『黒猫ストリップ』第2話
恋のバカンス
<朝顔や釣瓶(つるべ)とられてもらひ水>
夏も盛りのその日。この街は、朝から何やかやとそわそわとして落ち着きがなか った。早い刻から、職人・商人問わず、町衆はバタバタと座ることもなく慌ただ しく駆け回っていた。それは、芸人も同じこと。平素より忙しない人種ではあっ たが、今日はそれ以上皆浮足立っているようで、あの普段は芸人の言動にも頓着 しない陽炎が、「花の賑わい… などと言っている場合ではないな」と重い腰を上 げて、小屋の表で騒ぐ若い衆を鎮めに出ていく始末だった。
それもそのはず。 今宵は、この街界隈で、年に一度の夏祭りが行われる日であった。和蘭座でも、 納涼特別興行として、他の小屋からも芸人や噺家を呼び、沢山の客を見込んで盛 大に夜の寄席が打たれる。お足のほうも普段の倍もらえるとあって、特別興行用 の揃いの法被に身を包んだ芸人たちは気分も上々と言うわけだ。 周りの上機嫌に当てられて、いつものようにお運びの準備をしている少女も楽 しい気分になっている… かと思いきや。その横顔は少し拗ねたような、臍を曲げ たような様子だった。
「浮かぬ顔だな」
目敏く、少女の表情に気付いたとある男が、ずずうと茶をすすりながら話し掛け てきた。最近名前をきちんと知ったのだが、若草と言うらしい。竜胆とは長い付 き合いらしく、草花の名を冠した同士、その丁々発止のやり取りは名人芸として、 楽屋の芸人の間でも名物となっていた。宙にも浮くほどに浮ついている周囲の 芸人たちの中で、彼だけは淡々といつもの調子で佇んでいる。ひとりだけ置いて けぼりを食ったような気分でいた少女は、その声にいくらか救われた様子で、ぷ くりと頬を膨らませて見せた。
「陽炎や紅葉、俺もシロも今宵は共にいる。 この先の神社では屋台や朝顔市も出るというし、旨い菓子や茶も味わえる。 どれ、俺もいくらか金子を都合してきたから、お前に玩具のひとつも買ってやろう」
そう言ってひらひらと懐の財布を揺らして見せたが、少女の顔は明るくならな い。その理由は竜胆にあった。今日まで、祭りを誰より待っていた少女は、賑や かな夜店の行列や、鮮やかな灯篭の連なる大通りを、竜胆と、他の芸人たちと皆 でそぞろ歩くのを楽しみにしていた。今日のために、贔屓の呉服屋が気を利かせ て、少女に特注で可愛らしい金魚の柄の浴衣を仕立ててもくれた。白の布地に涼 し気に泳ぐ、桃色や水色の金魚を少女は大変に気に入って、それを竜胆に着せて もらって夜の街を出歩くのを待ちに待っていたのだ。 しかし、昨日になって竜胆は、突然用事が出来たと言って、陽炎たち近しい芸人 たちに少女を預けたのだった。すまんすまんと両手を合わせて謝る竜胆だったが、少女は機嫌を損ねたまま。今朝の朝餉の時も一言も交わさずに、少女は初め てシロと2人きりで家を出てきた。我ながら子どもっぽい我儘だとは思っていたが、普段からやたらと子ども扱いしてくる竜胆を、もっと困らせてやろうとい う思いもあった。
今宵の竜胆の出番は、寄席の序盤。それが終わると、早々に小 屋を出ると話していた。少女は、シロと共に最後の演目までお運びを手伝って、 陽炎たちと共にお祭りに向かう手筈になっていた。少女はまだふくれっ面のまま、若草を見上げる。
「一緒に、お神輿の行列を見てくれるか?」
「ああ」
「浴衣と同じ金魚を、金魚すくいで見つけてくれるか?」
「お安い御用だ。俺は意外に得意でな」
ほわりと音がするかのように穏やかに微笑んで見せるその顔に、少女は頬に含 んでいたご機嫌斜めを少しだけ吐き出す。想いとは形を変えてしまったが、お祭 りに行けなくなったわけではない。この愉快な仲間たちが傍にいてくれれば、き っと楽しめるだろう。小屋の中にいても分かるほどの街の熱気をまだ少し疎ましく思いながら、少女は寄席の準備をする手を再び動かし始めた。
高揚した空気と言うものは、人の時間の感覚を狂わすもののようで。 和蘭座、今宵の特別興行は、今まさに最後の演目を終えようとするところであっ た。 出番を終えた者たちはすでに飲めや歌えの祭り気分に切り替わっていて、ただ でさえ普段よりも多く集まっている楽屋では、大入り満員の祝い酒が振る舞わ れ、一杯ひっかけたほろ酔い加減の芸人たちは、連れ立って我先にと浮かされた 街に繰り出して行った。
「一寸いいか?」
舞台袖で最後のお運びを終えた少女を待ち構えて、陽炎が呼び止める。舞台上で は、本日のオオトリである腹話術師の堂前が、例の賑やかな狐の相方と共に、客 の大喝采を浴びているところであった。 少女は、今下げてきたばかりの座布団を持ったまま、陽炎の口元に耳を近付ける。
「贔屓筋が、新しい者を紹介したいと言っていてな。 少し遅れるから、鶯たちと一緒に先に出ていてくれ。後から追う」
陽炎の甘いゆったりとした声は、かしましい舞台袖でも充分に聞き取れた。寄席 にとって、贔屓筋は何より大切なものだ。芸人たちやお囃子衆の世話から、舞台 道具、小屋の修理に至るまで、彼らの援助によって興行は行われていると言って も過言ではない。少女も、そのことは芸人たちと共に身に染みるほどに感じていたので、こくんと一度しっかりと返事をした。
終演後、少女が小屋の外に出ると、そこは宵闇に浮かび上がり、 普段とは全く違う様相に変貌していた。奇術師の器用さを持つ紅葉の手によっ て着付けられ、少女は金魚柄の浴衣を身にまとっていた。くるくると回るたびに、 腰の帯がふわふわと揺れる。街中の道に沿って灯されたぼんぼりが、浴衣の白地 に色鮮やかに映って綺麗だった。傍らでは、何故かやや疲れた様子の紅葉と、暑 さを感じているのかいないのか涼し気な顔でシロを抱いた若草が、ぴょんぴょ ん飛び跳ねる少女の様子を見守っていた。いつも胸元の緩い着物を纏っている 癖に、紅葉の着付けは随分と丁寧で、随分と時間が掛かった。焦れた様子の少女 が鏡越しに紅葉を見やると、彼は股の間を抑え俯いていた。
「まだ収まらんか?」
「…… 聞かないでくれ」
「あの娘も、中々に罪深い子だな。誰に似たのか」
紅葉の青臭い若さに、年長者の含み笑いを浮かべながら。若草はちょいと寄席の 入り口を見やる。まもなく堂前が着替えを終えて出てくるはずなのだが、中が込 み合っているのか中々現れない。若草は、すでに夢心地でいる少女を呼びつける と、ちょっと楽屋を見てきてくれと頼んだ。少女は、浴衣を翻し、軽い歩みで小 屋に戻る。細い路地を抜けると、すぐに奥まで行き当たった。 楽屋の戸に手を掛け、ひょいっと顔を出す。楽屋の奥では、陽炎と数人の男が話 していた。先ほど陽炎が言っていた贔屓筋なのだろう。パリッと襟まで糊の掛か ったシャツ、円卓に置かれた高級そうな銀色の懐中時計まで、全身の装いが大店 の旦那らしい余裕を感じさせる。
少女は、商談の邪魔だけはしないよう努めて静 かに、楽屋の室内を見渡した。堂前は、楽屋の隅の方でいつもの頭巾姿に着替え ているが、見る限りその位置には彼はいないように見える。一通りぐるりと見る と、最後に、先ほどの贔屓筋の背後に控える、ひとりの「眼帯の男」を目にした。
ドクン!!!
