地蔵盆 名前のない提灯
八月の終わりになると、京都の路地には、子どもの名前が灯る。
その町内でも朝から赤白の幕が張られ、お地蔵さんが祠から出されていた。夕方には提灯に火が入り、子どもたちは菓子の袋を抱えて走り回る。
美沙は、その光景をアパートの二階から眺めていた。二十七歳。京都へ来たのは十九の春だった。映画を撮りたかった。東京へ行く金がなかったから、まず京都で映像を学んだ。卒業すれば制作会社へ入り、いつか自分の映画を撮るつもりだった。
八年経った。
いまは四条の外れの小さなバーで働いている。映画は一本も撮っていない。代わりに、客の水割りなら何千杯も作った。それでも去年までは、まだ夢の残骸くらいは持っていた。
男がいたからだ。
「もうちょっと待って」
男はいつもそう言った。離婚するから。仕事が落ち着いたら。ちゃんとするから。子どもができたと告げた夜だけは、男は黙った。
そして翌朝、
「今は無理や」
と言った。
それで終わった。
夢も、男も、子どもも。全部なくなった。残ったのは、この町の古いアパートと、酒の匂いが染みついた黒いワンピースだけだった。その夕方、仕事へ出ようと階段を下りたところで、美沙は足を止めた。
町内の地蔵盆だった。子どもたちが大きな数珠を囲んでいる。僧侶の読経に合わせて、珠が小さな手から小さな手へ渡っていく。
ごろり。
ごろり。
ごろり。
美沙は見ないようにして通り過ぎた。そのときだった。赤い提灯がひとつ、風もないのに揺れた。
そこに、美沙、と書いてあった。
自分の名前だった。立ち止まった。見間違いだと思った。近づいてみる。違った。名字まで同じだった。
「……なんで」
後ろから町内会の婆さんが声をかけた。
「あんた、それ触ったらあかんえ」
「これ、誰のですか」
婆さんは提灯を見上げた。しばらく黙ってから、
「昔からあるやつや」
と言った。
「私の名前なんですけど」
「そうか」
それだけだった。
「誰が書いたんですか」
婆さんは答えなかった。代わりに、美沙の腹を見た。ほんの一瞬だった。だが、美沙には分かった。知っている。この婆さんは何か知っている。
「これ、子どもの提灯ですよね」
婆さんはようやく美沙を見た。
「そやから、触らんほうがええ」
その夜、バーから帰ってきたのは午前二時を過ぎていた。地蔵盆の会場は片づけられていた。幕も机も菓子もない。お地蔵さんだけが祠へ戻されている。けれど、赤い提灯がひとつだけ残っていた。
美沙の名前の提灯だった。火がついている。美沙は無視して階段を上がった。部屋へ入る。シャワーを浴びた。冷蔵庫から缶ビールを出した。テレビをつけた。音がしない。リモコンを何度押しても、画面だけが動いている。
その代わり、廊下から音がした。
ごろり。
ごろり。
ごろり。
何か丸いものが転がっている。玄関を開けた。誰もいない。足元に、大きな数珠の珠が一個落ちていた。
翌朝、大家に聞いた。
「昨日、地蔵盆の提灯に私の名前があったんですけど」
大家は露骨に顔をしかめた。
「見たんか」
「知ってるんですか」
「知らん」
「じゃあ、なんでそんな顔するんです」
大家はしばらく黙った。そして言った。
「あの提灯な、名前が変わるんや」
美沙は笑った。笑うしかなかった。
「何それ」
「毎年やない。何年かに一遍」
「誰の名前になるんです」
大家は答えなかった。
「誰の名前になるんですか」
「この町から出ていく人や」
その夜、美沙は仕事を休んだ。荷物をまとめた。こんな町、出ればいい。京都にも未練はない。映画も諦めた。男もいない。明日の朝、一番で実家へ帰る。そう決めると、不思議なくらい気持ちが軽くなった。午前零時を回ったころだった。外で子どもの声がした。
