喪失を物語は救えるか 『羅小黒戦記2』と『落下の王国』
物語に人は救われる、と信じている。自分も救われたことは何度もあるし、自分以外にも救われた経験のある人はたくさんいるだろう。だからこそ過去から現代に至るまで色んな物語が生まれているし、今でも人々は物語に触れようとする。
しかし物語は所詮は他人事である。自分ではない他の誰かの話である。フィクションであるなら尚更、遠くの出来事だ。
絵空事である物語が、実際に大きな問題が起こっている時に、本当に機能するものなのだろうか。架空かも知れない、全く関係のない他人の物語が、圧倒的な現実感に襲われている本人を救うことは出来るのか。愛する者を失って、埋めることのない喪失感を感じている者を物語は救えるか。
最近、『羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来』と『落下の王国』を観た。
全く別の映画だが、共通の要素があった。
どちらも喪失から立ち直る物語だった。
『羅小黒戦記2』はアニメ映画である。
人間と妖精が共存する世界で、主人公は小黒(シャオヘイ)という猫の妖精の男の子だ。小黒は無限(ムゲン)という人間の師匠の元で修行を積んでいる。無限は執行人である。この世界では妖精は館(カン)という組織に管理されており、執行人はその法を執行する者である。この世界では霊気を操作して超能力を使うことができる。妖精は霊気の塊のような存在なので基本的に人間よりも強い。執行人の殆どは妖精で彼らは特に強い。しかし、彼らの中にいて、無限は人間でありながら最強の執行人と言われる存在だ。
ある時、館の支部の一つが人間の軍隊に襲われ、壊滅してしまう。妖精は人間の攻撃が通じないはずだが、敵が使用した武器に妖精に干渉できる特殊な物質が使われていることが発覚した。また、その支部に滞在する執行人はとても強い為、滅多なことでは負けることはないはずだったが、彼も殺されていた。現場から回収された映像には無限の姿が映っていた。
そのため、無限は最重要容疑者として館に拘束されることとなった。
小黒と、小黒にとって姉弟子にあたる鹿野(ルーイエ)は無限の無実を晴らすべく、共に行動を開始するのだった。
小黒と鹿野は最初は距離があるが、共に行動をしていく中で互いに認め合っていく。しかし、途中で決定的な対立を起こす。
それは協力して民間人たちを救った直後に起こる。鹿野は敵を誘い出すために民間人が危険に晒される方法を取ったのだった。もし誰かが傷付いたらどうするつもりだったのかと小黒が鹿野に問うと、鹿野は仕方のない犠牲だと答える。それに対して小黒はそんなの間違っていると怒る。
そもそも鹿野が無限の弟子となったのは、以前に師事していた師匠を人間に殺されたからであった。鹿野はかつての師匠や仲間達を故郷と共に人間に滅ぼされていたのだ。人間が全て悪い生き物とは思っていないが、人間と妖精を秤にかけるのであれば妖精を取る。それが鹿野の考えであった。
それに対し、小黒は間違っているものは間違っている。自分は正しい方を選ぶという。かつて自分も住んでいたところを人間に追われたことがあるにも関わらず、だ。
今回の事件は人間と妖精の共生の在り方について、館の方法に疑問を持つ者の仕業だった。最終的に鹿野と小黒は協力して犯人を拿捕することに成功する。ただ、鹿野と小黒の考え方の違いは折衷することも難しい。
鹿野は愛する者達をいっぺんに奪われたのだ。その穴は代わりのもので埋まるようなものではない。
だが、この映画のラスト、無限にアイスをねだる小黒に鹿野は幼い頃の自分の姿を見る。それはかつて本当にあった出来事を重ねているのかも知れないし、奪われてしまったけど本当はあり得た子供時代の自分かも知れない。
そして、一気に鹿野の過去の姿が描かれる。人間たちに故郷の村を滅ぼされ無限に引き取られたところから、現在までの姿だ。
鹿野は現在の小黒のように無限と一緒に暮らし、最初の頃は人間不信から荒れていた時期もあったが、それでも修行し、成果を認められていった。館の任務もこなし、周囲に実力も認められ、新しく仲間と呼べる存在も徐々に出来ていった。そうした積み重ねを経て、現在に至る。
鹿野は小黒に幼い自分を見ると共に、かつて失った師匠と家族たちも見る。それは決して取り戻せないものだけど、鹿野が人生をかけて積み上げたものがあったから、今の自分とは違うけどあり得た別の幸せな人生を、ただ見ることが出来たのではないだろうか。
