ハイブリッド教育論【日本人の90%は英語が話せなくて良い】
ハイブリッド教育論【日本人の90%は英語が話せなくて良い】
(あらすじ)
現在多くの人が困惑している日本の教育について答える小論です。世界的にみて日本の受験勉強はどのように優れているか、題名の通り、英会話は必要かなどについて論じます。作者は長期留学経験と40年以上の英語・小論文教授経験があり、現在も現役です。移民問題に揺れる世論にも答えます。まとめていうと、現在まで批判されてきた日本の教育は実はかなりうまく機能してきた。それを近視眼的思い付きで改悪しないことが大切だという内容です。この種の論は部分的には語られていますが、一つの視点からまとめられたものは少ないように思われます。本作は最終的には、なぜ芸術哲学が必要か、なぜ義務教育に芸術養育が必要かという問いにつながります。
【はじめに 「ハイブリッド文化論」とは】
「ハイブリッド文化論」は言葉や数字の論理では割り切れない価値観を論じてみる様々な文化論の総称です。今までの思考体系と新たな論理体系とを融合させたいという想いからつけられました。
今回は第一部部分の「教育論」です。「ハイブリッド」という言葉には単に東西の違いという意味だけではなく、今までの思考体系と新たな論理体系とを融合させたいという想いを込めています。できるかぎり一貫して、言葉と論理、そして何よりも常識(良識)だけで理解していただけるように努めたいと思います。
第一部 教育論
第一章 英語教育論【日本人の90%は英語が話せなくて良い】
【日本人の90%は英語が話せなくて良い】
私は英語講師をしていて、英語を教え、英会話の指導もするが、日本人の90%は英語が話せるようにならなくて良いと思っている。「では、なぜおまえは英語を教えているのか」ときかれそうだが、私は私たちがどんなに頑張って教えても、日本人の80%以上は英語が話せるようにならないと、当座のところ、考えている。それは諦めでもなければ、したたかな商業主義でもない。英語が話せるようにならないことが日本の文化の長所であり、日本人の卓越した能力でもあるからだ。その一方で、個人的には私が教えている生徒たちは英語が話せるようになるというかなりの自信もある。
あるフィリピン人留学生が私に訊いた。「先生、日本人が英語が話せるようにならないのは、国策ですよね」 彼は純粋に日本の文化と教育環境に憧れ、マンガの大好きな若者だ。この発言は、私たち日本人にとっては「何をおっしゃる!」という気持ちである。
「どうして、そう思うの?日本人学生が英語習得に苦しんでいるのはよく知っているよね?」
「いえ、日本人は頭が良いから。」
「いや、本当に英語はできないんだよ」
「でも、おかしいですね。たとえば、僕の姉は英語がペラペラだけれど、結果、アメリカの大企業の電話受付の仕事をやってます。日本人はこの状況を回避してるんですよね」
フィリピンはタガログ語だけでは高校の数学も学ぶことができないという。英語だけできても他の国に利用されるだけだという。現在、日本人のほとんどが外国人を前に何らかの外国語で意志疎通をすることができず、そのことに劣等感すら抱いている。そして、「外人さんがきたのだから何かもてなしてあげなくては」と、懸命にジェスチャーでフォローしようとする。私はそれは素晴らしい文化の状態だと考えている。 日本における最大のバリアともいえるものは、おそらく四方が海に囲まれていることだが、そして第二にそれは言語が独自的であることだ。日本語は非常に難しい言語であるため、そのために逆にずっと習得がやさしいはずの、たとえば英語のような他言語が習得できないというパラドックスが生じる。(これについては次章以降に詳しくのべる。)すると他の国の文化は容易に国内に入ってこられなくなる。これは文化を守るという点では、軍事力や経済力より強力な防衛力である。
昔こんなコマーシャルがあった。たしか英語の学校か教材の宣伝だったと思う。ーーある若者が海外で恋人へ花束を買おうとする。しかし彼は英語ができないので買うことができない。しかし、その学校に通って英語を習得したパラレルワールドのもう一人の彼は、難なく買い物を済ませ、恋人にプロポーズをするーー、という話である。皆さんはこれを見てどう思うだろうか?「そうか、英語は大切なんだ」などと思う必要はない。これは英語圏の人間が自分達のモノやサービスを純朴な日本人に効率良く売るためのワナのようなものである。どうしてこちらが製品を買ってあげるのにこちらが努力をしなければいけないのだろうか。 それでは、二つの言語が同等にできればそれで良いのではないかと考える向きもあるかもしれないが、それも難しい。通常一つの閉じた文化や先進国家の中で二つ以上の別系列の言語が自発的に栄えることはない。ーー片方の言語が栄えればもう一方が衰退する。死語になるのだ。
一つの言語においてだけでも、徐々に「言葉が衰退する」という例は当たり前に多発する。それを私たちは「ああ、日本語の廃退!」と嘆きたくなる。しかしそれは、何はともあれ効率化をともなっている。たとえば、若者言葉で「ヤバい」という表現が増えて久しいが、しかしこれは言語の一部を淘汰したのではなく、時流にあわせて合理化がされた可能性が高い。
しかし、別言語がそこに存在する場合は別だ。より短絡的な、そしてより外圧に由来する言語にとって替わる可能性が高い。日本に日本語と英語が並立する可能性は低いのである。ということは、未来の日本社会は、英語に乗っ取られるか、今まで通り日本語で行くか、それとも、日本語スピーカーと英語スピーカーとで国が分断されるかしかないのである。仮に日本の文化と歴史が極度に浅く、他国に占領されている時代が長いといった場合であればまた話は難しくなってくるかもしれない。しかし、日本は世界で最も古い王国であり、国際的な基準でも数々の成果をあげてきた。わざわざ「改悪」をする必要はないのである。その意味で、私は、日本人の90%は英語が話せなくても良いと考えている。90%の日本人は日本語文化の中ですべてを考え行動していただきたい。そして海外から人が来る度に「外人さんをもてなさなくては」と慌て、職場では「これからは英語ができなければダメだと痛感した」と感じ入っていただきたい。それはなるべく長い期間の方が良い。日本文化が徐々に英語を取り入れてゆくその時間を稼ぎたいのだ。日本が表記言語として中国から漢字を吸収し自分達のものとするまでに200年ほどはかかっただろうか。その後かな文字ができて、日本の言語形態の基礎がおそらくは平安時代に確立した。英語については私たちはその過程の真っ只中にいる。時間がかかって当然だし、かかればかかるほど良いのだ。一方、残りのわずか10%ほどの人々が外国語に熟達し、この日本の貴重で純粋な文化と、時には雑多な他の国の文化とを、合理的に繋ぐ橋渡しをしてほしい。それは人が想像しているほど気持ちの良いことではないかもしれない。気持ちが良いと感じるのは学生レベルであり、国際人として海外に立てばその苦さは自ずとわかるであろう。
「日本人の90%は英語が話せなくて良い」というのはすなわち、文化的バリアとして日本の文化や経済や政治を守るために必須であるということである。海外言語と文化を取り入れるということは、私たちが一般に妄想しているように都合よく良いとこ取りをできるものではない。近年の移民・難民問題でもわかる通り、世界は、とりわけ日本はこうしたグローバリズムとは相性が悪いのである。
【仮想リスペクト対象の重要性】
私たち日本人は、外国文化に対する高いリスペクトを持ち、それゆえに勤勉にここまでの発展を遂げてきた。そのリスペクトとは、より高い次元の文化や知識の源を仮想的に設定しそれに挑むという勉学の態度である。実のところ、現実にはその先の文化や国家は廃退しているかもしれない。たとえば、漢字を取り入れ、唐の都にならって平安京を作ったときには、既に唐自体は荒廃し遣唐使も廃止になっていた。リスペクトの先にあるのは必ずしも現実のその対象とはかぎらない。それより何よりも大切なのは、学んでいる自分が目指すもう一つの自分の姿なのである。
その意味で、私は日本語の「先生」という言葉は素晴らしい日本語の財産だと思っている。その先生が立派な人かどうかに関係なく、教わっている相手を「先生」という立場でとらえることによって、勉学の態度が定まるからである。その意味で、現実に教師を「先生」としてリスペクトできない生徒は勉学に対する態度ができていない、または非常に独自的な習得姿勢をとっているということになる。
アメリカでは高校教師は「ミスター」「ミズ」で呼ばれる。先生という言葉はない。大学であれば「プロフェッサー」と呼ばれたりするが、これは社会的地位への呼称であり、「先生」のような、学生から見た教員との立ち位置を表す呼称ではない。アメリカの場合は、かつてモンスター・ペアレント(あちらでは『ヘリコプター・ペアレント』と言われる)が、最初に大量発生したときに、そのクレームに学校側は簡単に屈し、保護者たちのクレームのままに教員の言い分満足にきかずに首を切った。こうして学校教員はいつでも解雇されうる状況に追い込まれ、それは現在まで続いている。教員は反抗期の子供たちの顔色を伺わなくてはならず、結果、教師の地位は下がり、現在でもアメリカで高校教師と言ったらブルーカラーの労働者階級的扱いであるし、大学教授ですらも必ずしも名誉というばかりではなく「変わり者」というイメージがある。アメリカ留学時代、私の尊敬する先生は金銭的に貧しくトレーラーハウスに住んでいたのを思い出す。一人一人の教師の尊厳の問題はさておいても、仮想リスペクトの対象がいない学習というものは、大変効率が悪いと感じさせる。 かつてテレビで「金八先生」といった学園ドラマが流行したが、これらも日本の仮想リスペクト文化の表れである。「そんな先生はいない」「私の先生は人間として酷い人だった」と言った意見が出るが、それも「そんな先生がいたら良いのになぁ」という願望の裏返しであり、このようなドラマが人気を博すということは日本の教育文化が成熟しているということである。もちろんこれは、日本の教師の実態に問題がないかどうかという問題とは別次元の話である。
視線を転ずると、たとえば、JAXA が小惑星イトカワに探査機HAYABUSA がすべての科学者が諦めてしまうような絶望的な状況から奇跡の成功を収めたことは今も語られているが、このような偉業も、決して高度な技術のみで達成されたものではない。真実に対する高いリスペクトの姿勢こそが達成させたのである。
【どうして日本人は英語が苦手か】
どうして日本人が英語がいつまでも苦手なのかという議論は尽きず、実際文科省は無策と言われそうな方策ばかりを行っている。
たとえば、実際にかなり前から、小学校へのネイティブ教師の派遣を文科省は行った。そのため、何も知らない小学生の英語への夢を絶ち、劣等感を植え付ける結果となった。40人のクラスに1人のネイティブが来たら、みんながその人に親しんで英語への抵抗が少なくなると考えたのだろうか。皆さんの幼少期を思い出していただきたい。小学校は、豊かな集いの場であると同時に、競争、劣等感、いじめの渦巻く場である。誰かたまたまうまくやる生徒に教師が集中すれば、他の子は劣等感と疎外感の底へと突き落とされる。小学校では必ず1人や2人はたまたま英語ができる子がいるものだ。その子達は得意気にクラスメートたちの中でリードをとる。本来そういう子達はすでにネイティブと触れ合わなくてもやっていけるだろう。それよりも劣等感疎外感を抱きがちな子供たちをサポートしなければいけないはずだ。ところがおずおずとした子達は人生の最初にこうして英語への疎外感を持たされるのである。私の家族は長く英語教室を開いていたが、この方策が施行され直後から「英語は嫌い!」という小学生が激増した。悩んで英語塾に駆け込んできてくれるような子はまだ良いのである。多くの小学生はそれすらせずに劣等感の中に埋没することになる。
英語という分野は日本人が今まで培ってきた思考論理のレトリックのほとんどがまったく使えない。
また次のようなケースも多い。特に親御さんたちがあまり勉強が好きでないが金銭的に豊かな場合に多いが、まだ小さな子供にネイティブ講師を家庭教師として雇う場合である。または企業などでネイティブだけによる授業を組む場合なども同じである。このような場合だいたい半年ぐらいのうちに「やっぱりネイティブ講師ではダメだから日本人講師にたのみたい」となり、私たち日本人講師がお手伝いすることになる。今の大人の中でも「小さい時にうちにはアメリカ人のお姉さんが来ていた」と思い出す人は時たまいる。「どうでしたか?」と聞くと「言葉がわからなかったので何にも覚えていない。事実今聞かれるまで忘れていたし、その後学校で英語もできなかった」というのが一般的である。ネイティブの先生が無力なのではない。子供は親や家族の繋がりから情報を得る。ただ子供にネイティブ講師をあてがって、親が関わりもしないというのでは、ただ米と水を混ぜてシャカシャカ振れば、ふっくらご飯が出来上がると思っているのと同じである。
【日本人英語習得のメカニズム】
では、なぜこれほどまでに、一般に考えられている教育法が英語においてはうまく機能しないのであろうか。これは実は教育法以前の問題が大きい。まず、二つの独立した問題がある。
一、日本人の言語学習法は、根本的に「翻訳的」であり、「通訳的」ではない。
二、そもそも英語で話すときのような態度自体が日本人はできていない(英語と英会話は別である)
【「翻訳の壁」について】
日本人の言語学習法は根本的に「翻訳的」であり、「通訳的」ではない。
これは、単純に「では、教育法を変えてみよう」という問題ではなく、日本人が日本文化ゆえにたどり着いてしまったかたちである。
日本語はいまや世界の先進国では珍しい言語構造を持っている。言語の文字には、「表音文字」と「表意文字(表語文字)」とに分けられるが、その二つの間を激しく行き来するのが日本語である。それに比べ世界のほとんどの言葉は「表音文字」によっている。英語のアルファベットもその他の言語もみなそうである。
表音文字ーーーひらがな、カタカナ、アルファベット
↑
↓
表語文字ーーー漢字
このような構造を持つため、日本人は幼少期におそらく他の民族よりずっと努力して日本語を習得している。一つの言葉を音で覚えたときにすぐにその漢字を想像して話している。たとえば、「はし」という音を喋る時、それが「橋」なのか「箸」なのかなどを素早く想定しながら話しているのだ。こんな言語は他に滅多にない。したがって、英語でたとえば"end "という単語(「端」と「目的」という意味がある)を聞いたときにも、表音文字文化の人々は「翻訳の壁」に当たらずに習得できる。しかし日本人は言語は一度翻訳して「書かれた言語」として記憶しないと再生産できない。ここで問題なのは"end"という言葉に二つの意味があるからということではない。日本人が、言語が音声だけで存在しうるということを前提にしていないということである。
他のほとんどの言語が「話し言葉(音声)」だけで成立しているのに対し、日本語は「書き言葉(文字)」で成立している。この日本人の既に脳内に成立してしまった高度な言語プロセスシステムにとって、表音文字だけの言語というのはあまりに情報量が少ないのである。日本人講師にには他の言語が日本語より単純な構造で成立しているということがわからない。
表 英 l翻l 表
音 他国の 語 l訳l ←日本人 意
文 学習者→ の lのl 学習者 文
字 世 l壁l 字
界
この「翻訳の壁」をスルーできるのはわずかに外来語でそれが二言語間で同じ意味を表す場合だけである。「アイディア=idea」や「ギター=guitar」や「ラブレター=love letter」などである。
これはあなたの素の感覚で考えていただきたい。仮にあなたが英語があまり得意でない日本人だとして、あなたはあのアルファベットの羅列である英語を今話している日本語とまったく同じ感覚で親和感をもって話せると想像できるだろうかーーおそらく否であろう。(実はそれは日本語のない所に行けば、簡単にできる。)それは高度に複雑した(文字表記、文化日本、歴史と密接に結び付いた)日本語システムの側からすると、こんな英語のような音声言語だけで、自分の認識を納得させることなどできっこないと思わせるからである。
毎年、受験の直前になると講師室には必ず駆け込んでくる生徒がいる。よく勉強し合格にリーチがかかっている生徒である。彼らは必ず「先生、大変です。英語がまったくわからなくなりました。頭が真っ白です!」と。これは英語学習の完成の一歩手前の状態である。彼らの頭の中で、あまりに熱心に英語を勉強したせいで、音声言語としての英語情報が、自律的に日本語抜きで英語を認識し操れるシステムを作ってしまい、それを客観視した瞬間、あたかも自分の頭の中に無意味な英語の語群が存在し、勝手にうごめいているような錯覚に陥っているということである。これは通常は一瞬の印象の問題であり、すぐにもとに戻る。
私たちは、英語が英語だけで存在しているという感触がつかみにくい。これをいとも簡単に解決してくれるのが高校までの交換留学である。英語を話している空間に行くことが大事なのではない。日本語がまったく存在していない環境を体験することが大切なのである。そのため、大人になってから仕事の合間に観光で海外に何度も行き英語で買い物もできるという人よりも、小学校の時に親の都合で海外に一年以上行き、まだ小さかったのでほとんど英語を習得せずに帰ってきた人の方が、英語の最終的な習得率はずっと高いという実態になっている。たったこれだけのことで英語は話せるようになるのである。
【英会話のためには日本人を捨てる必要がある】
そもそも英語で話す時のような態度・姿勢自体が、日本人ができていない(英語と英会話は別である)
つまり、日本人の相手と共感し相手の心を読む会話態度自体が、他の言語にはほぼない。これは他の民族が人の心を読めないとかという話ではない。言葉の一つ一つを使うときに別の人格にならなければならないほどに日本と他の文化では違うということである。
現在の日本人の英語学習は英語をできるようになろうとしているのではない。アメリカ人になろうとしているのである。それがネイティブ全般からは奇異にみえる。「カッコつけてないで中国の人のように彼ら一流のベタな自国語訛りの英語を話せば良いじゃないか」というのも一つの考えである。しかし、ことはそんなに簡単ではない。日本人が日本語を話すということ自体の中に、謙譲語など、相手との関係性を意識しながら話す態度が組み込まれている。つまり、日本語を話すということは、ただ音声を発しさえすれば良いという問題ではなく、自分の感情やアイデンティティーまで関わって、表現しなければいけないということである。そして、日本人にとって英語を話すということは、こうした会話の態度に関わる様々なしがらみをすべて作り直すことでもある。
私も、英語を話すときにふと気がつくことがある。高校生の時の自分に意識が戻っているのだ。英語を話すときにどこか高校留学時代に心が里帰りしていてそこから時を経たもう一人の自分が英語を話しているという意識である。その意味では、英語を話すということはもう一人の人格を想定することである。であるから、一般に日本人は英語を話すときに本能的にアメリカ人になってみようとするのであって、カッコつけているとは限らない。むしろそのような学習態度は言語学習の初歩において大変有効である。
【国際人】
一方、アメリカ人になろうとしない英語学習態度というのはどういうものであろうか?これはアメリカであれ他の国であれ、他国に留学すれば自動的にできる。アメリカ人のようになりたいという幻想はアメリカに住み現実を知れば自動的に霧散する。しかしながら、文化へのリスペクトという意味では、他国の人間のことを何でも真似してみたいという時期は大切かもしれない。かつて日本人が唐の都に憧れ平安京を作ったようなものである。リスペクトは真の学習態度を生むのである。どの国にも文化として憧れられるものは多くある。これらに集中するのは、先の「翻訳的」態度かもしれないが、それは日本人の意識の中で豊かな精神態度を育てる。一方で、英語習得が仕事において重要な場合はそんな悠長なことは言っていられない。
日本人としての英会話者はつまり、真の国際人になるということでもある。私は留学から帰ってきた学生を扱う立場にあるが、どんなに流暢に英語が話せても彼らはその時点では「帰国生」にすぎない。留学生は海外であくまで保護される存在であり子供であり、親善大使であり、お客さんである。一対一の大人として他国の人と渡り合う存在ではない。彼らの体験はあくまで「アメリカではこうだったよ」という伝達者の域を出ず、国際社会での責任を持ち得ない。それどころか利用される可能性の方が高い。
この意味で、海外を個人的に行ったり来たりしている無名ミュージシャンや海外進出を目論んでいるお笑い芸人らは外国語学習において非常に不遇な立ち位置にある。彼らはある意味では個性的な特権的な立場に立っているようでいて、実は一個の国際人としては、相手にされていないかもしれない。同じ経済体系を持っていないし、交渉や取引の関係性もない。すなわちずっと留学生の立場にいることになる。世界を放浪するアーティストの多くは(決して全部ではない)は、すぐに現地の人間と仲良くなり「世界は一つだ」と主張する。それが言えるのは彼らが相手にされていないからだ。そのことに大抵気がついていない。
以前日本のお笑い芸人の中には(これも決して全員ではない)、ヨーロッパでスタンドアップ・コメディで日本人と他国人の違いを笑われるように演じ、自分が成功したと錯覚した人もいた。彼が言うには彼の国では「欧州では芸人は芸人としてリスペクトされている」ということだった。しかし、差別意識を利用した笑いなど、一種の猿回しにすぎない。動画で観客の反応を見るとわかるが、現地の有色人種の人々がいかに迷惑しているかが伝わってくる。差別の構造も知らずに、言語も十分には習得せず、きちんと相手と対峙していなければ、国際人になることはできない。
最初に述べたのは、主に「英語」の問題、 二番目の話は主に「英会話」の問題で、これは明確に別分野であるが、英語習得苦戦中の日本人の意識の中ではどろどろに溶け合っている。
【英語は中学までの単語で話せるようになるのか】
英語は中学までの単語で話せるようになる。それは当然である。それでも日本人が話せないのは、日本語表現が他文化に対峙して自己を主張する形式をほとんど持たないからである。気を遣わずに、そして翻訳的な文章構造を考えずに話せば、中学の単語だけで基本の英会話はできる。
よく、「英語の難しい問題はいいんです。せめて英会話さえできれば」という人がいるが、それは、根本的に勘違いである。本当にそれだけを思うなら、英会話は中学までの英語の力で十分なのだからそれを駆使して、自分の意識を変えて体当たりすればよい。しかし、大人の日本人はそれができない。なにか一言通じなければそれを自分のせいにし、「もっと勉強しなくては」「聞き取れなかった」と自省する。つまり「自分は英会話ができない」認定を自分でするのである。しかし、通じなかったのは、あなたが勉強不足だったからではない。単に知っている単語で言い返さなかっただけである。「パッと言葉がでなかったんです」というならそれは慣れにすぎないから、日常生活で機会を増やすだけのことだ。(そのときに日本人としてのあなたの自己認識は捨てることだ。)日本人流にたくさん勉強して知識を蓄えれば会話ができるようになるという錯覚は、その人が「翻訳の壁」と格闘しているだけである。また、聞いた音がたとえば"water"なら「ウォーター」でなく「ワラー」だったというのも、日本人流の発音が書かれている通りに発音すれば通じるはずだとする、書き言語文化の民族の発想である。書いてある言葉をモジモジと下を向いて話しても通じると考えるからである。
一方、日本人は日本人同士でも「間違った日本語を使うと教養が疑われる」と考える人は多い。これは、日本文化の中の日本人の大変な美徳だが、そのあなたのアイデンティティーを変えたくないのなら、頑張って勉強して、あなたの日本語力相応の英語の知識を備えて、「翻訳の壁」をも乗り越える必要がある。
逆に考えれば、大学受験レベルの英語を経験した人はみな、英語の教養は十分にあるとも言えるのである。ただそれは、話し言葉文化の他国では大抵無意味に映るかもしれないし、こうした日本人の側でも、ばかに素直に自分は英語ができないと認めてしまうのである。
【受験英語ばかりやっているからいけないのか】
日本の高校の英語はたしかに競争のための記憶という側面はあるに違いない。それでも実際には、勉強したぶんだけ英語はできるようになっているのだが、実際に会話に使えないから「できない」と自省しているだけである。書き英語の場合はそのまま使えば難なく通じる。たとえば、理工系の学生の論文などはある意味英語の翻訳は難しくない。専門用語によって共有しやすい概念や言い方が多いからだ。相手に気を遣うこともない。単に率直にこちらの日本語の思考論理で話せば通じるのだ。また、しばしばみられる光景だが、英語は「ほとんどできない」と自称する人が自分の欲しい商品を海外のサイトから買うときなども同様に難なくこなしている。これらは受験英語だけで十分にできている。なぜなら、これらはこちらが相手に表現したり要求したりしているものが自分の頭の中で具体的に想像できているので、「翻訳の壁」にぶつかることなく、目的に達することができるからだ。
【日本の英語教育は良くできている】