数を数えている。
「……九十九」
「ひゃく」
「ひゃくいち」
美沙はカーテンを開けた。路地に子どもたちが座っていた。地蔵盆は昨日終わったはずだった。十人ほどの子どもが輪になって、大きな数珠を回している。顔は暗くて見えない。
「ひゃくろく」
「ひゃくなな」
そして、
「ひゃくはち」
数珠が止まった。大きな房を持っていた子どもが立ち上がった。ゆっくり、美沙の部屋を見上げた。その子だけ、顔がなかった。美沙はカーテンを閉めた。
玄関で音がした。
ごろり。
ごろり。
ごろり。
昨日より近い。そして、
こん。
こん。
こん。
誰かが戸を叩いた。美沙は動けなかった。外から女の声がした。
「お菓子、もろてへん」
幼い声だった。美沙は息を殺した。
「うちのぶん」
こん。
「うちの提灯」
こん。
「返して」
美沙は玄関から後ずさった。そのときスマートフォンが鳴った。去年別れた男からだった。震える手で出た。
「もしもし」
男はしばらく黙っていた。それから言った。
「変なこと聞くけど」
「何」
「お前、京都にまだおる?」
「おるけど」
「今日、娘がきた」
美沙は息を止めた。男には妻との間に、小学生の娘がいた。
「娘がどうしたん」
「地蔵盆でもらったって、赤い提灯持って帰ってきた」
美沙は玄関を見た。ノックが止まった。電話の向こうで男が言った。
「そこに、お前の名前が書いてある」
その瞬間、美沙には分かった。自分の名前ではない。
あの提灯に書かれていたのは、母親の名前だったのだ。
玄関の向こうで、子どもが笑った。
「見つけた」
美沙は逃げた。裸足のまま裏口から路地へ飛び出した。夜の京都を走った。御池まで出ればタクシーがいる。大通りまで出れば大丈夫だ。そう思って角を曲がった。地蔵盆だった。
次の町内も。その次の町内も。赤い提灯が灯っていた。
どの提灯にも、
美沙
と書かれていた。
何十個。
何百個。
京都中の路地が、彼女の名前で赤く染まっていた。その向こうから、子どもたちが数珠を回す音が近づいてくる。
ごろり。
ごろり。
ごろり。
美沙は走るのをやめた。そして初めて泣いた。男に捨てられた夜にも泣かなかった。病院から一人で帰った日にも泣かなかった。映画を諦めた日にも泣かなかった。それなのに、いまになって涙が止まらなかった。
「ごめん」
誰に謝っているのか、自分でも分からなかった。すると、町じゅうの提灯が一斉に消えた。
暗闇の中で、ひとつだけ灯りが残った。そこにはもう、美沙の名前はなかった。小さな女の子の名前が書かれていた。美沙は、その名前を知らなかった。
けれど、なぜか読めた。
自分が昔、いつか娘が生まれたら付けようと思っていた名前だった。
朝になった。町内の人たちが地蔵盆の片づけに出てきた。美沙の姿はなかった。アパートも空だった。
大家は、
「実家へ帰ったんやろ」
と言った。
それで話は終わった。ただ、その年から町内では妙なことが起きるようになった。地蔵盆になると、誰が用意したわけでもない赤い提灯が一つ増える。そこには毎年、違う若い女の名前が書かれている。結婚するはずだった女。母親になるはずだった女。何者かになるはずだった女。
京都には、叶った願いを守るお地蔵さんだけがいるのではない。
叶わなかった願いも、ちゃんと覚えている。
だから八月の終わり、知らない町の地蔵盆で自分の名前を見つけても、声を出してはいけない。
まして、
「これ、誰の提灯ですか」
などと聞いてはいけない。
京都の人が答えてくれない質問には、たいてい、答えないほうがいい理由がある。
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