突然、少女の心臓が、大きく音を立てた。
「は…… 」
心臓だけではない。脳みそ、体中の肌と言う肌、感覚の全てが、ぐしゃぐしゃに 引っ掻き回されたような気がした。記憶の奥に眠っていたものがほじくり返さ れ、そのひとつひとつが明確な拒絶や不安、嫌悪感を持って、その男を捕らえて いた。戸を掴んでいた指が、小刻みに震えている。自分が起こしたカタカタと鳴 る音に驚いて、体を後ずらせた。呼吸が荒くなり、小さな音だけが喉からかすか に漏れる。吸う数と吐く数が合わなくなり、唇が空気を求めて戦慄いていた。
「いや…… 嫌っ…… 」
自分でも、何が嫌なのかは分からない。ただこれ以上、脳裏に入り込まれるのが 怖かった。そう、ただひたすらに怖かったのだ。自分でも気付かないような無意 識の部分で、誰かが何かを伝えようとしている。それが良いことなのか悪いこと なのかは分からないが。視界がくるくると回る。不協和音が、昔いずこかで見た 記憶の奥底の回転木馬の音楽のように響き始める。気持ち悪い… 怖い、気持ち悪 い… 。瞳だけは、自分の意思とは反対にその男から離せない。
「ん?」
少女は、これ以上耐えられなかった。部屋の外から聞こえた物音に気付いて、陽 炎が入り口の土間を覗いた時には、少女はもう駆け出していた。ただでさえ薄暗 い小屋の中の通路だ。淡い電灯がチカチカと揺れるのを浴びながら、ただただ必 死に、小屋の入り口に向かって走った。一刻も早く、此処から逃げ出したい。洪 水のように押し寄せた「記憶」の渦に、少女は追いかけられていた。
「おお、裏口から出てきていたぞ」
小屋の外に出ると、視界の隅に、若草と、自分が探していたはずの堂前の姿が映 った気がした。しかし少女は、転がるように若草たちの前を通りすぎ、そのまま お祭り囃子が鳴る街の中へ突っ込んでいく。 そぞろ歩く人混みの中に混じって、少女の小さな体はすぐに掻き消えた。
「や、ややっ!?」
「おい!どこへ行く!」
堂前と若草が、慌てて呼び止める。その横を、先ほどまで悠長に壁にもたれ、雲 と競うように紫煙の筋を作っていた紅葉が、早馬の様に走って行った。少女が潜 り込んだ人の群れの穴に、真っすぐに身を投げる。放り出された煙管が、まだ火 も絶えぬ状態で砂利の上に燃えていた。すると、若草の腕の中で、巨大な黒猫ま でもが、みゃあみゃあと身じろぎ始める。そのまま腕から零れ落ちるように地面 に降りると、紅葉の後を追い、走り出した。
「な、なんだ?」
もはや2人と1匹の姿は気配すら追えない。一瞬の出来事から完全に取り残さ れた2人は、呆然と口を開けたまま。お供の狐が何やら大声で2人に叫んでいた が、それすらまともには耳に入って来ない。お互い目を見合わせると、ほぼ同時 に首を傾げた。
◇
「待てって、言ってるだろ!!」
はっしと取られた腕に、少女は我に返る。その細い腕に無意識で何かを期待して いたが。振り返って目の前にいたのは、紅葉だった。正面から真っすぐに見据え られ、瞳と瞳が交差する。 目を逸らそうとすると、腕を掴む紅葉の力が強くなった。身体はまだ、今にも駆 け出しそうに外を向いていたが、心は、紅葉の強い視線に射抜かれて、微動だに しなかった。紅葉は肩で息をしていた。口を少しだけ開けて、その隙間から小さ く吐息を漏らしている。決して逃がすまいとするように、紅葉は、少女の腕を自 分に引き寄せた。
「何があった」
紅葉が強い口調で聞く。それが合図のように、少女の意識に、周囲の喧騒や周り の様子が入り込んで来た。少女はうっそりと、これも紅葉のいつも掛けてる不思 議な奇術のせいなのだろうかと思った。
「何もない」
「じゃあどうして逃げたんだ」
「…… 逃げてない」
「じゃあ。なんでそんな顔してる」
ぐらりと少女の視界が歪んだ。煙幕を張ったように、じわじわと眼が潤いを増し ていき、やがてその端々が、街の鮮やかな灯を含んで七色に光る。紅葉の顔すら 滲んで見えなくなった。少女は、それを振り払うように大きく頭を振る。散らば った水の粒が、肌や髪にまとわりついて冷たかった。
「さっきまであんなに楽しそうだっただろ。楽屋で一体何が」
「なんでもない!」
「だが」
「なんでもないって言ってるだろ!!」
少女は、手首に巻かれていた紅葉の腕を振りほどく。一度では足りず二回大きく 揺すると、突き放されるように紅葉が遠のいた。少女はもう、その表情をかすめ 見ることもない。白地の金魚は、再び宵闇に駆け出して行った。街の陽気な空気 とは反対に、少女が消えていく群青色の通りは不穏に染められているようで。紅 葉は、その姿を止めることも追うことも出来ずに、ただ見送るしか出来なかった。
走って、走って、息が切れるまで走って。
立ち止まってはまた、浴衣の袖で瞳を拭って。
脚は止まらない、どこまでも止まらない。
狭いと思っていたはずのこの街は、
行く限り、永遠に果てがないように思えた。
カタリと戸口を開ける小さな音が、静かな玄関に響く。 結局、辿り着いた先は、自分と、竜胆とシロが住むこの家であった。 今の少女には、何もない。全ては与えられたものであり、自らを示すはっきりし たものは何もない。 誰もいない、物音ひとつしない静寂に、少女はそれを痛いほど思い知らされてい た。 祭りの最中とは言え、家の近くまで来れば灯りもほとんどない。足がもつれ、途 中で何度も転んだ少女の両足は、泥や砂利にまみれて黒く汚れていた。せっかく 紅葉に着付けてもらった浴衣も、捲りあがり肌蹴て酷い有様だ。夕方、浴衣を着 せてくれながら可愛いと褒めてくれた紅葉と、先ほど自分の腕を掴んで引き留 めた強い眼差しの紅葉が、思考の中で交差する。少女は、考えを散らそうと浴衣 の袖をぎゅっと握りしめた。 下駄で擦れた踵を庇い、猫が這うようにして廊下を抜ける。
その時。
「…… っ……… ふ… 」
家の奥、竜胆が居室としている8帖ほどの部屋の中から、何か声が聞こえた気が した。少女は、ふと動きを止める。沈黙の中に耳を澄ますが、聞こえるのは、庭 の外の虫たちが声高に鳴きすさぶ音色だけ。それよりも、打ち付けた左足の膝小 僧がじくじくと悲鳴をあげていて、痛みにも声があるのかと思ったくらいだった。