だから、無邪気な小黒に対しても、嫉妬するでもなく憧憬を見るでもなく、真っ直ぐな希望として見ることができる。自分の人生を自分のものとして生きることが出来る者は、他人の人生もその人のものとして見ることが出来る。
最初はそっけなかった鹿野だが、またいつでも会いに来いと告げて小黒と別れるのだった。
『落下の王国』はその名の通り、落ちた者たちの話だ。
少女はミカンの収穫を手伝っている最中に木から落ちて腕を骨折してしまい入院していた。少女が病院で出会ったロイという青年も足を骨折して入院していた。ロイは映画のスタントマンだが、橋から落下して怪我をしていたのだった。
ロイは少女にでっち上げの物語を聞かせる。愛する者を奪われた勇者が悪の支配者に復讐する物語だ。勇者は同じく逆境に晒された仲間達と共に冒険に繰り出す。その物語に少女はワクワクして、ロイに懐いていく。
しかし、物語は次第に暗い話になっていく。出会ったヒロインは実は支配者の婚約者で、勇者は裏切られていたのだ。支配者に手が届きそうなところで仲間達も次々と殺されていく。
ロイは無茶なスタントをしたせいで下半身不随となり、役者生命を絶たれようとしていた。また付き合っていた女性を主演俳優に奪われ、重なる不幸に自暴自棄となっていた。そこでロイは少女にこっそりと薬を取ってくるようお願いする。モルヒネで自殺しようとしたのだ。しかし、少女が椅子の上に立って薬棚に手を伸ばしたところ、誤って転倒してしまう。
少女が眼を覚ますと傍らにはロイがいた。ロイの物語の登場人物は周りにいる人々がそのまま出てきていて、主人公の勇者はロイだった。だがロイは自分は本当は勇者なんかじゃないと語る。それでも物語の続きを少女はねだる。
少女は家と父親を失っていた。理不尽に襲われ、襲撃者に立ち向かった父親は、家ごと焼かれてしまったのだ。物語に少女は勇者の娘として出ていた。絶望に駆られようと立ち向かって欲しいと、少女は勇者に懇願する。支配者との戦いの中、殆ど自ら水に沈んでいた勇者は立ち上がり、支配者を跳ね除ける。ヒロインへの未練も断ち切り、娘と共に勇者は去っていくのだった。
ロイは物語を少女に語るが、実際に見ていたのは自分の人生のこと、それも自分が失った物たちのことを終始考えていた。ロイと同じく少女も大きく失った物があったが、少女は物語を見ていた。物語を通してロイそのものを見ていた。絶望に耽るロイに対して、少女は希望に満ちた結末を求める。自らの死という結末のために少女を利用し、更に怪我をさせてしまったことでロイは更に自分を責めるが、少女はそれでも希望的な結末を求めるのだ。
失った穴を見つめていても、その穴は埋まらない。穴を見つめていると、その穴の中に入り込んで暗闇に閉じこもってしまう。それよりも、動き出さなければ。少女は行動をして、その結果また落ちた。だが少女は穴に落ちても、すぐに上を見て出口の光を見つけ出す。そこに行くには動くしかないのだ。その少女の様子を見て、ようやくロイも動き出す。
その後のロイが復帰できたのかどうかはわからない。少女は映画でロイが活躍するところを観たというが、明らかに別人(バスターキートン)のことを指して言うので、アクションシーンがある映画のスタントを全てロイがやっていると思い込んでいるようだ。
でも少なくとも、絶望の淵から立ち上がることは出来たのではないだろうか。物語の中で支配者とヒロインへの未練は断ち切ることが出来たのだから。自分にとっての全てと言えるぐらいの大事な物を失ったとしても、人は生きていく。動く。生きている限り、人生は続く。
傷を負った者の救いはどういう時に起きるか。
それは同じ境遇の者に共感し、相互作用が起きた時だ。
鹿野と小黒は同じく人間に故郷を奪われていた。
少女とロイは同じく大事な物を失っていた。
しかし、その一方で決定的な違いもそれぞれあった。
正しい人間もいると判っていながら、その正しさを信じきれない鹿野。
正しい方を選ぶと言い切る小黒。
失って絶望に浸るロイ。
いつでも希望に向く少女。
その違いが互いに影響を与えて、それぞれの傷はほんの少し癒される。治る、とまではいかないが、傷を、在るものとして受け入れられるようになるのではないか。喪失の穴は埋まらなくても、深淵のように見えた穴が、ただの穴として見られるようになるのではないか。
私は最近、大事なものを失うかも知れないと想像して怖くなることが多い。その穴が埋まることは決してないことも想像に難くない。その時、自分はどうすれば良いのだろうと途方に暮れてしまうこともある。
