれてきた私は。
16歳という若さで親と姉たちを失い、広島でひとりぼっちになった祖母。東京にいる姉は頼れず、汽車に乗って親戚を訪ねて家に住まわせてもらい、肩身の狭い思いをしながら日々生活し、「早くここを出たい」と言う一心で祖父と結婚して。良いところに嫁いだと思ったら祖父に商才がなく苦労して。
そんなの原爆が悪いに決まってる。16歳以降の祖母にもあったはずなのだ。心安らかに過ごせる家が。姉たちと笑い合ったり喧嘩したりする日々が。逃げ出したくてする結婚ではなく、心から望んだ人と添い遂げる未来が。
今なら祖母に寄り添ってあげられるのに。辛かったね、それでも生きてくれてありがとうと言えるのに。愛してると伝えられるのに。当時の私は未熟で、祖母がどんな気持ちでその言葉を発したかを考えることができなかった。ただただ、今の自分は祖母の犠牲の上に存在しているということがショックだった。
16歳の祖母も、自分のように幸せになって欲しかった。でもそうなった先にはきっと自分はいないのだ。
大人になって、祖母の被爆体験をちゃんと聞いてみたいと思ったことは何度かあった。被爆者は年々少なくなってきており、語り手として活動される方も減った。テレビで被爆者二世の方が思いを語られる様子を見て、自分も三世として知っておくべきなのではないか、と思った。語りたがらない祖母に、食い下がってでもお願いすべきなのではないか。
でも勇気が出なかった。
祖母の被爆体験とその後の日々を聞くことは、祖母の「めちゃくちゃにされた」人生を聞くことだ。今の自分よりも年下の女の子の人生が壊されていく様を、目の前で突きつけられるということだ。今まで曖昧だった、自分が存在するために犠牲にされたものが、輪郭を帯びてしまう。それが怖くて、結局聞くことができなかった。
祖母は5年前に亡くなった。私が勇気を出せなかったことで、被爆した1人の少女の人生はほとんど知られることなく終わってしまった。別に祖母の体験をメディアに出したいとか、広く知ってほしいなんて思っていない。ただちゃんと向き合いたかった。そして自分の子ども達に語り継ぎたかった。戦争で狂わされる人生と、その先に生きている自分たちのことを。
私の記憶の平和式典の中継は、いつも陽炎で画面が揺れている。真夏の朝から画面いっぱいに並ぶ黒いスーツ。煌々と燃える台座の灯火。世界が静まり返るように感じる黙祷。今の私の世界から縁遠くなってしまったもの。
今年は子ども達と見ようと思う。話そうと思う。祖母のことを。
もっと早くそう思うべきだったのに。おばあちゃん。もし今あなたが生きていたら、話してくれていたかな。やっぱり断られていたかな。話してくれなくていいから、あなたが求めていた言葉を言ってあげたかった。ごめんね。
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