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藤井風論(Behind The Scenes)第4回

僕が藤井風を好きでい続ける、もう半分の理由

A面では書ききれなかったこと

大変ご無沙汰しております。BTSの第4回です。調べてみるとB面「藤井風論」(Behind The Scenes)を前回更新したのが2025年12月31日、もう4ヶ月以上経っていることに驚きを禁じ得ません。『webちくま』で連載しているA面「藤井風論──救済の音楽」は、気づけば第11回まで公開され、来週には第12回が公開されます。ここまで追いかけて読んでくださっている方、本当にありがとうございます。残すところ4回になりました。長かったような短かったような……。2週間に1回の連載はなかなかハードで、毎回、締切前になると「もうええわ…」と小声でつぶやきながら、結局ぜんぜん手放せず、原稿にしがみついております。修行です。

A面の第11回「クィアすること」では、藤井風の音楽世界をクィアな視点から読み解きました。異性愛を前提にしない歌詞、男/女という二項対立をゆるめる身体表現、そして誰かを特定の役割に閉じ込めない呼びかけ。そうしたものが、彼の音楽にどのような広がりを与えているのかを書いたつもりです。ただ、A面では、概念を整理し、作品を分析し、論理として読めるように組み立てなければならない。どうしても批評の言葉を使います。けれど、そこには書ききれなかった、もう少し個人的な感覚があります。先日、Xにこう書きました。「僕が藤井風の音楽に魅了されたのは、最初は楽曲と声、つまり音それ自体だったが、今回の記事で書いたことは、彼の音楽世界にはまり込み、ずっと好きでい続ける、もう半分の理由といっていいほど大きな要素だった。そのあたりの個人的なことを近々、自分のnoteのBTSで書こうと思う」と。今回は、その「もう半分の理由」の話をしてみたいと思います。

最初に惹かれたのは、音だった

まだ彼がデビューして間もない2020年、僕はXに「今年もっとも注目すべきアーティストは藤井風」と書いていました。僕はYouTube時代は知らなかったのですが、デビューシングルをリリースしてすぐにファンになりました。偶然Spotifyで聴いてからお気に入りリストに登録し、頻繁に車で流していましたし、最初は僕よりも妻の方が入れ込んでいて、夫婦で彼が売れる前からずっと動向を追っていました。

藤井風の音楽には、J-POPのなかにありながら、J-POPだけでは説明できないグルーヴがありました。ブラック・ミュージックを身体化したリズム感、コードとメロディの豊かさ、ピアノのうまさ、そしてあの声。さらりと歌っているように聴こえるのに、実際に歌ってみると、とんでもなく難しい。楽曲の構造も、歌の運びも、声の置き方も、ものすごく緻密です。これも自身のXからの引用ですが「J-POPもここまで進化したか」と思いました。いま読み返すと、ずいぶん偉そうで「何なんw」、完全に「調子のっちゃって」いる感じですが、でも、そのとき本当にそう思ったのです。

それは、僕にとって宇多田ヒカル以来の感覚でもありました。宇多田ヒカル以降、ようやく本格的な歌手が現れた、という言い方をしたこともあります。もちろん、これは乱暴な言い方です。すばらしい歌い手は他にもたくさんいる。ただ、藤井風の場合、岡山のローカリズムとブラック・ミュージックの身体化、宗教的な詞の世界観、グローバルな歌唱とグルーヴが不思議なかたちで融け合っていた。日本語で歌っているのに、最初から国境を越えてしまっている感じがあったのです。だから最初は、ほんとうに音楽的な魅力でした。

でも、それだけなら、ここまで長く、深く好きでい続けることはなかったかもしれません。好きな理由を数え出せば「キリがないから」と言いたくなるのですが、少なくとも僕にとって決定的だったのは、音のよさだけではありませんでした。

