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今、「祭り」を見つめ直す。

3月もほぼ最終週。

いよいよ今年度の締めくくりですね!

全国的にも、
桜が咲き始めた今日この頃。

桜のように、
最後に美しく咲き誇っていきましょう!


共育LIBRARYへようこそおいでくださいました✨

教育、人間、人生など、様々な「知恵」や「情報」が詰まった図書館のような、皆さんがくつろぎ、人生の「気付き」を得たり、知的好奇心を満たしたりできる居場所を目指しています😌

どうぞ、ごゆるりとお過ごしください。

共育LIBRARYりょーやん、元教師です。


祭り。

祭りと聞くと、
浮き足立つ気持ちを抱く人が
多くいるのではないでしょうか。

日本全国でも有名なお祭りは、
観光という意味合いもあり、
まだまだ伝統として残っています。

一方で、
少子化や地域の縮小もあり、
地元のお祭り自体は
だんだんと小さくなっている
傾向がある。

これから日本では、
さらにその傾向が進んでいくでしょう。

ただ、
祭りという文化が廃れてしまうことは、

「日本人が日本人ではなくなる」

という、
非常に重要なアイデンティティに
関わる問題かもしれません。

そのような意味でも、
今一度「祭り」の価値を再考する記事に
していきたらと思います。

楽しんでいただけると幸いです。



「まつり」の語源

まずは、「まつり」の語源から。

「まつり」という言葉には、
「まつ」が入っています。

植物の「松」は、
門松、松迎えという言葉があるように
神の依る木として昔から讃えられてきました。

また、
「まつ」は植物の「松」にも、
動作としての「待つ」にも関係しています。

「待つ」は、
神聖なものの出現を期待し、
それに奉仕する
ことを意味する語でもある。

そうなると、
「祭り」すなわち「祭る」という言葉にも、
同じような意味合いが含まれることになります。

「祭る」とは、
神があらわれるのを待ち、
神の権威に服する行為
でもあったことになる。

「祀る」「奉る」といった漢字も使われますが、
上記の意味合いは
どの漢字表記にも共通する部分がある。

「祭り」という存在は、
語源的にも非常に神聖で、
厳かに「神」という存在を
崇め奉るものでもあるということです。


命を呼び覚ます祭り

祭りという行為は、
どれぐらい古くからルーツがあるのでしょうか。

それは、
日本という国が生まれてからずっと
言えるかもしれません。

祭りの大元は、
天照大御神が岩戸に隠れたところからだと
言われています。

天照という太陽神が
岩戸に隠れてしまったことにより、
この国は太陽が出ない状態になってしまった。

その天照を岩戸から出させるために行ったのが、
岩戸の外で歌を歌ったり、踊ったり、
楽しく笑い声が起こるような場を作り出すこと。

すなわち祭りです。

そんな賑やかな外界が気になり
天照が顔を出したことにより、
再び太陽の恩恵を預かることができた。

つまり、
祭りとは日本神話から始まる
太陽を呼び戻す大切な行為でもあったのです。

このことは、
「ハレとケ」の文化からも伺えます。

ハレというのは「晴れ」のことで、
非日常を意味します。
太陽=天照にもつながりますね。

年中行事、冠婚葬祭、祭りなどが
ハレの文化。

ケというのは、
日常のことを指し、
農業や現代の仕事を指します。

日常的な状態は、
そのまま放置しておくと
段々元気がなくなっていき、
気が枯れると考えられていました。

気が枯れることで、
「ケガレ(穢)」となり
活気がなく災いが起こりやすくなると
考えられていたのです。

そこで、ハレの日に
身も心も日常から抜け出した特別な装いで、
単調な生活に変化とけじめをつけてきた。

そうやって、
気を引き締め、活力を生み出してきたのですね。

すなわち、
ハレの文化は生命力の回復とも言える。

確かに、
人生の節目や年中行事などがなければ、
変化を感じることができず、
生活にハリがなくなってしまう。

「晴れ着」を着て挑む祭りも、
そんなハレの文化の重要な1つであると言えます。


祭りの崩壊が意味するもの

政治のことを「まつりごと」と呼ぶように、
祭りというものは、