気のせいか。きっと気のせいだろう。少女はまた、ゆっくりと前進を始める。心寂しさから、竜胆が帰ってきているなどと、淡い期待をしてしまったのだろう。 我ながらなんて身勝手なのだろうか。あの男は、親でも兄でも、自分だけのもの でもないと言うのに。少女は自嘲気味に息を吐く。存分に甘やかし、存分に構っ てくれるあの芸人たちの間にいて、自分も随分と慣れてしまっていたらしい。呑気なものだ。 そうは頭で思いながらも、膝の痛みは増していく。 まるでひとりぼっちの感情が傷に滲んだようで、少女は苦し気に顔を顰める。
「…… ぁ……… っ」
少女は目を見開いた。
今度は確実に、はっきりとその声が聞こえた。 周囲の風に乗って、ほんのわずか衣の擦れるような音もした。 四つん這いのまま、竜胆の部屋に続く長い廊下を見つめる。少女は目を凝らした。 そこは暗闇に閉ざされていたが、その隙間からほんの一筋、ぼんやりと橙色の灯りが漏れているように見える。 まさか、本当に竜胆が帰っているのだろうか。こんなに早い時間に。自分が小屋 を出てまだ一刻も経っていないはず。今日はお天道さんが昇る頃に戻るからと、 今朝の出掛け、膨れっ面の自分に向かって、優しくあやす様に言われたはずだったが。 視線の先で、部屋から漏れる灯りがちらちらと揺れている。少女は、自室に向かおうとしていた体の向きを変えると、真っ暗な廊下をゆっくりゆっくりと進み始めた。
どこまで続くのか、奥行きも錯覚するような闇が、おいでおいでと手招きしている。しかしもう、膝の痛みはなかった。約束を破られたりと色々された が、それも今日は許してやろう。浴衣を着替えて軽く行水をしたら、二人で改め て街に繰り出すのも悪くない。紅葉にもさっきはごめんと謝れるだろうし、若草たちもきっと待っていてくれるだろう。
「あ……… ああ…… 」
引き摺った膝から、真っ赤な血が細く垂れていく。這うように進むのは意外に難 しいもので、は、は、と短く息を吐く自分の音が、耳をくすぐっては溶けていっ た。前もむけずに、ただ光りに向かって前進する。 だから。それに一生懸命で、気付かなかった。いや、気付かない振りをしていたのだ。 竜胆の部屋から漏れ聞こえる声。この声は、竜胆の声ではない。 あの悪戯っ子のような愉快な、優しい声ではない。
忍ぶように押し出され、抗うように引き戻される、この甲高い声は。
色を帯び苦しそうに何かを求める浅ましい声は、女の声だ。
「っ…… あ、りぅ…… 」
分かっていても、もう止まらない。身体はずんずんと冷たい廊下を這う。近付け ば近付くほど声は大きくなったが、少女は眉ひとつ動かさず、無感情なまま、部 屋の灯りに向かっていった。 この先に待っているものが何でも、今は関係がなかった。そんなものはどうでも 良かった。 部屋から零れる灯り。それは、最初に見つけた時から今までずっと、少女を、安 堵へ導く灯りだった。 部屋の障子に指を掛ける。 ひとつの音も、決して立てないように、ゆっくりと。 わずかに開いた隙間から、少女は片目で覗き込んだ。
刹那、辺りにむせ返る様な、甘ったるい、花のような香りがたち込める。 それは眩暈がするほどに、濃く、強く。 少女は、脳天を揺さぶられて、ふらりと意識を失いそうになった。 この香りは知っている。知らないはずがなかった。なぜ今まで忘れていたんだろ う。この香りの、この花の名前は……
「栗の花」
口から零れた言葉が、ふわふわと甘い香りに漂う。 橙の果実よりもずっと黄味が強い灯り。その向こう側。霞がかった部屋の中に。浮かび上がるように真白な肌の男と、水蜜桃の色に染めあがった女の裸体 が艶めかしく、繋がりあっていた。 男の唇は薄く開き、かすかに息を吐き出している。時々、ちろりと舌を出して は、乾ききった口の端を湿らす様にひと舐めする。その仕草は酷く獣めいてい て、少女は我が目を疑いたくなった。 男は、女の身体を後ろから抱き込んでいた。押し込むようにぐいぐいと腰を進めると、女が吐息交じりにか細く声を絞り出す。
「ああ、いいな…… 奥まで焼けそうだ」
「…… あ、あ、気をやっちまうよ…… 」
「へえ、じゃあ……… ここならどうだ…… ?」
男は、女の尻たぶを掴むと、大きく押し開く。女はそれにすら反応してしまう ようで、あああと声を漏らした。男は瞳を細める。口元だけでにたりと笑う と、わずかに腰を引いた。女の下腹部と、男の腰。隙間なくぴったりとくっつ いていたその間から、奇妙な形に勃ち上がった「何か」がずるりと身を覗かせ る。少女はそれを障子の間、真横から垣間見て、小さく息を飲んだ。
竜胆は不用心で、いつも自分の部屋を開け放したままでいる。だから、何かの 用事でついと部屋を訪れた少女が、偶然竜胆の着替えを目撃してしまうことも 少なくなかった。ある時など、汗をかいたと下着を履き替えていたその姿を、 真正面からしっかりと見てしまったのだが。慌てて障子を閉めて怒ったので、 そのモノ自体は一瞬しか見ていない。しかし、記憶の奥にあるそれは、こんなに醜怪な姿ではなかった。
「あああっ… !だめだめ…… !」
男は自分のそこを、女の腰に、下から掬い上げるように打ち付ける。細く、し かし鍛えられた腹が、男が荒く息を吐くのに合わせて仰け反る。その漏れだす 息使いは、犬が呼吸をするようで、不思議なものを見るように少女は釘付けに なった。男の喉元の太く隆起した部分が、ゆっくりと酸素を乞うように上下に 動く。空を仰いだその横顔は、少女の知るそれよりもずっと野蛮で醜く見え た。小刻みに何度も何度も揺さぶられる。女は長い髪を乱しながら頭を振っ た。その姿もまた、少女の目には酷く慎みがなく汚らしく映っていた。 辺りには相変わらず、酔いそうなほどの花の香りが満ちている。それにもようやく慣れたころ、次に少女の耳に降ってきたのは、激しい水音だった。ぺちゅ ん、ばちゅん。男が腰を抽送するたび、連なった部分から溢れ出るように音が 鳴る。その音は、静まり返った部屋の闇に響いて、いつどの瞬間も止まないよ うに思えた。ぐちゅ、ぐちゅり。男が、女の尻に自らを擦り付けると、濡れて 湿った音がする。男は女の身体を後ろから包み込むように、覆いかぶさった。