言葉より先に示される「優しさ」

いま振り返ってみると、藤井風という人間そのものに惹きつけられたエピソードがいくつかあります。一つは、第11回「クィアすること」で紹介したように、ライブでの観客への呼びかけです。「子供〜」「お年寄り〜」「若者〜」「中年〜」と呼んで、みんなに「かわいぃ……」とボソッという。僕ら中年には塩対応が多めなのですが……。まあ、それはいいとして、僕はそのときに「女の子〜」「男の子〜」とコールしないのがいいなと思ったのです。もちろん、それだけで何かを断定するつもりはありません。けれど、性別で観客を分けない、そのさりげない配慮が僕にとって大きかったのです。インスタグラムで「Are you gay?」と聞かれた際に「I like girls, too.(女の子も好きだよ)」と回答したことまでずっと一貫しています。そこには、固定的なアイデンティティとして囲い込まず、全人類を愛するという感覚がある。少なくとも僕は、そのように受け取った。

さらに、これも第3回「包み込むこと」で紹介しましたが、『ガーデン』振付騒動も大きかった。当時、高校生のインフルエンサーが、藤井風の『ガーデン』に独自の振り付けをつけてTikTokに投稿し、風の楽曲に勝手に振り付けをして投稿したことを叩かれ、炎上してしまったあれです。それに対して若者たちに絶大な人気を誇る彼女のファンも怒って、SNS上で激しい対立が起こってしまいました。ちなみに、僕の娘(当時、小6)はこのインフルエンサーの大ファンでして、風民の父と娘、家庭内で大紛争に発展してしまいました(ウソです……いや、ちょっとホントです)。で、妻とも「いまこんな悲しいことが起こっててさ…」と話していた矢先、何もいわず、彼女の振り付けで『ガーデン』を踊ってTikTokに投稿した藤井風。争いを瞬時に収めた藤井風。あのときの振る舞いには、説明より先に身体で示す「優しさ」がありました。イケメンすぎるやろ!!!「惚れてまうやろー!」と思った人もたくさんいたのではないでしょうか。

風が我が家の生活音になるまで

話を戻しましょう。なぜこれほど深く藤井風を好きでい続けることになったのか──。あるアーティストに強烈に惹かれることはあります。新譜を聴き込み、ライブにも行き、しばらく生活の中心になる。でも、時間が経つと少し距離ができることもある。もちろん、また新作が出れば戻ってくる。でも、日常そのものに入り込み、家族の会話や子供の記憶にまで浸透していくとは限らない。藤井風の場合、いつのまにかそうなっていました。

妻がライブに遠征するために大阪へ旅立つ。グッズが売り切れるといけないからと、朝早く東京を去る。北海道に泊まりでライブに行く。もちろん、逆も然り。家を空ける遠征で僕は福岡、福井、マレーシア、韓国、イギリス、カナダ、インドへ。妻は大阪、北海道、台湾、シンガポールへ。代々木、埼玉、名古屋など日帰りも含め、気がつけば両親のどちらかが風を追って旅立つ家になっていました。「死ぬのがいいわ」とまでは言いませんが、だいぶ生活の優先順位がおかしくなっている。どういう家なんでしょうか……。

3人の子供にとって、パパとママは藤井風のライブに頻繁にいく親。そのうち、妻が地方や海外のライブに遠征するときだけ、子供たちとリビングに布団を敷き、お菓子を食べながらゲームパーティをするという謎の家庭内制度が生まれました。スマブラ、マリオパーティ、マリオカート、フォートナイト。ドーナツパーティやケーキパーティがだいたいセットです。すると当時、小学1年の息子が味をしめて、「ママが藤井風のライブのチケットに合格しないかなぁ……」と言い出す。完全に目的が変わっています。でも、これが不思議と楽しい。

当時、6歳の娘は保育園で『まつり』をよく歌っていたらしい。友達に「フジカゼって知ってる?」と聞いても誰も知らなかった、と少し寂しそうに話してきました。彼女は「わたし、風でこの歌が一番好き」と言う。長女からは、僕が家でいつも『花』を鼻歌で歌っているせいで、「最近ずっと風くんの『花』が頭にこびりついて離れないじゃん」とクレームが来たりする。息子はしょっちゅう鼻歌を歌っているのですが、ほとんど風の曲(笑)。子供たちにまでこれほど風を刷り込んでしまっていることには、若干の「罪の香り」もありますが、もう仕方ありません。なんか申し訳ない。でも、たぶんやめられない。風よ、どこまで我が家に吹き込んでくるのか。藤井風の音楽は、いつのまにか我が家の生活音になっていました。