「文法偏重教育がいけない」とも良く言われる。私がアメリカに初めて留学したときつくづく思ったのは「英文法の勉強をもっとしておけばよかった」ということだった。英会話などしばらく現地の空間にいればできるようになることなど、容易に想像できた。しかし、英語を構築する文法力だけは別だ。日本語では文法はあまり重んじられていない。単一文化的国家においては文法は先行せず、例外的な発音や言い回しは多い。それに対し、複数の民族が話す国際言語においては、文法こそが言語をささえる骨子である。英語は、英和辞典、和英辞典、総合文法書の三冊だけで全部が書いてある言語である。この三冊で、日本人の「たしかな学習」をしたいというニーズに応えられるのだ。また、日本の文法書、教科書は非常によくできている。教科書については突っ込みどころはないとは言わないが、英文法書の体系化された完成度は素晴らしい。疑うなら、英米の有名大学付属の出版社が出しているテキストをみてみるとよい。とても独学に耐えうるものではない。というか、日本の学生のように自分で勉強するという前提で作られていない。教師の指導とサポートによって、発音したり、問題の答えを求めたり、グループワークが前提となっている。または散漫で、一冊終えた時点で英語学習のどこまで進んだのか、とらえにくい。
「他国の英語教育は進んでいるのですぐに英語ができるようになっている。日本もそれを取り入れるべきだ」という意見もあるが、海外で英語ができる国というのは多数あるにしても、それらはみな、①母国語と英語が同じ構造や文字を持っている、または②母国語とそれに伴う文化が脆弱である場合に尽きる。常に他の国の教育制度に学ぼうとするのは良い態度だが、結果としてできあがった大人をみて、その教養水準で感心したことはどれ程あるだろうか。それよりもインターネットやテレビで流される「アメリカの◯◯大学教授が認めた画期的習得法」といった飾り文句が跋扈する。昔ならオーソン・ウェルズ氏の朗読によるイングリッシュ・アドベンチャー、最近ならスピード・ラーニングがその例だが、それで話せるようになった人はどれだけいるのか。いたのなら今も日本の英語産業に定着しているはずではないか。英語教育産業界はまさに玉石混淆である。
英会話ができない理由が日本人の内面に起因する以上、外からいかにいじっても、なかなか成果は出ないのである。しかし、日本人は真面目である。なんとか新しい方法にすがって英語をものにしようと頑張るのである。そして、メディアやファッションにまでそれは広がり、言ってみれば「楽しみながら」英語を学ぼうとしている。これは恐らく高校までの勉強文化の別の成果であろう。そしてそれを利用したさまざまな産業は百花繚乱である。
これらを総合すると、日本の学校英語教育、特にテキストやワークブック、視聴覚教材はかなり良くできていると考えられる。
【日本人は英語はできている】
この話に入る前に次のことを確認したい。立場を逆にして考えれば、海外からの観光客の中には、日本語会話だけなら非常に流暢な人は多い。日本語は会話については世界で最も易しい言語の一つである。私たち日本人は日本語の難しさをよく知っているから、「この外人さんは、日本語が話せるなんて頭が良いのね」などというが特にそんなことはない。日本語は世界で一番習得が難しい言語であり、その複雑さは文化のユニークさと歴史の長さとあい重なって、学習者の頭痛の種となっている。日本語は話すのに最も易しく、習得に最も難しい言語であるということをよくおさえておいていただきたいのである。
皆さんの中には外国に観光旅行に行って英語ができなくて困ったという体験をした人は多いであろう。しかし、その外国とはどこなのか。ほとんどが観光地ではないのか。であれば、お客さんを相手にするために多少の英語ができる人が多いのは当たり前である。では、一歩踏み込んで、南フランスの片田舎や、ノルウェーの村に行った経験があるだろうか。そこではまったく英語は通じない。それどころか、英語で話しかけられた現地の素朴な人々の、恐怖に満ちた当惑ぶりは、田舎の日本人以上のものである。あるユーチューバーの方がフランスの田舎で「ホワイト・ワイン」と言ったらまったく通じず恐れられたという体験を披露していた。日本で「ホワイト・ワイン」と言って通じない地域はあるだろうか。また、私は最初の留学から帰国した時に日本の若い女性があまりに多く「ピー(pee)」という言葉を知っていたので驚いた経験がある。日本語の優れた造語能力、外国語取り込み能力のお陰でもあるが、日本人は決して英語に疎いわけではない。むしろ世界では逆である。
アメリカの高校のスペイン語の選択授業はだいたいヒスパニック系の学生が取る。親がスペイン語を話すので大抵成績が良い。一方、単位の都合上、スペイン語には縁もゆかりもないアメリカ人学生が取る場合もある。この場合はだいたいできるようにはならない。日本人とまったく同じである。
これらの意味で、日本人は取り立てて英語ができないわけではない。むしろできる方かもしれない。ただ、日本語の完成度ゆえに、英語を使う機会がないだけである。
【「わからない」自分を捨てる】
英語教育は専門でもあるのでつい長くなってしまったが、日本人が英語ができないと認識しているのは、高度に熟成された日本語と日本文化によって、日本語以外の単位で構成されたものを認められないからだ。それはちょうど、芸術鑑賞をすべて「共感芸術」のレベルで認識しようとする立場と似ている。芸術鑑賞の領域においては日本人の態度は決して批判されるべきものではない。というのも、それ以上に日本人は勤勉で向上心があり、何よりも他文化へのリスペクトがあるからだ。しかし、現地にいけば誰もが話している言語の場合はそれはうまく行かない。日常言語に対してはリスペクトよりも優先させなければいけないものがある。それは学習者側の生活文化の希釈である。二つの言語を話す人の中には「バイリンガル」になれずに「セミリンガル」状態に苦しむ人もいる。どちらの言語も自分の母国語にできないことによって自分のアイデンティティーが作り出せなくなるのだ。そのような人は自分の存在に確信が持てず、非常に不安な人生を送っている。バイリンガルと呼ばれる人たちは必ずどちらかの国に軸足を置いているか、または日本の場合は日本人の外国人に対する大変なホスピタビリティーに甘んじているだけである。後者はたとえばインターナショナルスクールに属する明るい学生たちなどがいるが、それでもなお、彼らの一部は十分な言語的教養を持っているようには思えない。
日本人が英会話をできるようになるためには、このアイデンティティーの構築が不可避である。大仰な言い方になってしまっているが、ただ英語が好きであるというだけで簡単にできてしまう人もいれば、ずっと苦しんでいる人もいる。このことは日本人である以上どこかで一度は通過しなければいけない問題であるのかもしれない。日本文化が仮に壊滅的に壊れてしまえばこの問題はなくなるかもしれないが。
「英語がわからない」というのは、ほとんどが「日本語の意識に則るとわからない」ということである。その証拠に海外に渡り現地に馴染んだ日本人はかなり早いうちに英語をものにしているではないか。
日本文化が他国にひけをとらない以上は、どうしても私たちはわずかでも別の自分を作る必要が出てくるのだ。
第二章 一般教育論
【学校はすぐに役に立たないことを勉強するところである】
【古文漢文歴史不要論について】
古文漢文不要論は巷でも多く語られているので、ここでは私たちにとっての結論的な部分に至るアウトラインを掬いたい。私の立場としてはあとで述べる「学校は役に立たないことを勉強するところだ」というものだ。
古文漢文は実社会における重要度が低いから時間数を減らすか無くした方が良いという主張について、一つには、役に立つかどうかは問題ではないということと、もう一つには、実際におおいに役に立つということ、この二つの視点がある。
前者についての比較的発達した論は、「役に立つかどうかは問題にならない」そして「役に立つことを主張すると、要不要論に巻き込まれるから話さない方が良い」というものである。そしてそれは「学習態度を作るから」という視点で、こうした学習を肯定している。
後者はさらにあと一歩踏み込み、「役に立たない勉強というものの本質は何か」ということがある。前者における「学問の内容よりも学習の態度を作るから」というのは、一つの堅実な答えではある。しかし一方で、「要不要論を相手にしない」態度というのは実は彼らをまだ間接的に相手にしていることになるのではないか。私たちは第三者にも誠実な答えを出さなければならない。なぜならば、もし本当にそれが「学習態度を作るから」というだけであれば、その内容は何でも構わないということになりかねないからである。しかし実際には学ばれる内容は、古文漢文、歴史、芸術、その他の「少なくともその時代には真実と思われるもの」でなくてはいけない。私はその点で「学習態度を作るから」というだけでは、あとの論が苦しくなり、「教育は集団としての国家のためのものでもある」といった論に逃げざるを得なくなると思う。このような論客の問題点は、人間にとっての誠実な論理展開はできて人間の「学ぶ態度」の重要性はわかっていても、「では、そもそも人間にとって真実とはなにか」という問題に向き合っていないことになることだ。
【古文漢文の必要性は「国作りのため」であるのか】
「古文漢文教育は、憲法に基づく、集団としての国家のためのものでもあり、国作りのためのものでもある」という意見への付加的批判をしておきたい。これについては、ネット上で主張されている若い方がいたので、それを全面的に批判するのである。あくまで付け加えて言っておきたいという立場から一応解説しておくだけ自明の理だと思う方は読み飛ばしてほしい。
教育はたしかに国家主導で推進されるシステムだが、それを国家や憲法の示唆の結果、現在のように行われているとするのは、原因と理由、結果と意義の関係を正確にとらえていないと考えられる。抽象的な意味での「国家」という概念による主導なのだということは、たしかに「理由」にはなるが、現状に対する「原因」とは言いがたい。もし現状に対する原因であるなら、多くの国民が直感的に「古文漢文は必要なのでは?」と考えていることへの説明がつかない。その時に「国家と国民はそのような形で契約しているから」というのは、たしかに国民が許容しているからだと言いやすいが、これは「国民の教育の享受」という概念とは甚だ相性が悪い。この論は国家が主導しているのだから、日本人が従っているのだというイメージになりがちである。論者はそのような意味で言っているのではない。が、実際には、私たち国民の側が「なぜ?」と問いかけるときには、良い答えではない。
実際には国家の思想とは関係ないところで私たち一人一人の多くが古文漢文を必要だと感じているから、現状多くの人々が学校で仮に嫌々ながらだったとしても学んでいるという事実がある。国家のもくろみがひとつの「理由」だとしても専制国家でないかぎり、私たち全員が意識して「理由」として納得できるものではない。その意味では結果に対する一種の「原因」にすぎなくなる。そして同時にこれは決定的「原因」にも「結果」にもなりえない。なぜなら私たちがここで問いかけている「なぜ古文漢文が必要なのか」という問いは、より明晰な、人間の本質に根差した「理由」を必要としているからだ。つまり私たちは今「古文漢文を勉強させられている」という結果を認識しているが、それを「意義」としてもう一度とらえ直そうとしているのだ。その意味で「国作りに役立つから」という意見は答えにならない。
民主主義国家であれば私たちには、国の教育方針に従う義務とそれに疑問を持つ権利がある。であるから、この元々の意見は、この二者の間の「不思議」に答えていない。すべての学習者はすでに古文漢文の学習のシステムには潜在的に納得し選択している。その上で問いかけているのだ。多くの古文漢文教育はに否定的な人々も「たぶん古文漢文はなくならないだろう」という推測ではほぼ一致している。「どうせ変わらないだろうな」という意見を持っている。その推測が当たるかどうかは別にして、私たちは自分たちが「頭のどこかで古文漢文が必要だと感じているから勉強を強いられている」という点では合意を得ているのだ。私たちはその上で、この「義務教育」というものの中に潜んでいる「不思議」を解読しようとしているだけである。だから、「古文漢文は必要だ」という意見を持っている人が「国策として国の歴史や文化への意識を持たせて国作りをするためだ」と回答することは、不十分すぎるのだ。
また、そうであれば、お隣の間違った歴史を教えている自称「民主主義国家」の人々が、論理的に自己矛盾を起こしていることに薄々気がついているという事実に、説明がつかない。自分達の種族に誇りをもつということは教養である前に本能である。それを刺激することが学問だとは言えない。彼らが純粋に国家に洗脳され、真実を見ないのなら、一部の苦しい宗教のように、自分達のドグマの中に閉じ籠り、安住できるはずではないか。それはたしかに「国作りのため」に行われたはずである。しかし、人間の知性はそこに疑問をもつ。それが日本人の古文漢文教育への「なぜ?」なのである。
【真実は勝つ】
また、私たちの知的常識の中ではまたは民主主義においては「真実は勝つ」でなければいけない。それは甘い理想論ではなく、人間が群れたときの社会学的真理である。たとえば隣国では政府による人民の統括のために、日本を仮想敵国として明らかに歴史と違った教育をしている。その国の学生たちは真面目に勉強しているのだろう。しかし、そのうちに必ずどこかおかしいところがあることに気がつき、自己矛盾に陥り、心理的にも崩壊に至る。これは単に「学ぶ態度」が形成されれば良いということではないことを如実に表している。いくら「これが真実だ」と押し付けても、人はその対象からだけ学ぶのではない。それを学び、学ぶ態度を自分なりに構成し、さらに外部の現実の「外気」と触れるうちに「気がつく」という現象が起きるからだ。そしてそれこそが人間の知性なのである。であるから、義務教育はその時代の最も確からしい「真実」に基づき学習態度を習得することで、できる限り高品質の総合基礎教育を提示しなければならない。義務教育は、学生たちが初めて社会という「外気」に触れるまでに、世界に対する最も真摯で真実を志向する知的態度を備えさせるためのものである。
【ウィキペディアの勝利】
インターネット上の百科事典「ウィキペディア」は成立当時、ほとんどの人が「数年のうちに無責任で私利私欲でコントロールされる落書きのようになるだろう」と考えていた。結果としては、現在までのところ、たしかに多くの瑕疵はあるが、それでも調べものの便利なツールとして生き残っている。
私はこれは人類の知の勝利だと思っている。世の中には善人から悪人まで、そして聖人から心卑しい人までいろいろ蠢いているが、それでも一人一人は大抵の場合自分を基準に生きている、すなわちどんな人も「自分は正義だ」と思って生きているのだ。であるから、内容が事実であるかどうかには個人の認識のレベルでは抗えない。それは人間が自分が見て感じたものを疑えないのと同じように、文字を通して、自分が事実だと思うことを見逃せない本能から来ている。それは実際には卑屈な批判の応戦だったりすることがほとんどかもしれないが、それでもなお、事実から目をそらしているばかりではないのだ。
現在のウィキペディアの姿を見れば良い。それは決して素晴らしいものではないかもしれない。一種の薄汚れた事実記録かもしれない。しかしそれでもなお、それは一定の事実と真実を表示し、現代人の知の姿を体現している。ある意味「ほら、人間の知性はこんなもんだよ」とも言わんばかりに。
【湯川秀樹の幼少期】
ノーベル賞授賞の湯川秀樹はその自伝によると、五つか六つの時祖父から漢籍の素読を強制されたという。四書、五経を意味もわからずに暗唱させられたのだ。もちろん修学前の子供にとって、苦痛以外の何物でもなく、緊張がつづけば、疲労、睡魔におそわれ、辛い時間の中で機械的に祖父の声を追っていただけだったと言っている。しかしそれでも湯川自身はこの素読をむだだとは思っていなかった。意味も分からずにはいっていった漢籍が、大きな収穫をもたらし、その後、大人の書物をよみ出す時に、文字に対する抵抗が全くなかったという。漢字に慣れる。慣れるということは怖ろしいことで、ただ祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみ、その後の読書を容易にしてくれたという。
このように一見科学とはまったく関係のない学習訓練が大きな成果を生んでいる。
この学習について、直接的には、湯川はのちにも、素粒子理論研究を老荘思想に結びつけ、素粒子世界を、荘子の「混沌寓言」の「混沌」という状態に結びつけた。
また、のちの教育研究者たちは、ここから、幼児期の素読の訓練は、吸収力がまったく違う頭をつくりさらに創造力も抜群になるのだと主張している。
しかし、これらのいずれも、のちに人間が結果から考えたものであり、人間の脳の可能性の一つの具現化されたものに過ぎない。おそらくは、漢籍素読の効用の無数の可能性の表出の一つにすぎないのだ。
【古文漢文・歴史の価値について】
古文漢文について「当時の人の発音で読んではいないではないか」という意見があった。(これもまた有名インフルエンサーの弁であるが、さすがにこの浅薄さには驚いた。)現在の学習者の誰も当時の中国語会話に興味を持ってはいない。古文漢文学習が過去の遺産をいかに自分達の言語や意識で取り込むかという作業であることすら気がつかずに主張している人が今もいるようだ。これは私には大変不思議であった。
現代の中国の留学生は、日本人が漢文を学んでいると聞いて驚く。それは最初は自分達も捨ててしまいかけている、過去の自国の遺産を隣国の日本人が熱心に学んでいることに対する素朴な驚きなのだが、次に日本の学生が「違うのよ、私たちは中国語は読めないの。ただ日本語で読み直しているだけなの」と謙遜すると、さらに驚くのである。それは日本人が他国の文化をすべて自分達のものとして吸収している姿であるからだ。
ベタな回答をすれば、古文や漢文は、現代人が遠い昔の人と感情や意見を共有できる、言わば当時の人たちの感じ方をダイレクトに味わえる、貴重なツールである。そして歴史とは、たとえば当時、知力、体力、家柄、運などすべてにおいて最強だった人物でも、失敗したり悪人になったりしてしまう、そんな貴重なサンプルを豊富にみられる知識の源である。さらにそれが日本史であれば、共感の度合いは強まり同じ日本人としての感情的理解は高まる。これこそが知的財産である。その点では、どのようなヴァーチャル・リアリティーの情報よりも貴重である。
【知識詰めこみ教育の貴重さ】
歴史に関しては、歴史的事件の年を暗記させない傾向にある。文科省の方策がいかにおろかであるか、再認識させられる。幼少期は人間が丸暗記が得意な貴重な時期である。この時期に覚えたものは、それがどのような素材であれ、事実・真実にどこか基づいたものであれば、後の考える核となる。暗記の過程で論理的脈略がないものが特に推奨される。歴史の年号などは特にうってつけである。
最近歴史的情報が根本から間違っていた、たとえば足利尊氏の風貌は別の人のものだったといった情報が出る。「では、あとで間違っていたとわかるかもしれないものを教えるのは良いのか」という問いもある。しかし、それよりも学習者が学んでいるその時代に最も真実らしいものを事実として習得すること自体に高い価値があるのである。つまり、後に「大人に騙された!」と思わない習得が大切なのである。
それにそもそも科学も法学も「あとで間違っていることがわかるかもしれないもの」であることに変わりはない。科学は「反証可能性」が一つの定義ではないか。それを「イイクニ作ろう鎌倉幕府というのは間違っていたんだよね。だから歴史など、、、」と言った視点がいかに愚かであるか猛省されたい。もし後で間違っている可能性のあるものを削ってしまったら、すべての人類の知的財産の価値は相対的な天秤の上に乗ることになり、真実としての価値は消える。そして、子供たちに教えることがなくなることにどうして気がつかないのか。
私たちにとっての「知」とは、その時代にできる限り誠実に追求された事実を学ぶこと、それによってその周辺の文化的状況をも含む、真実への誠実な姿勢を体感すること、そしてさらにそれらから自分にとっての「真理」に近づくこと、である。
ある人気インフルエンサーが「古文漢文教育を重視する人は馬鹿にみえる」と言っていたが、その形容はそのままご自身の自己紹介になってしまっている。古文漢文を重視しないということは一つの視点として考えて良いし、発言することも良い。しかしそこから一気に相手の知性の否定にまで行ってしまっているところは、まさに古文漢文のような分野を単純に軽視する人の知的態度だということになってしまう。何かを判断するときに、自分の守備範囲以外の分野に対する想像力が欠如し、相手の知性の否定にまでつながる態度、このような人間にならないために、私たちは一見役に立たない分野まで学び、すべての分野への知的姿勢を備えようと試みるのである。(かく言う私も人に対してこのような否定的発言をしかねないので、このインフルエンサー氏と同じ穴の狢かもしれないが。)
【学校はすぐに役に立たないことを勉強するところである】
日本の教育は役に立たないことばかり勉強させ、その結果、暗い青春を送っているというのが、一般的な日本の学校教育への批判であろう。これらのことについての根本的な理解の間違いは、学校が「すぐに役に立つ」勉強をするところだという短絡思考から来ている。実際には、少なくとも高校までは学校は「すぐに役に立たないこと」を勉強するところである。
ではなぜすぐに役立つ学習を中心にすべきではないか。役に立つ情報はすぐに古くなるからだ。すぐに役に立つ情報は、現在の現実と大きな「接点」を持っている。いわば科学理論における「実用化」の概念である。その接点は、背後にある思想や論理が現代という現実の中で具現化されたものである。30年前ならワープロ、20年前ならパソコン入力、10年前ならスマホ、現在なら様々なSNS などがそれにあたるのだろうが、これらはすぐに古いツールになるのである。
事実、どうして大人たちは、最新技術に疎くなりがちなのだろうか。彼らにだって若いときがあった。その頃は最新技術を素早く身に付け、意気揚々としていたのである。しかしながらだんだん面倒に感じて若者に頼りたくなる。加齢によって習得機能が落ちたのだろうか。それも多少はあるかもしれない。しかし主因は違う。すぐに役に立つ情報は人間の脳の中ですぐに古くなり、無用なフラグメントとして堆積するからである。あなたは、昔覚えた数字現在有効活用しているだろうか。
たとえば日本のミカンの総収穫量は2013年には約90万トンだったが2022年には約68万トンである。現在もうすぐ30歳になろうとしている人たちにとってはでは90万トンで覚えたはずだ。ではその後毎年これらの数字を勉強し直し刷新し続けているだろうか?そんな人はごく少数である。一度蓄えた情報が毎年変化すれば、それは意味の薄いものとして脳内に沈殿し、言ってみれば「面倒くさいもの(フラグメント)」化するのである。一方、不要論が唱えられる古文漢文の知識はどうであろうか。これらは人一人の知識の中でいつも変わらず、思考単位の一部を構成する。
幼少期に必要なのは、湯川秀樹にとっての漢文の朗読のように、特定の時期に意味の問題を超越して暗記し、頭の中に堅固な思考単位を作ることである。それは二十代前半までは確実に優先事項である。人は幼いときほど意味を考えずに記憶できる。その頃に人として貴重な思考の単位を蓄えるのである。その貴重な時期に、現実と結び付きの強い、時代の変遷につれて可変度の高い知識を供給するなど、教育の方法として、愚の骨頂である。
【「清き一票」のための「役に立たない知識」】
私たちが役に立たない知識を学ぶのは、私たちに平等な選挙権を持っているからでもある。選挙権は、権力の打倒のためのものではない。権力打倒は真実を求めるための態度ではなく決着をつけるための最終手段である。選挙権は本来国のために戦った戦士にしか与えられなかった。自分の命をかけて国を守ろうとした人こそが真の愛国者だという考えは現代も間違いではあるまい。しかし私たちが一定の教育を受け、戦争が日常でなくなりつつある今、選挙権は、一人一人の総合的な判断の集積に基づくものになった。一人一人の立場は違う。たとえば医者と配管工では立場は違う。しかし、配管工が配管に都合の良いだけの政治を国家に求めてもらっては困る。総合的な教養があればそれは救われる。たとえば「医者は頭のいい人たちの集まりなのだから正しい総合的な判断ができるだろう」というのも間違いである。自分が知的に自信のない人または考えたくない人が、社会的知的に優位に立つ人に判断を委ねるととんでもないことになる。2023年時点での世界はたしかに、少なくともその5年前よりはずっと酷いことになっている。
私たちが「すぐに役に立たない学習」を学校でしなければいけないのは、この総合力を持つためである。すなわち、役に立たない学習を放棄することは、いずれ戦争への道となる。放棄するのは自然界の力関係に運命を委ねている野生動物たちだけである。
【役に立たない勉強と競争原理】
人は勉学においてジレンマに陥ると大抵「こんなものを勉強して何の役に立つんだ」と言う。かつて私も人一倍疑問を持ち、学校教育からドロップアウトしがちな自分を想像した。これは、「すぐに役立たない教育内容」への問題意識と「一律的な競争原理」への疑問が混同されている。あなたはどちらに疑問を持っているのだろうか?