「はあ… もっと腰をあげろ」
「ん…… 、あぁ…… 」
「もっとだ、ほら、そこに手をついて。俺にナカまで見せてくれ」
「やだ、恥ずかしいよ…… 」
女は嫌々と、大きく尻を振って見せる。その仕草と声は、むしろ喜んでこそい て拒んでいるようには聞こえなかった。男は、貫いていた部位を女の身体から ずるりと取り出す。男の腹に、それは反り返って当たるほどに大きくなってい た。少女は咄嗟に目を逸らした。それが強大な樹木の幹のように見えたから だ。そんな巨大で太い物が埋め込まれて、女が惚けた声をあげるのが信じられ なかった。 男は、女の腕を取り、無理やり布団に縛り付ける。その間も、自分の物の先っ ぽで女の剥き出しの肉芽を擦っていた。時々に上の方を弾くように撫で上げら れるのを、女はピクンピクンと全身で捕らえて身を震わす。腰を高く掲げる姿 勢になった女は、猫が伸びをするような仕草で、布団に頬を擦りつけた。
「あ、ダメだよ…… 」
「見るだけで済むもんか。たんと味わってやる。 今宵は祭りだろ。
きっとどの夜店の菓子より甘い…… 」
男は、自分の人差し指と中指を銜えると、わざとらしく音を鳴らしてしゃぶっ た。びちゃり、ぐちゅり。その音に、尻を掲げたままの姿勢の女の脚がガクガ クと戦慄く。男の唇の間から真っ赤な舌が、蛇のそれのようにちらちらと覗い た。まもなく、灯りに照らされ、てらてらしとどに湿ったその指を、男は女の そこへ掻きいれる。
「あ、あ、あ、あああんっ!」
待ちに待っていたというように、女の身体が喜びの悲鳴をあげる。女のナカ に、二本の指が泡立った音を立てながら飲み込まれていく。男はその指をゆっ くりと快感を引き出すように抜き差ししながら、片方の手で女の震える太もも を抱きかかえた。濡れたその中心に顔を埋める。ぐじゅる、ぶじゅる。むしゃ ぶりつくように唇を左右に動かすと、女の声は一層高くなった。はあはあと息 継ぎをする間もなく、零れ落ちる果汁を啜る、激しい水音が辺りいっぱいに響き渡った。
「あ、はあ…… 少ししょっぱいな」
男は、その口元に薄く笑みを浮かべる。長く舌を出すと、女のそこを上から下 までゆっくり辿った。びちゃびちゃと音を鳴らしながら、蜜を飲み下すように 喉を鳴らす。その間にも、指の動きは止まらず。女は、お、お、と喉を潰して 嬌声を発していた。男は舌先を尖らせると、軽く叩くようにして、ある部分を 刺激する。瞬間、女の腰が大げさに跳ね上がった。
「あ、いや、そこいや… !」
「きみは確か、唇で吸いあげるほうが好きだったよな…… 」
男は、白く太い指の動きを速める。ぐちゃぐちゃ、ぐちゅぐじゃと。それに合 わせて、濡れそぼったそこに激しく吸い付く。呼吸を繋ぐ間の、漏れだすわず かな吐息さえも、女の身体は刺激として拾ってしまうらしく、その喘ぎは、さ らに高く大きくなる。女の尻が、上に下に大きく震え始めた。女は、手を伸ば して苦しそうに宙を掴み、掴むところがないと分かると、布団の上に敷いてあ った男の羽織を見つけて、それを掻き抱く。飾りの鎖が小さくチリーンと鳴った。
少女は、その音にハッとした。
憑き物が落ちたように、目を数度瞬かせる。
障子の向こうでは、さっきまでと 変わらず、男が女の泥濘に顔を埋め、女は全身を大きく何度も痙攣させなが ら、獣のような嬌声をあげている。それらの光景、匂い、音、全てが、少女に は昼間に見る悪夢のように、現実味のないものに感じられた。この全部は、自 分の知っているものではなく、金輪際触れることもない別の世界のものに思え た。 女の肉体を貫き、激しく揺さぶらせ、耳元で卑猥な言葉を並べながら、その奥 の奥まで食らう男。その大きな手で乳房を揉みしだき、白い指先で秘部を捏 ね、真っ赤な唇で熟れた舌にしゃぶりつく。普段なら、少女の頭を撫で、扇子 を握り、得意の与太話を語る、その男の身体の全ての部位が、今もこうして、 目の前で、その「欲」を満たすために使われている。 ここで目にしたのは、竜胆などではなかった。 あんなに儚い、繊細を絵に描いたような花ではなかった。 雄、いつぞやか御伽草子で見た、遠い異国の金色のたて髪の猛獣。 少女の瞳には、見慣れたはずの竜胆の横顔が、そう映っていた。
少女は、わずかに覗いていた隙間から目を離す。濃すぎる花の匂いが、ほんの 少しだけ遠のいた。このどうとも言葉に出来ない想いを、早くひとりになって 消し去りたい。少女は身じろぎすると、立ち上がろうとして体を丸め、座って いた位置をずらした。その時。 くちゅり。 先ほどまで、耳を塞ぎたいほどに聞こえていた小さな水音が、ごく身近でした のを感じた。 少女は、辺りを見回した。最後に、自分の身体を見た。灯りの向こうの2人 は、向かい合い重なり合って、口を吸いあっている。くちゅり。2人の唇の間 から、さっき聞こえたのと同じ音がした。舌を絡めあっていた男の睫毛が、ぱ ちりと開いて、ギラギラ光る瞳が覗く。自分の持つのと同じ色の瞳が瞬くのを 見て、少女の身体は初めて、ゾクンと震えた。 まるで竜胆に、見咎められているようだった。 ぐちゅり。また、耳障りな音が響く。それはやはり、自分のナカから発せられ ているようだった。
少女は、わずかに浴衣をたくし上げる。竜胆の唇が、女の唇を噛みつくように 吸っている。その見下すような目線は、女だけに向けられたものだった。竜胆 の爪の先が、女の胸の飾りを強く弱く弾く。その刺激もまた、竜胆に跨られた 女だけが感じるものだった。その仕草の全てが、決して少女の得ることの出来 ないものだった。しかし。 少女は、下腹部に、恐る恐る右手を滑り込ませた。下着越しにそっと触れる と、そこは酷く熱を持っていて、湿っているような気がした。少女は、自分の 身体の変化に驚いて目を見張る。さっき竜胆が女にしていたように、下着の間 に指を二本差し入れた。 障子の向こうには、竜胆の金色の目が覗いている。少女の瞳は、それをじっと見つめていた。
どうかお願い、こっちを見ないで欲しい。
でも。どうかひと時、こっちを向いて欲しい。