代わりのものを見つけるのも難しいだろう。苦労して近いものを見つけても、違うことを強く感じてしまうのも想像できる。その時のかけた労力とそれが徒労に終わる虚しさは耐え難いものだろう。
だからといって、その辛さは抱え続けないといけないものか。
きっとそうではないと信じたい。
無くなりはしないだろうけど、意外と、難しくない方法で軽くは出来るのではないだろうか。
たとえ、鹿野と小黒のような、ロイと少女のような、似たような境遇の人ととの劇的な出会いがなかったとしてもだ。
私は、この2本の映画を観て、物語そのものに癒しの効果があるのではないか、と感じた。
似たような境遇の人が頑張ってるんだから、自分も頑張ろう、ということは当然あると思う。だが、それだと自分に似たところを感じられない他人の人生は、全く自分に関わりのないものだと感じてしまうことになる。また、実際に傷ついて自分の殻に閉じ籠っている時などは、他人から癒しは得られないということになってしまう。客観的に似ている立場であっても、本人からすれば違いを強く感じてしまって、より孤独感が増すだろう。
私は“癒しの為に作られた物語”には嘘くささを感じるし、“誰もが共感できる主人公が困難を打ち破る物語”にハマらなかった時は酷く虚しくなる。
共感できる物語との劇的な出会いがなければ癒されることはないのか。共感できない物語は何の価値もないのか。
決してそうではないと思う。物語は何かの為に存在するのではなく、物語として存在することに意味がある。
鹿野が自分の喪失感を受け入れることが出来たのは、小黒の中に人生の積み重ねを見たからで。それを見ることが出来たのは鹿野自身が喪失後も自分の人生を積み重ねてきたからで。自ら人生を積み重ねてきたからこそ、同じく積み重なってる他人の人生をそのまま見ることが出来て、同様に自らの中にある喪失感に対してもそのままの視点で見られるようになったのではないか。
ロイが喪失感に浸りきっているのは、失った穴ばかりを見つめているからである。同じく喪失感に襲われてもおかしくない少女がそうはなっていないのは、常に行動を促し、希望を見つけようとしているからである。ロイを奮起させるのは少女の行動である。少女の行動の積み重ねで、ようやくロイは自分も行動しようと思えるようになる。
人生の積み重ね、行動の積み重ね。積み重ねこそ、物語である。
人は自分の人生を生きてこそ、他人の人生を見ることが出来る。
無関係な他人の人生に後押しされることが出来る。パワーを貰うことが出来る。
何かを失った時に出来た穴を埋める力は物語にはない。だが物語を見ることで自分自身の物語を見ることはできる。
そして、自分の人生を積み重ねることでしか、喪失感と向き合うことは出来ないと物語は教えてくれる。
『羅小黒戦記2』のエンドクレジット後に少しだけ流れる映像では日常に戻った小黒の修行する音と声だけが聞こえる。
やはり日常、人生の積み重ねこそが物語なのだ。
さて、日付が変わって今日から始まる
私が出演する
はらぺこペンギン!新作2本立て公演
『イキル(タ)アカシ』。
(※Aチームは昨日、初日を迎えて、私が出演するBチームの初日が今日)
こちらも家族を失くす前後を描いた、喪失の話だ。
誰かを癒すためではなく、
一人の人間としてしっかり生きて、
作品の中に存在したいと思います。
🐧はらぺこペンギン!🐧
新作2本立て公演
『イキル(タ)アカシ』
作・演出:白坂英晃
※B『ラストトラベルプレリュード』に出演
2025年12月17(水)~21日(日)
@新宿眼科画廊スペース地下
予約
詳細
スケジュール
12 月
17日(水) A 20:00〜
18日(木) B 17:00〜 A 20:00〜
19日(金) A 17:00〜 B 20:00〜
20日(土) B 13:00〜 A 16:00〜 B 19:00〜
21日(日) A 13:00〜 B 15:30〜 AB 18:00〜★
チケット
前売り 3900円
当日 4300円
通しチケット★ 7000円
リピート割 3400円
A『日還り帰宅券とカリスマ案内人』
出演:
三原一太
大村彩(劇団ヘロヘロQカムパニー)
波多野和俊(アルカンシェル)
平田純哉(MELT)
前園あかり
山本佳希(MeiMei)
B『ラストトラベル・プレリュード』
村田康二
石井舞
松崎亜希子(クロジ)
薬師寺尚子(あサルとピストル)
山川恭平
吉田天音