ここまでお読みいただいたので、おそらくは「すぐに役立たない教育」についての誤解は解けたであろう。それは義務教育の本質である。では問題なのは「一律的な競争原理」の方であろうか。では偏差値をなくせばよいのだろうか。偏差値は、得点の不平等がないように是正するためのものであり、どう見ても学習者にとっては平等で情報量が多いものである。あなたが「自分だけラッキーな抜け駆けをすることができないじゃないか」という考えの持ち主ならまた違ってくるが。
日本は小さい時から一律的な過酷な受験競争がある数少ない国である。東アジアの国に多いにしても、日本と比較してあまり成功しているようには見えない。一方、受験競争のない国というのは、小学校から高校までのどこかで、知能や学力のテストを行い、その結果によって一方的に進路が決められてしまう。機会の平等はない。であるから、若者たちはのんびりと明るい。ただ、学力を伸ばす努力の方法すら知らされない場合も多い。緊張感の少ないのんびりとした青春を謳歌しているうちに気がつけば自分は成功コースからははずされている。アメリカの田舎のプア・ホワイトの人たちなどはこの境遇が多い。しかも無駄に厄介なことに、アメリカでは日本同様「努力」が尊ばれる。これはあまりよくないコンボである。その結果、アルコール⇒薬物中毒⇒ピストル自殺というコースにまっしぐら、という可能性もある。
マイケル・サンデルの『実力も運のうち~能力主義は正義か?』によれば、たとえばフランス人の75%が「人生の成功は運だ」と考え、アメリカ人や日本人は75%が「努力だ」と答えるそうである。社会で努力が見合うのは、機会が平等な場合に限る。そのため、「機会の平等」は大変な努力を個人に強いる。そしてそれは個人の心を暗くするのである。理想論としては、人の能力は様々なのだから、各個人が人生のどこかで見切りをつければよい。しかし、事実上のドロップアウトの意識はどうしても劣等感を生むし、先にのべたような、義務教育の構造を知らないと時間を無駄にしたような気分に陥りがちである。繰り返しになるが、理想としては自分で見切りがつけられるとよい。
現在日本の大学進学率は56%位だということだ。低いと思われるかもしれないが、これは素晴らしい値である。つまり、高校までの学習が充実しているのであれば、大学進学率は低くてもよい。日本人の若者が「学業に見切りをつける」状況が用意されているということだからである。ちなみにアメリカは72%である。高校までにあまり勉強していないからというのもあるが、エリート主導の学歴的ヒエラルキーに取り込まれざるを得ないという側面がより強いのではないか。また、現在フランスでは中卒だとホームレス一択である。大卒でも一年以上ブランクがあるともう雇ってもらえない。日本人の中には一部の外国が自由に人生を選択できるパラダイスだと思っている人もいるが、はたして本当にそうなのであろうか。若者たちが「自由」を選択できるステージはどのくらい用意されているのであろうか。
【暗さは知性だが、でも、なお日本の若者は暗いではないか】
ここまででもなお、私たちは疑問をぬぐいされないであろう。なぜなら、それでもなお、暗い学生生活を送ってきた日本人は多くいるし、自殺に追い込まれた人もいる。他の国でも幼少期・若年期の悲惨は同様に見られるが、それを言っては、相対論に逃げることになり、論としては負けである。経験が少ない若者たちに、今生きているということがどれだけ幸せかということを、話したとしても、わからなくて当然である。また、何はともあれ、目の前の若者たちを救えなければ、大人たちにとっては敗北である。日本の若者が暗いのは、一見競争が激しいからのように見える。過度の競争は多くの人間を傷つけることは間違いない。しかし、私たちは、知性を蓄えるということが本質的に、大多数の人間の心に暗さをもたらすという皮肉な側面があるということを再認識しなければいけない。
【世界一幸せな国は無知な国】
現在世界で一番幸せな国はフィジーだそうである。インタビュー動画を見ても、フィジーの人々は「あなたは幸せですか」という問いに皆ほとんど即座に「幸せだ」と答える。その声と表情は嘘偽りのない心からのものだと感じさせる。しかしこの国は今過疎化が問題になっている。教育制度は薄く、今はたしかに幸せだが、未来への不安から海外へ留学や出稼ぎに出るのである。人は幸せなだけでは充足できないのだ。少なくとも現代人は自己の可能性を追求し、未来への不安を取り除かないと、落ち着かないのかもしれない。
発展途上国に行った先進国の人々は、皆現地の子供たちの明るさに驚く。こんなに貧しいのにどうしてこんなに明るくしていられるのかと。それは無知だからである。無知くらい、今の瞬間に人を幸せにするものはない。日本の子供たちはその点、宿命的に不幸である。将来のことを考えた大人たちが子供の無知を放ってはおかないからである。そうして、日本は世界でも有数の経済と物質の安定した国であり、長寿国なのである。これは他国との比較相対論ではない。人類それぞれに突きつけられている究極の二者択一なのである。
ちなみに、先の発展途上国を訪れた学生たちが、もうひとつ、必ず言う感想がある。それは「発展途上国に行って、お金があるだけが幸せなのではないということに気がついた」というものだ。こうした若者たちは、では、その国に留まって「幸せ」を享受するのかといえば、まずそうではないだろう。彼らはお金が好きで好きでたまらないので、お金がなくて楽しそうにしている他国の子供たちが不思議なのである。そして大抵の場合、こうした国々にレジャー感覚以外で行くつもりはない。ある意味、自分と彼らは違うと思っている。これは日本人の子供たちがいかに資本主義に汚れてしまっているかをよく示すものである。この言葉を吐く日本の子供たちはたしかに不幸である。しかも自分の不幸に気がついていない。そして不幸に気がついていない分だけ幸せであり、愚かであるに違いない。
【未来志向の若者は弱肉強食が大好き】
多くの若者が日本のこの苦しい受験システムに疑問を持ち、先生が上から一方的に教えるだけだと感じられる生徒と教師の距離感に疑問を持っている。海外の学校を体験してきた子供たちはみな無邪気に言う。
「あちらでは先生が生徒と同じ視線で対話するように授業が進んで、とても有意義だった」
私も嬉しくて「それは良い体験をしたね」と答える。すると次に生徒は大抵
「日本もそうすべきだと思いませんか」と聞く。
そんなとき私は、講師室に遊びに来た卒業生(先の生徒の先輩に当たる子たち)が言っていたことを伝える。
「君の就職先の職場環境はどうですか?」
「私は英語も表計算も、会社のおじさんたちよりずっとできるのにお茶汲みばかりなんです。あの人たちが高給取ってて私が安月給なのは納得がいきません。その人たちがいない方がはかどるのに」
私は「実社会は複雑なんだよね」と同情する。
この話をしたあとに、私は先の受験生たちに聞くと、「まったく先輩のいう通りですね」と頷く。
私はそこで彼らに言う。
「君たちは今競争に勝ち抜いた先輩たちに共感し、自分達については競争は良くないと言っていることになるよ。それは自分が勝っていたら弱者をくじき、自分達の先が見えないと競争を嫌う、ある種の残酷な態度ではないのかな」
逆に受験戦争のない文明国では、社会に出れば完全に実力主義である。弱者は否応なしに切り捨てられる。そちらが良いのだろうか。それは一握りの勝者だけである。これを社会的格差と呼ぶ。
自信のある未来志向の若者は無邪気に弱肉強食社会を選ぶ。それは格闘技のファイターがみな「自分が世界一強い」と信じてリングに上がる姿にも似て、眩しいものである。しかし、日本の大人たちはそんな無責任な思想は許しきれない。厳しい競争社会があるのなら、体力のある若いうちに学校という安全な環境で体感してもらい、大人になったら比較的安定した環境で私利私欲にとらわれずに働くというのも良いのではないか。高校まであまり競争をさせずに社会に送り出したら決して偏差値や素行点だけでは済まされない、騙し合いと犯罪ギリギリの行為まで混じった競争社会に放り出すということが全面的に良いのだろうか。
【日本と欧米のクラス授業の比較】
先の、なぜ、安易に日本式の授業システムを捨て、他国の授業システムを採用するべきではないかについて少し説明しておきたい。まずは世界から注目されている基礎教育(雑巾がけ、クラス担任制度、部活など)の貴重さはもちろんであるが、中卒であれ大卒であれ、果たして社会に送り出したときにどのような差が生じているだろうか。
アメリカの番組で、道行く人に世界地図を見せ「どれかひとつでも良いから、地図を指して国名を言ってください」というクイズを出す特集番組があった。その番組の場合はたった1人の(おそらく仕込みの)少年以外は誰も一国も答えられなかった。中には自国のアラスカを指して「グリーンランド」と言った人もいたが、大半が適当なところを指して「アフリカ!」というだけで、「それは国に名前ではありませんよ」と言われていた。これは決してスラム街で行われたわけではない。かなり上品な服装の人々だった。自国と他国の区別もつかない、そのような人たちが「日本はこうすべきよ」と上から目線で言うのである。ヨーロッパでは、「世界史」と言ったらほぼヨーロッパ圏の歴史だけである。それが彼らの「世界」である。フランスの場合なら世界史では日本については「被爆国」というだけしか出ない。日本人に「世界史についてなにか知っていることを教えてください」と聞けば大抵の人が「私は世界史はほとんど知りません」と恥ずかしさを隠しながら言うであろう。それは日本人がかなりの量の世界史の知識を知っているということである。日本人は少なくともナポレオンもバイキングもリンカーンの名前も知っている。人は専門外の知識については勉強した人ほど「なにも知らない」と言い、勉強していない人ほど大風呂敷を広げ「知っている」というものなのである。そのような知識水準で、教師たちと「同じ目線」で語り自己主張をするとどのような社会ができあがるか、考えた方が良い。日本人学生は自分の意見を堂々と言わないというのはたしかに本当であるが、難民対策、CO2問題、電気自動車など、よく調べないうちに理念的自己主張を繰り返す気質を許す教育のために、欧米が自分達自身をどれ程滅茶苦茶にしてきたか考えた方が良いのではないか。
【居場所】
自殺率の高さの理由は、北欧では日照率、中央アフリカでは貧困、という具合に国や文化によって変わる。日本の場合は、何だろうか。もちろん一つの理由に断ずることはできないが、一番大きな問題は「孤立化」であると思われる。
テレビなどの大手メディアでは、子供が自殺したというとすぐにいじめの問題を取り上げるが、それは一因に過ぎない。なぜなら多かれ少なかれどの国にもいじめはあるし、しかも他の国の場合、日本人が体験したことのない「差別」という問題もある。日本は差別は非常に少ない国である。(そのことは海外に一年以上過ごした日本人とだけ語りたい。)しかし、その分だけ日本に自殺が少ないわけでもない。いじめにせよそれ以外の原因にせよ、自殺の理由は何であろうか。それは逃げ場がなくなることであり「孤立化」である。
一つには、子供たちにとって学校と学校に通わせている核家族の両親だけの環境が逃げ場をなくすということである。
もう一つには、日本という国全体をみたときに、先の偏差値に象徴される平等で一律化された価値基準が頭に刷り込まれることによって、自分の居場所がなくなることである。
たとえばあなたの職場の人たち十人があなたと同じ能力を持っているがただあなたを除いてはマシーンのようにミスだけはおかさない人たちだったとしよう。そしてあなたはその個性からたまたまつまらないミスをしてしまったとしよう。その場合、同僚たちはあなたをそのちっぽけなミスのために居場所がなくなるほど批判の目を向けるだろう。もしそのときに誰かが「わかるわぁ、私も前に同じミスをしたのよ」と言ってくれればそれだけで緊張は溶解する。「居場所」というものはその人の失敗も含めてまるごと受け入れてくれる場所である。それは、あなたのおばあちゃん、学校の保健室、教会の懺悔室という場合もあるが、現代においてはそれが得られにくい。これは現代の非婚率の高さにもいえる。現在は「婚活」ブームであるが、これは決して成功率が高くない。年収や年齢、将来性などで条件が決められた時点で通常男性側のプライドはズタズタになり「自分でなくてもいいのだろう」という不条理な劣等感に苛まれるからだ。
比較が人を不幸にする。一律化によって精神的孤立化が生じるのだ。これは新型コロナ禍における異常なまでの芸能人不倫バッシングなども同様で、一律化された基準を押し付けることによって、自分の精神的緊張の捌け口にしている例だ。インターネット上の炎上も同様で、ターゲットにされた人は職を失い自殺寸前まで責め立てられる。日本にはたしかにその意味で逃げ場がない。
友人のドイツ人が「日本人は素晴らしい民族だがファシストでもある」と言っていたのを思い出す。規則を守る姿勢のみを過度に重視し、それでしか人を判断しないのは、たしかに日本人の大欠点である。
自他を比較し孤立化し居場所がなくなること、これは自分や他人を自ら「選択」できると思っているからであり、人間とは「受容」するものだという視点が失われているからである。沢山のことを知ることは、選択の意識を先行させ、多くの場合、受容の力を弱まらせる。今やこれを本当の頭のよさだとは言うべきではないのだが、特に集団になるとこういう性質が知性の特徴だと錯覚するというのも事実である。そのため、「無知」こそが「幸福」を生み出すのである。そして、知識を有しながらも幸福でいられるためには、「人と自分を比較しない」という強靭な精神力が必要となってしまう。
【日本の翻訳文化について】
かつてバウムガルテンの『美学』という本を地元図書館で借りたときに驚いたことがある。「1987年世界初訳」と書いてあった。文字通り解釈すれば、このもともと古ラテン語で書かれた18世紀中頃の文献をそれ以外の言語で読んだのは日本人が初めてだということではないか。そんなことが可能な数少ない国の一つに私たちはいるのである。
明治以降日本は世界中の文献を凄まじい勢いで翻訳してきた。難解なハイデッガーの『存在と時間』など現在6種類の訳が出ている。日本人は英語が苦手な代わりに日本語として取り込むかたちで海外の学問や情報を吸収してきた。
たしかに今まではこれで十分だったのだ。それがインターネットの普及と巨大メディアの偏向報道の影響で日本の旧来の文化システムに甘んじている場合ではなくなった。テレビの衰退によって、皆に共通に翻訳されたものを見聞きしているだけでは間に合わなくなってきたのだ。結果、海外の情報はさまざまなニュースサイトの翻訳を読むことでかろうじて補われるかたちである。特に動画配信サイトでの個人の活躍など目覚ましいものがある。
私は「日本人の90%は英語が話せなくてよい」という主張を掲げているが、それは「日本人の90%は英語がわからなくてよい」という意味ではない。自分で海外ソースにあたるだけの姿勢はどうしても必要になってきている。しかしそれでもなお、このようなメディアの腐敗・劣化程度の風潮によって、日本人が日本語を疎かにする必要はないのだ。私たちはこれを補うべき過渡期にある。
【中東で採用された雑巾がけ】
日本の義務教育のユニークさは、世界で、特にアラブ諸国では注目されている。ある中東の教師が留学生として日本に来て、一年後に帰っていった。彼は母国に帰り、まず日本の雑巾がけを導入した。当初は父兄から「うちの子供に掃除をさせるのか」とクレームが殺到したそうである。しかしそれもものの数週間のことであった。子供たちが学校で雑巾がけをするようになってから、急に親の言うことを聞くようになったのだという。
雑巾がけ以外にも給食の配膳や、担任制、部活動など、他国にはない特徴が多くある。もう三十年近くも前のことだが、現地中国人の友人とチャットをしていたときのこと彼が私の話しぶりから次のような質問を怯えたようにしてきた。
「ミスター上田、その『部活』というのは本当にあるのか?」
彼は日本に来たことはないが、日本の漫画やアニメが大好きで詳しい。
「もちろんあるよ。君だって知っているじゃないか」
パソコンの向こうから彼の動揺が伝わってきた。
「いや、俺は日本の学園ものアニメは日本人が『こんなユートピアがあったらいいな』と創作したものだと思っていた。俺は高校生のとき勉強ができたから、ライバルに抜かれないように、寒い図書館で独りで受験勉強をしていた。部活、本当にそんなものがあるとは思わなかった!」
現在でも、ドイツからの留学生の日本での最初の一週間は、スマホで学校の動画をとりまくって、故郷の先生や友達に送り、「マンガと同じだったよ」と共感し合うことですぎてゆく。
これらのことからもわかるように、私たちの学校生活は、かなりユニークなものなのだ。
【非合理な校則について】
やれソックスは白に限るとか、丸刈りでなければいけないなど、学校では意味のない校則は多いかもしれない。こうした非合理的な校則の押しつけによって、おとなしくて骨のない日本人が量産されることになっている。それは事実かもしれない。
校則についていえば、これだけの弊害がありながらも私はこの非合理的なものを特別に悪いとは考えない。日本では、これを民主的に訴えて変えて行く方法はいくらでもあるからだ。学校に行かないという選択もある。この時点で、こうした悪習は、独裁的強制ではなく、変更可能な試策にすぎない。すべての教育上の試策がうまくいくとは限らない。まずい悪習も多くあるだろう。うまく行かなかったところだけを見て、本質論(「校則否定論」)にすり替えることはできない。
また、「学校教育は元々軍事教育と産業革命後の低賃金労働者の確保のために作られたので、そもそも思想からしておかしい」という意見もあるが、起源がおかしいから現代においてもおかしいとする思考こそおかしい。これは、体制の不備を批判することで、若者や心ない大人の「反抗心」を煽っていることになる。(この「反抗心」というやつは、心の暇な人にとっては蜜の味である。自分を正義と仮定し、絶対やり返してこない安全な敵に、日頃のストレスを晴らせるのだ。だから卑怯な大人たちは若者を煽るのである。)
校則を守るようにしつけられた人たちは、突出した才能の足を引っ張ることもあれば、集団活動全体の効率を著しく低下させることも多い。このような人たちの多くは、実際に規則を遵守せよと押し付けてくるのはもちろんだが、それ以上に、「規則を守る態度」を押し付けてくる。その背後には、原始人的な恐怖心か、排他心がある。であるため、この愚かで単純な本能は、権力に利用されやすい。
つまりは、見苦しい思考停止状態なのであるが、これは本当に規則の押しつけからだけ起きたのだろうか。私はそうは思わない。思考停止は頭を使わない人に等しく起きるからだ。
このような人たちに「規則を守る態度」を教えずに、先行して「自由(と称されるもの)」を与えるとどうなるだろうか。他国で結果が出ているではないか。他国で地震がおきれば、ストレスがたまれば、「自由」と称して、街のうち壊しをはじめる。私たちにはそれがなぜ「自由」なのかわからないが、恐らくは何らかの「自重」とは正反対の概念である。
先日も動画で、サンフランシスコの町並みを破壊して興奮している女性が「これがアメリカ、これが自由なのよ!」と叫んでいた。しかし、次の瞬間彼女は他の暴徒に髪をつかまれ、殴られていた。なるほど、他人の店を壊す自由もあれば、殴られる自由もあるというわけである。
規則の遵守を言葉だけで伝えることは難しい。いろいろな価値観と思考力の人間たちには、それよりも「規則を守る態度」を教えた方が早い。自由な国に住んでいればあとでいくらでも修正がきくからである。ちょうど湯川秀樹が論語を覚えたのと同じである。無駄なら直接使わなければいい。しかし、自己を律する精神は、使いこなせればどの分野でも有効である。
それよりも、現代までに複雑に文化、習慣、禁忌が絡み合いここまできた日本の環境において、まるで単純な足し算引き算が可能であるかのように「これをこうすれば良い。簡単なことだ。どうしてみんな気がつかないのだ?」と無責任に吹聴するインフルエンサーには自重願いたい。失ったものを取り戻すのは容易なことではない。
【部活動に専門アスリートはいらない】
学校の先生方の負担が大きい。教科を教える他にクラス担任、素行指導、モンスター・ペアレンツへの対応など、心身ともに休まる暇がない。その上週末まで生徒のスポーツ活動の遠征に駆り出されるのではたまらない。ということで、部活は外部の専門アスリートに委託すれば良いという意見がある。コストの問題はあるが、なによりも優秀な専門家によってその学校は県大会に出られる可能性が高くなる。教員も休めて、良い指導も受けられるから一石二鳥だという考えである。
教員の休息の問題は残るが、私はこの意見に反対である。学校は、そのスポーツに親しむ入門の場であって、運動選手養成所ではない。雇い入れられる専門アスリートも外部委託である以上成果を出そうとする。しかし、それでは「面白そうだからちょっとバスケやってみようかな」「やることがなかったけど先輩に誘われたから」といった機会とか「バレーボールやって楽しかったけど、うちら全然弱かったね」といった思い出は失われる。どうしてこの様なところまでに「競争原理」を入れようとするのだろう。すべての学校が県大会出場を目指すためにここでも頑張らなくてはいけないのか。学校は総合学習の場である。学校でのスポーツも基礎教養の一環にとどまる方が良い。
【英語は簡単だから普及しているのではない】
この世界で本当に平等な共通語を作ろうというもくろみからエスペラント語が作られた。エスペラント語は考え抜かれた、ある意味最も簡単な言語であり、今でも存続しているが、それでも決してメジャーにはなってはいない。言語を背後から支える文化がないからだ。私たちが英語を学ぶのは、一つには大国による権力と経済的関係による押し付けの結果であるが、もう一つ庶民からの視点ではたしかにアメリカやイギリスの文化的な魅力から来ている。ロック音楽やハリウッド映画他、文化に興味を持てなければ、言語習得は大成しにくいし、そもそも意味が見いだせない。その興味とは前の章でお話しした「リスペクト」であり、それは一国の文化的国力である。
学問はリスペクトがないと上達しない。会話習得は要不要論が先行する。日本人は学問好きなので、前者の視点で英語を学ぼうとする。一方、ただ話すだけなら、後者、つまり話さないと生活に困るような環境が必要である。しかしこれは日本では得られない。不可能的である。であるから、日本人学習者はリスペクト志向になる。これが先の章で説明した「翻訳の壁」を自ら作るということになる。最も知的な勉強法は、その言語の会話習得に最も不向きだということになる。しかし、日本人の堅固なリスペクトフルな習得法は決して無駄にはならない。だから日本人は挑戦を続け、いつかは漢字をモノにしたように英語を自分達のものにするだろう。
【文系・理系問題】
文系・理系の区別の問題は日本特有の文化である。多くの場合、数字の苦手な人が謙遜して「私は文系ですので」と言ったり、処世術に疎い論理家の人を「あの人は理系だからね」と受容したり摺るのにそもそも使われたはずだが状況が殺伐としてくると「これだから文系(理系)は困る」といった言い方に発展する。人間区分が分断に利用されないようき気をつけなければいけない。現代人は「あいつはバカだ」と言いたくてしょうがないのである。
一方で、よく海外の理数系の教授がTED などで楽器を弾きながら発表舞台に出てきたりすることがある。「この人もまた、『理数学者だから芸術がわからないだろう』といった偏見に対抗しているのだろうか」と思ったり、何よりも「別分野の人が軽々しく楽器を扱うのは芸術家へのリスペクトを欠いているのでは」と思ったりする。
他の国では文系・理系の区別の必要が出るほど文系が発達しなかったという言い方もできる。そしてそれが政治や経済など一部の社会では悪さを働いている。井沢元彦氏が「言霊の国、日本」といい、高橋洋一氏が「ド文系が国を滅ぼす」といったように、知識人が日本語の思考単位に縛られていることに警鐘を鳴らしている人もいる。ではそのような人たちは本当に、飛躍した打開案を持っているのだろうか。まずは彼らは目の前の問題と闘ってくださっているのである。
「本当は文系・理系の区別があるわけではなく、理数系が苦手な人と得意な人がいるだけだ」という意見もある。また「文系」の中には社会科学系と人文系があり、これは互いに近くて遠い分野である。
【理系の人は必ずしも論理思考をしていない】
よく、理系分野に携わっているから論理的思考をすると思い込んでいる人がいるが、それはむしろ逆かもしれない。なぜなら、理数系分野は既に数字によってがっちりと論理思考がずれないように設定されているので、その枠内で論理を働かせればよい。だから取り立てて論理的思考力は要らない。しかしながらJAXAの職員その他さまざまな現場の技術者は、遥かに肉体労働的な頭脳を駆使して問題を解決しようとしている。またいわゆる「文系」分野の人々は数字という思考ユニットのないところで論理的展開をしなければならず、一般の理系の人々よりもずっと論理的思考をしているとも言える。その意味で、数字や科学に身を委ねているだけで「理系」を自認しさらにそれゆえに、自分が論理的な人間だと思っている人に、論理的な人はいない。
【日本人の若者の愛国心の強さ】
先日、台湾から日本に帰化した二人の学生が次にのように言った。彼女たちは高校2年まで台湾で過ごし3年で父親のいる日本に帰化した。
「日本人は愛国心が強いですね、戦争があっても団結しそうです」
日本人の友達たちが耳を疑ったのは言うまでもない。私が訊いた。
「学校で討論かなにかしたの?」
「いえ、日本で普通に過ごした感想です」
「でも、日本人の学生は君たちのように政治の話はぱっとできないよ、事実君たちはすぐに今度の選挙の話をし始めたじゃないか」
「それはいいんです。そういうことではなくて、日本人って自分の国や歴史に興味を持っているじゃないですか。それから父が引っ越しの時にお隣さんにお菓子をもって挨拶していましたから」
日本人学生は戦争反対を訴えながら実は、「自分が死ぬくらいなら何を捨ててでも自分だけは生き残ってやろう」と思っているかもしれない。しかしそれはどこの国の若者でも同じである。ただ、戦争というのは私たちに究極の選択を迫る。たとえば、2024年正月の日本航空機の火災事件の時最後まで冷静に行動した乗務員に世界が喝采した。規律を教えられたとかという次元ではない国民性の証である。
「たぶん私の国が中国に占領されたら多くの若者は『自分が死ななければどっちでもいいや』と思うでしょう」
極論かもしれないが、これらは彼女たちの言ったままの内容である。
日本人が古文漢文や日本史を通じて自国を愛していること、そして引っ越し先の見知らぬ隣人を同じ人間とみなして共存しあおうと尽くすこと、これらは彼女たちには新鮮な驚きだった。そして最後に付け加えた。
「だいたい教える歴史が日本ほど長くないんですよ」
【知識のふるさととしての義務教育】
義務教育は、今までに語ってきたように、即座の有効性より「知識のふるさと」でなければいけない。次に私が気がついた小さな意見を列記しておきたい。
◯ 小学校の間にクラシック音楽と古典美術を体験する
幼い時に感じとったものが感性や思考の単位になっているとやはり有利である。「芸術は好みだろう」というが、大抵の人が青春時代までに知った音楽や芸術を自分の好みとしている。それ以外は感じて好きになることすらない場合がある。大人になってから自分で選択するのは構わない。しかし選択どころか頭にも浮かばないということでは、さらに広い人間の判断の場面で違いが生じてくるだろう。「よく知らなかった」という不足感でも十分だ。立派な知的判断を作る。「本来良いものだが、自分は不要だと思い選択しなかったもの」をいかに増やすかが、人間の総合判断を作るのだ。
◯ 古都を訪ねる
修学旅行などと行っても実際には、先生の目に隠れて現地で友達とショッピングしたり遊んだりしているだけだというが、それでいいのである。たとえば、海外で「あなたは京都を知っていますか」と聞かれたとき、行ったことがあるのとないのでは確信の度合いが違ってくる。私たちが実際その場に行き等身大でその空間を味わった経験が大事なのである。それが言葉やデータだけでは補えない情報をもたらすのだ。
◯ 高校までに海外留学をしよう
外国語を学びとるには圧倒的な強みになる。高校までは事実上「子供」扱いである。学生はホームステイ先で「ママ、アイム・ハングリー」と寝転がることもできる。つまり第二の故郷となる可能性が高いのだ。もちろん言語習得にも有利である。私は今も英語を話すときに高校留学生だった自分をどこかで意識する。大学生以降になるとなかなかそうはいかない。一個の大人としての遠慮も生じる。よく大学で充実した留学体験をした帰国生に、後輩たちの前で体験談を話してもらうことがある。最後に私は聞く。
「では、あえて言えば、もう少しやりたかったことはありますか?」
「・・・あえていえば、もっと遊びたかったかな」
逆の立場に立って、海外から日本に来た留学生に、学校や家に閉じ込もって勉強させておくだろうか?いや、あちこちに遊びにつれてゆくのではないだろうか。日本が彼らにとっての第二のふるさとになってほしいという想いがあるからである。
