心の扉に潜むはシュレディンガーの九尾の狐
「何をしている時が楽しいの?」とよく聞かれる。
今まさに楽しいつもりでいたので非常に戸惑う。
そんなに楽しくなさそうに見えましたか?
同様に「どんな時にテンション上がるの?」ともよく聞かれる。
おかしい。それなりにテンションを上げたところも見せてたはずだ。
そんなことを聞かれたら、テンションが上がることはもう一生ありません。
どうも心を開いてないように見えるらしい。
これは自分が悪い。自覚がある。私は自分から心を開くことはほとんどない。野生の子猫ぐらい警戒心が強い。大和撫子ぐらい奥ゆかしい。
ただ、言っておきたいのは意図して閉じ籠っている訳ではない。正確には開き方がわからないのである。
心を開くには会話するのが一番とは思うが、会話をするためのキッカケがほとんどない。
日常的な会話の糸口になるような嗜好品の類い、酒・タバコ・ギャンブル・風俗・コーヒー…何もやってない。せめてコーヒーぐらい飲めたら良いなと思うが、調子が悪い時に飲むとお腹が痛くなるので、好んで飲むまでには至らない。体調のことを考えると水をチョイスしてばかりである。
もちろん水から会話は膨らまない。
世界的なスポーツ大会…オリンピックやワールドカップ、WBCなどは会話の糸口として最高だ。だが自分より確実に熱狂してる人がいる、と考えると何だか観る気が失せてしまう。自分が一番のビッグファンになりたいという訳ではないが、話題に付いていくためにという動機ではまるで食指が動かないのである。もちろん観れば面白いのも知っている。ただ、自分から能動的に観たいと思って観て楽しめるのは、ロンドンハーツやリンカーンの芸人大運動会やくりぃむナンタラのミニスカート陸上の方である。
お笑いや映画を観るのは好きだが、その話を積極的に人としたいとも思わない。一口に言ってもお笑いも映画も幅があり過ぎて、全く趣味が合わない可能性がある。あまり打ち解けていない段階で、趣味があまりにも違うと「この人とは何も通じ合えないかも知れない」と、自分に引き寄せやすい話題を出したつもりが無意識に心が引いて離れていっている時がある。
おかしい。近づいてるはずが笑顔で後ろに下がっていた。ムーンウォーク。
お笑いや映画の話はある程度仲が良くなってからじゃないとしたくない。でもある程度まで仲良くなるためには何の話をしたらいいのだろう。仲良くなったらしてみたい会話はいくらでもあるけれど、仲良くなるまでのちょうどいい会話は持ってなくて、でも仲良くなるには会話が一番と思っている。フリーズ。会話が一番と思っていながら黙るしかなくなる。
「落ち着いてるね」ともよく言われる。
これはもう、若い頃からずっとそうで、大学の入学式で死ぬほど配られているサークル勧誘ビラを在校生もしくは父兄と間違われて1枚も貰えなかったほどなので、年齢に不相応な落ち着きがあるようだ。
本人としてはただ黙っているだけで「落ち着いてるね」と評価されてラッキーな部分もあるが、一方でその落ち着きには実態が伴っていないので内心戸惑っていたりもする。その戸惑いとも30年以上の付き合いになってしまったので、戸惑い慣れが起きて内心はどこかに行ってしまった。深層は闇の中である。
そろそろ落ち着きに年齢が追いつきそうなものだが、まだ背中が見えてきたぐらいかも知れない。追いつく頃には枯れて死んでいる。
落ち着いて見える分、何かただならぬモノが潜んでいるように思われているのかも知れないが、自分としては様々な経験を経た結果としての落ち着きではなく、ただ生まれ持った落ち着きでしかない自覚があるため、開陳して見せる程のモノは何もないから黙っているだけなのだが、その結果、より落ち着いて見えるという正負不明のループに陥っている。
この落ち着きの正体は何なのか。
正体なんてあるのか?心の扉の奥に何かが眠っているのだろうか?
落ち着いて見えるのは、心の中に何かイチモツを抱えているように思われるから。心を閉じて見えるのは、そのイチモツが一向に見えてこないから。
しかし、自分としては何も考えてない=イチモツなど何もないつもりである。と言いつつ、フリーズするぐらいには考えているから、それは嘘だ。といってもそれは無用の問答でもある。亡きに等しいイチモツだ。
つまり見せるに値しないイチモツなので、物置に仕舞っているだけなのだ。
人とすぐ打ち解けられる人は、心の扉がパカーンと開いているだけでなく、扉の中のイチモツが人にお見せしやすい形に仕上がっているのだ。上記のようにゴチャゴチャとわかりづらいイチモツではなく「〇〇です」と単純明快。
何ならイチモツ自体もすぐ変えられるのが一番強い。扉を全開にしていて人の出入りも割と自由で、人が入ってきたらそれに合わせて内装も変えちゃって、結果的にイチモツも内装に合うようにコーディネートされちゃう。こだわりが無さ過ぎるとイチモツの重みが無くなっていくが、共感しやすい方が人は圧倒的に打ち解けやすい。
自分の場合はイチモツがわかりづらいだけでなく、扉の仕様もややめんどくさい。
ピシャリと閉じているならまだ良い。この人はラインを引く人なんだな、とわかりやすい。でも自分は扉は開いているのだ。
基本的に扉は開いてはいるものの、そこに薄膜が張られており、薄膜の内側から外を眺めているような心持ちである。その薄膜の破り方は未だに自分でもわからない。自然と割れることもあれば、地味に強固な反動性もあって、知らず知らずのうちに弾き返してしまっていることもある。自力で破れないことが時折、無性に情けなくなる。
何だか正体のわからないイチモツを背にしながら、見えないバリアの前で何も言わずにじっとしている。周りからしてみれば、自分は相当怪しい人に見えると思う。というか客観的に見ても変だ。でも自分でもどうしたら良いかはわからない。
年季だけは入っている謎のイチモツは、NARUTOの九尾の狐のようだ。
固く封じ込められて簡単に外には出てこないが、人からは恐れられている。
表に出てきて正体を表すこともないので、人々からはずっと恐れられている。生まれた時からこんなものを抱えているのだからNARUTOも大変である。そのNARUTOは俺なんだってばよ。
しかし何度も言っているように、このイチモツは雰囲気を放っているだけで中身は何もない。一度開ければ、中身がないことはわかるのだが、見えない薄膜が邪魔をして中をお見せすることは出来ない。よって、ありそうな雰囲気だけを発し続けることになる。
いるのかいないのか開けてみるまで証明できない。シュレディンガーの猫よろしく、シュレディンガーの九尾の狐状態である。実際にいるのであればNARUTOも九尾の狐と話し合って協力関係を結ぶことも出来よう。存在すら不確かだとNARUTOもモヤモヤするばかりである。そのNARUTOは俺なんだってばよ。
そんな感じなので、その九尾の狐は何なんですか?と聞かれると、自分でもわからないのでフリーズ、心の扉はパタパタと閉じていってしまう。
そんな自分と仲良くなれる人は、あまり九尾の狐については気にせず、テキトーに接してくれる人だ。
九尾の狐は興味を持たれると牙を剥くが、放っておく分には悪さをしない。放っておいてくれる安心感があると、シュレディンガーの九尾の狐は扉の向こうで鳴りを潜めてくれるようだ。
自分が心地よくいられる相手というのは、シュレディンガー九尾の狐が発動しない、自分に関心を必要以上に持たないでいてくれる人、ということになるが、そういう人と出会うために自分から動いていくのは殆ど禅問答のようであり、ホントに人生って難しいんだってばよ。
