自由が「すべて上手くいく魔法」とは限らない
「やっと自由だー」
両手を広げて大空に向かって叫び出したい気分。子どもたちは元気に学校へ行き、仕事も一段落。つまり……ふふ、やっと来ましたよ。わたしの自由時間。「よし、今日はやっと、やりたいことができる」と、心の中で小さくガッツポーズ。
何しようか考えるだけでワクワク。映画?ショッピング?一人カラオケ?いや、今日はめちゃくちゃ書きたい気分でもあるな〜。
そんなふうに、“自由”という魔法を与えられた朝だった。
しかし、しばらくして現れたのは、上手くいかないわたしだった。
わー、また書くタイミングを逃した。さっきまで、わたしの頭の中は火山だった。“自由”という魔法が合図になって、大噴火。ゴゴゴ……と噴き上がることばの溶岩。ドバドバと溢れてきて、脳内を真っ暗に染めていった。
「今日のわたしはきっと大文豪」そう思えるくらい、ことばが止まらなかったのに。
ああ、早く書かなきゃ。いますぐ書き留めたいのに、朝のドタバタ準備タイム。頭も体もフル稼働。
やる気いっぱいの朝イチに、洗面所をキレイにした。心がスッキリ晴れた気がしたのに。ふと見たら、もう汚れてた。歯磨き粉が満開の花火みたいに、洗面所の全方向の壁に飛び散っていた。今朝もまた、ぜんぜん心に響かない芸術作品に出会う。作者は、きっとあの子だ。
ふと思った。キレイにするのはいつもわたし。みんなで使う家なのに。どうして。
だからわたしは、モノが嫌いだった。わたしの負担を増やすモノたち。ぜーんぶ捨てたかった。モノが増えるということは、手間が増えるということ。何もいいことなんかない。心の余裕のために、“楽しくなる”まで手放してしまっていた。
モノも、“楽しくなる”も手放したわたしに残っていたものは、文字通り「無」だった。心も無になってしまった。求めていたのは、「無」ではなかったのに。ぜんぶ手放して気づいた、モノが与えてくれる“潤い”。
わたしの生活なんてきっとこんなもんなんだよ、一生。いつもなんでも嫌になって、ぜんぶ捨てる。自分のこと嫌になって捨てないように気をつけなきゃ。ぜんぶが嫌になる前に、ちゃんと少しずつでも自分の気持ちに寄り添わなきゃ。
あ、そうだった。映画を見に行こうと決めていた。だけど、準備する直前になって、わたしの出かけたい気持ちは、シャボン玉みたいにふわりと浮かんで、パンッと弾けて消えてしまった。探してみても、どこにもない。あれだけ映画にワクワクしていた気持ちは、跡形もなく消えていた。
特にきっかけがあったわけではないのに。いや、歯磨き粉花火のせいだ。きっとそうに違いない。
映画に行きたい気持ちや書きたい欲が再加熱したかと思えば、気づけばベッドに吸い込まれていた。「何にもしたくない」心と体が同時にそう言ってきた。まるで意気投合した恋人みたいに、ぴったり寄り添って離れない。
無視して強引に実行することもできた。でも……わたしが、わたしの声を聞かずにどうするの。甘えてる?ほんとうに疲れてる?心と体とわたしの三者間脳内会議が開かれるも、結論は一向に出る気配がない。
わたしは一生このままなのか。変えたいのに、変えられない習慣。外に出るのが億劫なのだ。
外で仕事をしていたら嫌でも外に出る習慣が“あたりまえ”にある。正直、うらやましい。それと同時に、毎日外に出るのは面倒だ、と思う気持ちもある。
そのふたつの気持ちが、スクランブル交差点の人混みみたいに、何度も何度もすれ違う。真ん中に置き去りにされたわたしの心。どちらの良さも間近に見ながらも、どう動いていいのか分からず、立ち止まったままだ。
そのうち信号が変わる。その時、わたしはどっちに動いているのだろう。外に出るために動くわたし?それとも、そのまま何もせずに今日を繰り返すわたし?
そんな、ただ考えるだけの日々も、悪くないのかもしれない。静かで、なにも起きないような時間が、こうやってことばを育てて、書くことの手助けをしてくれている。
きっと、もうすぐ山に登りたくなる日がくる。今日はただ、ふもとにいるだけ。だから、いまだけはちょっぴり一休み。なんでもない塩味のおにぎりを食べながら、「ああ、これも悪くないな」と思える時間を、ちゃんと味わいたい。
上手くいく魔法をかけるのも、上手くいかないときに、そっと魔法を解くのも、ほんとはぜんぶわたしなんだ。