また、尊敬すべき知識人の立派であるはずの意見が、私たちに「ん?これは違うぞ」と感じさせるとき、それはだいたい海外体験のない人が普遍的問題を語っているときだ。日本は高度な翻訳文化システムを持っていて大抵の情報は日本人感覚でなんとかなる。しかし、海外でだけで感じとることができる、ある人間ともう一人の別の人間とに横たわる圧倒的な違い、というものだけは、体感できない。これに基づく差別問題もわかりにくいであろう。これらに気がつかないと、どこまでいっても根元的な意味での「人間とは」という問題に、普遍的な視点でアプローチできない。これらを国内にいながらに処理できる卓越した知的想像力を持った人もいるが、それは私たちが万人に要求できる特技ではない。海外を体験していないということは、「人間」を論じる時に、他者を「自分と同じ日本人」の枠で論じることになる。(「日本国内にいる外国人は?」というが、その場合彼らは一種の日本人の状態である。)
日本人の素晴らしいところは、他の民族も自分達と同じだと考えるお目出度いところである。そんな日本人の国民性を大切にしたい。だからこそ、「日本人の90%は英語が話せなくて良い」のである。そして若い人にはなるべく高校までに留学していただきたい。
◯ 学校でのボランティアは義務化してはいけない。
「ボランティア」という言葉に違和感を持つ人も多い。人を助けることを表す名詞の使用は日本人的ではないからだ。日本人が中学一年で覚え、使う機会がほぼない英語表現に"You are welcome "がある。「どういたしまして」とわざわざ言うメンタリティーがないのである。
ボランティアの発想は、資本主義とプロテスタンティズムが結び付いた結果として出ている。清貧と勤勉を貴び、競争社会で人を押し退けながら、働き詰め、ふと気がついた時に彼らは「そうだ、ボランティアだ!」と気がつく。彼らにとって善行は意識されるものらしい。日本人は、善行日頃の生活のなかで人知れずやるものであり、恩着せがましいものに見られたくないという恥じらいがある。童話「ゴンギツネ」などもその例である。立派なことをした人間を称賛はしたいが、自分でやると、他人との人間関係上の優位に立つようで、避けたいという心理である。「ハッハッハッ、当たり前のことをしただけですよ」なんて、間違っても言えない。世界一の金持ちの一人ビル・ゲイツのプロフィールも「慈善家」である。それに比べZOZOTOWNで知られる前澤氏は、日本人一流の照れから、あえて金満家を気取っているのかもしれない。
そのボランティアの概念が学校教育に導入された。悪いことではない。日本の学生たちも柔軟である。決して驕ることもない。それは日本文化の教育システムの中にある活動だからである。しかし、現在、推薦入試の査定のためにボランティアはほぼ必須・強制である。長い目で見てこれが健全だとは私には思えない。
◯ 日本の大学では遊ぶべきである。
日本人学生は高校まで勉強ずくめだ。どこかでガス抜きが必要である。
かつて、日本の大学生は遊んでばかりいると、テレビで批判的に報道される時期が続いた。そして興味深いことに、Fランと呼ばれる偏差値的には高くない学校の学生たちが特に批判をした。どこの大学でも同様の当時の緩い雰囲気が、自分達の学校だけだと思ったからである。旧帝大系の学生などは勉強など自分でやるものだと心得ているし、大学教員へのリスペクトが先行し、あまり批判的にはならない。これらの運動の結果、大学は厳しい勉強の場になった。私は個人的には、高校まで勉学に励んできてようやく一里塚に達した若者たちには、今まで蓄えてきた教養を自分なりの自由なやり方で楽しみながら利用する時間を与えてあげたい。日本の若者は人生のどこで息を継ぐのだ?東大から電通に入り自殺した女性、痴漢をはたらいたエリート公務員など、私たちが「どうしてこうなったのかしらねぇ~」と答えが得られないとき、このようなところに答えがあるものだ。
◯ 「やる気スイッチ」の危険性
大手中学受験塾の広告マンの台詞に「中学で駄目だったら高校でもう一度チャレンジしてもいいんです」というものがあった。教育とは無縁の、心ない言葉ではないだろうか。子供は一回だけの青春の貴重な時間を割いて全力で受験する。大人と違ってリミッターがかかっておらず、本当に全力で挑戦する。その結果が良くても悪くても、とにかく子供は真っ白になっている。そこにもう一度やれというのはあまりに残酷である。一年頑張ったのなら三年は遊ばせたい。受験に「じゃ、もう一度」は利かないのである。
同様に最近普及した言葉「君のやる気スイッチを探そう」というものも同様である。子供はロボットではない。しかもそれを外から入れるのか。大人が気に入らないスイッチの入りかただったら、また入れ直すのか。本当にスイッチを入れたかったら思う存分有意義な遊びをさせることである。
私はこんなことを書いているがそれは理想論であり、たいていの子供は遊び方も人生の意義も見いだせずに弱いものをいじめたりその他の悪さをしたりするケースも多い。であるから、万一「やる気スイッチ」が入って伸びたのなら、資質としてどうしょうも無い子が一人助かったということになる。それだけである。悪いことではないが、お粗末である。
今では「人生で大切なことは全部ゲームで教わった」という実業家もいる。これもまた推奨はできない逸話ではある。なにはともあれ集中力は育ったのだろう。
◯「教師は社会経験がない」という論はあまりに幼稚
多くの人が「教師なんて社会経験もないくせに子供に偉そうにものを教えるどうしようもない人格だ」的な発言をする人がいる。一時期よりは減ったと思うが昭和の時代には誰もが使う当たり前の言い方だった。それだけ先生の権威が保証されていたのかもしれないが。実際にどうであろうか。教員は本当に社会経験が少ないのか。それは考えにくいだろう。一日中チケットのモギリで頑張っている人もいれば、がらんとした田舎の量販店で一日一人か二人しか来ないお客を相手に暇を潰している人もいる。それも立派な労働であるが、そのような人に比べて、教員の方々が社会経験が不足しているとも思えない。早朝から子供たちの模範をつとめ、モンスター・ペアレントに対応し、反抗期の子供をなだめ、40人もの子供たちがトラブルがないように見守り、さらに授業と採点である。しかし、世間にはしたり顔で「先生というのは自分は学校という狭い社会の中から一歩も出ず無抵抗な子供に講釈をたれるだけの存在」といまだに言う人がいる。さすがにこれは自分の幼少期の教師への反抗心を自己分析できないままに大人になってしまった人の弁ではないだろうか。それは映画製作について、スクリーンに見える映像からしか判断しない人と同じであり、街中で偶然会ったお笑い芸人をいきなりこづいたりするような水準と変わらない。このようなことを平気で言える態度を、知性や教養の一つの試金石にしてはいけないだろうか。
先に「先生」ブランドの重要性について書いたが、このような子供じみた人たちが教育社会を悪くしているかと言えばそれほどでもないようだ。世の中には立場と地位でしか人を判断しない人がいてその人たちと同レベルでの均衡を保ち、実際の教師についての本質論からは離れているようである。それよりも恐ろしいのは「先生」という言葉が使われなくなることであり、時には先述の部活外注アスリートなどが学内に入りすぎることで、先生ブランドのバランスが崩れることである。通常生徒たちは柔軟である。しかしながら、反抗期を消化できないまま大人になった知的貧困層が一番の地雷元になるのではないかと考えられる。
【知性とは】
ここまで教育の観点から、人間の知と総合判断について語ってきたが、まとめとして、「知性とはなにか」について私の意見を述べておきたい。私は「知性」とは「気がつく」こと、そして自分が今まで習得してきた知識や常識の範疇を越えて直感することだと考えている。つまり人間が自然界の一個の動物である限り越えることができない認識の限界を何らかの形で越えることである。この「認識の限界」のことを私たちは「本能」と呼んでいる。私たちは何らかの形で物質的現実および認識を越える瞬間を持たなければ、動物の状態にとどまる。これらの限界のそとにあるものに「気がつく」ということが知性である。
「気がつく」ために教育はある。そして、知性の飛躍、気がつくこと、価値観を転換させることこそがこれからの人類を救う。決して自分自身を救うという意味だけではない。世界的な人類の判断を変えるということである。
私たちはモノに対しては比較的簡単に越えることができた。これが自然科学である。これによって多くの人が驕り高ぶった。たしかにそれほどまでに刺激的なものでありそれだけの成果を得た。しかし人間に対してはどうであろうか。これはまだ成果は十分ではない。ある人はそれを「悟り」といい、ある人は「自己承認」と呼んでいる。これらはほぼ完全に私たちを導いてくれるに違いないが、人類全体への汎用性が弱い。または歴史とともに弱い位置におかれてしまっている。私は人類に与えられた手段は、芸術哲学と、人間の時間的視点からの分析だと思っている。前者については前章までで述べた。後者については次章で述べる。
芸術に象徴される人間の美意識は自分と他人を比較しないためにあるとも言える。一人一人が独自の時間の中で生きることである。その意味で、時間は作るものではない。忘れるものである。そして現代人が最も必要としている知性のかたちである。
第三章 先生論【いつも心に先生を】
【先生というブランド】
ヨーロッパにおける芸術への最大の功績は、「コンサートホール」と「額縁」であるということはのちに述べるが、、現代の日本が維持している最大の教育文化は、「呼称としての先生ブランド」と「ホームルーム教室授業制」だと考えられる。
日本における「先生」という教師への呼称は、なんとしてでも守らければいけない。たとえばアメリカでは、高校まで教師のことは「ミスター」「ミズ」で呼ぶ。大学では教授なら「プロフェッサー」という具合に社会的地位を呼称として付け加える。これは、欧米の傾向で、アジアでは日本と同様に「〜先生」とするのが一般的だ。しかしながらこのような用法はその国の文化によってニュアンスがかなり変わる。韓国では家族である両親にも尊敬語を使うし、このことで親子の情が深まっているかといえば必ずしもそうではない。少なくとも一部の韓国人留学生は日本のむしろルーズな親子間の会話について、「羨ましい」という感想を持っている。
その一方で、現代日本において「先生」という言葉はまことにうまく機能していて、まさにちょうどよいのである。それは、東洋の五行説「福・禄・寿・官・印」によるところの「印」(母性・習得)の概念をまことにうまく消化しているからである。
これは、一つには、教室の中の一人の年配の管理者を自分との関係で「先生」と位置づけることで、それ以外の社会全体に対しても、仮想的に「先生」という存在を前提にすることになるということである。これは、日本文化の相手を尊重する謙譲の精神と一致する。学校の先生の多くは父兄よりも年下だったりする。しかし父兄やPTAにとっても彼らは「先生」なのである。これは、たとえばアメリカでは早期(1970年代)に崩壊した。モンスターペアレンツ(向こうでは「ヘリコプター・ペアレンツ」という)のクレームに学校側が安易に屈したため、小中高の教師の社会的地位は落ち込み、現在もほぼブルーカラーの扱いになっている。「先生ブランド」の喪失である。日本では、子どもたちの学校の先生に限らずとも、カルチャースクールなどでも専門の講師には、若い講師に対しても喜んで「先生」を使う。こうした習慣によって、私たちはたとえどこででも相手を尊重する準備を忘れることがない。
【楽しいばかりでは授業ではない】
こうした「先生」という呼び方だけなら、他のアジアの諸国でも見られるのではないかという質問が出る。これは、その教育が、あくまで「印」の概念にのっとっていることが重要である。次の章で詳細に触れるが、「印」の概念を踏襲するためには、まずその内容が、少なくともその時代においては真実・事実でなければならない。それが、国家による国民扇動のためのプロパガンダであってはならない。たとえば、歴史の教育などで過度に愛国心ばかりをあおる場合、それは既に「印」の法則から外れる。感情を伴った習得はある意味、エンターテイメントであり、楽しいものである。しかし、本当の「印」の働きとなる学習対象は、まだ学習途中の者の感情のとおりになるものであってはいけない。教育とは、冷然たる事実の手応えや解釈不能の不思議や不条理も含めて「事実=真実」として教え教わるものでなければならない。
【投機的関係】
そして、そこには、「先生」に対するある種の絶対的信頼、投機(禅の仏教用語で、師弟の両者の心機が投合すること)を必要とする。文化的に、カンニングが平気であったり、点数を稼ぐだけのための競争に過ぎなかったりする環境では、「印」が正常に働いているとは言えない。であるから、果たしてAIやインターネットだけで学習が可能かというと、この「印」の状況が揃うだけの付加的環境が整っていない限りは難しい。「先生」という人間がそこに存在する重みというものを体感する方が、習得本能の活用には早いのである。現実の先生がいらないとするのは、幼児の養育に完全看護のケアが揃っていれば母親は要らないというに等しい。「印」とは、関係性であり相互性である。仮にその教師があまり立派な人格ではなかったとしても、いないよりずっと良い。まさに「反面教師」という言葉のとおりになるのである。私たちは体験なしに学ぶことはできない。
【自分の心の中の「先生」を尊敬しない人は成績が伸び得ない】
この原理はさらに、遥かに抽象化されて私たち一人一人の心のなかで「学ぶ」姿勢という精神文化の構成につながってゆくという重要な働きがある。何を見てもどこにいても上記のような態度で「学ぼう」とする姿勢が生まれる。
その意味では、自分の先生を尊敬できない者は学習を成就することはできない。学習態度でその学生の成績が分かるというのはこのような場合である。
先述のように「印」とは、冷然たる事実の手応えや解釈不能の不思議や不条理も含めて「事実=真実」として教え教わるものである。つまりその意味では本質的にエンターテイメント(禄)ではない。その関係性を自分の心の中に備えるということは一生の財産である。いつも心に「先生」を。それは未知のものに遭遇したとき、その事実を冷静に見極め自分の中に取り込もうとする精神である。
【「楽しい授業」の危険性】
近年では、「わかる授業」「楽しい授業」がもてはやされる傾向にあるが、それはまず困難な義務教育があった上での話である。問題意識を持った学生が「ああ、わかった」と感じる、ある意味孤独な精神活動である。「わかりやすい先生」というのは当然いてしかるべきなのだが、それも行き過ぎると、一種のエンターテイメント化し「印」から遠ざかり始める。(その意味で、「頭の良い人は説明がうまい」といった考え方は、実はズレまくっている)。
その意味で「ハーヴァード大学の熱血授業」といったタイトルの一般的書籍や記事によって、その内容について読者が相応のものを吸収したと考えるのは、意識の上では甚だ不健全なのである。(そしてこの種の「わかりやすい先生」がマスメディアで権威を持つことは大変胡散臭く危険なのだがそれはいずれ別項で述べたい。
【「先生」文化の展開】
テレビドラマやマンガ、アニメの世界に「先生もの」は多い。「とびだせ青春」「金八先生」はては「暗殺教室」など、「先生」が登場する作品にはすべてこの精神が流れている。「まいっちんぐマチコ先生」などは単なるハレンチギャグものなのかといえば、むしろ逆である。先生という関係性をどこまでキャラクターとして拡張して受け入れられるかという一種の文化的実験である。そのような先生が現実にはいなくて良い。しかし、心の中で柔軟に受け入れることは大いに意味がある。学校の父兄たちは、明らかに社会的に若輩にあたる新任の教師を「あらあら、若くて可愛い先生ね」などと言うことがよくあるが、「先生」という言葉が本来持っている権威との落差を楽しみ受け入れている姿なのである。
【大学キャンパスの意義】
一方、後者の「ホームルーム教室授業制」は、実情としては功罪相半ばする問題だが、あえて挙げておきたい。一対一の学びも大切だが、習得が、毎日変わらない集団の中にあるというのも貴重なことであり、また先生と生徒が「一対多」であることも重要である。しかしこの環境は今やいじめや登校拒否といった問題を伴ってしまっているので、全面的に肯定が難しいかもしれない。学校は社会性を学ぶ重要な場所であるが、それと同時に、「習得」が個人的環境に収まらず広い空間の中に存在していることを体感する得難い機会である。大学に広いキャンパスがあるのも同様の理由であり、それは受験生を惹きつけるツールであるのみならず、「印」の本質につながっているのである。
【習得と母の共通性】
東洋思想における「印」という概念は、習得と同時に母性を示すのだが、赤ん坊が最初に母親と交わす対話こそが「印」の本質でもある。中には「私の母は「知性」とはほど遠い人でした」などという場合もあるだろう。しかし、それは論点ではない。学ぶ姿勢の根本とは母に対する気持ちと同じ、「先生=先に生まれてきた存在」という関係性・精神的姿勢にある。それは「目上・目下」といった社会的関係性が関与するとは限らない。まずは一対一の関係性である。クラス授業はそれを一対多まで拡張してみる場である。その意味で「教える」「教わる」というのは、尊敬の念であると同時に「ちょっと可笑しな」対等の関係でもあるのだ。
学ぶことを意識することほど幸せになれることは他にないかもしれない。それは母親との「ちょっと可笑しな」関係を確認することでもあるからだ。
【頭が良い?】
よく、受験勉強で成績の良い人を「頭が良い」と言うが、その人が本当に知識のやり取りから学ぶ充実感を知っているかと言えば、そうとは限らない。それはたまたま能力が現実の「頭が良い」の基準に適していただけである。
たとえば現在の政治家の中にはすべての物事を一回で記憶してしまい、一般の人の何倍ものスピードで仕事をこなせる人がいる。しかしながら、私にはその人がどうしても「印」を正当に使っている、いわゆる「頭の良い人」には見えないのだ。彼のような人は競争原理(官)で頭を使っているのではないか。それは人を見下すには都合が良いが、それ以上のものではない。現代日本では「印」と「官」は混同されやすい。(その意味では、「寿」と「禄」も同様である。)「印」という精神作用は道具ではない。人間の生きがいとすべき目的の一つである。その意味で、「論理的であることと科学的であること」で述べたように、自分は科学的姿勢を持っているから知的だと考える人はその時点で知的ではないし、自分が理系だからと文系と称される人と区別する傾向も、悪しき自己紹介をしているようなものである。それは自分が社会において有用であることを、知的であると勘違いしている姿であり、既に「印」の謙虚さから離れている。少なくともそのような人の意見には、必然的に欠点が内包されることになる。
【「中庸」を探し当てるための道程】
この言い方は軽薄でさすがに見破られているが、「はい、論破」といった、イエスかノーかで物事を判断することが議論の上で爽快だともてはやされたことがある。(そしてそれはすぐに消えた。)私たちが会議をするのは方針を定めるためだが、それは本来はイエスかノーかの極端な結論を見出すためのものではない。孔子やアリストテレスが言う「中庸」は、人間が考えに考えた結果到達するのは、必ずしも誰にでもわかるわけではない総合判断だということであり、それは機械が導き出すような極論ではありえない。そしてもちろん、情報の数量の単なる中央値ではない。すべての情報とその判断には,人間にとって最も適切な「中庸」値がある。この中庸を精確に素早く導き出すには、カントが言うような「美」への直感が必要であり、それは「芸術哲学」を通して得られる。
第四章 【ファクトチェックはフェイクニュースである】
【「フェイクニュースはファクトチェックで分かる」というのは、「何も考えるな」と言っているのと同じである】
大変興味深い現象だと思っているのは、巷に出回っている「フェイクニュースを見やぶれ!」的な本のほとんどすべて(しかし決して「すべて」ではない)が、内容が必ずフェイクニュース化している事実である。つまり「『フェイクニュースを見破れ』というフェイクニュース」である。若い学生が、批判的情報収集法の第一歩としてこの種の本を読むのは有効かもしれないが、こうした本を大の大人が金科玉条のごとく信仰していたらそれは既に洗脳が完了された姿かもしれない。「オレオレ詐欺には絶対引っかからない」と言っている高齢者がいとも容易く被害に遭ったり、「催眠術にはかからないぞ」という意識が強い人ほど、催眠術師はかけやすいという事実とも似てくる皮肉である。
それはさておき、有名なところでは、テレビで人気の某知識人氏も同様の本をシリーズで出して売れたようだが、インターネットでは彼の「ニュースそうだったのか」は「ニュースうそだったのか」だと揶揄されている。それ程まで彼の言説には荒唐無稽の偏向報道が多いからである。
私は小論文の指導などでこの話題を取り上げるときには、図書館に行ってランダムに「フェイクニュース」か「ファクトチェック」というキーワードで探った本を借りてくる。それだけで、事足りるのだ。「フェイクニュースに騙されるな」「ファクトチェックしよう」という書籍に載せられている例のほとんどが、それ自体悪質なフェイクニュースになっているからである。この種の本を借りてきて学生たちに「ほら、ここにフェイクニュースが書いてあるだろう?」といえばそれで済むのである。これは、SDGsが、理念自体は間違っていないはずなのに現実としては世界的悪徳であるのにも似ている。
こうした書物ではなぜか必ず、作者が考える方に話を持っていきたいという無理がかかるのである。その胡散臭さは意識して読むだけで誰もが気がつくのではないか。もし確証を得たいなら、5年以上前に出版されたこの手の本を吟味してみればわかる。作者がよほどの慧眼をお持ちでない限り、いまやめちゃくちゃなものだが当時は正しいと錯覚していたものを、ファクトチェックの結果としているにすぎない。自分のファクトチェックの結果の正当性を断言するにはその当時の世界観と価値観ですべての真実が解るはずだという、甚だお粗末で傲慢な妄想を基にしているのだが、もちろんそれ以上に、そういう方向に人を煽ることで自分が得をするからである。これはつまり、まさにフェイクニュースである。
もちろん、こうしたフェイクニュース対策としてのファクトチェックの手法として、「一次情報の確認」「友達の言ったことは信じやすい」「怒りは拡散しやすい」といった方法や知識がたくさん書かれている。それはそれぞれの知識人が自分なりに蓄積してきた確認事項のようなものであり、読者にとって有効な場合もある。しかしそれは、根本的な前進にはならない。フェイクニュースでなくとも、情報というものは、常に増大し刷新される。一種のイタチごっこである。科学哲学では早くからこの性質に気づき、ポパーは、「科学の特徴は『反証可能性』である」とし、今も最も確からしい科学の本質の一つとされている。(一つの既存の定義や学説に対し否定する情報がでたらそれは間違っているものだとする可能性を、常にはらんでいるという前提。一般に宗教の対極にある。)しかしながら、寿命が限られ自ずから絶えず変化する人間ー個体において、こんな無責任な定義を中心に据えるわけにはいかない。ナマモノである人間にとって、情報もまたナマモノであり、それがモノだけを扱う科学とは違うところである。フェイクニュース対策はおそらく科学以上のスピードで刷新されるので、人間にとって常に反証される位置にある。人間にとっては、科学が時間を越えてモノを扱う以上に、その時その時の情報の真実性の深さのようなものがより重要になってくるのである。
【そもそもファクトチェックは】
もともと「ファクトチェック」という言葉の出処からして怪しいものである。アメリカ大統領選挙に関するフェイクニュース、元々フェイクニュースを量産している世界のビッグ・マスメディアの報道で情報をチェックするという日本マスメディアの怠慢、FacebookやYouTube等でアメリカ大統領候補の名前や新型コロナワクチンの用語を入れるだけでBANされる現実、いまや多くのフェイクが明らかになっている兵庫県百条委員会が元々県知事を引きずり下ろすためのものであった事実など、これらの関係者が声高に拡散するのが「ファクトチェックを!」という言葉である。「ファクトチェック」という言葉は素朴な市民を欺く便利なツールとなっているのだ。
本当に我々に有効な答えを見出すためには、先述の「中庸」の利用に当たる、「う~ん、どうもおかしいな」というような、芸術哲学的直観による総合判断をまず礎としなければいけない。
【現代で必要な演繹法】
このインターネット時代において起こしがちな錯覚だが、論証は私たちの目に飛び込んできた限られた事実から行うものではない。事実は無数にある。それでは順序が逆である。私たちはできる限り正確な推論(仮説)を立て、自分の仮説と最も違う事象がその仮説を否定していないかを見なければいけない。既に本の作者に仮説を立ててもらってスタートしている時点でファクトチェックは成立しない。このような本の作者は、自分の発見した方法論に夢中になっているか、読者を欺こうとしているかのどちらかに過ぎない。
個々の事実 → 論証 (いわゆる帰納法)
仮説 → 個々の事実 (いわゆる演繹法)
(帰納法は具体的な事例から一般的な法則を導く手法、演繹法は一般的な原則から具体的な結論を導く手法)
私たちは、個々の事実を根拠にするのはあまりに莫大な情報の海に呑まれている。では仮説を立てる演繹法が常に正しいのかといえば、もちろんそうではない。この二つの手法は本来まったく別の方法ではない。同じ思考の中の対極にある視点にすぎない。ただ、現代の情報の中で私たちには、演繹的思考の手前で精確な仮説を常に立て続ける必要性に迫られている。この仮説の前にどのくらい思考を積んだかが重要になってくるのである。そしてそれには、日本の既存の詰め込み的受験勉強と、現在欠けている芸術哲学が必要になってくるのだ。
【「見えるもの」しか証拠にならない、のか?】
一般に、あるものは証拠になるがないものは証拠にならない。とすれば、一般に揶揄されるマスメディアの「報道しない自由」は実に有効に悪用されることにもなる。ここで気をつけなければいけないのは、情報の上での「証拠不十分」である。たとえば法律などで人を裁く場合は証拠が不十分であれば細心の注意が必要である。基本的には一般の情報もすべてそうであるべきなのだが、実際のメディア上では、自分達に都合の悪い情報は消しまくっている。私たちはそれら全般に「知らなかったのだからしょうがない」として、口をつぐむ傾向にある。「ない」ものを「ある」とすることはできないが、「ない」こと自体について疑うことはできる。多くのファクトチェッカーは、この原理には鈍感である。しかし、情報を集めるだけ集めて「これで確実だ」とする判断の時代は終わっているのだ。私たちは新しい情報社会で、もう一段大人にならなければいけないのだ。
第二部 五行(福禄寿官印)の論理
(東洋からのアプローチ)
第一章「禄について」
『実の財・虚の財』
【実の財】
五行の思想には「実の財」「虚の財」という概念がある。
「実の財」とは、いわゆる「額に汗して稼いだお金」ということである。
たとえば、漁師が魚を釣ったときにそれを直接目の前の人に売るときは、互いの間にたしかに「この値段でいい」というコンセンサスがある。漁師の方にしてみれば、自分が果たした労働量、取れ高から考える稀少度、その魚の種類と鮮度といったものに対する認識があり、買う側もそれを共有する。いわゆる「フェア・トレード」であり、両者に満足感がある。これが本来の仕事であるべきで、あまりとりすぎてもとらな過ぎても良くない。これが第二次産業から第三次産業へと移るにつれて不明確になってくる。
この「実の財」とは一見道徳的なものに過ぎないように思われるかもしれないが、現実に人の心や社会に働きかけるものである。これが五行説である。
【「禄」の概念】
東洋の五行説では、五つの要素が、人間社会において「福・寿・禄・官・印」という形で循環していると考えるが、お金の概念はここでは「禄」になる。この「禄」とは、人間にとって自分自身=「福」ではなく、また習得する「印」でも表現する「寿」でもない。さらに自分の家庭生活の外側にある二つの要素を、名誉・権威=「官」とともになすものである。
面白いことに「禄」は金銭だけではなく、人の魅力や色気をも表す。よく現代人は「彼のお金に興味があるわけではないの、イケメンだったからなの」というのは、実はまったく同じ概念なのである。つまりそれは、他の五行と同じように人間にとって欠かせないものではあるが、特に個人的にというよりも社会全般に共通に価値を持つものである。であるからひけらかすのが一番危険なのである。知性・母性(印)とか、未来への想い・わが子への愛(寿)といったものであれば、それは他者にとって同じ価値を持つものではない。誰だって自分の家族の方が大切だし、知的教養は他者から楽をして受け取れるものでもない。しかし、「禄」は人間社会において、価値が共通なので、過多は、特にそれが公衆にさらされることは、大変危険である。地域の社長さんがよくいつも大金を持ち歩いているのを見せびらかしたり、若い女性がむやみに肌をさらしたりすることが時には危険になるのは、当然のことなのである。これらは誰にとっても共通の価値をもち、他者が奪えるものだからである。
東洋占星学の概念では、そのため、社会における二つの表れ方について、人間が錯誤したりうまく生かしたりする流れを見るのである。