それは単なるBGMではありません。子供たちが日常的に歌い、カラオケに行けば誰かが歌い、両親が風のライブに頻繁に家を空け、家族でドラマ『いちばんすきな花』を観て、最後に藤井風の演奏サプライズで盛り上がる。しかも、あのドラマが恋愛至上主義的な展開に向かわないことを、うちの子供たちはとても喜んでいました。ちなみに我が家では毎日、食事中にドラマを1話、家族で観ます。(当時)小2と小6は、ドラマで恋愛要素が垣間見えるとものすごく拒否反応を示していたので、「反=恋愛ドラマ」として安心して観られたのだと思います。そこに『花』がぴたりとはまっていた。

手放すこと、降りること

いつの間にか、僕のなかで藤井風は、ただ「音楽的にすごいアーティスト」ではなくなっていきました。もちろん、音はずっとすごい。けれど、それ以上に、彼の音楽世界がつくる空間に惹かれるようになった。

たとえば『帰ろう』。一日の終わりに『帰ろう』を聴くと、すべてこれでいいと思えて、自分を許せることがあります。乱れた心が落ち着く。忘れること。手放すこと。帰る=還ること。何かを獲得するのではなく、余計なものを手放していく。勝つのではなく、争いから降りる。握りしめるのではなく、手をゆるめて解放する。『特にない』を初めて聴いたときにも、似た感覚がありました。硬直した身体から力が抜けるような感じ。包み込むような温かい歌声と言葉に、赦しを与えられたような感覚です。真冬の山の中で過酷な遊び場のフィールドワークを実施しているとき、行き帰りで『青春病』をずっと流していました。藤井風の音楽は、ときどきこちらの身体から不要な力を抜いてくれます。

強くあらねばならない。ちゃんとしていなければならない。成果を出さなければならない。誰かに認められなければならない。男ならこうあるべきだ。父ならこうあるべきだ。大学教員ならこうあるべきだ。批評家ならこう書くべきだ。そういう役割や規範を、少しだけゆるめ、生きづらさから解放してくれる。これらは「音」だけでは成立せず、彼の書く歌詞から受け取られる「思想」、そして彼のライブでのパフォーマンスやSNSでの言動から立ち現れる「人間」に魅了されたのです。

安心できる場所としての音楽

偶然ですが、ちょうど2021年から2年間、僕は所属先を離れ、未来の人類研究センターという部署に異動して「利他プロジェクト」に関わることになりました。いきなり専門でも何でもない「利他」を研究しなければならなくなったのです。研究で「利他」とは何か、どうすれば利他が生まれるのかをずっと考えている時間に、ちょうど藤井風を聞いて過ごしていました。その研究は『遊びと利他』(集英社新書、2024年)という本に結実しました。この「利他」を研究しながら、ずっと藤井風の音楽に宿る「利他」を受け取り続けていたのだと、いまになって思います。藤井風の利他の思想には、閉塞した現代社会を生きるための大きなヒントがある。自分を手放すこと。他者に開かれること。所有しないこと。勝ち負けの外に出ること。

彼の音楽世界には、安心できる場所がある。

それは、ただ優しいということではありません。藤井風の音楽には、強いグルーヴもあるし、ユーモアもあるし、色気もあるし、宗教性もあるし、ライブではとんでもない爆発力もある。でも、その中心に、こちらを決めつけない感覚がある。聴き手に対して、「あなたはこういう人でしょう」と押しつけない。むしろ、「どうであってもええよ」と言ってくれるような余白がある。この余白が、僕にはとても大きかったのです。

最初は、曲や声、ピアノだった。でも、いま藤井風の音楽を聴き続けている理由は、それだけではまったくなくなっている。彼の音楽を聴いていると、自分を少しだけ手放して、社会から押しつけられる役割に、心の中で「さよならべいべ」と言えるようになる。ほんの少し、そこから降りることができる。その音楽世界のなかにいると、少しだけ生きやすくなる。そして、その場所に、家族の笑い声や、子供たちの鼻歌や、両親の遠征まで、つまり家族の生活にまで藤井風の存在がいつの間にか溶け込んでいる。だから僕は、藤井風を心地よくずっと聴き続けているのだと思います。それが、僕が藤井風を好きでい続ける、「もう半分の理由」です。

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