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空白の彫刻

あらすじ


都心で設計事務所を構える建築家・高村玲(あきら)は、規律と美学を重んじる完璧主義者。歴史的建造物の修復を手掛け、その仕事ぶりは堅牢な石材のように信頼されていた。しかしある日、彼女の名前を検索すると「横領」「枕営業」「反社」といった事実無根の汚れた言葉が並ぶ「サジェスト汚染」が発生する。見えない悪意によって契約は破棄され、銀行の融資も止まり、玲が築き上げた城壁は音もなく崩れ去っていく。デジタルタトゥーの専門家さえ匙を投げる組織的な攻撃。その発信元を突き止めた玲が辿り着いたのは、実家で父の遺産を食いつぶす姉・麻耶(まや)だった。かつて女優を目指し挫折した麻耶は、父の愛と才能、社会的成功のすべてを持つ玲に対し、底知れぬ嫉妬を抱いていた。「あんたの澄ました顔が泥にまみれるのが見たかった」。麻耶は玲の社会的抹殺を愉悦としていた。玲は感情を露わにすることなく、冷徹な計算のもとで復讐を決意する。

第一幕 静寂の亀裂

高村玲(あきら)の朝は、完璧な規律の中にあった。午前五時起床。冷水シャワー。エスプレッソをダブルで一杯。彼女が経営する建築設計事務所は、都心の喧騒を見下ろすガラス張りのビルの最上階にある。玲の仕事は、老朽化した歴史的建造物を、その本質を損なうことなく現代に蘇らせることだった。彼女の評判は、彼女が扱う石材のように硬く、冷たく、そして揺るぎないものだった。

変化は、音もなく訪れた。

国立美術館の改修プロジェクト。予算数十億のコンペを目前に控えたある日、クライアントの担当者が目を合わせずに言った。「少し、気になる噂がありましてね」

玲は自室に戻り、無機質な検索窓に向かった。自分の名前を打ち込む。「高村玲」。

一瞬の空白の後、予測変換のリストが垂れ下がった。

高村玲 横領

高村玲 枕営

業高村玲 経歴詐称

高村玲 反社

玲は表情を崩さなかった。ただ、マウスを握る右手の指先が白くなった。クリックはしない。汚物に触れる必要はない。彼女は静かにブラウザを閉じた。

デジタルタトゥーの専門家は、無力な事実を並べ立てた。「組織的です。大量のbotと、安価な海外のライターが使われている。火元を特定しても、すぐに別の場所から煙が上がる。これは、あなたを社会的に抹殺するための『工事』です」

玲の完璧な城壁に、見えないシロアリが群がっていた。進行中の契約が次々と保留になる。銀行の融資担当者の態度が硬化する。実体のない言葉の群れが、実体のある信用を食い荒らしていく。玲は唇を引き結び、ただ耐えた。感情を表に出すことは、敗北を意味した。

第二幕 血の繋がり

火元は、意外なほど近くにいた。

玲が実家の古い蔵を整理していた時、埃をかぶったノートPCを見つけた。父の遺品だった。何気なく開いた履歴の中に、見覚えのあるドメインがあった。それは、玲を中傷する記事を量産しているアフィリエイトサイトの管理画面だった。

ログイン状態のままだったその画面の持ち主は、父ではない。

その夜、玲は姉の麻耶(まや)を呼び出した。麻耶はかつて女優を目指していたが、今はアルコールと不安定な男たちとの関係に溺れ、実家の遺産を食いつぶして生きていた。玲とは対照的な、情動と混沌の女。

麻耶は、玲のオフィスに現れるなり、ソファに体を投げ出した。「何の用? 忙しいんだけど」タバコの煙を吐き出す。

玲は黙って、印刷した検索結果の紙をテーブルに置いた。

麻耶は一瞥しただけで鼻で笑った。「あら、大変ね。有名税ってやつ?」

「いくら払った」玲の声は低く、乾いていた。

「何の話?」

「この『工事』の発注費用だ。どこから出した」

麻耶の目が細まった。演技じみた驚きは消え、底冷えする憎悪が浮かび上がった。「あんたには関係ないでしょ。あんたは全部持ってるんだから。父さんの会社も、才能も、金も、名声も。私には何もない」