【五行の流れ】
五行「木→火→土→金→水」は、人間の活動の中では「福→寿→禄→官→印→(福)→」という現れ方で循環してゆく。
この流れが乱れると必ず人間はイレギュラーな動きをするようになる。たとえば、「福」から「禄」へ一つ飛ぶと人間の精神は混乱する。私たちの活動の大本は「福」=「幸福・充足」にありここから始まり、「禄」についても、「寿」や「官」といった前後の概念で流れができない限り、イレギュラーな行動や精神を生み出す。次に述べる「虚の財」などは典型的にその乱れに属する。(「福・寿・禄・官・印」については、長くなるのでまた別の機会に詳細を述べたい。)
この「禄」にあたるものは、人間の幸福「福」から二つ飛んだところにあり、自分や家族の幸せというよりは、他者と交流したり影響を与えたりするときに動かすものになる。先述のように、たしかに「お金」と「色」が、社会的に影響力の多い価値である。自己そのものである「福」につながるためには「寿」(表現本能)が絶対必要である。「禄」だけが独立し絶対性のある価値観だと錯覚すると必ず問題が起きる。「お金だけでは満足できない」「かわいいだけでは幸せになれない」と考える人にとって、五行は人間にとっての論理的真実を教えてくれるものだ。
【虚の財】
一般に「虚業」と言われるものがある。それは、サービス業全般や人に夢を見させる仕事などを指している。資本主義社会にあえいでいる我々にしてみれば、お金と人の魅力ぐらい普遍の価値があるかのように錯覚しやすいものはない。しかしながら、これが正当な取引を前提としていない場合には、「虚の財」になる。
たとえば、女性が身に着けた下着が高く売れるとするならば、その女性にとっては何も価値のないものが、別の人にとって価値を生むのだから「虚の財」である。このようにして得たお金は、本人に高い目標がない限り、発生意味も目的価値も持たない。虚業に就く人が拠御用に浪費してしまうことが多いのはこのためである。たとえば、パパ活をしている女性の多くがホストにお金を使ってしまう場合などがあたる。きれいごとを言うつもりはないが、楽してお金を儲けるのは危険なのである。
しかしながら資本主義社会のど真ん中に生きる私たちにとっては、お金は多けれ多いほどいいという妄執にとらわれるのは自然な事である。年齢とともに「あの時あそこでもっと気を利かせていればもっと収入が増えたのに」「一攫千金のチャンスを逃した」といった思いは募ってゆく。そして次には「老後、もし病気になったらどのくらいお金がかかるかわからない」という恐怖に付きまとわれることになる。これも「虚の財」の一種である。
「未来の社会には美人またはイケメンであることしか価値がなくなるだろう」という説を唱える文化人は一人ではない。それはAI化等によって表向き理想の社会が生まれた時に、万人に共通の価値観として人間が乗り越えられないものが、金銭でなければ個人の肉体的魅力しかないからである。
幸いにして、私たちは容姿において確実に衰えるし、大勢の恋人と同時に付き合えるわけでもない。現代文化から与えられた枠組みの中で、適当にやってゆくしかない。ときどき「株で一億円を稼いでいる若者」などが取りざたされるが、彼らの日常は極めて質素なもので、狭いマンションに住み、安いスポーツウエアか時には寝巻に等しい恰好で毎日カップラーメンをすすりながらトレードをしているという人も多い。これは彼のその「財」がまだ実感を伴われず、「実」にも「虚」にもなっていない状態であるからである。(あえて言えば「虚」だが、まだ実体化していない)。
【若者はみな貧乏でケチである】
学校の嫌いな高校生がバイトをしてせっかく得たお金を友達たちにおごって済ませてしまったりすることがよくある。これは彼らが社会に触れて初めて「禄」というものを自分なりに実感しようとしている姿なのである。自分でお金を稼ぐ、そして使ってみるという行為は、彼らに漠然とはしているが、社会の流れに触れた感触・意識を与える。その時に、人によっては長年欲しかったゲームを買うのかもしれないし、無駄に浪費してしまうのかもしれない。しかしそれは貴重な初体験なのである。
私たちはこの「禄」=「財」という概念をどうやって人生で自分のものにしてゆくのか。自分が労働をすれば得られるもの、それは同時に他者と共通の価値を持っている。親からお小遣いとして与えられていたうちはそれはまだ本当の「財」ではないことは漠然とわかる。その一方で、「お金ならいくらでも欲しい」という短絡的思考が存在するのももっともである。そして自分たちの祖父母がお小遣いをくれる姿を不思議な気持ちで見ることになる。
「どうして自分のお金を手放してうれしいのだろう?」
私は授業で学生たちに「君たち若者たちはみな貧乏でケチでおまけに卑屈である」という切り口で話すことがある。(そして「老人たちは傲慢で嘘つきで見栄っ張りである」とも付け加えることはもちろんである。)若者はなぜケチなのか。それは若者がまだ大金をためていないからではない。自らの財を循環させていないからである。それに比べると、老人などは、自分なりにお金を既に使ったので、「財」の「蓄財」以外のもう一つの概念である「与える」という行為の喜びを知っている。
たとえば、ある若者がホームレスの大人と仲良くなったとしよう。相手にされてうれしかったのかそのホームレスの人は150円出して若者に缶ジュースをおごったとしよう。その金額自体は若者にしてみれば些細な価値に過ぎない。しかし、このホームレスの大人はこの瞬間は貧困ではないのである。彼は自分がゴミ拾いで集めたなけなしのお金を自分なりの判断で循環させ、今「交際費」として使っているだけである。経済が回っているということが、彼を豊かにしバランスの取れた人格にしているのだ。それに比べると、まだ稼ぎ足りない若者は、ケチである。「お金は多いほど良い」という価値観のジレンマから這い出ることができないでいるからだ。だから本質的に貧乏でありケチなのである。その上、「自分たちは悪い大人たちに利用されている」という卑屈さまで備えている。
【経済を回すということ】
「経済を回せ」という言い方をするが、これは「財」を前後の「寿」や「官」と結びつけ、循環させることである。なにか愚かなやり方でこの二者を飛ばしていきなり「印」や「福」とつなげようとすると「虚の財」となり、それでも清濁併せ呑む人間社会で、それはある程度までは存在しうる。しかし、それは許容範囲を超えると確実に流血や絶望につながるのである。「経済を回す」というのはその意味で、たしかに「実の財」を生み出すことが大切なのである。
たとえば若い娘が「私、カワイイでしょ」と公に言ったなら、それは「なんだ、こいつ」と訝しがられるか、悪い奴に利用されるかのどちらかである。この言葉を言って良いのは家族と友人までである。これは「福」(自分自身)と「禄」(魅力)がつながっていない状態である。であるからこそ、アイドルはみな歌を唄うのである。(「寿」=「表現本能」)歌を唄うことで、社会に「表現者」として存在を許してもらうのである。
かつて、若い女性のアルバイトが膝枕をしてお客の耳かきをしてあげるというサービスがあり、これが血なまぐさい事件につながったことがある。これは本来「人のケアをする」というのは「印」であり、それゆえ病院の看護師は患者にとってみな天使なのだが、その概念と「禄」とが公の場で激しく混同されて、必ずやおかしな人間が出てくるのである。
このように考えてゆくと、「経済を回す」ということに対する私たち人間の誤解や錯覚がいかに愚かなものであるかわかるのではないだろうか。私たちにとって大切なのは「虚の財」をなるべく生み出さない、仮に生み出したとしてもその本質を見極めることなのである。
【日本人はなぜ老後も働きたがるか】
英国の一つの理想の老後に、若い時に一生懸命働き、老後は広い庭で孫たちに囲まれ、ロッキングチェアに揺られて穏やかに過ごす、というものがある。そのようなイギリス人は、実は経済活動を経てようやく資本主義社会から逃れ、ある意味原始の状態に戻ったのである。これは「財」に対する一つの距離の置き方に違いない。
一方、日本人の場合は、定年後も、給料が安くても再就職をすることを求める人が多い。その姿を理解しない欧米人は笑う。「一生自ら働き続けるなんて日本人はなんて、働きアリのように教育されたみじめな存在なのか」と。しかし、それは本当なのだろうか。日本人はまず仕事の中に喜びを見出している。欧米のように社会と対立し他の人々と競争するだけでなく、社会全体に循環している「禄」の概念を自分なりのスケールで享受することで社会と触れ合い、他の人々と活動しながらも等身大で共存しようとする姿である。そしてそれこそが究極の平等社会である。日本人はその意味でいつまでも若々しく平等が好きなのである。海外で長く暮らした人はわかってもらえると思うが、日本における、たとえば守衛として働く高齢男性や、通学する子供たちを導く「みどりのおばさん」として働く高齢女性の巣あたというのは、実は最も高度な文化社会が生み出した、最も幸福な人間の姿なのだ。社会と触れ合っていたい、それは社会を信じているからであり、または社会に恩返しをしたいからである。
【「好きな仕事がしたい」という思想の不潔さ】
どこから間違ってしまったのか、現在若者たちの間では「好きな仕事をしたい」「辞めたい。好きな仕事ではないから」という考え方が広まっている。これは経験の少ない若者がマスコミに利用された姿だろうか。そしてこの考え方は大いに若者を苦しめているのである。
この考え方は一見欧米的である。しかし欧米の場合、先述のように「仕事は嫌なものだ」(定年になったら距離を置きたいものだ)という前提がある。しかし日本の若者の場合、仕事に価値を見出すという言葉が一部の人たちの間でミスリードされ「仕事に意義を見出したい」+「仕事は本質的に辛い」=「好きな仕事だけをしていたい」という最悪の概念の組み合わせになっている。
欧米人の「勤勉であれ」+「仕事は本質的に辛い」は、一種のプロテスタンティズムであり、キリスト教の概念に護られているのかもしれない。
日本人の場合は「仕事に意義を見出したい」+「仕事は社会とのふれあいである」という感性は、その教養に基づいているものであり、日本人を必ずしも幸福にはしていないかもしれないが少なくとも豊かにしてきた。
「仕事」というものは本来既存の社会への「恩返し」である分が生まれ落ちた社会に先人が活動してくれていなければ、そこに仕事はない。日本人はもともと好きな事をしてきたのではない。自分が直面した仕事に生きがいを見出し好きになったのである。「好きな仕事でないからやらない」と本当に考えている若者がいるのならば、その人たちに「で++あなたの本当にやりたいことは何なのか?」と問いたい。十中八九は答えられないだろう。好きなものがあったらとっくにその道に進み、社会から辛酸を飲まされて、それでもその道にしか進むことができず、常に自己の価値観と社会のシビアな要求の間の二者択一で苦しみながら人生を歩みだしているはずだからだ。
その意味で「好きな仕事だけをしたい」という人は、実はその「好き」という意味合いが軽いのである。それは「自分が不快になりたくない」という意味にすぎず、その意識の人が「本当に好きなもの」を見出しているとは考えにくい。本当に自分の好きなものを見出すということは、たいていの場合自分にとっての未来が大変に困難なものであるという暗示を受けることでもある。そして「私には何もない」と気が付くタイプの人も、それは自分の好きなものを見つけた人と同じくらいの人生の充実を享受しているのである。
一方、現実に好きな仕事だけをやってきたという人は、それは人からはそうみえた「結果」にすぎないということを良く知っている。だから自分の好きな事で成功した人は、自分の子供に同じ道を歩めとは言わないし、もし子供が自分と同じ道を選んだ場合には、涙を流さんばかりにご満悦なのである。
【「バック・トゥ・ザ・フューチャー」への違和感】
簡便な仕事論を述べたところで、今一度、私たちにとって「実の財」とは何であろうか。私たち日本人は本質的に「奴隷文化」から最も遠い所にいる。労働を他者に任せようというつもりがないからだ。名画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1)は非常に完成度の高い作品だが、あえて思想的違和感を唱えるなら、最後になぜ自分と父親がやっつけた不良のビフが彼らの車の整備をし、「すぐ怠けるからな」と主人公の父に使われているだろうか。これは同じ人間の上に立とうとしてる貧困な世界観(奴隷文化)である。「因果応報」とか「ざまあみろ」という感情を否定するつもりはないが、このようなかたちで人をこき使う人もまた人生の勝者ではない。世間では「勝ち組」「負け組」という言葉が広まりそれをほとんどの日本人が便利だと知りつつも「はしたない言葉」だと認識している。競争に対して活力を出しつつそこに関わる自分を恥じるというのは、日本人の美しい姿である。同様に、私は日本の実写作品であまりこのような因果応報を表現してほしくない。
「実の財」は個人的レベルでは無邪気に一生懸命エネルギーを発散すれば報われるものであるが、その社会全体での達成には究極の平等主義・差別のない世界が必要なのである。
第二章「官について」
『私たちはプライドで生きる』
【私たちを生かしているのはプライドだ】
私たちが普段まっとうに生活して生きていけるのはプライドに支えられているからである。一般に言われる「プライドなんて無意味なものは捨てて、好きなように生きた方が良い」というアドバイスはたいていの文明社会で有効だが、そこで言われているプライドとは周辺の社会への「見栄」のことで、その見栄を捨てる時にもプライドは必要になる。その意味で、「プライド」とは人間に一番大切なものを選び取る知的判断力である。そのことについて話したい。
仮に私やあなたがイジメられっ子で、イジメっ子の不良から殴る蹴るの暴行を受けて、道路にうずくまっていたとする。何もできずに歯を食いしばるだけ。そしてその時、あなたが身を丸めて守っているものが、あなたのプライドである。その後、その不良が「ほれ、これでもくれてやる」と食いかけの焼きそばパンを投げられても、あなたは食べることはないだろう。プライドがあるからだ。
または、若い女の子のあなたが大金持ちのおじさんから「警察はおさえてあるから、今これから東京の街を一回り、素っ裸で歩いてきてごらん。そうしたら君に一生使い切れないだけのお金をあげよう」と言われたとする。あなたはできるだろうか?ーー通常はプライドがあるからできない。ーーしかしもしあなたの難病のお母さんの命がそのお金があれば助かるとすれば、あなたは社会的プライドを捨て、自分は愛する人を助けるというプライドを取るかもしれない。少なくともあなたのお母さんなら、病気のあなたのために迷いなくそうするだろう。
「恥」と「プライド」は表裏一体なのである。
【最後に残っているのもプライドだ】
かつてケニアで、その年にこれから二百万人が餓死することは間違いないという情報が流れた。(その後も毎年のように話題になってはいるが。)そこでニュージーランドの一人の女社長が立ち上がった。「我が社の製品を無償で送ります。食べてください。」しかし、この提案はケニア政府によって却下された。「お気持ちはありがたいが、受け取るわけにはいかない」。
社長さんの会社はドッグフードの会社だったのだ。ネットのコメント欄には多くの意見が寄せられたが、その大半は「政府がつまらない見栄を張るから、いつも犠牲になるのは国民たちだ」というものだった。しかし、その意見は本当に正しいのだろうか。犬はケニアでは忌むべき対象である。それと同じものを食べろというのは、文化の押しつけであり、プライドの剥奪である。「地球はみな同じ価値観」と綺麗事を言いながら自分たちの価値観を押し付ける、いわゆるグローバリストの行動であり、先のイジメっ子が押し付けた焼きそばパンと同じかもしれない。
【プライドを捨てるのもプライドだ】
私たちの場合はどうであったろうか。日本は敗戦時、すべてを奪われる可能性があった。その時、当時の識者たちがマッカーサーに一つだけ頼んだことがある。「国体だけは残してくれ」。「国体」とは天皇である。国体は日本国民が思いをこめ、すべてを托んできた象徴、つまり「プライド」であった。それさえ残れば、他の何がなくても日本国民は再生するだろう。そしてその日から私たちの先輩たちは、家畜の餌のような食料を食べて生きのびた。そして、20年もたたないうちに先進国として再生した。それは同時に私達に残された文化がたくさんあったからでもある。
ケニアや他の発展途上国の場合はどうなのだろうか。その国の多くが、プライドを保ち復興するにはあまりに多くのものをすでに失っているのではないだろうか。その時、他者が食べ物を供給するのは尊いことである。しかし、常になんらかの互いの「プライド」の確認がなければ、真の復興の道は遠ざかる。もし食料に単にひれ伏すだけの精神バランスになれば、国家としては死に体である。それは発展途上国ばかりではない。きれいごとを唱えながらも他国の戦争で粗利を稼ぐ先進諸国も同様である。
つまらないプライドを捨てるためにもプライドは不可欠なのである。
【差別はプライドを捨てられるプライドがないからはじまるのか】
具体的な国名まで挙げると礼を失していしまいそうなのだが、発展途上国、いまだ政変の絶えない国、最貧国などから日本へ働きに来ている外国人を扱う際に、その会社の社長さんたちがみな異口同音に言うことがある。それが「彼らはプライドが高くて困る」ということである。こうして、仕事ができない人こそが威張っているという現象が起きる。それは同じ民族内、文化圏内ではあまりない。自国の文化が他の文化通用しないときにムッとするというのはよくあることだ。しかしながら、そんなことをしているから、自国が前に進まないのだとも言えるし、ときにはその人の他国におけるその姿勢自体が差別の変形であるという場合もあるだろう。「郷にいれば郷に従え」とはよく言われるが、それは己に一定のプライドがないと「従う」ことすらできないとも言えるのだ。
【「官」の概念】
中国の五行説では「福寿禄官印」という概念があることは以前「実の財・虚の財」のところで触れ、お金や魅力は「禄」に当たるということを話したが、ここでの「プライド」の概念の場合は「官」に当たる。「官」とは「攻撃本能」と言われ、「戦い」と「名誉」を指す。具体的にはスポーツなども含まれる。心の動きとしては「なにかに心を奪われ、それに対して忠誠を尽くして行動する態度」ということである。人が生きるために頑張れるのは、自分が心奪われた存在があるからだ。それは、父親にとっては家族であり、若者にとっては自分の恋人だったり、民族としては祖国だったりするだろう。目標や想いのために自分を律することである。そしてこの心理は実に人間の心の非常に根源的な部分にまで細分化されて浸透しており、それが五本能の一つとして稼動する。
【スカッとしない話】
最近ユーチューブなどで「スカッとした話」と称して、自分を傷つけたり裏切ったりした者が、因果応報的に罰を食らったり復讐をされたりする動画が出回り、人気がある。たとえば、妻が、毎日身を粉にして働いている主人公を不倫で裏切ったところが、彼女の悪巧みは、バレて、結果としては慰謝料を取られて離婚する、といった話である。傷つけられたプライドに対して復讐を果たす話で、類似するものが毎日多数アップされている。その内容をみるたびに、つくづく日本人は精神的に惨めになってきていると感じさせる。自分のプライドが傷つけられた。だから復讐と離婚だということらしいが、恋愛最初期の男女間のプライドの問題をそのまま結婚して成熟しているはずの夫婦の愛に持ち込んでいる。
こうした話では、不遇な自分が抱え込んだ傷ついたプライドを束の間満足させるための惨めな動画鑑賞ということになる。おそらくは、本当に人を愛したことがない不幸な感情がこんな話を作るのではないだろうか。官=つまり好きな人のためになにか全力でしたいという気持ちになったこと、がないということにならないだろうか。復讐が前提となる愛の話は、R指定のエッチな動画などよりもはるかに若者に不適切で有害である。男として女としてのプライドが傷つけられたから、復讐してスカッとするという発想自体がひどく浅ましく未熟である。
結婚したり子供をもったり、またはそうでなくても、人が知る愛というのは、無条件で心奪われた相手を受け入れる姿勢である。しかしこうした「スカッとした話」は愛ですらない。どうでもいい損得勘定と、ちっぽけなプライドの話である。こうした話にとらわれる人が増えているとするならば、それだけ自己中心的で不幸な人間が増えているということではないか。それは人間のプライドを履き違えた姿であり、自分の価値観を樹立できなかった人の末路である。つまり、幸福な人間には考えられないのである。
自分のプライドが傷つけられたからやり返してやってスカッとした、というのは、自分独自のプライドを持つことができなかった不幸な人の姿に過ぎない。「因果応報」という言葉は一見気持ちが良いが、それを期待した段階で、案外不潔なのである。そしてそこには、その人の人生を豊かにする誇りはない。もしあなたが現実にその手の問題に巻き込まれたならば、それは自分の人生の中心にあるものではないと割り切って、さっさと済ませて自分の道に戻ったほうが良い。
正しくプライドを持ちましょう。
第三章「寿について」
『言葉には力があるのだから言論の自由は命がけで守るほどではない』
【言論の自由は「命がけで」守るべきか】
「私はあなたの意見には反対だが、それを主張する権利は命がけで守る」という格言は、実はヴォルテールのものではなく、伝記作家S・G・タレンタイアのものだというのが定説だが、現代の私たちはこの言葉の深さに納得しながらも微妙な違和感を禁じ得ない。「命がけでも」という言葉の勢いについてである。おそらくはタレンタイアの時代にはまだ言論の自由の概念ができてその歴史が浅く、この価値観を最大限に強調する必要があったということはよくわかる。しかしながら、現代はネットに溢れる言動の堆積が人の命を奪う時代である。私たちは、「言論の自由」の圧倒的な重みを実感しつつも、ついに持て余し始めている。言葉はその内包する意味を伝えるだけのものではない。想定以上の威力があり、影響を与えるのである。これは考えてみれば当たり前の話で、私たちが文学や台詞に感動するというのであれば、悪い方向への感動・影響力も必ずあるのである。言葉が人間が扱いかねるほどの重さと量を持ってしまっている。まさに命がいくつあっても足りないのだ。
【一人の生命は全地球よりも重くない】
これはさらに拡張して「人間の命」にも当てはまる。かつて「一人の生命は全地球よりも重い」という言葉が注目されたが、甚だバランスの悪い言葉である。私自身は「一人の生命は全地球よりも重い」と思ったことはない。それは、恋愛3カ月目の男子が恋人に向かって「天地がひっくり返っても君を離さない」というのと同じで、実は意味がない。このような考えに対してはあえて異論を突きつけるべきだ。「人間の命は思ったより軽い」「武士とは死ぬことと見つけたり(葉隠)」といった言葉だ。私は、愛する者のためになら死ねるし、その意味では、私の命が特に重いと思ったことはない。このようなこよとははっきりしておかないと、次のようなことを言うお調子者が現れてくる。
「『一人の命は全地球より重い』でしょう?ーーだから人も法律で殺してはいけないのですよ」と。
もう、こうなると、頭を使って考えているとは言えない。
話を戻すと、現代では、言論の自由を守るやり方が「命がけ」だと、もっと大事なものを失う可能性が大きいので、仮にこのような問いかけを意図的にする人がいたら、あえて「それは命がけで守るべきものではない」と言っておいたほうが良い。
五行説では、人間の命も言論の自由もどちらも「寿」に属する。だからまったく同じ二つのものを天秤にかけているという矛盾を起こすことになる。
しかし、それにつけても、現代社会において「言論封鎖」は暴力以上の暴力だ。言論の自由は命がけで守るべきだ。
【正論は暴力であるーー「言葉の力」とは】
私たちはよく「言論の勝利だ!」といった言い方をする。それは民主主義社会にはたしかに最も大切な概念であるに違いない。しかし、言論に人に及ぼす力がある以上はその負の側面に注視する必要もあるのではないだろうか。先に「命がけで守るほどのものではない」という言い方をしたのは、今私たちが「言論の自由より命を守らなければいけない」という優先順位のジレンマに陥っているからである。
正しい論は主張しなければならない。そうだ! 言葉の力は強いのだ。
暴力や戦争は力の強いほうが勝つので、結果は理不尽なことも多い。しかし、言葉は、正しいことが議論で通ることを前提としているので、「正義=力」なのだ。だから正論は強力な暴力になりうる。しかしながら、この「力」は、甚だ不完全なな「民主主義」と「多数決主義」そして社会的同調圧力に支えられている。であるからやはりその結果は理不尽な場合もあり、未完成だと言わざるを得ない。
正しい事が言論を通じて民主主義によって正当性を得るのは、人類の市民社会がようやく獲得した(ように見える)貴重な勝利かもしれない。しかし、その割にはこれだけ多くの言葉と正義の不当な悪用がはびこっている。人間はまだ自分の打ち立てた法則を十全に運用することすらできないのだ。
この「正しいことを言っているのだから」という姿勢は、傍若無人の攻撃本能につながることもある。よく、たまたま聞きかじった情報をネタに他者にキレる人がいる。たとえば「人を労うのに『ご苦労さま』というのは失礼で『お疲れさま』と言わなければいけない」という情報を得た人が、ある人の「ご苦労さま」発言に烈火のごとく怒ったという事があった。また、かなり離れたところから自分に呼び鈴を鳴らした自転車に対して「人に鳴らすのは違法だ」とキレたという話もある。(次章「ストレス保存の法則」に続く)
こうした人達は、世の中のまずいことを勇気をもって正したいのではない。(むしろ、勇気はない。ノミの心臓である。)彼らは、自分より弱いとわかっている立場の人に暴力を振るいたいだけだ。自分が「正論」だと思ったものをネタに暴力的になる。それは日頃知識の習得精進していない人に起きる特有現象である。
後の「福」の章で、正論で人を説得できない場合を詳しく述べたい。
【「アート」は芸術ではない】
本来のartという言葉は「神が創ったもの」としてのscienceと対照される「人間の造ったもの」という意味合いであるから「芸術」という意味と同時に「技術」も含まれる。日本では、純粋に「芸術」を表す言葉のはずだったが、現代の自称「アーチスト」たちが主張を始め、自分たちの政治的主張のために「これはアートだから」という日本人の言霊信仰心を利用したような言い方で主張し、それが出回り始めた
その人たちのやっているのは芸術活動ではなく、自己満足か政治活動である。外部の価値観に頼らなければならないのなら、その時点でそれは芸術とは言えない。artのうちモノに貢献するのが「技術」であり、ヒトに貢献するのが「芸術」である。
自分の知識や考えを伝える表現のうち
言語伝達 聴覚視覚伝達
他の目的がないもの 気持ちの表現 芸術
他の目的があるもの 公的情報 いわゆるアート
ということになる。
【反抗という甘い蜜】
以前、「バレエは芸術です」と宣言するバレエ・ダンサーの滑稽さについて述べたが、政治に参加する姿勢を見せて「これはアートだから」というのは同様に恥ずかしいし、いやそれ以上に下卑てくる場合もある。(念のために言っておくと、私はバレエが芸術ではないと言っているのではない。バレエが芸術だとわざわざ宣言する態度について言っているのだ。)
私たちは、言論をもって思想を訴えるが、芸術は私達に別の世界を伝える窓である。その芸術を他のもののための手段に使う姿は、本人は勇ましいフリをしているが、実に浅ましい姿である。
やれ「二酸化炭素削減」やら「捕鯨反対」やら、新興宗教で「世界を変えたい」という若者は、大抵が中〜上流階級の出身である。かれらは狡猾な大人たちに利用され人生を潰すことになるが、その原動力は「反抗心」である。この反抗心というのは、おそらく人間の本能の一種だろうから、一時的に発散するのは、人生の道程の一部かもしれないが、大人やメディアにおだてあげられて、いまやデジタル・タトゥーとして永遠に残されることもあるだろう。
この「反抗心」というものは、本気でやり返してこない相手に対してポーズを取ることで自己承認欲求を満たせるという実に安易な手段である。本人たちはこの行為をうっとりと何か意味のあることを自分たちがしていると思いたがっているようである。正直、心の虚ろな人たちにとって、こんなに甘い蜜はない。「アート」といえば、殴り返される可能性もない。何のリスクも責任も負わずに、時には他者を傷つけかねない表現をして、自分は悦に入れるのである。彼らには言論によって相手の理性と知性に訴える術も教養もない。このようなやり方がどうしても残されてしまっている。そこに「表現の自由」への誤解がある。現在流行りのポリティカル・コレクトネスなども異曲同工である。
【概念の取残しを減らす】
今まで「福寿禄官印」の例について話すかたちになってきて、今回はその4回目の「寿」だが、もう一度整理したい。
東洋の陰陽五行説では、自然界での五つの要素(木火土金水)をさらにもう一度理論的に人間社会に展開して、
「福寿禄官印」としてとらえ直している。
官 → 印 → 福 → 寿 → 禄 →(官)...