その地域の結束を高める装置の役割を
担っていたと言えます。

盆踊りの歴史を辿ると、
盆踊りの重要性が見直された時期が
2000年以降で二度ありました。

それは、
東日本大震災とコロナの時期です。

日常が破壊され、
人と人とのつながりが不安定になるときに
人々は祭りを求める
ようです。

祭りはそんな、
地域の接着剤という役割を
担う存在でもある。

盆踊りの本質を、

「秩序と反秩序のぎりぎりのバランスをつくる秩序装置」

と表現した人もいます。

日常の中で蓄積される、
不安や鬱憤というものを
消化させるバランスの場
でもあったのですね。

普段接しない地域の人がこぞって集まり、
1つの目的、目標に向けて
つながりを再確認する。

地域の大人たち皆で、
子どもたちに祭りの指導をすることで、

村の縦社会を維持するような
教育システム
としても機能していたようです。

そんな祭りを中心とする
「ムラ」という共同体の底力が発揮されたのは
戦時中でした。

日露戦争でロシアを破るなど
アジアの中で唯一欧州を凌駕した日本。

GHQは、何が日本を
そこまで恐ろしい集団に変えるのかを分析し、
「ムラ」という農業共同体が要である
目をつけました。

そこで、
団地という政策を打ち出し、

核家族化を推進することにより、
「ムラ」という存在を解体していった
という
説があります。

現在は地域の祭りは残っているものの、
本音と本音、魂と魂をぶつけ合うような
激しい「祭り」は少なくなって
きてしまいました。

それでも、
地域の人をつなぐ接着剤として
祭りは未だに大きな役割を担っていると言えます。


煩わしさを越えた先に

「ワッショイ、ワッショイ」
「ソイヤ、ソイヤ」

祭りのときに、
よく耳にする掛け声ですね。

この掛け声は、

「和合しよう」
「添い合おう」

が縮まったものだと言われています。

そのことからも、祭りが
人々が団結し、絆を生み出すための営みと
されていたことが伺えます。

そもそも「絆」とは何でしょうか。

「絆」の訓読みは
「絆し(ほだし)」と読みます。

これは、

「うっとおしい」

という意味を示す。

絆というものは美しいだけではなく、
うっとおしい関係を突き抜けて
強いつながりを築く
ものなのです。

家族という運命共同体も、
切っても切れない
うっとおしい関係であるからこそ
特別なつながり=絆が生まれる。

筆者が以前勤務していた学校は、
全国的にも有名な
地域の伝統の祭りがあるところでした。

祭りの時期が近くなると、
塾がある子どもたちも
祭りの練習に駆り出されます。

学校の授業でも、
地域と共同して
様々な祭りに関する内容を扱わなければならなかった。

若い頃は、

「ただでさえ忙しいのに勘弁してくれ」

と思っていましたが、

そういった煩わしさを超えて
神輿や山車を子どもと一緒に引くと、

言葉では言い表せない
エネルギーがつながった感覚になった
ことを
覚えています。

「手間をかける」とは、
とても豊かで優雅なこと。

「手間を省く」ということは、
いつまでも洗練されないことと同義でもある。

そのように語った、
京の染色家の方がいます。

タイパ、コスパという現代の価値観と、
煩わしさと手間暇かかる祭りは
相反するものかもしれませんが、

「手間」から生まれる文化の豊かさ、
人生の張り
というものを
忘れずにいたいものですね。


まとめ

昔のどぶろく祭りでは、
酒というものは
その時にしか飲めないものであったそうです。

それだけ、
日常と非日常の区別が
はっきりしていた
からこそ、

ハレの日には思いっきり発散し、
エネルギーを充足させることができていた
のでしょう。

現代は、
至るところに娯楽があり、
個々人が別々に
毎日それを堪能することができる。

何がハレで何がケなのか、
生活のけじめやメリハリを
どこでつけるのかが非常に分かりにくい

そういったことも、
何でも効率を求め
我慢がきかない現代人の気質に
影響を与えているのでしょう。

古来からの知恵の結晶である、
日本の文化を学び直し、

けじめと張りのある生活を
少しでも送れるようにしていきたいですね。


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