「だから、奪うのか。こんな卑劣なやり方で」

「卑劣? 笑わせないでよ。あんたが今まで、どれだけ私を見下してきたか。その澄ました顔が、泥だらけになるのが見たかったのよ。あんたの名前が検索されるたびに、世界中の人があんたの汚れた姿を想像する。ゾクゾクするわ」

麻耶は立ち上がり、玲の顔に煙を吹きかけた。「あんたは警察には行けない。父さんの『名誉』を守るためにね。完璧な高村家から犯罪者を出すわけにはいかないでしょう?」

麻耶は正しかった。玲は、家の恥を公にすることを何よりも恐れていた。それは玲の弱点であり、麻耶はそれを正確に突いていた。姉妹だからこそ知る、急所だった。

愛など、とうの昔に枯れ果てていた。そこにあるのは、同じ血が流れているという、逃れられない呪縛だけだった。

第三幕 空白の復讐

コンペの日が来た。玲の事務所は最終候補に残っていたが、空気は重かった。審査員たちの視線が、プレゼン資料ではなく、玲自身に向けられているのを肌で感じた。「検索」された視線だ。

結果は落選だった。理由は「総合的な判断」。

その夜、玲は一人、オフィスに残った。眼下に広がる東京の夜景は、無数の光の粒が蠢く巨大な回路基板のようだった。そのどこかで、今も彼女の名前が汚され続けている。

玲は決断した。守るだけでは勝てない。だが、同じ土俵には立たない。彼女には彼女のやり方がある。

玲は、金庫から一冊の古いファイルを取り出した。それは、父が隠蔽し、玲がその処理を任された、麻耶の過去の重大な不祥事の記録だった。薬物、そして交通事故。当時、父は莫大な金を使い、麻耶の将来のために全てを闇に葬った。玲はずっとそれを守り続けてきた。家族として。

玲は、そのファイルをスキャンした。

数日後。

麻耶のスマホが鳴り止まらなくなった。最初は知人からの訝しげな連絡。次に見知らぬ番号からの着信。そしてSNSの通知が爆発した。

麻耶が自分の名前を検索窓に打ち込む。

高村麻耶 逮捕歴

高村麻耶 ひき逃げ

高村麻耶 薬物中毒

それは、嘘ではない。玲が流したのは、加工されていない警察の調書と、当時の現場写真だった。真実は、どんな虚構よりも重く、鋭かった。

ネットの野次馬たちは、新しい、より刺激的な獲物に飛びついた。「完璧な妹を妬んだ、落ちぶれた姉の犯罪歴」。そのストーリーは、瞬く間に拡散された。玲に向けられていた悪意の矛先が、そのまま麻耶へと反転した。

麻耶が玲のマンションに怒鳴り込んできた時、玲は静かに紅茶を飲んでいた。

「あんた、何をしたか分かってるの!?」麻耶は錯乱していた。髪は乱れ、目は血走っている。

「事実を公表しただけだ」玲はカップを置いた。「あなたが望んだ世界でしょう。検索結果が全ての世界」

「殺してやる!」麻耶が掴みかかろうとしたが、玲は冷ややかにそれを見据えた。

「やめなさい。これ以上、検索候補を増やしたいのなら別だけれど」

麻耶はその場に崩れ落ち、慟哭した。それは演技ではない、獣のような叫び声だった。玲はそれを、設計図の歪みを修正するような目で見ていた。

エピローグ 石の如く

半年後。

玲の事務所は、規模を縮小していた。一度貼られたレッテルは、完全に剥がれることはない。それでも、彼女の技術を必要とする本物の顧客だけが残った。仕事は以前よりも静かで、本質的なものになった。

麻耶は、どこかの療養施設に入ったという噂を聞いた。連絡は取っていない。

玲は、新しいプロジェクトの現場に立っていた。海岸沿いの古い灯台の修復作業。潮風が彼女の髪を揺らす。

彼女はスマートフォンを取り出し、久しぶりに自分の名前を検索した。

ネガティブなワードは、まだそこにあった。だが、その下に、新しい候補が生まれていた。

高村玲 灯台

高村玲 修復

高村玲 仕事

それで十分だった。

玲はスマホをポケットにしまい、強風に晒され続けてきた石積みの壁に手を触れた。冷たく、ザラザラとして、確かな存在感があった。

彼女は作業員に指示を出すために、足場を登り始めた。その背中は、以前よりも少しだけ小さく、しかし、鉄骨のように強靭に見えた。


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