名誉 → 母性 → 満足 → 健康 → 金銭
攻撃 → 習得 → 守備 → 表現 → 魅力
精神 → 過去 → 現在 → 未来 → 現実
ここでは人間の価値観の中心を「福」におき、考える。詳しい話はさておき、ここでは同じ列に縦に並んだ、一見対照的とも言える概念が、同じ性質を持つことを確認すると良い。たとえば、「禄」における「金銭」と「魅力」は人が皆同様に欲しがるものという点で、社会では同じものになる。共通点は「多すぎるとろくなことにならないもの」ということである。
こうしてここから私たち現代人が取りこぼし、そのためにかなり愚かな判断をしてしまっている側面があぶり出される。
今回は「寿」、つまり人間の「寿命」と「表現本能」への価値感覚の話である。
【「寿」と「表現本能」について】
私たちは、幼い時から外部での自分の経験を家族に話したがり、お絵描きをし、芸術創作をし、自分の経験や仕事を次の世代に残そうとする。これらは皆同じ心の動きであり、若い時にはあれほど欲しかったお金、いくらあっても構わないと考えていたお金も、年を取ると子供や孫に与えるのが至高の喜びだったりする。それは私たちの未来感覚とつながっている。
この感覚が強い人と弱い人がいるのもたしかであるが、万人がある程度、「五本能」の一つとしてベースに持っている。
「寿」の概念一番重要なものは、子孫である。であるから、子供に死なれるくらいの不幸は他にない。それは「未来」を失ったことを無理やり認識させられることである。
私たちは未来を意識しないと生きることが辛い。だから、表現し、後世に残そうとする。その気持ちが強いと「芸術」や「発明」になり、意識が現在寄りで、未来への気持ちが弱いと「芸能」になる。
【表現することは生きようとすることである】
「寿」と「表現本能」の関係の話に戻ると、私達にとって、受容したすべての情報は、それが感じたものであれ考えたものであれ、発散しないと身体がもたない。赤ちゃんの時、つまり、習得本能も表現本能も未発達の段階では、それは欲望でもストレスでもない。しかしお母さんに赤ちゃん語で話しかけられた瞬間からそれは一転する。私たちは情報を獲得しないで生き続けることはできないし、獲得した時点でそれを発散する五行の循環システムに組み込まれる。
前回、「あなたの言論の権利は命をかけてでも守る」という言い方に異を唱えたが、つまり、「表現本能」とは「生きようとすること」であって、「生きること」ではない。「生きようとすること」を守るために「生きること」を賭けるのは、本末転倒である。
13世紀、神聖ローマ帝国のフリードリッヒ2世皇帝は、『人は言葉を習わなくても話すようになるのか?』実験するために、身寄りのない赤ちゃんを集め、侍女達に母乳やオムツ、入浴などの最低限の世話以外、話しかけることなどを禁じた。その結果、2歳になる前に全員死んでしまったという。この残酷な実験が指し示すものは、対話をする、表現をするということが、人間のかなり根源的な生の構造と結びついているということだ。そしてその不運な赤子たちは、「生きること」を奪われたから死んだのではない。「生きようとすること」を奪われたから死んだのだ。
第四章「印について」
『ファクトチェックはフェイクニュースである』
【勉強には「先生」が必要】
「印」の話はその性質上「教育論」と被るが、主に、個人における精神的姿勢の視点から述べてみたい。
日本における「先生」という教師への呼称は、なんとしてでもな守らければいけない。たとえばアメリカでは、高校まで教師のことは「ミスター」「ミズ」で呼ぶ。大学では教授なら「プロフェッサー」という具合に社会的地位を呼称として付け加える。これは、欧米の傾向で、アジアでは日本と同様に「〜先生」とするのが一般的だ。しかしながらこのような用法はその国の文化によってニュアンスがかなり変わる。韓国では家族である両親にも尊敬語を使うし、このことで親子の情が深まっているかといえば必ずしもそうではない。少なくとも一部の韓国人留学生は日本のむしろルーズな親子間の会話について、「羨ましい」という感想を持っている。
その一方で、現代日本において「先生」という言葉はまことにうまく機能していて、まさにちょうどよいのである。それは、東洋の五行説によるところの「印」の概念をまことにうまく消化しているからである。
これは、一つには、教室の中の一人の年配の管理者を自分との関係で「先生」と位置づけることで、それ以外の社会全体に対しても、仮想的に「先生」という存在を前提にすることになるということである。これは、日本文化の相手を尊重する謙譲の精神と一致する。学校の先生の多くは父兄よりも年下だったりする。しかし父兄やPTAにとっても彼らは「先生」なのである。これは、たとえばアメリカでは早期(1970年代)に崩壊した。モンスターペアレンツ(向こうでは「ヘリコプター・ペアレンツ」という)のクレームに学校側が安易に屈したため、小中高の教師の社会的地位は落ち込み、現在もほぼブルーカラーの扱いになっている。「先生ブランド」の喪失である。日本では、子どもたちの学校の先生に限らずとも、カルチャースクールなどでも専門の講師には、若い講師に対しても喜んで「先生」を使う。こうした習慣によって、私たちはたとえどこででも相手を尊重する準備を忘れることがない。
【楽しいばかりでは授業ではない】
こうした「先生」という呼び方だけなら、他のアジアの諸国でも見られるのではないかという質問が出る。これは、その教育が、あくまで「印」の概念にのっとっていることが重要である。「印」の概念を踏襲するためには、まずその内容が、少なくともその時代においては真実・事実でなければならない。それが、国家による国民扇動のためのプロパガンダであってはならない。たとえば、歴史の教育などで過度に愛国心ばかりをあおる場合、それは既に「印」の法則から外れる。感情を伴った習得はある意味、エンターテイメントであり、楽しいものである。しかし、本当の「印」の働きとなる学習対象は、まだ学習途中の者の感情のとおりになるものであってはいけない。教育とは、冷然たる事実の手応えや解釈不能の不思議や不条理も含めて「事実=真実」として教え教わるものでなければならない。
【投機的関係】
そして、そこには、「先生」に対するある種の絶対的信頼、投機(禅の仏教用語で、師弟の両者の心機が投合すること)を必要とする。文化的に、カンニングが平気であったり、点数を稼ぐだけのための競争に過ぎなかったりする環境では、「印」が正常に働いているとは言えない。であるから、果たしてAIやインターネットだけで学習が可能かというと、この「印」の状況が揃うだけの付加的環境が整っていない限りは難しい。「先生」という人間がそこに存在する重みというものを体感する方が、習得本能の活用には早いのである。現実の先生がいらないとするのは、幼児の養育に完全看護のケアが揃っていれば母親は要らないというに等しい。「印」とは、関係性であり相互性である。仮にその教師があまり立派な人格ではなかったとしても、いないよりずっと良い。まさに「反面教師」という言葉のとおりになるのである。私たちは体験なしに学ぶことはできない。
【自分の心の中の「先生」を尊敬しない人は成績が伸び得ない】
この原理はさらに、遥かに抽象化されて私たち一人一人の心のなかで「学ぶ」姿勢という精神文化の構成につながってゆくという重要な働きがある。何を見てもどこにいても上記のような態度で「学ぼう」とする姿勢が生まれる。
その意味では、自分の先生を尊敬できない者は学習を成就することはできない。学習態度でその学生の成績が分かるというのはこのような場合である。
先述のように「印」とは、冷然たる事実の手応えや解釈不能の不思議や不条理も含めて「事実=真実」として教え教わるものである。つまりその意味では本質的にエンターテイメント(禄)ではない。その関係性を自分の心の中に備えるということは一生の財産である。いつも心に「先生」を。それは未知のものに遭遇したとき、その事実を冷静に見極め自分の中に取り込もうとする精神である。
【「楽しい授業」の危険性】
近年では、「わかる授業」「楽しい授業」がもてはやされる傾向にあるが、それはまず困難な義務教育があった上での話である。問題意識を持った学生が「ああ、わかった」と感じる、ある意味孤独な精神活動である。「わかりやすい先生」というのは当然いてしかるべきなのだが、それも行き過ぎると、一種のエンターテイメント化し「印」から遠ざかり始める。(その意味で、「頭の良い人は説明がうまい」といった考え方は、実はズレまくっている)。
その意味で「ハーヴァード大学の熱血授業」といったタイトルの一般的書籍や記事によって、その内容について読者が相応のものを吸収したと考えるのは、意識の上では甚だ不健全なのである。(そしてこの種の「わかりやすい先生」がマスメディアで権威を持つことは大変胡散臭く危険なのだがそれはいずれ別項で述べたい。
【「先生」文化の展開】
テレビドラマやマンガ、アニメの世界に「先生もの」は多い。「とびだせ青春」「金八先生」はては「暗殺教室」など、「先生」が登場する作品にはすべてこの精神が流れている。「まいっちんぐマチコ先生」などは単なるハレンチギャグものなのかといえば、むしろ逆である。先生という関係性をどこまでキャラクターとして拡張して受け入れられるかという一種の文化的実験である。そのような先生が現実にはいなくて良い。しかし、心の中で柔軟に受け入れることは大いに意味がある。学校の父兄たちは、明らかに社会的に若輩にあたる新任の教師を「あらあら、若くて可愛い先生ね」などと言うことがよくあるが、「先生」という言葉が本来持っている権威との落差を楽しみ受け入れている姿なのである。
【大学キャンパスの意義】
一方、後者の「ホームルーム教室授業制」は、実情としては功罪相半ばする問題だが、あえて挙げておきたい。一対一の学びも大切だが、習得が、毎日変わらない集団の中にあるというのも貴重なことであり、また先生と生徒が「一対多」であることも重要である。しかしこの環境は今やいじめや登校拒否といった問題を伴ってしまっているので、全面的に肯定が難しいかもしれない。学校は社会性を学ぶ重要な場所であるが、それと同時に、「習得」が個人的環境に収まらず広い空間の中に存在していることを体感する得難い機会である。大学に広いキャンパスがあるのも同様の理由であり、それは受験生を惹きつけるツールであるのみならず、「印」の本質につながっているのである。
【習得と母の共通性】
「印」とは、習得と同時に母性を示すのだが、赤ん坊が最初に母親と交わす対話こそが「印」の本質でもある。中には「私の母は「知性」とはほど遠い人でした」などという場合もあるだろう。しかし、それは論点ではない。学ぶ姿勢の根本とは母に対する気持ちと同じ、「先生=先に生まれてきた存在」という関係性・精神的姿勢にある。それは「目上・目下」といった社会的関係性が関与するとは限らない。まずは一対一の関係性である。クラス授業はそれを一対多まで拡張してみる場である。その意味で「教える」「教わる」というのは、尊敬の念であると同時に「ちょっと可笑しな」対等の関係でもあるのだ。
学ぶことを意識することほど幸せになれることは他にないかもしれない。それは母親との「ちょっと可笑しな」関係を確認することでもあるからだ。
【頭が良い?】
よく、受験勉強で成績の良い人を「頭が良い」と言うが、その人が本当に知識のやり取りから学ぶ充実感を知っているかと言えば、そうとは限らない。それはたまたま能力が現実の「頭が良い」の基準に適していただけである。
たとえば現在の政治家の中にはすべての物事を一回で記憶してしまい、一般の人の何倍ものスピードで仕事をこなせる人がいる。しかしながら、私にはその人がどうしても「印」を正当に使っている、いわゆる「頭の良い人」には見えないのだ。彼のような人は競争原理(官)で頭を使っているのではないか。それは人を見下すには都合が良いが、それ以上のものではない。現代日本では「印」と「官」は混同されやすい。(その意味では、「寿」と「禄」も同様である。)「印」という精神作用は道具ではない。人間の生きがいとすべき目的の一つである。その意味で、「論理的であることと科学的であること」で述べたように、自分は科学的姿勢を持っているから知的だと考える人はその時点で知的ではないし、自分が理系だからと文系と称される人と区別する傾向も、悪しき自己紹介をしているようなものである。それは自分が社会において有用であることを、知的であると勘違いしている姿であり、既に「印」の謙虚さから離れている。少なくともそのような人の意見には、必然的に欠点が内包されることになる。
【「中庸」を探し当てるための道程】
この言い方は軽薄でさすがに見破られているが、「はい、論破」といった、イエスかノーかで物事を判断することが議論の上で爽快だともてはやされたことがある。(そしてそれはすぐに消えた。)私たちが会議をするのは方針を定めるためだが、それは本来はイエスかノーかの極端な結論を見出すためのものではない。孔子やアリストテレスが言う「中庸」は、人間が考えに考えた結果到達するのは、必ずしも誰にでもわかるわけではない総合判断だということであり、それは機械が導き出すような極論ではありえない。そしてもちろん、情報の数量の単なる中央値ではない。すべての情報とその判断には,人間にとって最も適切な「中庸」値がある。この中庸を精確に素早く導き出すには、カントが言うような「美」への直感が必要であり、それは「芸術哲学」を通して得られる。
【「フェイクニュースはファクトチェックで分かる」というのは、「何も考えるな」と言っているのと同じである】
大変興味深い現象だと思っているのは、巷に出回っている「フェイクニュースを見やぶれ!」的な本のほとんどすべて(しかし決して「すべて」ではない)が、内容が必ずフェイクニュース化している事実である。つまり「『フェイクニュースを見破れ』というフェイクニュース」である。若い学生が、批判的情報収集法の第一歩としてこの種の本を読むのは有効かもしれないが、こうした本を大の大人が金科玉条のごとく信仰していたらそれは既に洗脳が完了された姿かもしれない。「オレオレ詐欺には絶対引っかからない」と言っている高齢者がいとも容易く被害に遭ったり、「催眠術にはかからないぞ」という意識が強い人ほど、催眠術師はかけやすいという事実とも似てくる皮肉である。
それはさておき、有名なところでは、テレビで人気の某知識人氏も同様の本をシリーズで出して売れたようだが、インターネットでは彼の「ニュースそうだったのか」は「ニュースうそだったのか」だと揶揄されている。それ程まで彼の言説には荒唐無稽の偏向報道が多いからである。
私は小論文の指導などでこの話題を取り上げるときには、図書館に行ってランダムに「フェイクニュース」か「ファクトチェック」というキーワードで探った本を借りてくる。それだけで、事足りるのだ。「フェイクニュースに騙されるな」「ファクトチェックしよう」という書籍に載せられている例のほとんどが、それ自体悪質なフェイクニュースになっているからである。この種の本を借りてきて学生たちに「ほら、ここにフェイクニュースが書いてあるだろう?」といえばそれで済むのである。これは、SDGsが、理念自体は間違っていないはずなのに現実としては世界的悪徳であるのにも似ている。
こうした書物ではなぜか必ず、作者が考える方に話を持っていきたいという無理がかかるのである。その胡散臭さは意識して読むだけで誰もが気がつくのではないか。もし確証を得たいなら、5年以上前に出版されたこの手の本を吟味してみればわかる。作者がよほどの慧眼をお持ちでない限り、いまやめちゃくちゃなものだが当時は正しいと錯覚していたものを、ファクトチェックの結果としているにすぎない。自分のファクトチェックの結果の正当性を断言するにはその当時の世界観と価値観ですべての真実が解るはずだという、甚だお粗末で傲慢な妄想を基にしているのだが、もちろんそれ以上に、そういう方向に人を煽ることで自分が得をするからである。これはつまり、まさにフェイクニュースである。
もちろん、こうしたフェイクニュース対策としてのファクトチェックの手法として、「一次情報の確認」「友達の言ったことは信じやすい」「怒りは拡散しやすい」といった方法や知識がたくさん書かれている。それはそれぞれの知識人が自分なりに蓄積してきた確認事項のようなものであり、読者にとって有効な場合もある。しかしそれは、根本的な前進にはならない。フェイクニュースでなくとも、情報というものは、常に増大し刷新される。一種のイタチごっこである。科学哲学では早くからこの性質に気づき、ポパーは、「科学の特徴は『反証可能性』である」とし、今も最も確からしい科学の本質の一つとされている。(一つの既存の定義や学説に対し否定する情報がでたらそれは間違っているものだとする可能性を、常にはらんでいるという前提。一般に宗教の対極にある。)しかしながら、寿命が限られ自ずから絶えず変化する人間ー個体において、こんな無責任な定義を中心に据えるわけにはいかない。ナマモノである人間にとって、情報もまたナマモノであり、それがモノだけを扱う科学とは違うところである。フェイクニュース対策はおそらく科学以上のスピードで刷新されるので、人間にとって常に反証される位置にある。人間にとっては、科学が時間を越えてモノを扱う以上に、その時その時の情報の真実性の深さのようなものがより重要になってくるのである。
【そもそもファクトチェック】
もともと「ファクトチェック」という言葉の出処からして怪しいものである。アメリカ大統領選挙に関するフェイクニュース、元々フェイクニュースを量産している世界のビッグ・マスメディアの報道で情報をチェックするという日本マスメディアの怠慢、FacebookやYouTube等でアメリカ大統領候補の名前や新型コロナワクチンの用語を入れるだけでBANされる現実、いまや多くのフェイクが明らかになっている兵庫県百条委員会が元々県知事を引きずり下ろすためのものであった事実など、これらの関係者が声高に拡散するのが「ファクトチェックを!」という言葉である。「ファクトチェック」という言葉は素朴な市民を欺く便利なツールとなっているのだ。
本当に我々に有効な答えを見出すためには、先述の「中庸」の利用に当たる、「う~ん、どうもおかしいな」というような、芸術哲学的直観による総合判断をまず礎としなければいけない。
【現代で必要な演繹法】
このインターネット時代において起こしがちな錯覚だが、論証は私たちの目に飛び込んできた限られた事実から行うものではない。事実は無数にある。それでは順序が逆である。私たちはできる限り正確な推論(仮説)を立て、自分の仮説と最も違う事象がその仮説を否定していないかを見なければいけない。既に本の作者に仮説を立ててもらってスタートしている時点でファクトチェックは成立しない。このような本の作者は、自分の発見した方法論に夢中になっているか、読者を欺こうとしているかのどちらかに過ぎない。
個々の事実 → 論証 (いわゆる帰納法)
仮説 → 個々の事実 (いわゆる演繹法)
(帰納法は具体的な事例から一般的な法則を導く手法、演繹法は一般的な原則から具体的な結論を導く手法)
私たちは、個々の事実を根拠にするのはあまりに莫大な情報の海に呑まれている。では仮説を立てる演繹法が常に正しいのかといえば、もちろんそうではない。この二つの手法は本来まったく別の方法ではない。同じ思考の中の対極にある視点にすぎない。ただ、現代の情報の中で私たちには、演繹的思考の手前で精確な仮説を常に立て続ける必要性に迫られている。この仮説の前にどのくらい思考を積んだかが重要になってくるのである。そしてそれには、日本の既存の詰め込み的受験勉強と、現在欠けている芸術哲学が必要になってくるのだ。
【「見えるもの」しか証拠にならない、のか?】
一般に、あるものは証拠になるがないものは証拠にならない。とすれば、一般に揶揄されるマスメディアの「報道しない自由」は実に有効に悪用されることにもなる。ここで気をつけなければいけないのは、情報の上での「証拠不十分」である。たとえば法律などで人を裁く場合は証拠が不十分であれば細心の注意が必要である。基本的には一般の情報もすべてそうであるべきなのだが、実際のメディア上では、自分達に都合の悪い情報は消しまくっている。私たちはそれら全般に「知らなかったのだからしょうがない」として、口をつぐむ傾向にある。「ない」ものを「ある」とすることはできないが、「ない」こと自体について疑うことはできる。多くのファクトチェッカーは、この原理には鈍感である。しかし、情報を集めるだけ集めて「これで確実だ」とする判断の時代は終わっているのだ。私たちは新しい情報社会で、もう一段大人にならなければいけないのだ。
第五章「福について」
『人は幸福でないと反省できず「ボヘミアン・ラプソディ」は反省していない』
【正論で人を説得できない場合】
前の章で、「正論は力を持つので凶器になりうる」という話をしたが、その続きである。
そして、正論で人を説得できない場合もある。凶悪犯罪者などの場合である。
人間が生きるその核にある五行は「福」である。この概念は、「守備本能」といい、自分の満足感、および自分という存在を何よりも独立してもたせようという本能である。
よく人は自分が窮地に追い込まれると咄嗟に嘘をつく。それは、普段ならその人の口から出るとは思えないような見事な虚偽である。(ちなみにこれは、因縁の五行分類による「守備本能」と対応するものとして「間者の因縁」と呼ばれる。)ほぼ極刑が決まっている犯罪者が再教育を受け反省の弁を述べるときなどは大抵これに相当する。極刑が決まるのは、その判断が抗いようのない正論だからだ。正論は何よりも強力な「正義が勝った」姿(五行では「官」にあたる)であり、そうでなければいけない。正論でいえば、自分は滅びるのだ。この極限状態において、個体としての人間は、たいていの場合、「官」ではなくて「福」を選ぶ。本能的に生き延びようと考えるのだ。その意味で、彼らは心の中で、自分が間違っているという意識構造を持つことができない。であるから、極刑とまでは行かなくてもそこに追い込まれた人間は、「平気」または「余裕」を保つか、謝ったフリをするしかない。
「いや、自己否定をして反省する人間もいるじゃないか」という意見がある。しかしそれは、その人が反省したとき、許される余地があるときである。たとえば、時代劇で悪人が反省することがあるのは、それは幕府の絶対的権力があり、裁いた後にお上によって許されるからである。もし、正論で言い負かされた後であれば、人が反省することはまずない。私たちが「ごめんなさい」と言えたのは、遠く幼少期に両親の愛のもとにいたからである。親と彼らを取り巻く環境は絶対に私たちそれぞれを許すからだ。日本人がよく謝るのは自分の周囲の世界を信じ、自分の過ちが許されると信じているからだ。多くの日本人は、アメリカ人が裁判等で決して謝らない姿を見て、違和感を覚えるだろう。彼らは、日本人のような安定した世界観を持っていない。つまり、市民意識の高い社会にいない。彼らは一神教の神に許しを請うだけだ。それは現実の贖罪ではない。ある意味、無責任で虫の良い、そして絶望的な心理行動である。
クイーンの大ヒット曲「ボヘミアン・ラプソディ」でのメイン・ボーカル・パートは「ママ、僕はいま人を殺してしまった」から始まるが、日本人の考える贖罪ではない。殺した対象には無関心なのである。
【正論を言うには「受容」が前提】
これらの意味から、自分が悪いと思っている犯罪者は決して反省しない。「反省しろ」というのは最もな意見だがはそれはその人がマウントを取りたいだけであり、その人が相手に本当に反省してほしいならまず相手を受け入れる姿勢がなければ片手落ちである。受容するつもりもない第三者が「反省しろ」と他者に言うのは無責任である。だからこそ私たちには厳罰をも辞さない司法が必要なのである。
では、犯罪者が自ら反省するのは、どんな時だろうか。それはたとえばその人間がその事件を忘れるほどの間、幸せになり社会で成功して、孫たちに囲まれて、庭でロッキング・チェアに揺られ、たまたまなにかのきっかけにその事件を思い出したときだろう。
「ああ、あのときは悪かったな...」
私たちは、犯罪者に贖罪させるために幸せになってもらうほど寛容になれなくて当然である。
さて、ここで私たち日本人が「ちょっと待て」と振り返るべきことがある。それは、果たして欧米の人がときには死刑廃止まで押しつけて主張する、「贖罪」意識は、本当にユニバーサルな概念なのだろうか。私たちの贖罪意識とは根本的に異なるのではないか。というのも、彼らは根本的に神に謝ることが普遍的な贖罪である、それは、概念としては間違っていない。しかし、同族の個体同士の価値判断として正しいのだろうか。私たちは神ではない。だから、神のようにはできもしない「受容」という概念を被害者にまで押しつけてくるのは、限界がある。中南米の国々は基本的にキリスト教だが、あの治安の悪さはどうであろう。許すばかりが神ではないはずだ。または、神はいないのか。
【好きな男性】
あるセクシー女優が「好きなタイプの男性」について聞かれた。彼女は容姿端麗、スタイル抜群で、異性交際には困ったことはないだろう。そのような人が、では敢えて男性を好きになる条件を一つつけるとすれば「自分自身を好きな人」だという言い方をした。これは、深い発言で、それは「赤ちゃんがかわいい」と言うのと同じことである。赤ちゃんは自己充足しており、自分が与える意識も与えられている意識もままならず、純粋に「愛」そのものである。私たちが究極的に愛するのは、対象となる相手の人だけが持つ「自己愛」である。自分を愛せない人が人から愛されるなんて実は滅多にない。無心に生きようとする姿こそが生命の根源である。「福」というものはまことにそういうものである。他の何に役に立つから好きになるわけではない。それはただ純粋にかわいいのである。(また、それが個人個人の立場を超えて観照できるのが、芸術作品なのである。)
【受験と恋愛なら恋愛を選べ】