少女は、己の震える指先で、ドロドロに蕩けたそこを剥くと、強く引っ掻いた。
「ぁ……… っ」
瞬間、体中に刺激が走る。頭からつま先まで、ビリビリと感電したように何か が突き抜けていった。あやうく声が出そうになって、寸でのところで空いた方 の手で口を押えた。身体の奥から、どっと何かが溢れ出てきたような気がし た。おもらしをしてしまったかと下着を見たが、何も変わっていなかった。全 身が小刻みに震える。外気に晒され冷たくなった下着が何故だか悲しくて、少 女は訳も分からず泣きそうになった。
部屋の中からは、再び、激しく腰を打ち付けるぱちゅんぱちゅんと鳴る音が響 いていた。その合間に、ぼそぼそと小声で囁きあう、竜胆と女の会話が聞こえ る。少女は、もう障子を覗き込む力も出せずに、廊下まで漏れる竜胆の甘くて 低い、大好きな声を聴いていた。
「あ、いい…… 竜胆っ…… 」
「なあ…… っ、今度、小屋の裏でまぐわってみないか?」
「え… だって、あんなとこ、誰かに見られたら… あ、あ… っ!」
「はあ、だから良いんじゃないか… っ…… 」
「…… 随分前だって、うちのおひいさんの寝ている隣で 美味しそうに… 俺の、ナニ銜えて悶えてただろう… ? 人に見られると君は、いつもより一等良く、締まる…… 」
「…… なあ。 今、あの娘が帰ってきたら、どうする…… ?」
竜胆が、女のナカを自分の膨れ上がった物で、突き上げる音が響く。その会話 のひとつひとつは、言葉として廊下を漂っていたが。少女は、それを理解する ことまでは拒絶しようとしていた。 むせ返るような、甘い花の香り。あの時も。自分が目覚める前に、この部屋で 竜胆はあの女を抱いていたのだ。あんなぬちゅぬちゅと耳障りな厭らしい音色 を奏でながら。名前を名乗ったあの唇で、数刻前までは、あの女を愛撫し犯し ていたのだ。
少女は、膝を突き、静かに立ち上がった。冷たい地面に触れて傷が染みたが、全 く気にならなかった。そのままふらふらと歩きだす。汚れた浴衣の裾をぎゅっと 握った。ひたひたと進むごとに、淡い部屋の灯りは遠くなっていく。耳の奥の方 でまだ竜胆の囁きと、女のクスクス笑う声が聞こえているような気がした。
「にゃおん」
茫然としたまま、声のしたほうを向くと、通路の奥の方。玄関の板間の上に、シ ロがいるのが見えた。辺りは暗闇だったが、その姿は黒に埋もれず、はっきりと 少女の目に届いた。主の顔を認めてか、シロはもう一度小さく、にゃおん、と鳴 いた。 少女は腕を広げてそれに歩み寄る。気付くと、頬には温かいものが流れていた。 それは、堰を切ったように幾筋も幾筋もとめどなく零れ落ちた。 声を殺し、少女は泣いた。胸の中にシロを抱き締め、何かに甘えるように、飽きるまで泣いた。
スカート革命
「旦那。今日、シロはどうした?」
祭りの翌朝。まだ、昨夜の熱気の残る街は、まさに祭りの後と言った風情で、街 のあちらこちら、ある者は通りのぼんぼりを片付けながら、またある者は昨日の 酒の残りに頭を痛めながら、浮かされた空気の余韻に浸っていた。 とは言え、この街は毎日お祭り騒ぎ。今日も元気に、見世物小屋やストリップシ ョウ、映写場に娼館などが店開きをする中で、和蘭座の楽屋にも、昼の部の興行 に向けて芸人たちが集い始めていた。 いつものように、若手衆に混じって陽気なホラ話に花を咲かせていた竜胆の元 に、今日は夜の部に出演であるはずの紅葉がやってきて、その男の飼い猫の所在 を尋ねた。
「今日は休みだ。たまには寝てばかりの猫にも休暇をやらんとな」
「じゃあ。おひいさんは?」
寄席にお運びの仕事があるとき、少女とシロはいつも一緒だった。寝坊やちょっ とした用事などで、竜胆がいないことは良くあったが、それでも1人と1匹はぴ ったり寄り添うように共にいた。 いつものこの時間なら、2人揃ってすでに小屋入りしているはず。気になって竜 胆に尋ねてみたのだが、紅葉自身、口に出して初めて、本当に知りたかったのは 少女の居どころだということに気付いた。
「あの子も今日は休みだ。調子が悪いんだと。
朝餉にも起きてこれずに、部屋で寝ている」
竜胆は、まるで他人の噂を口にするかのように、からりと答える。その口ぶりか らは、昨夜のあれこれを知っているのか知らぬのか、ようとして窺い知ることは できない。真正面から問うてみることも出来たが、只でさえのらりくらりと人の 話を交わしてしまう旦那のことだ。紅葉は、竜胆の言葉をそのままに受け取って、 そうか、と小さく呟いた。 楽屋はいつもと変わらず男臭い、笑いに満ちた空間であった。四方八方で、笑い 声が弾けては消えていき、また沸き起こっては渦のように広がっていく。紅葉は 人一倍此処が好きだった。はずなのだが。少女が現れる前の様子にひと時戻って いるだけなのに。紅葉には、この笑いの渦の中に彼女の姿がないことが、酷く物足りなく思えた。 芸人衆の話の輪に戻って行った竜胆が、知り合いのストリップ嬢の下世話な痴 情を暴露して、周囲の大笑いを取っている。大声で笑い、手を叩いて盛り上がる彼らを他所に、紅葉はひとり物憂げな顔で、楽屋の外に出て行った。
その日も朝から暑かった。紅葉は、普段からゆるゆると着流している着物をさらに着崩して、胸元を晒してパタパタと仰いだ。拭っても拭っても肌を辿る汗は引 かなくて、茶屋の軒先に吊るされた風鈴がリンと涼し気に鳴る音でさえ、ただの 気休めだと思えるほどだった。手持無沙汰に、懐の刻み煙草入れを探ったが、振 ってみても軽い音がカラカラと小さくなるばかり。今日はどうにも調子が悪い。 紅葉は小さくため息をつくと、通りがかりの小店に寄って、必要なものを買い求 めることにした。
「紅葉の旦那、いつものかい?」
「ああ、それを2袋と、こよりも入れてくれ」
目に付いたものをひょいひょいと頼むと、店の主人がそれらをまとめて小さな 布袋に入れてくれた。ひい、ふう、みと中身を改めていると、その中に、頼んでいない大きな桃が2つあるのに気付く。
「なあ、おいさん。良いもん入ってるぜ」
「美濃の実家から送って来たんだ。良かったら皆で食ってくれ」
