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藤井風論(Behind The Scenes)第2回

「藤井風論──救済の音楽」第2回「越境すること」が公開されました。第1回「プロローグ」も多くの方に読んでいただけたようでとても嬉しく思っています。早く楽曲/歌唱や歌詞/思想の分析に入りたい気持ちは山々ですが、その前に書いておきたいことがたくさんあります。藤井風という存在を理解するには、生い立ちや人柄、家族など、彼の音楽の根幹を支える背景を避けて通れないからです。もどかしいけれど、すっ飛ばして音楽分析ができない。まあ16回も予定していますし、焦らずゆっくりと進めていこうと思います。

ちなみに、A面では「私/私たち」を使い、こちらのB面では「僕」を使っています。大まかにですが、かねてエッセイや私的な文章では「僕」、批評や論文では「私」を使いわけてきました。A面では個人としての藤井風体験を、より多くの人びととシェアし、疎外しないよう「私/私たち」にし、逆にこちらは「極私的藤井風論」(BTS)なので、そこんとこ、よろしくです!

ところで、僕がこれまで単体で論じてきた、京マチ子椎名林檎、藤井風には、共通点があることに気づきました。それは「千変万化のスター」であるということ。さまざまに移り変わって生成変化し、掴みどころがなく、いつでも異なる顔を見せてくれる。あのコロコロと変わる風の表情って本当に面白く、魅力的ですよね(いや、別の「人」だけじゃなくて「犬」にもなっちゃいますが…笑)。能面というのは抽象化された無表情の顔の中に観客がさまざまな感情を読み取れるものですが、風はさまざまな顔を具現化して見せる。見るたびに別人、何にでもなってしまう。

僕は映画や音楽に限らず、ずっとそういう人が好きなんだなと改めて思い至りました。きっとそれは「何にだってなれる」という希望や、永遠にとらえきれない深い人間の魅力を感じさせてくれるから。ああ、なんて面白い人なんだろう。第2回で引用した『花』の「誰を生きようかな」「わたしは何になろうか」ってフレーズが、なんだかとても好きなんですよね。

僕は根っからのリベラル人間ですが、やはり生まれ育った場所(保守王国・山口)は「男とはこうあるべきだ」とか「女とはこうでなければならない」といった規範が当時はものすごくあって息苦しく、多くの人がそれに(疑うこともないまま、よいことだと)とらわれて生きているように感じていました。何度もそのことで人とぶつかり、結局、逃げるように東京へ。だからこそ藤井風の音楽では、自分のアイデンティティは他者に決められることはない、いつでも自由に選んでいい、あなたが決めていい、そう肯定してくれているようで、救われたように思いました。

そういえば、以前『文學界』2025年6月号に「藤井風が歌うとゲームパーティが開かれる」(こちらは無料では読めずインスタグラムのリンク)という2ページの短いエッセイを寄稿しました。藤井風がライブをすると日本全国、海外でも、チケットがとれたら妻と僕は別々にライブに出かけていき、3人の子供たちが翻弄される姿を描いたものです。日常では誰もが何かしらの「役割」を背負って生きています。けれど、その役割が重荷になってしまうこともあります。

もうええわ 何が大切なん? よう選んで
もうええわ そう思うならサッサ手放して

藤井風『もうええわ』

でも、それが時に自分の生き方を縛り付けて疲れ果ててしまったり、頑張りすぎて自分を見失いがちになってしまったりすることって誰しもあると思うのです。先のエッセイでも「親」や「妻」という立場や役割から解放されることも人生には大事だという話を書いているので、興味があれば図書館などで読んでみてください(全文掲載できたらいいのですが、まだ発売からそんなに時間が経っていないので転載はしないようにします)。

「手放す」こと。それこそが藤井風の思想の中心にあるものです。これに関しては、改めてA面でもちゃんと論じていきたいと思っていますが、とにかく藤井風の書くリリックには、人生の端々で自分をがんじがらめにしてくる社会の抑圧から解き放ってくれる力が宿っています。もちろん、音楽の魅力に最初ははまり込んだのですが、その思想を体現する彼の生き様にも魅了され、連載するまでにいたった──この連載は、そんな体験の記録でもあります。最後にこのことについて語っておきたいと思います。

なぜ藤井風を論じようと思ったか。

僕は昔から、音楽、映画、絵画、表現に関わる芸術はなんでも好きでした。一つ自分の特徴をあげるなら、人よりも圧倒的に「作品」が好きだということ。いってしまえば、作り手の人柄や思想、生き方ではなく、作品が放つ世界に心を奪われるのです。だから椎名林檎を論じたのも、作品の内実がきちんと批評の対象となっていないことが不満で書いたということが大きい。京マチ子も、役柄を演じているスクリーンのイメージに圧倒されたのが大きい。つまり、京マチ子も椎名林檎も、作品から切り離された人柄=「現実の姿」ではなく、彼女たちがパフォーマンスをする「作品」それ自体に魅了されたのです。

ところが、藤井風だけは違った。彼の場合、音楽だけでなく「人そのもの」にも魅せられてしまった。藤井風がドキュメンタリー番組で「ライブに行くってようわからん、なんでいくんじゃろ」とかいっていたと思いますが、僕もそれでした。音楽があればええやん、それがすべてやろ、と思っていました。けれど、藤井風は違う。

