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『おかーさん、みーちゃんが隣におらんとよう生きていかんわ。』


それが口癖だった母が、死んだ。
私が隣にいたのにも関わらず、だ。




『おかーさん、みーちゃんが隣におらんとよう生きていかんから。』

いつものようにその呪いを吐く母は、
いつもと違いどこか必死で、
思えば、母の姿をまじまじと見るのは
いつぶりだったろうか。

もうずっと寝たきりで、病魔に蝕まれた
やせ細った体。
指で擦ればハラハラと、
粉々に散っていきそうな髪。
こぼれ落ちそうな、濁った目。
と、目が合う。


スーパーの、売れ残った魚の群れを思い出した。



生まれてからずっと、母は私の全てだった。

何が気持ちにそぐわないことがある度に
小学生の私の、柔い髪を掴んで振り回した時も、

父親が家を出て行った時、
中学生の私に、酎ハイの空き缶を投げながら
「あんたのせいだ」と罵った時も、

担任の教師に犯され、ボロボロになって
帰宅した高校生の私を一瞥して、
ただひとつ溜息をついた時も、

何も、何にも無くなってしまったことに耐えきれず、逃げだそうとした私に、
「あんたなんて産まなきゃよかった」と
包丁を突き立てた時も、

ずっと、この人が、この母親が
私の小さな世界の全てだった。


それが何故だか、今となってはもう
何も思い出せない。

この、弱々しい者の
何が私に、絡まっていたのだろうか。

こんな小さな、
弱い、
何に、
なぜ、
何が、
なんで、なんで、
死んだ魚の、
なんで私は、


なんで私は、こんなところにいるんだろう。 

なんで私は、こんなところにずっといたんだろう。


私が全てだと思っていたこの小さな世界は
もうずっと、最初からずっと、
地獄だったというのに。


『だから、』


、『だから』、何なんだよ。

立ち上がり、離れようとしても尚、
母のボソボソな腕は木の根の様に、
私の腕を絡めて離さない。

後退っても、後退っても、
その腕は。


腕にぎちぎちと食い混む母の爪がプツンと
私の皮膚を破るのと、
私の、どこかでぴんと張った糸がプツンと切れる
のはほとんど同時だった。

私は、母のボソボソの腕を、振り解いた。
そこそこ、全力で。

あっ、と私の口から漏れ出た時にはもう遅くて、母の体はその反動で後ろに仰け反り、
ベッドから転がり落ちていった。 

母の体は、真後ろにあった襖を
そのまま後転の勢いでぶち破って
仏間に侵入したかと思えば、
その先の立派な仏壇のお供え物から何から全部を派手になぎ倒したところで、ようやく回転を止めた。





仏壇はもう、めちゃくちゃだった。

先祖代々様々の写真は襖と一緒に剥がれ落ち、
ホコリを被った何世代前のものかわからない位牌たちは、母のかかと落としにより全て真っ二つになって、肝心の母はといえば、逆さまになったまま、山盛りの線香の灰を頭から浴びて、

それはもう文字通り、

「…地獄?」


りんの残響だけが響く中、そろそろと母に近づく。蝉の鳴き声と同調するかのように、
額から、背中から、汗がじくじくと滲んでいく。



母は、もう、動かなかった。
襖をぶち破り、足で位牌を折り、
頭から灰をかぶり、逆さまになったまま、
目を見開いて。



一瞬、ほんの一瞬だけ、なにかハッカのものが
鼻の奥に触れてつんとしたと思えば、
それは小さなカケラとなり、目からハラハラと
零れ落ちていく。
と同時に「はは、」と、口から乾いた空気の塊となり漏れだした。



は、はは、
ぽろぽろ、
あはは、
ぱらぱら、
ははは。



どんどん、どんどんとまらない。
あんな、母の姿は初めて見た。
襖を、なぎ倒して、
だって、母は美しい人だった。
厳しい人だった。
恐ろしい人だった。 


最低な、人だった。


だから、それが今、今は、こんな、
転がってしまって、
もう、止まらない。


可哀想だとも、惨めだとも、
ざまあみろとも、
私が殺した、とも思った。
けれど、最後のそれだけを残して
考えるのをやめた。


私が殺した。



母が、私の全てだったようにきっと、
母も、私が全てだった。
渦巻きあった憎悪とか、
捨てきれなかった慈愛とか、
そんなものはもう、お互いとうに
消え去ってしまって、ただ、ただ淡々と、
日々、全てをひっくるめて、
私たちの今が、私たちの全てだった。

そんなこの人を、
私が、殺したのだ。今。


私たちは、ただ、ここで、
1人きりになることが怖くて、ただ、
たった、それだけのことで、私たちは、
こんなにも、そんなもののために、
繋ぎ止められていた。
繋ぎ止められてしまっていた。



私と、母だけの世界で。



私が。

私が。 


私は、ぐちゃぐちゃのまま、
裸足で縁側から飛び出した。

8月を吸い込んだ温い土を踏みつける。

これからどこに行こうか。
母のいない世界で。


私はもう、許されないのだろうか。


……誰から?


脳裏によぎるたった1人の存在は
そこで逆さまになってしまって、もういない。
私のとこを、許さないでいる人間は
もう、私の世界にはいないのだ。


ああ。

もっと早く、断ち切ることができていたなら
もっと早く、決別することができていたなら
もっと早く、私が、あなたのことを
許さないでいることができていたなら
私は、私たちは、もう少し。
ねえ、お母さん。


それでも、誰からも知られることのない
2人きりの地獄より、遥かにここは息が吸いやすく、それが虚しくて、本当にそれが虚しすぎて、もう一度、涙が溢れた。



私が隣にいないと生きていけない母は、
私が隣にいたって死んだから。

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