桃は、ぷりぷりと程よく熟れていて、見るからに旨そうだった。甘い蜜が滴り落 ちそうなそれを、この暑い盛りでがぶりと噛んだら、さぞかし涼やかな気分にな れるだろう。紅葉は、店主に礼を言うと有り難く頂戴することにした。 セミの鳴きすさぶ街を歩きながら、ぷかぷかと煙管を吹かす。何かをしていても、 考えることはずっと、あの少女のことだった。咄嗟に追い掛け捕まえたは良いが、 その触れた手首は、自分が思っていた以上に頼りなく細くて。祭り灯篭の光の中、 少女の瞳にゆっくりと滲んだ涙が、あの瞬間からずっと、脳裏にひっついて離れ ない。 スーーーッと細く長く煙を吸うと、胸に溜まった想いごと、晴れ上がった青に吹 き上げる。ぼんやりとその煙の行く手を辿っていると、それが、自分の今行きた い場所へ連れて行ってくれるような気がした。自らの脚に先導されるように、紅葉は歩き始めた。
☆
「 おいシロ!ここ開けてくれ!」
やっては来たものの、当然のごとく玄関の鍵は閉まっていた。以前だったら、竜 胆の旦那のことだ。慌てて戸を開け放った状態で出掛けて、帰ったら見ず知らず の女が部屋に上がり込んでいた、なんて、笑い話もあったりしたが。あの子が来 てからだろう。入り口の飛び石は磨かれたように綺麗で落ち葉ひとつないし、庭 の鉢植えには、あの子が強請ったのだろうか。淡い水色の朝顔が、天を目指して 真っすぐに蔦を巻いていた。 正面突破を諦めた紅葉は、裏口に回ることにした。お勝手なら油断して開いてい ることもあるだろうと目論んでいたのだが、戸を掴んでガタガタ揺らすと、そこ もきっちりと閉まっていた。紅葉は途方に暮れる。まさか寝臥せっているという あの子を、大声張り上げて起こすわけにもいかない。身内とは言え、無理やりに 鍵を抉じ開ければ、どこぞの俊足自慢のおまわりがやってきて、「お上の主命 だ!」と宣いながら、自分をしょっ引かないとも限らない。 やれやれどうしたもんか。唇に指を添えて、いつもお決まりの思案の仕草に入る。
きょろきょろと辺りを見回しながら考えていると。視界の隅、2階の奥の部屋に、 窓がわずかに開いているのが目に留まった。紅葉はポンと膝を打った。
「…… おひいさん、いるか?」
天窓を押し上げると、古い井戸釣瓶のようにギギギ… と軋む音がした。揺れる梯 子の均等を取りながら、ひょいっと背伸びする。室内に呼びかけてみたが、返事 はない。真夏の外の明るさに比べてその部屋はやや薄暗く、窓から零れる光がと ころどころ、板間を照らしている。少女は階下にいるのだろうか。 紅葉は、窓枠によじ登ろうと体を持ち上げた。
すると突然。 ドカン!!!と大きな音を立てて、部屋の扉が全開になった。紅葉は危うく梯子 から転げ落ちそうになる。恐る恐ると室内を覗き込んだが、誰かが飛び出して来 る気配はなし。しばし、奇妙な静寂が辺りを包み込んだ。ふいに、扉の裏から物音がした。
「だ、誰だっ!!?」
こちらを警戒する大声。その声音で、紅葉は一瞬で相手を悟る。そして少しホッ とする。良かった、どうやら思ってたよりは元気そうだ。物陰では、お姫様を守らんとする一匹の侍が、隠しきれていない髭を揺らしている。
「旨そうな桃をもらってな。一緒に食わねえか?おひいさん」
「…… ?紅葉…… ?」
それとなくなだめるように声を掛けてみると、向こうも一声でこっちを悟った ようだ。扉の奥からひょっこりと少女が顔を出した。その隣でシロも鼻を出した。 頭から布団をかぶり、護身用だろうか、懐刀まで抱えて武装している。苦肉の策 だったとはいえ、随分と怖がらせてしまったらしい。
「ああ、俺だ。近所まで来たんでな、様子を見に来た。
ちょいと手を貸してくれ。窓枠が高くて上がれねえ」
「…… 分かった」
少女はまだおっかなビックリという顔でいたが、紅葉の頼みに答えて近付いて きた。窓から少しだけ伸びる、紅葉の両手を取る。指と指が絡み合った。昨日の 今日でこの距離の近さは少し気恥ずかしい。少女の手はやはり細く、ひんやりと 冷たかったが、握りしめたところから熱を持つようで、紅葉は妙に汗をかいた。
「さあ、ひと思いに引っ張り上げてくれ」
少女が、繋がれた手に力を入れる。紅葉の身体が、一息にぐんっと持ち上がった。 しかし、年齢は同じくらいとは言え、男と女では体格差も力の差もある。細く見 える紅葉の筋肉質な重みに、手元が狂った少女は、よろよろとよろけ始めた。慌 てたのは紅葉だ。先に窓枠に足を掛けようと身を乗り出したが。
「あっ、とっとっとっ!!」
「わああっ!!」
あっと気付いた時には、2人の身体は均等を崩し横倒れ。そのまま重なり合うよ うに、室内に投げ込まれてしまった。室内に転がり込む直前。半身を翻した紅葉 は、少女の真下に入るように体を移動させていた。だから、背中こそ強めに打っ たが、少女自身には痛みはないはずだが。
「い、てて… おひいさん大丈夫か?」
少女は、紅葉の胸の上で顔を伏せていた。そこで紅葉は、少女の身体に自分の腕 がしっかりと巻き付いているのに気付く。咄嗟のことで、抱き込むように倒れこ んだので、仕方のないことではあったが。 いざ意識してしまうと、与えられるがままに甘受してしまう。着付けをした時に も感じた、少女のふわふわと柔らかくまろい身体。そして、着流しの素肌に当たる唇の優しい感触、甘い吐息…… 。
「は… びっくりした」
少女は頭を上げる。そして、そのまま硬直した。余りにも紅葉が、近くにいたからだ。否応もなく視線がぶつかる。自分を見つめる紅葉の瞳は、いつもよりもずっとその深紫の色を濃くしていて、心をとろりとさせるほど狂おしく突き刺さって来た。それを描写する正しい言葉を少女はまだ知らなかったが。耳元からどんどん熱が広がって来ると、その顔はまるでホオズキが色付くように染め上がった。少女は、弾かれたように体をどける。
「す、すまない!!怪我してないか?!」
「いや、平気だ… 気にすんな」
少女は心配そうに自分を覗いてくる。その顔は無垢の一言で、まさか自分にあん なことを思われてるなんてひとつも気付いていないだろう。少女の足元では、シロがフーフー唸りをあげて紅葉を威嚇している。自分の主たる姫君によくも気安く触れたな!と殊更にお怒りのご様子だ。自分も猫になれば、もう少しはこの 扱いにくい感覚をどうにかできるんだろうか。紅葉はシロを見やると、情けなさ そうにふにゃりと笑った。