作品と同じくらい人柄にも惹きつけられる。こんなことは初めてではないかと思います。妻に「藤井風おじさん」なんて笑われるほどになってしまった(笑)ヤバメ。僕は藤井風の人柄や放つ雰囲気にも、途轍もなく惹かれています。もちろん、彼が「演じる」作品におけるイメージにも、それに加えてまた彼のライブがとんでもなく素晴らしいのです。これはDVDや配信ではわからない部分なので、藤井風のライブについてはA面でいずれしっかり論じていきたいと思っています。

ソーシャルメディアが社会を覆い尽くし、「どう見せるか」ばかりに囚われてしまいがちな世の中で、あれほど繕うことなく「自然体のまま」をさらけだして輝いているスターがいるでしょうか。

他人にどう見えるかばかり気にせざるをえない、息苦しい時代において、風のありのままの姿からは「救い」すら感受できる。そのスターペルソナの新しさ、時代へのアンチテーゼ、救済をもたらす思想や、卓越した作曲能力などなど、すべてにおいて批評を書きたいとうずうずしてしまう。『I Need U back』のMV一つで、何千字でも書けてしまう。こんなワクワクさせられる人は、いま風以外にいません。

ちなみにXで2024年7月に、以下のようなアンケートを取りました。

「椎名林檎論」に続く次の音楽批評、どのアーティストを論じるべきだろうか。来年あたりには書けるように準備したい。参考にさせていただきますので、ぜひご回答をお願いいたします。

宇多田ヒカル
藤井風
Mr.Children
aiko

X(2024年7月17日)


この音楽批評本に関するアンケートは、1281票の投票の結果、以下のとおりとなりました。

①藤井風(72.3%)
②宇多田ヒカル(16.4%)
③Mr.Children(6.1%)
④aiko(5.2%)

X(2024年7月20日)

実はこの時点ですでに「藤井風論」のご依頼をいただいておりました。いろんな媒体で次に誰を論じるか聞かれて、「宇多田ヒカル論かな」といった記憶もあるのですが、やはり論じる対象はアクチュアルであったほうがいい、現在進行形の藤井風現象を歴史にとどめておかねばと思い至ったわけです。アンケート投票の結果も後押しをしてくれました。ご協力いただいた皆さま、ありがとうございました。

ちなみに、『椎名林檎論 乱調の音楽』(文藝春秋)の刊行に際して、『Real Sound』の取材記事、「批評家・北村匡平が、椎名林檎論に取り組んだ理由「彼女の音楽は適切な言葉で評価されてこなかった」」で以下のように答えておりました。

——次に評論するとしたら、どんなアーティストでしょう?

北村:先ほども話に出た藤井風はいつか必ず書きたいと思って準備しています。まだデビューして短いので10年後くらいになるかもしれませんが。あとはMr.Childrenと宇多田ヒカル。ミスチルも宇多田ヒカルも椎名林檎と同じく、音楽的な批評がなされていない印象がありまして。きちんと分析されれば、きっとこの20〜30年のJ-POP史がくっきりと浮かび上がってくると思います。

『Real Sound』2022年10月16日
文・取材=森朋之、写真=はぎひさこ

10年後どころか3年後かい!!!というツッコミはしないでください。まあ、それはあまりにも風が急速に世界に羽ばたいていったからですね。それとこちらから好きに書けるわけではなく、依頼がなければ無理です(個人noteでは書ける時代ではありますが)。ともかく、2022年の3月にはすでに、藤井風は僕のなかで明確に批評対象の有力候補にあがっていました。デビューしたときに宇多田ヒカル以来の衝撃だと思ったので、ずっと機会をうかがっていたのも事実です。検索したらこんなツイートも出てきました。

藤井風は本当に世界で通用するアーティストだ。宇多田ヒカル以降ようやく本格的な歌手が現れた。海外で活躍するバンドやグループはいるが藤井風は別格。岡山のローカリズムとブラックミュージックを身体化したグローバルな歌唱とグルーヴの融解、宗教的な詞の世界観が国境を超えて癒しを与えるだろう。

X(2022年3月25日)

「死ぬのがいいわ」がタイでバズってアジア圏に一挙に知られていく前のことですね。デビューしてから彼はずっと英語で発信してきましたし、世界へ行くとは信じていましたが、正直、こんなに早く世界へ羽ばたくとは思っていませんでした。第1回で「世紀の逸材」、つまり百年に一度の才能と書きましたが、その言葉にいま、いっそうの確信を持っています。おそらく僕が生きている間に、もうこれほど飛び抜けたアーティストには出会えないでしょう。そんな存在の活動をリアルタイムで見届け、ライブでその空気を吸える──これ以上の幸福があるでしょうか(美空ひばりはリアルタイムではなかったですからね)。日本でももっとライブをやってほしいです(子供たちを連れて行ってあげたいのだけどいつもチケットが取れません)。

第3回では、いよいよ音楽そのものへと少しずつ踏み込んでいきます。でも、今後の議論との接続のためにも、まだ人となりなどについても描いておかなければなりません。どうかもう少しだけ、お付き合いください。

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