私の青春時代、留学から帰り日本で高校生活があと半年、という時に、いわゆる「モテ期」が来た。受験直前である。「受験か、恋愛か」ーー私は迷うことなく恋愛を取った。私は勉強はできたので受験から逃げたかったのではない。人生におけるその時の恋愛の貴重度というものがまったく受験とは比較にならなかったのだ。その結果、受験は失敗し、恋愛関係も破綻した。しかしそれでもあの時期は本当に、良かった。あの時の自分の判断があったから今の自分がある。
受験は待ってくれるが、人と愛し合える機会は待ってくれない時もある。「皆遊んでいる時に自分はそんなことができずに勉強した。だから今の私がある」とつぶやく人が多い。それも良いだろう。しかしその人がそのことを繰り返し言っているのはどうだろう。私はそんなことを繰り返し言う人生は避けたい。その裏には、その後社会人になっても延々とそれを言い続けるほどのストレスがあるからではないか。
であるから、恋愛の機会があったらいつでもしたほうが良い。中には「私は恋愛は必要ない」という人がいるが、それはそう意識して選択した時点で、その判断は正しい。
人間は愛されることによって自己確認する。最初は両親から、そして異性を、と人生が進む。自分がそこにいるだけで意味があるのだという確認のために、重要な体験である。
私はよく新学期に受験生たちに言う。「これから君たちには受験をサボるために都合の良い様々な環境や言い訳が生じる。それをゲームをやるようにクリアしていかなければいけない。やれ田舎のおばあちゃんが死にそうだとか、やれ部活が最後の大会だとかだ。それらは君たちに怠けの絶好の口実を与える。君らは嬉々として勉強しない正当性に甘んじるのだ。そうならないように一つ一つクリアしてゆかなければいけない。社会では誰もそんな言い訳は聞いてくれない。」
「では、もしモテ期が来たらどうするか?ーー『絶対に恋愛を選べ』」
こう言われると学生たちは当惑する。(何を言っているんだ?この先生は!)こちらは、「このくらい言っておけば、彼らは自分なりに判断できるだろう」という思惑がある。私は、人生の後輩たちに、人生の大事なものを体験せずに、受験で就職で勝ち抜き、電車で痴漢をするような人間になってほしくない。人生にも「ストレス保存の法則」が働いているのだ。少なくともあとで「先生があの時厳しく遊びを禁止してくれたから今の私があります。ありがとうございます」と言われると、嬉しいような、その一面「こいつ、大丈夫か?」と感じるような気持ち悪さがある。
ある時、第一志望の難関校に合格した男子生徒があいさつに来た。
「受かりました。ありがとうございます。ただ、、、、」
「ただ,、、?」
「親戚の訃報もあり、部活の仲間からも引っ張られ、ただ、モテ期だけが来なかったんです。」
「そ、そうか、、、。」
こうして男同士二人で暗くなっていた。
予備校の事務のお姉さんから奇異の目で見られた。
「合格したんですよね???」
(女にはどうせわかんねぇよ)
【ロックは恋だが本当の愛か?】
主張できるものは恋であって愛ではない。恋は陶酔だが、愛は陽だまりである。一部のポピュラー音楽で声高に、「心から愛してる〜」と歌われると、それ自体、本当の愛から遠ざかっているように感じることがある。まず、一つには、声高な恋は、半分位、自己愛による陶酔を含んでいる。それはエネルギッシュで純粋なものであることに違いはあるまい。また、自分の子供を抱いている人は叫ばない。
しかし、人は自分の子供と遊んでいるとき理屈を越えた情けない気分になる。それは、それまでの中年男子のイケイケドンドンのライフスタイルから否応なしに「陽だまり」という人間の本来の幸せに引き戻される瞬間でもあったからだ。
ちなみに私が本当の愛を歌っていると感じる歌はサルヴァトーレ・アダモの「さあ、帰っておいで」(Alors reviens moi · Salvatore Adamo)のようなものだ。(決してロックやそのほかのポピュラーと差をつけているわけではない。)この曲は、赤ちゃんを抱いているときであるかのように十分に「理屈を越えた情けない気持ち」にさせてくれるからだ。
以前、「人が幸福なのは無知だからだ」と書いた。そしてそれでも人は向上と変化を求めて、知を求め(印)発散する(寿)。さらに他者との交流で利益(財)と名誉(官)を求める。人類が知の果実をかじって以来、これはどうしようもなく繰り返されてきた。それでもなお私たちは静止した「福」を求める。私たちは一種の動物状態から束の間でも人間になりたいはずだ。それにはすべての欲望や名誉といった虚飾を取り除いた、一種の「陽だまり」状態を求めるはずだ。若者の恋の叫びは著しく愛の「陽だまり」からはずれているが、あとになって自分が実はその時陽だまりの中にいたことに気づくものだ。
第三部 芸術哲学の勧め
(西洋からのアプローチ)
第一章 探求芸術と共感芸術
『第九交響曲とビートルズ』
【探求芸術と共感芸術】
一般に芸術作品またはその鑑賞態度をそろそろ分類すべきではなかろうか。
先にざっくり記しておく。
探究芸術=象徴詩、クラシック音楽、ルネッサンス絵画、古典文学
共感芸術=ミステリー小説、俳句、サブカルチャー、映画、ジャズ
すべての芸術作品とその鑑賞の姿勢は、この二つの極の間のどこかにある。
たとえば、小説なら、ミステリー小説は共感芸術に近い。一方、今はそれほど読まれていない明治大正の純文学なら探究芸術よりかもしれない。
【探求芸術】
かつての欧米文化を中心に、絵画ではルネッサンス以後印象派頃までの長い期間、音楽ではベートーヴェン登場頃までに、確立した芸術作品への視点として確立したもの。大衆的というよりは数少ない天才的才能を持つ作者がその人生の中で掘り下げて創作したもの。同時代の一般大衆にはわかりにくく後世になってから評価されることも多い。(作者がどのような意図を持っていたかは直接関係ない。)欧米でのこの視点は、音楽において「コンサートホール」絵画において「額縁」の概念を生んだ。作品は日常生活から切り取られ、「芸術」という形式を意識的に与えられた。強い形式への意識に守られており、作品と鑑賞者の距離感は、ある程度意識され、それゆえ、鑑賞者は周囲の現実や日常の感情から入るというよりも、作品に集中しその外部から隔離された世界に没入する性質が強い。
人は他分野を学ぶことによって、自分が感じることの可能性を推察しなくてはいけない。探究芸術への姿勢はこうした精神である。そしてそれが人類を正しい方向に導くという点で、芸術の存在意義のひとつとなっている。
【説明がないとわからない芸術作品】
「ピカソは説明がないとわからないのでは?」という意見がある。これは一種の探究芸術批判である。この質問者の場合はおそらく「日本にはアニメのような強力な共感芸術形態があるのだから、現在既に直感的には形骸化されたこうした「名作」を重視する必要はないのでは」という視点である。しかし、考えてみてほしいのだが、ピカソの絵画の説明を聞けば周辺情報が増え理解に近づくように感じられるかもしれないが、もとより芸術作品は説明を聞いて理解できるものではない。あくまで手がかりである。つまり、この質問者は、芸術作品が解説または理論的解釈によって、理解できるものだという前提に立っているという点で、本当の芸術体験は自分には今までにないと自己暴露しているようなものなのである。おそらくこの人にも、アニメ作品に感動し分析する瞬間はあるだろう。しかし、それ自体は、他の媒体、数字や言語による理論構築に頼って鑑賞しているという点で、探究芸術を体験したことがないということになる。たとえば「アヴェ・マリア」の単旋律の音楽を言葉で解説できるだろうか?シューベルトの伝記を読めば親しみは増すであろうが、それは説明にはならない。つまり、「ピカソは説明でわかる」という発想自体が芸術とは無縁の立場なのである。
このような主張は、このような立場が、人間の可能性の未知の側面に蓋をして、自分達の思考媒体の枠の中でしか物事を許容しない姿勢にすぎないということになる。このような立場の人は自分が柔軟な思考の持ち主だと考えているかもしれないが、実は学校や社会で認められていることしか許容しないカチンカチンの頭脳の持ち主である。
人は他分野を学ぶことによって、自分の感じることの可能性を推察しなくてはいけない。たとえば、マンガ作品のディテールをどんなに深く読み込んでも、一度距離を取って俯瞰し言語意識によって分析できないものを把握し直さない限りはそれは、ときには単なる「興奮」をも含んだ、あくまで共感芸術的姿勢である。カタルシスは得られるだろう。しかし、地の地平線を切り開くことはない。
誤解ないように言っておくと、共感芸術が劣ると言うのではない。探求芸術作品と共感芸術作品はそれぞれに同等の価値があり、また、探求芸術への感動体験と共感芸術への感動体験も同様に存在する。
【共感芸術】
大衆芸術、サブカルチャーなども含まれる場合があり、日本文化における、鑑賞者たち全員のコンセンサスがなんらかの形で得られる形態。(「みんなが同じように理解し感じ方を共有できる」と錯覚できるもの。)極端な例では、あいだみつを作品や俵万智作品などがわかりやすい。(日本では昭和初期に話題となった「第二芸術論」などもこれを扱っている)。一般の大衆娯楽から始まることが多いかもしれないが、共感芸術が必ずしも芸術作品として質が低いわけではない。元来、共感芸術の質が上がるためには、一国民・民族の高い意識が必要であり、それは日本でなければ難しかったという側面もある。世界最古の恋愛小説は紫式部の『源氏物語』だが、ダンテの『神曲』の300年も前に書かれており、しかも『神曲』以上に本物の小説であった。さらに、それが女性によって独自の大和言葉で書かれていて漢語がほとんどない。これらの特徴は、平安時代の貴族社会が文化的に成熟し、こうした作品を共感芸術として受け入れる土壌ができあがっていたことが大きい。共感芸術とは、大衆芸術とはイコールではない。鑑賞者の大半が、作品を作っている側も鑑賞している側も高いレベルでコンセンサスを得ていること、つまり「みな同じ人間」と思っている状況が前提である。この非常に高い人間平等意識(共通の文化的教養)があって共感芸術は高い次元で成立する。
共感芸術はその作品のみならず、鑑賞者の存在に重きがおかれる。それは表現者に対する心からのリスペクトであり、その態度は人間に限らず科学的分野にも普遍的精神価値を見いだそうとする、真の文化的価値観を生み出す。
【差別と共感芸術】
日本では、子供向けのマンガ、そしてアニメーションが世界を席巻している。どうしてこのようなことが日本人しか成しえていないのか。それは前述のような「みな同じ人間」的そして単一民族的意識も根拠のひとつであるにちがいない。
「前世紀からアメリカには黒人の歌手はいたではないか」といった意見があるが、それは他国の差別の構造を知らない者の意見である。アメリカの黒人ジャズドラマー、アート・ブレイキーが日本に来たとき、彼とまったく差別意識なく写真に収まろうとした日本のファンたちに感動し、親日家になり日本人女性と結婚したことはよく知られるところである。つまり、他国ではアーチストが差別されリスペクトされないということは当たり前にあるのである。その意味で、ちょうど中世の宮廷音楽家の身分が低かったように、有色人音楽家達は一種の猿回しのように扱われていた側面もあったのだ。
マンガ作品でしばしば黒い肌で描かれたキャラクターの表出やスカートめくりの場面や過激な描写が、昭和の時代から当たり前のように出ていた。マンガはそれによって幅広い表現形式を得ることができた。大人の漫画家たちは子供たちと感情や感覚を共有することによって、子供たちに人気のある作品を生み出したのであり、子供たちも大人の漫画家たちに共感と敬意を抱いていた。それは日本の平和的な単一民族的意識が生み出したものである。差別意識ではない。
複数の民族や人種が混在する環境の方が差別を誘発しやすいというのは、人間の皮肉な特性であるが、日本における高純度の共感芸術的姿勢の達成は、日本が島国であったことやその他民族的文化的に比較的統一されていたことなども、重要な要素となっている。とはいえ、ほぼ同様の条件を備えていたイギリスやアイルランドでどうしてそれが起きていないのかと考えてゆくと、これは決して単純な地理=文化論では明らかにできないことがわかる。
【芸術と哲学の今日】
芸術に対する欧米文化の最大の貢献は、コンサートホールと額縁を発明したことだと私は考えている。これによって作品は現実から切り離され、たとえば17世紀以後の宮廷音楽家たちなら、徐々にパトロンの御用達の地位から逃れ独立できる素地ができた。こうして芸術作品の独立性は認められ、作品内部に過度に干渉される勢力は弱められたはずだった。
その後20世紀になると、その前半は科学の進歩の圧倒的な説得力に屈し、哲学者たちは本来果たすべき規範作りを怠ってきた。また、後半から今世紀に至っては、その多くの人々が過去の哲学書のテキスト分析と、社会科学的立場との融合によって、生き残りをはかろうとしているといっても過言ではない。私たちは、強力な主観というものを重んじずに来た。それが現状である。しかし、その間も、芸術自体は大いに発達した。まさに現代アート、映画、ポピュラー音楽の充実、サブカルチャーの商業的繁栄などである。それらはアカデミー賞やロックの殿堂など様々な意匠をもって評価されている。
それでもなお、現代ほど、日本のそして世界のノームとなるような哲学が欠乏し、それが望まれている時代はないのではないだろうか。それは「感性」に基づく哲学であり、端的に言えば芸術哲学である。「感性」という視点はどのように論じられるべきか。本来、「科学」や「数字」はあくまでモノを分析する学問であり、「言葉」や「社会科学」の分野は人間と人間の間のコンセンサスの問題の一種の域を出ない。それに対し「芸術」や「感性」とは、まだ、数字や言葉以外の価値体系が、私たち人間の認識と判断の背後に残されていることを雄弁に暗示している。そしてこれこそが、もっと早くから迷える人類の進むべき方向性を指し示すべきだった。
【芸術作品とポリコレ】
しかしながら、21世紀に至り、社会がグローバリスト達の影響を受けると、芸術は思わぬ悪影響を被ることになる。それが現在のポリティカル・コレクトネスである。これによってディズニーのティンカーベルは黒人が演じ、スーパーマンが男性の恋人とキスをするようになった。外部の思想を作品内に無理矢理押し込むことで作品の芸術性が破壊された。こうした作品群は、おそらくは(そして願わくば)、21世紀初頭の「文化的怪異」として時代の波の中で葬り去られることであろう。しかし、同時代に多感な幼少期を過ごしている子供達・若者達にしてみればいい迷惑である。
政治的社会的な価値観を芸術作品に無理矢理にねじ込むことは、文化の破壊行為である。それは芸術の進化や発達ではない。
22世紀の芸術解説者はしたり顔で「21世紀にはこんな風潮があったんですよ」と語り、それを聞いている人々は「彼の解説のおかげで芸術がわかった」と喜ぶのだろうか。
【アートという用語】
また、現代日本では、元々同じ言葉を、日本語において「芸術」と「アート」と、用語を使い分けることによって、わからないままに利用している語法がはびこっているのかもしれない。
前者は本来純粋に概念に対して用いられていたため、現在具体的に作品に適用される場合デモンストレーションでも一定の抽象的な本来の意味を維持している。(もっとも、たとえば、サッカー選手について「彼のシュートは芸術だ」と言った言い方はされるにしても、むしろそれは形容詞として、芸術作品へのリスペクトの上に成り立っている。この形容は「アート」という言葉でされることはまずない。)
一方、「アート」は、主に同時代の文化的活動や作品に対して、「これも『芸術』としての立場や原理や価値として評価してもいいのではないか」という意味で使われる。この結果、本来の「芸術」作品の価値に重きをおかない価値観の人間が、芸術的でないものに芸術と同等の評価を与えようとして使うということになる。この時点で、発言者は自らの認識と資質を暴露していることになる。本当に芸術を愛する人間であれば「これは芸術だ」と言えばすむ話である。が、ここであえて「アート」とするのは、主張する側が薄々それが芸術とは一線を画すると気がついているからであり、自ら自己の無用な劣等感を露にしていることにもなりかねない。その意味で日本での「アート」という表現というか主張は、とても評価できるものではない。芸術にやれることがなくなったので、アートという挑戦のような態度を取ることで新しいもの産み出そうとすることにも限界があるだろう。この現代日本人が「アート」という言葉に翻弄されるきっかけになったのは、サルバトール・ダリという道化の存在である。私はダリを天才扱いする人の判断を信じない。それは芸術作品を理解できない人の立場にみえる。
そもそも日本文化が本来同じ"art "という言葉を「芸術」と「アート」という言い方で分割したこと自体が苦渋の選択だったのではないか。私は今のところ、日本人の90%は英語が活用できない方がいいと考えている。わざわざ英語という、より粗い表現単位をいれることで、日本文化を破壊する必要はない。言語はもっとも強力な文化の守護神であり、日本人においてはそれは日本語に他ならない。これを捨てる必要はない。
ここには先述の芸術作品にどこまで現実を混入して許されるかという問題、ポリコレの問題も残されている。最近では愛知トリエンナーレの問題があった。「アートだから許される」という幼稚な理屈にさすがに一般の日本人も辟易した。その意味でもやはり、日本人の90%は英語が活用できない方がいいのである。一つの国家で二つの別系統の言語が繁栄することはない。私たちが「芸術」と「アート」という言葉を捨て"art "という言葉で一括しさらにそれを漫画も作れない民族と共有することになると、日本は、世界は、どこまで劣化することになるのだろう。
【ジブリ作品の偉大さ】
ジブリ作品を代表とする宮崎駿監督作品は、その高品質で世界から愛され、日本の誇りでもある。しかし、中でも今一度注目して頂きたいのは宮崎監督の強烈な作品への形式感である。宮崎氏は、知る限りでは戦後の反原発主義者であり、その思想には批判的な人は多い。原発の良し悪しの問題ではなく、この世代の人々に特有の非合理的なまでの反体制的態度が、垣間見られるからである。しかし、宮崎氏が偉大であったのは、そのような主張を持ちながら、自身の映像作品にはまったく反映させなかったことである。(あえてあげるなら1995年CHAGE and ASKAのプロモーションビデオ「On Your Mark」に垣間見られるが、これも現在ではマニアの楽しい分析ネタとなっている。)「風の谷のナウシカ」であってもたしかに環境破壊を訴える映画であることには違いないかもしれない。しかし、彼の創作者としての美意識・良心には一点の曇りもない。その時代や現実から隔離させた晴朗さが私の胸を打つのである。
(しかし、現実の宮崎駿という人物が乖離しているというニュースが最近は多い。私も大変批判的である。と同時に私たちは試されることになるだろう。)
このように考えてゆくと、ロック音楽においてたとえばエリック・クラプトンの人気作品「ティアーズ・イン・ヘヴン」が彼の亡き息子を悼む歌だとかという分析が非常に危ういものを含んでいるということに気がつくべきであろう。
【第9交響曲】
ベートーヴェン交響曲第9番のテーマは、「探求芸術から共感芸術へ」である。
私はベートーヴェンの最後の交響曲第9番「合唱」は大好きである。特に好きなのは第一楽章で、晩年のベートーヴェンのたどり着いたベートーヴェンらしさである。それはベートーヴェンの探究芸術的な側面の頂点のひとつである。その一方で一般には第4楽章が人気である。年末になると、ときにはこの楽章だけを取り上げて、大衆参加の合唱コンサートが催される。これは人々の「感情の器」になりやすく、その意味で、共感芸術であるからだ。年末に第9を歌うという風習に、欧米の人々は驚くようだが、日本人はこうして探究芸術としてのクラシック作品を、最高度のリスペクトを込めて、共感芸術化したのである。
(また、ここに芸術史におけるパラドックスが起きたということも付記しておきたい。というのも、一般に「ベートーヴェンの第9によってロマン派が開かれた」という言い方がされるが実際には、第9によって探究芸術から共感芸術への変容がなぞらえられたことで、音楽史は、宮廷音楽のような共感芸術から、ロマン派の個々の芸術家による探究芸術への道を歩んでいったのである。すなわち、いずれにしても健全だった十九世紀では、個々の作品の芸術的深化は進んだのである。しかし、
その音楽史的な流れとは関係なく、今も第9は演奏される度に、探究芸術体験を共感芸術体験へと導く働きをしている。)
【ビートルズの業績】
ベートーヴェンの第9の事例と対照的な現象が、ビートルズのスタジオ・ミュージシャン化である。ビートルズは当時全世界で空前絶後の人気を得て、ビルボード全米第1位から第5位までを独占した。しかし、その7枚目のアルバム『リボルバー』頃から一切のコンサート活動を意識的にやめ、実験的で自己探究型の作品群を生み出すことになる。これは先のベートーヴェンの場合と対照的な現象で、まさに「共感芸術から探求芸術へ」のストレートな活動であった。第9の場合も同様だがこれらはベートーヴェンやビートルズの高い意識によってのみ達成されたものではない。第9の場合は現代に至るまでの日本の欧米文化吸収のわかりやすい例であり、ビートルズの場合はその後も「自己の芸術を極める」という姿勢を取る若いミュージシャンは多いが、彼らは必ずしもこれらにあてはまっていない。ビートルズは、それまで大衆音楽の位置に過ぎなかったロック音楽を普遍的な芸術の位置にまで引き上げた点でもまさに革命であった。
一方、現在のロック・コンサートは一般にどうであろう。大抵の場合、コンサートホールの音は大きすぎ響きすぎて、決して冷静な鑑賞に耐えるものではないという向きもあろう。ファイルやCDで聴いたものをより共感芸術的に確認するために集うのである。
【「自己の音楽性を追求する」アーチスト】
このような意識の流れを経て、現在では多くのミュージシャンが「自己の音楽性を追求する」という姿勢を取っている。その人たちは自分の世界こだわり豪華な衣装や音楽的仕掛けをもってステージ上などで「私の芸術世界」を再現する。ファンは、それを「芸術を再現するために努力をしている教祖様」であるかのように心酔している。しかし、私はこうした表現は探究芸術の殻を被った共感芸術にすぎないと感じられる。やたらと熱唱する歌手も同様である。好きであれば構わないのだが、そこに「自己追求」という薄っぺらな主題が盛り込まれると鼻白むのだ。その追求は誰のため、何のためなのだろうか。それはそんなにカッコいいと感じられるのだろうか。
情熱的な歌唱で人を巻き込む歌手は、共感芸術としての魅力を持つ。それは一期一会の貴重な体験かもしれない。それは共感芸術の一つのかたちであるが、しかし、それは作品に集中して鑑賞者が芸術を探究しているわけではない。アーチストが自己の探究的姿勢を打ち出すのは安っぽい自己宣伝にすぎない。ベートーヴェンの音楽でも彼の自己追求の姿に価値があるわけではない。それは伝記的次元の話である。時には彼の自己探究的なシリアスさを鑑賞者が自己の境遇となぞらえることはあるかもしれない。それは第五交響曲などにおいて多発する。しかし、それらもすべて、まずは鑑賞者が深くベートーヴェンの作品自体と対峙しその内面世界を自分なりに追い求めるという行為があってこそである。実質のない自己探求などに付き合う人はいない。しかし、現代日本では、共感芸術文化ゆえに、実質よりも自己探究の姿自体に酔いしれている人もいるようである。それは一種の讃美歌のようである。努力と友情を歌詞にすれば売れる歌も同様かもしれない。であれば、「はしれ、ちょうとっきゅう」といった童謡の方がはるかに純粋な探究音楽だということになる。
【映画評論家の良心】
良心的な、分析力のある映画評論家の多くが共通して言う言い方がある。それは「映画は最高の娯楽作品だ」という言い方である。これは本当に対象の本質を捉えた謙虚かつ聡明な発言である。映画は、現実自体を素材に、視覚と聴覚の両方を媒体とする、かなり具象的な表現作品形態である。その感動が芸術であるかということは個々の体験によるのだが、映画評論家が「映画は芸術だ」と乱暴な言い方をしないところは、本当に本質を捉えているのではないか。
また、監督やその他の映画製作者は、「音楽にはかなわない」という言い方をする。それは聴覚という単一の媒体しか使わない表現形態が本質的に持つ抽象性こそが、その形式と象徴の力によって莫大な情報量をもたらす、その力になかなか対抗はできないからである。
映画の素晴らしさは具体的であるがゆえに、有機的である。時代や鑑賞者個人の体験や成長などとも連関しやすい。これらの価値を本当に見据えたとき、映画評論家は「最高の娯楽作品だ」という言葉になるのである。
【歌がうまいということ】
私はビートルズのコピー・バンドは日本人が一番だと思っている。日本人はビートルズのように白人にもなれないし、英語の発音もままならないかもしれない。しかし、それでもポール・マッカートニーは自分の誕生日に日本人のビートルズ・コピー・バンド、パロッツを呼んだ。
コピー・バンドは単に物真似をするだけなら日本人は不利だろう。しかし、私たちもポールも、「ね、似てるでしょ」と思いたいわけではない。ビートルズが目指していた音楽を再現してほしいのだ。それは、当時のビートルズ本人でさえもなにか自分達の演奏と歌声の先にあるなにかを目指していたのであり、自分達が単にアイドル的に自己表現していたわけではない。それはアイドルであって芸術家の姿勢ではないからだ。日本人演奏家は基本的にこの姿勢を本能的にとる。つまり芸術作品に対するリスペクトが先行する。毎月のようにアップされるインターネット上のビートルズのカバー演奏の動画をチェックする度に日本人以外の多くの「プロ・ビートルズ・カバー・バンド」がステージ上でいかにいい加減な演奏をしているかには恐れ入る。それが英米人だったりするとさらに、見かけを似せようとしすぎて、ある種の照れが加わる。私たちはビートルズ音楽を、生の機材で再体験をしたいのであって、物真似演芸を見たいのではない。体験したいビートルズと同じ視線でビートルズの追い求めていた音を真摯に追うこと、これしか真の芸術再現に近づく方法はない。
