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友達100人できるかな? ——裏切りと絆の狭間で——

童謡で戦慄を覚えた…

人間関係。人間が2人以上集まれば,それはもう関係が登場する。たとえ両者が互いに無関心を貫いていようと,しかるべき関係性が出来上がる。

人間関係。学校や職場,町内など,いたるところで人々の頭を悩ませる問題だ。「人間関係に悩まない」なんてのは,もはや仙人くらいなものだろう。

なぜこういう話しをするかというと,4月で新しい生活が始まって少し時間が経った時期だからだ。

小学校1年。皆さんにも初々しい時期があっただろう。この私ですら,小学校1年生の時には目をキラキラと輝かせていたものだ。

しかし,とある童謡でつまづくのだ。

♪一年生になったら

皆さんはこの童謡をよく知っている。

いちねんせいに なったら
いちねんせいに なったら
ともだち ひゃくにん できるかな
ひゃくにんで たべたいな
ふじさんのうえで おにぎりを
ぱっくん ぱっくん ぱっくんと

何の変哲もない童謡。

果たしてそうか?

私にとっては4月なのに夏の怪談話レベルのホラーを味わっている気分だ。戦慄を覚える。この童謡に動揺しているのだが,同様の動揺を覚えた方はいるだろうか。

嗚呼こわい。

友達の数を増やそうと躍起になっている傍らで,何かが起きている。

問題です

この童謡で,富士山の上(ここでは「富士山の頂上」と解釈するものとする。)には何人いるだろうか。

そう,100人だ。それは歌詞に文字どおり現れている。100人で食べたいと発言していることから,山頂には100人存在している絵を想像するのが妥当だろう。「ひゃくにんで」食べたいとはそういうことだろう。

ほら,もうここがおかしい

なぜって…簡単な足し算だ。

歌い手は友達を100人つくることを目標に掲げている。仮にその目標を達成したとすると,歌い手である「私」が所属する友達グループの総人数は何人になるか。

私1人と友達100人,$${1+100=101}$$人だ。

平仄ひょうそくが合わない。おかしい。地上では$${101}$$人いるにもかかわらず,山頂では$${100}$$人。どういうことだ・・・?

もし正しく歌うとするならば,次のようになるのではないか。

いちねんせいに なったら
いちねんせいに なったら
ともだち きゅうじゅうきゅうにん できるかな
ひゃくにんで たべたいな
ふじさんのうえで おにぎりを
ぱっくん ぱっくん ぱっくんと

これならば地上部隊が「私」を含め$${100}$$人,山頂でも$${100}$$人。

あるいは,

いちねんせいに なったら
いちねんせいに なったら
ともだち ひゃくにん できるかな
ひゃくいちにんで たべたいな
ふじさんのうえで おにぎりを
ぱっくん ぱっくん ぱっくんと

としても良い。これで地上も山頂も,いずれもワンちゃんもビックリの101人だ。

いずれにせよ,全国の音楽教科書を出版する事業者の方々には,歌詞の変更を求めていきたい。要望の強さで言えば,全自動生卵割りマシーン(家庭用)の必要性と同じくらいの強さだ。

童謡が陥っているミス

この童謡は重大なミス,根本的な過ちを犯している。

1つは,少子化を考慮に入れられていない点である。現在のわが国では2024年についに出生数70万人を切ってしまった。中学校や高校ならば,越境してでも通えることから学年の人数が多いところだってあるだろう。しかし小学校の場合は違う。小学生の足でも自宅から徒歩で通学可能な距離にある小学校の数は限られているだろう。統廃合が進むといっても,それでも慢性的にひと学年の人数が減っている。そう考えると,今年めでたく小学校1年生になった子がこの童謡を歌ったからとて,学年に100人も同級生がいない,そういう学校だってたくさんあるだろう。仮に100人超えていても,ほとんどの子と友達になるというコミュ力の塊りみたいな子でない限り,友達100人は厳しいか・・・?

2つ目は友達の定義である。社会で契約関係に入った当事者というのは,無関係の間柄の人々と比べて分かりやすい。労働契約,売買契約,賃貸借契約と,いろいろな形態の契約に基づいて,契約時から呼称が与えられるからだ。働き始めたら使用者と労働者,こんなふうに両者の関係性が明らかになる。しかし友達という関係性は,必ずしも自明ではない。あだ名を言えれば友達か? 相互で友達関係に入ることに合意した時点でようやく友達になるのか。しかしこの場合,小学1年生は制限行為能力者であり,法定代理人の合意が無い場合には友達関係を取り消すことができると結論付けてよいのか。子ども同士の関係性に事情の分からぬ親が不用意に介入しては興醒めだろう。定義があいまいなままでは,どの時点で友達になったといえるか判然としないことから,いつになっても100人友達状態を達成できない恐れがある。

また,友達関係というものには排他性はなく,友達関係の重複があり得る。「私の友達」というのは,私がその友達の交友関係を独占することができるような独善的な関係性をいうのではなく,それ以外の人との交友関係が存在し得るものである。この点,「私の筆箱=あなたの筆箱ではない」みたいに所有権に基づく排他的支配を実現できるわけではないことに注意しなければならない。

#なんのはなしですか

そして友達関係だからといって,毎日顔を突き合わせていることが条件ではなかろう。何年,いや何十年と顔を見ていなくとも,友達だろうよ。

それにひと口に「友達」と言っても,相手次第で関係の深さや密度も変わる。親友とも呼ぶべき強固な関係性の間柄もあれば,仲良く話したことがある程度の間柄もある。どこまでを「友達」に含めるかについては,自分の主観的な判断に委ねてよいものと思われる。

そして3つ目。友達ってのは,数でカウントすりゃあイイってもんじゃあないゼ。

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