「男ってのは難儀だな」
「ん?」
「いんや、こっちの話。な、シロ?」
雄であるところの黒猫は、ツンと顔をあげると、低くうにゃおんと賛同した。
☆
もらった桃は、思った通りべらぼうに熟れていた。薄皮を剥いだ瞬間、中からじ ゅわっと蜜が溢れ出てきて、舌でじゅるりと舐めあげる。口の中いっぱいにとろ とろと味わいが満ちて、紅葉は頬を緩める。 少女の部屋。その縁側は絶好の避暑地だった。庭に降りてくる風はどれも心地が 良い。 そこへ、麦茶の乗ったお盆を抱え、少女が入って来た。
「桃、そのまま食べるのか?」
「ああ、このほうが美味いぜ。切ってる間が我慢できねえ」
「ふふ、紅葉はせっかちなんだな」
赤く腫れ上がった目元で笑う。それは言葉のわりにぎこちなくて、紅葉の胸はギ リリと痛んだ。昨日の楽屋での出来事を話している間にも、少女ははらはらと頬 を濡らして、留まることがなかった。今日もずっと、この部屋でひとりで泣いて いたのだろう。普段、あまり感情を表に出さない少女のことだ。溢れだす思いの やりどころも分からず、苦しんでいたに違いない。 少女は、紅葉の隣に座って、麦茶を一口だけ含む。こくんと小さく喉を鳴らすと、 ほうと息をついた。紅葉もまた、片膝を立てて桃をがぶりとやる。口の端から零 れ落ちた果汁が顎にまで流れて、袖で無造作に拭った。甘い香りが、木霊のよう な蝉の声を涼やかに染めていく。少女は、自分と紅葉との間に陣取る、シロの背を撫でながら、ぽつりと話し始めた。
「どうして怖かったのか、ずっと考えていた。
本当は自分が誰なのか、知りたくないわけじゃない。
でも、それ以上に、今が失われてしまうことが怖い」
紅葉は、世界一優しい相槌を打つ。少女は、過去の記憶以上に、この生活を大切 に思ってくれている。それが紅葉には嬉しかった。
「陽炎が言うには、あの客は上客中の上客で、
普段は外国で商いをしてるらしい。寄席にも滅多に来ねえって言うが、
また鉢合わせることもあるかも知れんな」
「そうか… 」
「そんな顔すんな。アンタが今を望んでくれるんなら、
俺たちは全力でそれを守る。シロも竜胆の旦那も、寄席の芸人たちも。
もちろん俺も、アンタの味方だ。 そうだろ?」
「… うん」
「よし、良い子だ」
紅葉は、桃で濡れていない方の手を伸ばすと、少女の頭をがしがしと撫でた。髪 が乱れて少女はくすくすと笑う。やっと、いつもの少女の顔が見られた気がした。
「ありがとう、紅葉。 明日からは、和蘭座にもまた通う」
「ん、そうしてくれると有り難てぇ。アンタがいねえと、
楽屋が男臭くて適わねえからな。それにアンタがいないと、俺が寂しい」
少女は、その言葉に一瞬どきりとする。さらりと言われた言葉だったが、妙に感 情のこもった響きに聞こえたからだ。しかし、目の前の紅葉はいつも通りで、ひ とりで勘違いしたようで、少し恥ずかしくなった。 紅葉は、持ってきた袋から丸々と熟れた桃をひとつ取り出した。少女の食べやす いように、蜜の満ちているぐずぐずな部分を、細い指で器用に剥いていく。
「ほら、食ってみな。甘いぜ?」
グイと口元に寄せられた桃を、少女はおそるおそる小さな口で銜える。 そのまま果実を頬張ると、生ぬるい、舌を包み込むような蜜の味が口いっぱいに 広がった。
「ん、甘いっ」
「だろ?ほら、もう一口。ガブッといけガブッと!そんな上品に食ってちゃ味も 分からねえぞ」
紅葉の言う通り、これは丸のままを味わう方が合っているようだ。赤い小さな舌 を差し出すと、少女は先ほどよりも豪快にバクリと齧り付く。噛みついた跡から は、濃厚な果汁がとろりとろりと溢れる。
「美味しいな、こんな甘い桃は初めてだ」
「そりゃ良かった。あっこの大将にもまた礼を言わねえとな」
少女は、紅葉が果実を突きだした片手ごと両手で包み込んだ。噛むと、瑞々しい 果肉が水分に変わって、その美味しさに夢中になる。桃のかけらを口に含むと、 溢れ出た蜜は少女の唇を伝って、顎のほうまで流れていった。
「ははっ、赤子みてぇだな」
紅葉の白い親指が、少女の顎をなぞる。飲み損ねた蜜を拭ってやった。その間に も、少女の唇から溢れた果汁は幾筋も幾筋も流れて、首元まで落ちていく。少女 は、紅葉の仕草と、その実の甘さの虜になっていた自分に気付き、水蜜桃と同じ 色に頬を染めた。 少女に食べさせていた紅葉の手も、果汁が滴って甘い香りにまみれていた。紅葉 はそれを舌先で掬ってぺろりとしゃぶると、やっぱり甘いなと満足そうに呟く。 紅葉も少女も、蜜でどろどろになりながら、甘露のような果実に溺れた。 お互い、汚れることも構わずに、ひとつの桃を二人で笑いながら食べ合った。
☆
「じゃあ、また明日な」 「うん」 気付いたら、陽も落ちようとする頃だった。まもなく夜の部の開場が始まる。 あれからずっと、2人は飽きることなく話していた。それこそ時が経つのも忘れ て。 竜胆の話から始まり、芸人たちの馬鹿話。紅葉の奇術のことから、最近見た活動 写真の話まで。話していたのはもっぱら紅葉ばかりだったが、身振り手振りで面 白おかしく話すと、少女はうんうんと頷きながら、時々溶けるように笑ってくれた。これだけ寄席で何度も顔を合わせてきたと言うのに、二人はお互いのことを 何も知らなかった。それがとても新鮮だった。 玄関まで見送ってくれた少女の顔は、今日初めて会った時よりも、少しだけ明る くなったように見えた。いや、そう言う自分の願望かも知れないが。
いずれにし ろ、今は都合の良いように捉えていたい。紅葉は、そう思い込むことにして、玄 関の戸を閉めた。 家の入り口まで出てきたところで、ばったりと竜胆に出くわした。そう言えば、 入れ違いに昼の部が終わる頃合いだ。たくさんの荷物を抱えた竜胆は、紅葉を見 て目を見開いた。
「こりゃ驚いた、こんなところでどうしたんだ?」
「邪魔したな、おひいさんの顔見に寄らしてもらったんだ」
「……… ほう」
たちまち竜胆は、悪巧みをする時のような表情になる。
