ゆっくりでいいって言われたから|短編小説
小学校に上がる息子が、まだひらがなを書けない。
心配したわたしは、近所の公文式に通わせることにした。
その教室は、自宅の駐車場の上に建てられたプレハブ住宅。階段は手作りなのだろうか、上がるたびにキィキィ音を立てる。ブルーシートで覆われた雨除けからは、どこか仮説感が漂っていた。
「生徒が濡れないように考えてくれているのかもね」そう思うことにした。
ドアを開けて、「すみません。見学の予約を入れた中野です」と声をかけると、メガネをかけたふくよかな女性が、「あら、中野さん。はい、お待ちしてましたよ」と、にこやかに迎えてくれた。
教室の中では、生徒たちが和気あいあいとプリントに取り組んでいた。
「せんせー、ここ、わかんなーい」元気な声とともに、バランスを崩しそうになりながらも、左足でケンケンして先生へ駆け寄る。どの子も、なぜか右足を床につけないようにしていた。いま教室での流行っている遊びなんだろうか。
和やかな教室の雰囲気に、階段で感じた不安はすうっと消えていった。
──ここに決めよう。
自宅からいちばん近いこと、先生が子どもたちに寄り添ってくれていること。それが決め手となり、息子の塾デビューが決まった。
通い始めて1週間。息子の読み書きレベルが、目に見えて上がった。公文式おかげ、と感動すら覚えた。
この日も机に向かって、一生懸命に宿題に取り組んでいる。何をやっているのか覗き込むと──
「じょこううんてん じょこううんてん じょこううんてん」
ノートには、その言葉がびっしりと並んでいた。
「……え!?徐行運転?なんでそんな言葉を書いてるの?」
「先生がね、『ゆっくりでいいんだよ。“じょこううんてん”で』って毎日言ってくれるんだ。あんまり意味は分かんないんだけど大事な言葉なんだって。みんな練習してるよ」
「へぇ。ゆっくりでいい、か。いい先生だね」
「うん。僕、公文だいすき。行ってよかったよ」
にっこり笑う息子に、わたしも自然に笑顔になる。
「あ、ねえ、お母さん。今度さ、シルバニアファミリー買ってくれない?」
「急にどうしたの?」
「先生の家にあるんだよ。すごくいい感じで。僕も欲しいの」
「じゃあ塾がんばってるごほうびだね。買おうか」
「やったー!」
数日後、わが家にシルバニアファミリーがやってきた。
「いえーい!僕だけのシルバニアファミリー!」
その日は宿題も早々と終わらせ、子ども部屋で夢中になって遊んでいた。
コンコン。
「もうすぐ21時になるから、今日はもうおしまいにしようか」
「はーい。ねえ見て!僕のシルバニア、すてきでしょ?」
「見せて──」
鼓動が一気に早くなる。
そこに並んだ10体のシルバニア人形。その全員が、右足を失っていた。
「……ねえ、これ、どうしたの?」
「ん?だって、じょこううんてんだよ。足があると、早く逃げちゃうじゃん」
そのとき、不意に思い出す。初めて塾に行った日。先生が言った、あの一言。
──「これ、右足につけてね」
渡されたミサンガ。
そのミサンガはいまも、息子の右足に、しっかりと結ばれている。
確か、雨除けのブルーシートを結んでいたの紐は、このミサンガと同じ模様をしていた。
「お母さん、これも見て!先生からまたミサンガもらったから、真似してみたんだー」
そのミサンガには人形の右足が、花束のように束ねられていた。
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