ふむふむと頷きながら顎に手をやった。
「ガキだガキだと思ってたが、そんなことになってたとはな」
「旦那が考えてるようなコトはしてないぜ」
「どうだかなあ、油断ならないな」
竜胆はにやにや笑いをさらに濃くする。 元はと言えば、旦那が話を聞かないからあの子がひとりで泣くことになったの だろうと、責め事のひとつも言ってやりたいところだが。竜胆は根っからの自由 人だ。そして、酷く聡い人でもある。恐らく、ある程度は察した上で、少女をひ とりにしたのだろう。 何もかも分かって、達観したようでいる竜胆。いつも飄々と動じず『大人』でい る竜胆。 その余裕のある態度が、紅葉は少し癪に触った。
「抜け駆けは禁止だぜ?みんなの『おひいさん』なんだからな」
竜胆は相変わらず囃し立てる調子で、すれ違いざまトンと紅葉の肩を叩く。 紅葉は、はたと足を止めた。
「竜胆の旦那」
「なんだー?」
道の少し先で、竜胆がこちらを振り返った。 黒が滲み始めていた情景の中でも、その姿は発光体のように目立って見える。 それに向かって、紅葉は声を投げかけた。
「あの子は、あんたの大事な『娘』、なんだよな?」
一瞬、間があった。なぜそんなことを聞くのだろうと言う間だ。 ほどなくして、竜胆は当然だろうと言う口ぶりで返して来る。
「ああ、そうだ。縁も所縁もないがな。無邪気に慕ってくれているんだ。
お父(とう)として、無下にはできないだろ?」
「そうか、なら良かった」
紅葉は、すうと息を吸い込んだ。 そして、わざと煽るように、言い放った。
「俺にとって、あの子はただの『女』なんでな。
悪いが、もらってくぜ」
竜胆がいつもするように、ニヤリと不敵に笑う。 そのまま、夜道に駆け出した。一瞬、竜胆のぽかんと口を開けたさまが視界の隅 に映って、紅葉は噴き出しそうになった。心の中は、妙な爽快感で満ちていた。 きっと明日には、寄席中の芸人、いや街中の人々にこのことが知れ渡ってしまうだろう。あれやこれやと尾ひれがついて、ろくでもない艶話に仕立て上げられるに違いない。それでもいいと思った。これは『宣戦布告』だ。 自分には、自分らしいやり方がある。 少女は強い娘だから、ただ守られることをよしとはしないだろう。 それならば、共にいようと思った。傍にいて、あらゆる現在や大人たちと戦おう と。紅葉の足取りは軽い。空にも舞い上がりそうな勢いで、寄席への道を駆けていった。
☆
そして翌日。案の定、寄席の楽屋は、紅葉と少女の話で持ちきりになっていた。 ただでさえ噂話の好きな人種である芸人たちは、輪をかけて色恋の話に目がな かった。 根掘り葉掘りと紅葉とのことを聞かれ、少女は戸惑っていた。 確実にあの調子者な同居人が喋ったのだろうから、不機嫌の矛先は竜胆に向い ていたのだが。まるで自分と紅葉が想い合っているようなこの話の広がり方は、 少し気恥ずかしい。せっかく色々と話せて楽しかった昨日のことを、茶化されて 穢されているような気さえした。 何より、このことを紅葉に知られたら紅葉はどんな顔をするだろう。嫌がるだろ うか、それとも困った顔をするだろうか。紅葉は優しいから、気を使って上手く 話してくれるかもしれない。しかし、どちらにしても何だか浮かない憂鬱な気分 になって、少女は盛り上がる楽屋の片隅で、両膝を抱えていた。
「おっ!色男のご登場だぜ!」
芸人のひとりが声を上げる。見ると、楽屋の入り口に紅葉がいた。黒い半袖のシャツにネクタイ、サスペンダー付きの細袴を着て、珍しく洋装姿だ。いつもの緩い着流し姿に慣れていた少女は、その格好に一瞬紅葉と分からなかった。こうして見ると見違えるようだ。白い衣装姿とも違う。まるで華族のお坊ちゃんのような醸し出す空気に、少女は何度も瞬きする。 芸人たちが囃し立てると、紅葉はうんざりした顔で部屋へ入って来る。こうなっ ていることを知っていたかのような表情だ。楽屋の奥には竜胆が、若草たちと座っていたが、この狂乱には乗らずにニヤニヤと愉快そうにパイプを燻らせてい る。
紅葉は、一瞬だけ竜胆を一瞥すると、そのまま真っ直ぐに少女の方へ向かっ て歩いてきた。 少女は知らない人を見るような顔で紅葉を見つめていた。芸人たちの盛り上が りは最高潮に達する。
「お熱いねえ夏だってのに勘弁してくれよう」
「身体も火照って止まらねえってか」
「紅葉!お前にはまだ早えぇぞ」
「オレのおひいさんを良くも!」
とまあ、ヤジも言いたい放題である。 紅葉は、少女の前までやってくると、膝立ちになる。少女の顔を覗き込んだ。
「おはようさん」
「おはよう」
「気分はどうだ?」
「昨日よりはずっといい」
「そうか」
紅葉の深紫の瞳がふわりと溶ける。少女は直視できなくて、あっちこっちへと視 線を泳がせた。優しくて低い声色がすぐ近くで響いて、どうしようもなく落ち着 かない。周りからは、芸人たちの好奇の目をこれでもかと言うほど感じるのに、 紅葉はそんなもの視界にも入っていないようだ。白い右手が降ってきて、少女の 頭を撫でる。少女はその柔らかさに目を細めた。
「今日は夜の部までだったな」
「うん」
「俺は昼だけで終いなんだが。夜の部が終わる頃、迎えに来てもいいか?」 「へ?」
我ながら間の抜けた声が出た。どうして、迎えになんか。言葉の意図が掴めなく てきょとんとしていると、紅葉ははははと豪快に笑った。そのまま流れるように 少女の右手を取る。
「俺とデエトしてくれ。おひいさん」
一寸、時が止まったように静まり返った。次の瞬間、芸人たちは一揆でも起きた かのように大歓声をあげる。そこらの座布団が天井に舞い上がって湯呑茶わん が空を飛ぶ。歌い踊れのドタバタ大騒ぎとなった。紅葉はそれを横目に、少女に 喜色いっぱいで微笑んで見せる。少女はまだ事態を飲み下せてはいなかったが、 そんな紅葉の顔にぼうっと見とれていた。 楽屋の隅で、堂前や若草もその騒動に一緒になって盛り上がっていた。竜胆は、 壁に背を付けて笑うでも騒ぐでもなく相も変わらずパイプを吹かしている。陽炎は皮肉のひとつでも言ってやろうかと思ったが、それも野暮なことだと思って口を開かなかった。
『黒猫ストリップ』第2話終わり