先日、テレビでアマチュアによるカラオケ選手権大会を見た。数時間にわたる長大なものだったが、たまたま、感動させるものが何もなかった。(感動させるものがある回もちろんあるだろう。)彼らは大変歌がうまく人間としても魅力的にみえた。しかし、彼らは、歌っている歌手に似せようとしているのであって、その歌手の目指そうとしているものを共に追っているわけではない。であるから、どこまでいっても魅力的ではないのだ。
ジョン・レノンは単にビブラート等の技術でいえば一番うまい歌手ではないかもしれない。しかし、音楽家の本能として自分の狙う音楽性をはずすことはない。その精度とダイナミズムにおいて上回る歌手は滅多にいない。音程が正確かビブラートが利いているかといった基準だけでは、物真似とカラオケ以上にはならないことが多いのである。
【21世紀日本文化の役割】
2024年初頭、山崎貴監督による映画「ゴジラ-1」が世界中で空前のヒットとなった。これは本来なら1954年の初代ゴジラの発表の時点で世界が理解しなければいけなかったものを、その後の日本の映画文化の下降も含め、理解ができるようになるまでこれだけ時間がかかったという見方もできる。何はともあれ私は本作品を劇場でみてようやく世界がわかる時が来たと予感した。各国の国民が、戦争のPTSD を理解できるようになりそこに共感できるようになったということも大きいが、それ以上に「戦後の状況を扱いながらそれをどのような現実や一方的価値観に着地させなかった」ということが重要なのである。世界はそれによって、共感芸術の究極の姿をみたのであった。
たしかに、既にアニメ作品でもそのような表現を日本は発信し続けていた。しかし、それはスイスにおける「アルプスの少女ハイジ」などというように、鑑賞者はまさか日本人が製作しているとは思っていなかった。(その水準の認識である。)そしてディズニーは「ジャングル大帝」をパクり「ライオンキング」を作って平気であった。(「ゴジラ-1」でもそれができるのだろうか?作品の真の精神性をパクるというのはどうやるのだろうか。)
音楽において「ウィー・アー・ザ・ワールド」のように世界を繋ぐのは容易であるように見えた。しかしそれは現実の効力としてどれだけのものだっただろうか。それは探究芸術としての音楽が各個人に強いる集中力に万人が必ずしも対応できず、また、共感芸術としては抽象的体験にとどまり、人の認識を変えるところまではなかなか行きにくいからである。共感芸術としての映画の場合そのような問題は少ない。その代わりに、具体性ゆえに鑑賞者の立ち位置や環境の問題が生じがちであった。少なくとも日本文化が目指すところとしては「ゴジラ-1」でこの問題は払拭されている。共感するということはユニバーサルなものであるはずだという夢が一つかなったのである。
では、現実にこれからどうなるのだろうか。かつて世界ではじめて人種差別撤廃条約を提案したのは日本だ。それを潰したのは英米だった。では「ゴジラ-1」における再生の物語には、どのような逆風が待ち受けているのだろうか。しかし、日本は無邪気にこれからもこうした作品を作り続けるだろう。そしてそれは世界を変えてゆくだろう。世界はそれに耐えられるだろうか。耐えて変革していただかなくては困るのだが、それによって人類は多少はましなステージに上がるだろう。そのときには、BLMのような力による訴えや、「世界に平和を」といったお題目がなされずとも、一歩前進できるのではないだろうか。
【探究芸術と共感芸術への補足】
この二つの用語について、「それは作品の本質の問題ではなくて鑑賞者の精神的態度の問題だけなのではないか」と唱える人も出てくるかもしれない。しかしそれは、対象の本質を見誤り、なるべく卑俗な思考単位に振り分けることで、自ら思考停止に陥ろうとする軽率な判断である。今まで人々はそうやって自分がわかる範囲内の狭隘な判断によって、いつも通りの相対主義に逃げ込み、本質の探究を避けてきた。前の章で述べた「人それぞれ」論である。
一つの作品は必ずしもこの二極化された分類のどちらか一方に属するわけではない。しかし、逆に「絶対に探究芸術ではない」と言いきれるもの、または「絶対に共感芸術ではない」と言いきれるものは存在する。この分類はたしかに具体的作品そのものではないかもしれない。しかし、作品がこのどちらにより属するのかということは、鑑賞者の精神的態度によって決まるのではない。それは芸術作品の完成度の固有性に対する冒涜である。この分類はたしかに芸術鑑賞者側ではなく、芸術作品側の本質の一端である。芸術鑑賞者の側だけで決まるのであれば、それは既に芸術作品ではない。自然でもスポーツでも良いということになる。(自然やスポーツが芸術であるかどうかはここでは論じ得ない。しかし、ここで言う「芸術作品」ではないことだけはたしかだ。)言い換えれば、人間がその作品を「芸術作品」だと認める限りは、その作品は「探究芸術」と「共感芸術」の間のどこかに位置しているのである。
作品はその創作の段階で作者が共感芸術だという認識が強ければ強いほど、多くの人に受け入れられるいわゆるエンターテイメントとしての性質に傾倒する。それは表現者として自然なことである。その一方で、探究芸術として自分の作品を強く意識している創作者は、仮に今誰から理解されなくても己の信じる形に成立させたいと考えている。もちろんそのような創作者の方が人一倍鑑賞者からの評価を求めている場合も多い。そして創作者側の意識としては探究芸術のつもりでも結果として鑑賞者側には共感芸術になってしまう場合もあれば、その反対もある。
次の四種類に分類してみよう。
創作者の意向 → 鑑賞者の意向 形容例
A 探究 → 探究 ミケランジェロ ランボー
B 共感 → 共感 相田みつを、初期マンガ 演奏家が楽しむ音楽
C 探究 → 共感 職人気質、マンガ作画家 バレエ
D 共感 → 探究 戯作者精神、太宰治 イマジン、マネ
この四区分を実態としてさらにそれぞれ二例の行程と結果で説明する。
a は創作者がその構造を認識している例であり、 bは誤解または破滅的判断をしている例である。
A 探究 → 探究
a ミケランジェロは、その天才を早くから認められ、周囲と妥協せずに自分の芸術家としての人生を全うした。大衆を相手に媚びることもなかった。
b 詩人アルチュール・ランボーは二十歳までに人類史上最高の詩群を書き終え、しかし、そのすべてを焼き払おうとした。これは本人がその作品が人との共感を本質的に求めない質のものだという認識が先行しすぎて、自ら否定しようとした例である。(幸い、彼の借金のために出版社によって差し押さえられ、現代まで生き残った。ここの段でAaになった。)
また、一般にはたしかに探究的な作品なのだが、全く売れることを前提としていないものもここに含まれる。売れなかったマンガや詩集の中にはそのようなものもあるかもしれない。
さらに、歴史上書かれた文章などで今も研究の対象にはなっているが、文学的価値の無いもの(スカスカの古典)などはここに入る。
B 共感 → 共感
a 相田みつをの詩は本質的に一般鑑賞者との共感を前提としている。作者本人は匿名の鑑賞者たちと人間の感性として同じであることを前提としている。
日本の最初期のマンガもここに属するかも知れないが、マンガ文化と技術は急速に発達した。現代ではほとんどのマンガが通常Cに属し、名作といわれるものはDに属することになる。もちろん、その精神において素朴なまま高い人気を維持している子供向きマンガ作品などにはそのままここに位置していると言える場合もあるだろう。
スーパーマンなどのアメリカン・コミックは残念ながらその商業的性質もあって、構造的にはこの分野にとどまっている。
お笑い文化もここに近いが、芸能は肉体と現実そして時代の補佐のウエイトが高すぎて、ここではあまり論じるべきではない。
b 「音楽は自分がまず楽しくやらなければいけない」というロック・ミュージシャンなどがこれに当たる。お金をとって聴きに来てもらっているコンサートで仮に本当に仲間内の意識だけでやっているのであれば、それは音楽演奏を完成させようという作品意識を有する態度とは言えない。それは宴会である。これはもちろん当人たちの才能または認識の度合いによって変わる。
さらに「私は芸術家としてこれを再現したい」という情熱を観客にぶつけることで共感を生み、実際の探究芸術的価値とは関係なく、「自己の芸術性を表現した」と錯覚するアーティストは多い。ここには鑑賞者が「この人は高貴な芸術を再現しようとしているのだ」という信仰がある。これはたまたま創作者の別の人間的な魅力や流行によって達成されることが多い。そして面白いことにこれはほぼ日本特有の現象である。しかしながら、大きな目でみれば、学校の学芸会の延長に過ぎないかもしれない。そしてそれは外部の人間があれこれいうことでもない。
C 探究 → 共感
a 漫画の作画家は、漫画原作者の意向を最大限に活かすことだけを目的としている職人でありプロフェッショナルである。作画家は売れなければ存在価値がないことを深く自認している。その点で常に最も誠実な創作者の一種類である。
b 近年バレエの練習に励む若者が「バレエは芸術です」と主張して話題になった。ダンサーの側の努力自体はたしかに芸術とするに値するほど精緻なものかもしれない。しかし、それがどのように精緻なものであっても、それは舞台上でそれは鑑賞者が認識して楽しむ部分ではない。それは共感を生むものでなければ成立し得ない。よって、この発言はバレエダンサーの無教養な傲りに過ぎない。一般鑑賞者がバレエ・パフォーマンスを探究芸術として捉えるのは、その筋の専門家以外ほぼ不可能であり、それこそが、バレエに限らず同様の構造を持っているパフォーマンスが周囲からの援助なしには継続できない理由でもある。これらは決してバレエ自体の尊厳を傷つけるものではないが、しかしそれでも「私はこんなにメイクを工夫したのだから美人なんだ!」と訴える人のように滑稽である。
D 共感 → 探究
a 太宰治など、戯作者精神が昇華した場合などがこれに当たる。
さらに一般的には古典落語などもこれに近いかもしれない。ポイントは、ほぼ日本特有の現象である。無限に反復して鑑賞が可能であるところだ。しかし、この分野も「笑い」という感情を前提とするので、ここに区分するのは誤解を招きやすいかもしれない。
b ジョン・レノンは、「ポールが書いた、人気のある「イエスタデイ」のような作品を自分も書きたい」と考えて「イマジン」を書いたが、これはむしろ精神性の強い探究芸術的に評価されている。才能が娯楽的要素を拒絶した。これは無意識型天才に多い例である。同様にエデュアール・マネがサロンで成功しようとしてうまく行かず「印象派の父」として評価されたことなどもある意味同様である。
総合すると、AとDが探究芸術である。つまり結果として、作品が自律的に鑑賞者に探究的態度を要求する場合に、探究芸術は成立する。すなわち、探究芸術か共感芸術かは、作品によって決まる。また、共感芸術と言えるのは、Ba 、Caということになる。Bb 、Cb は一種の勘違いの例である。
これは区分上こうなったが、おそらくBとCの分量は現代社会において莫大である。人々は別に芸術として意識せずとも、さまざまな人間表現のあり方、芸能、エンターテイメントとして作品を楽しめるので、その意味で大きな力を持っている。しかも共感芸術の分野にとって幸運だったのは、国民や民族のマジョリティー(通常、中間層)の層が厚ければ厚いほど、この分野は豊かな力(説得力・伝播力)を持ち、その結果の一例がが現代のマンガ文化である。
また、先の章で述べた通り、その活動においてベートーベンの第九交響曲は「A→C」へ移行した例であり、ビートルズの公演活動の中止とその後のスタジオミュージシャン化は「C→A」の例である。
第二章 芸術哲学について
「人はそれぞれ」と断じる愚かさについて
【芸術における良い作品と良くない作品】
「芸術」というと、現代の私たちはしばしば「主観なのだから芸術作品に良いとか悪いとかはない」という言い方をする。しかしそれは、芸術作品における「感動」を構成する「感情」と「感覚」を混同しているのではなかろうか。これらは別のものである。
人は自分の好きな作品を批判されそうな兆しがあると、「主観なのだから芸術作品に良いとか悪いとかはない」と反論する。それは自分の感じたものに自信をもてない存在の劣等感である。私たちは自明のものにはそのようには反応しない。たとえば、とても美味しいお菓子を食べているときに「このお菓子は美味しくない」と言われても人は逆上しない。「・・・そうか?俺は好きだけど。」で済んでしまうはずだ。そして、「芸術は良いも悪いもない」と強硬に主張する人に限って普段はその芸術を愛してはいない。日頃はそれほど集中もせずに「娯楽・気晴らし」として見たり聴いたりしているだけである。しかし、それゆえに、即興の芸術論の場では声を大にして主張するのである。つまり、自分が確信が定かでない分野について、「人間平等」という別の価値観から、自分の劣等感を隠すために、自分の守備範囲外の「芸術」という分野を批判しようとしているだけである。(野球を好きでない人間は、野球の本質について語るべきではない。)
芸術作品が人間のなんらかの精神活動の技術的具現化である以上、良いものと劣るものは存在する。
【「人はそれぞれ」と断じる愚かさについて】
芸術において、「人それぞれ」という言葉を用いて、対象の価値を決めるやりとりそのものを否定する態度がある。しかし、人間は何が正しくて何が間違っているのかという真理を追求してゆく生き物である。それ自体が人間の定義であるといってもよい。それが芸術作品鑑賞にも適用されるということである。適用されるということは、大学に美学等の教科があるということであり、芸術家の立場が、かつてのような河原乞食的身分ではないことを意味する。
「絶対的な真理などなく真理とは相対的である」という相対主義哲学に基づく芸術観は、現代人からは安易に共感されやすい。「これこそが絶対的真理だ!」と主張するよりも、「人それぞれだよね」と言う方が大人で、柔軟で視野の広い印象を与えるからだ。これは現代の高度に発達した社会の人間関係における処世術としても「賢い」印象を与える。現代の社会科学的原理に基づいた動きを考慮しているという点で「頭がいい」という印象を与えるのである。人とむやみな衝突をせずに事を有利に進めることは、考えることを拒絶している多くの人々に支持されやすい。また、芸術に関しては、わかりにくい作品に対してのむやみな劣等感を刺激しなくてすむ。人がこの問題に触れ、否定に走るのを日常的にみるとき、この現代でも感情抜きで語れる人は少ないものだなと実感させられるのだ。
この相対主義は、現実の世の中ではなおさら「人それぞれで、絶対的な真理なんかないんだから、そんなもの目指さなくてもいい」「何事も絶対的に決められないんだから、適当でいいんじゃない?」と、いう思考停止に陥る。特に民主主義国家の場合には致命的である。考えない「多数決」は無責任な衆愚政治になるからだ。これは、人間一人一人が別個に意思を持つ存在である限り、避けることはできず、政治や社会だけではなく、美意識などの人間の(一見)内面の問題のように感じられるものにも適用する。というか、それが「探究芸術」である。
紀元前400年ごろ、こうした相対主義の祖であるプロタゴラスの思想に対して、ソクラテスは「人間は絶対的な価値・真理を追究していく存在である」と主張した。そして、無知の自覚こそが真理への情熱を呼び起こすとした。これが「無知の知」である。
芸術作品、特に探究芸術の立場では、人は常に「何も知らない」状態におかれる。それは芸術作品が言葉や数字による一切の理解を拒絶している現実から始まるからだ。私たちが言葉を失うのは、「愛」と「美」の前においてのみだ。私たちは芸術に感動する時、すべてを自分流に一から集中し考え直さなければならない。そこに人類に与えられた、最も高度な思考がある。人間が常に作り出してきた文化や芸術による「美」は、私たち人間一人一人の個体における「愛」から、本能と欲望を切り離す。
この意味では、数字の計算が速いこと、人への心遣いにおいて器用であること、絵画作品の文化的時代考証をするだけで理解した気持ちになること等が、いかに人間の頭脳の利用において、お粗末なことかがわかる。
【なにかに気がつくということ】
人間の頭の良さとは何であろう。私は「なにかに気がついている」ことだと考える。それ以外の、いわゆる知識に基づく思考はすべて、灰塵に帰する。たしかに、初歩的な思考の練習として「まず感情を排そう」というものがあり、次には「たしかな事実に基づこう」というものがある。では、その「たしかな事実」とはあなたにとって何であろうか。学校で無批判に教わった科学や言語ではないのか。それを疑う術を自分なりに学んだだろうか。恐らくはほとんどの人がそれを考えたことはないのではないか。ということは、つまり、その点において、本当に考えてはいないのである。その意味でも、探究芸術の姿勢は、あなたの認識の世界に一石を投じるだろう。
カントは、最終的に「美」だけが無条件で求められるものとした。(「趣味とは、すべての関心なしでの満足ないしは不満足による対象ないしは表象様式の判定能力のことである。そのような満足の対象が美しいと呼ばれる」)しかしながら、カントの時代にはまだ、芸術文化は完全には開花していなかった。しかしその手がかりの数少ない状況であっても、カントの慧眼は美の本質を見抜いたのである。むしろ、証拠が揃わない時期に理論づくめで証明してくれて本当によかった。
それからショーペンハウエルがその思想を深めた。しかし、その思想系列は、科学による次世代を予見したニーチェによってむしろ閉ざされることになり、その後芸術哲学、いや哲学全体の暗黒時代が始まった。
【主観は客観的である】
また、その意味で、「主観」は客観的な場合もある。これは主観と客観が一般には対象概念でありながら、その概念の定義基準が異なることから来る。客観は、対象を数値と再現性(時間の無視)からとらえられることが多く、主観は個体としての人間が知覚したり感情として催したりしたもの全てが内包されるので、「客観的だが主観的な存在」という芸術作品のようなものが存在しうる。これは「普遍性」と呼ばれる。先のカントが「美」としたものと言ってもよい。
客観=人間が物体を見極める際の視点
主観=人間が人間を見極める際の視点
この二つは、人間が芸術作品に接するとき、溶解する。この二つは芸術作品において同じものである。よってこの二つは、一見対称軸にあるようでいて実は対称的ではない。
つまり「客観←→主観」または「客観≠主観」ではない。「客観=主観」になりうるのである。
【感覚の構造】
「感動」を構成する「感情」と「感覚」は別のものである。
感情はあくまで、知覚認識(いわゆるカントがいうところの「悟性」)から、最終的に派生するものなので、作品の価値に関わらない。
まだ科学と言葉による認識以外の分野があまり対象とされていなかったカントの時代において、人間の認識は以下のようにとらえられた(極めてドイツ的である)。
感性→悟性→理性
しかし、芸術の感動を加味すると
感性→悟性→理性
→感興(感情と感覚)
この広く「感性」と名付けられているものは、A芸術作品自体の持つ各要素が当たるが、これがA 単に鑑賞者の(興奮も含めた)感情の想起をもたらす、いわば「感情の器」になるか、B 鑑賞者に自己の感じ方を問い探究をもたらす「感覚」を導くかによって二分できる。
Aは、本能を含む肉体の状態や時代、流行、力関係を含む環境によるところもある。一方Bは、人間が自己にとっての真実または永遠といえるものを求める態度による。長い目でみて人間を歴史の上で導くのはBの要素であり、A要素はむしろ人間が単なる動物として自然界に流される要素となる。
【判別条件】
A とBの違いは、A は、作者が作者らしくあればあるほど普遍性が減る、または抽象性が増せば増すほど、情報量は減る。(感動のための補助的条件は、時代や肉体から与えられる)。一方、Bは、作者らしくあればあるほど普遍的になる。つまり個別性は普遍性につながる。そして抽象性が増すほど情報量が増える。すなわち単純さが象徴を生む。(補助条件は「形式(感)」である。)
たとえば、なぜあれほど繊細で有機的だった、比較的若い頃のベートーヴェンやピカソが晩年極度の単純化へと向かったのか。なぜ、モーツァルトやジョン・レノンといった天才たちが終生単純な芸術作品のみを生産したのか。それは、芸術におけるこの原理が働いているからである。
わかりやすくいえば、「単純さは情報を増加させる」ということである。
【探求芸術と批評】
「探求芸術が言語による平明な解説を許さないというなら、わからない人とっては、外部から物的手がかりが与えられにくく、芸術作品の解説が得られないのではないか」という意見も出そうだが、批評においては小林秀雄がこの分野の可能性に肉薄している。よって、当時海外の批評家の一部からは小林批評は「何の証明もされていず、文芸批評とは言えない」という意見もあった。しかし、先述の「なにかに気がつく」ということは何らかの発想の飛躍を取り込むことである。小林の批評はそうした飛躍を促す警句に満ちている。思えば、現代の私たちは常にこうして考える機会に恵まれているはずではないか。
芸術批評はしかしながら、商業的パブリケーションと相性が悪い。批評家は本当によい作品ばかりを論じ続けることはできない。同じ作家の末端作品までくまなく愛さなければならない。こうして「世俗的解説者」が活躍することになる。彼らは教育現場の教師の方々同様、学ぼうとする人々に刺激を与える。彼らが必ずしも、芸術作品深い理解者とは限らない。
私たちの中ですべての探究芸術にアクセスできる人間はわずかかもしれない。しかし、それらが自分達の認識の辺境にたしかに、価値ある形で存在していることを意識し続けることで、自分達が愚かな道に進むことを妨げることはできる。
【解説者の存在】
一般には、事実関係だけを説明する「世俗的解説者」は決して害ではなく、有効な形で存在している。その人たちは、芸術作品の真価を説明することはない。仮に説明したくなるほど理解が深い人がいてもそのような人はまず、大衆から受け入れられることはない。芸術は大好きだが実は深く理解せずとにかく好きでその選択も玉石混淆という人の方が、一般の入門者との架け橋になるのである。したがって、一見難解と思われる作品は、解説者の知識自体によって理解するのではない。それはあくまでヒントにすぎない。あとえば、ピカソ作品をその当時創作事情を知ることは有効なヒントではあるが、もしそれだけで解ったと思う人がいれば、その人はその後ピカソ作品を愛することはないであろう。そしてまた、こうした人々に「わかった!」感を与える技能を持つ人は、あまりその芸術作品を理解していない場合が多いのである。この場合、むしろ「発想の飛躍」があるという点で鑑賞者の方が創作的で、芸術家に近い。
【アイコン芸術】
この造語は先記2種類の分類とは違い、芸術作品のおかれた社会的状態である。たとえば、レオナルド・ダ・ビンチの『モナリザ』はその典型である。探究芸術が共感芸術の環境にさらされている場合が多いのではないか。つまり、「その作品に価値があるまたはあったことは認めるにしても、今一つ感興を催さない。ただ、社会的に広く「名作」とされているから評価している」という鑑賞者層が多い場合である。このような作品のほとんどが本来非常に高い価値を持っているが、一時的に時代の価値判断との調和的接点を失っている場合などが多い。すなわち、「古典」の意味合いに近い。もちろん芸術的価値の薄いもので注目され続けているものも含まれ、その意味で、筆者はここで早々に「古典」という用語と分離させ意識してもらう方が良いのではと考えている。
さらに、どうしてこのような造語が必要なのかというと、たとえば、最近頻発している欧米での、美術館の名画にペンキをぶちまける行為におけるその行為者の意識を明確にする効用がある。現在「古典だね!」という言葉には「すぐには魅力を感じないけれどね」という否定的意味合いが含まれることがある。それは鑑賞者が対象を、一瞬「アイコン芸術」と認識してしまったことによる。または、その作品の過去からの形式感が強すぎて、その形式が現在までの他の芸術作品の源泉になっていることには気がつかずに、「おきまりのパターン」と認識してしまうことによる。(外野からは、オチがわかりきっている古典落語の価値がわからないことに似ている。)しかし、こうした完成した形式のもたらす芸術の表現効果は時代を越えて強力であり、鑑賞者が集中することで結果その感興を得られることが多い。
アイコン芸術は、存在価値が高い。それを日々の生活に中ではす目に見ながら受け入れることが大切である。なぜなら永遠というものとの距離感を通して、今の自分を確認する作業に繋がるからだ。
【数字や言葉で表されないものへの正しい感性】
現在までに私たちは、人にとってのモノを分析する数字と科学、そして、外部的人間関係(人と人)を扱う言葉、社会科学的分野を元に、世界を把握し発展させようとしてきた。ごく大雑把にまとめると
自然科学 ←→ 社会科学 ←→ 芸術
対象 モノ 個体としての人と人 個人の内面
単位 数字 言語 五感
私たちは自然科学に対する信頼はほぼ確立している。社会科学に対しては、その有効性においては(法学など)、人間に莫大な貢献をしているが、それでもなお、人類の固体が個体を客観的に見極めるという行為において、いまだ不安定で、半信半疑の状態が続いている。これは、ひとつには、自然科学では既に前提となっているような「反証可能性」について、煮えきらない姿勢のままであるからでもある。
仮に自然科学と社会科学を人類がものにしたとしてもその背後には広大な人間の美意識の世界が残っている。それを自然科学は「本能」「生理」と呼び、社会科学では、「欲求」「気質」と呼んだ。しかし、実のところ、それだけでは、人類が自分達や他の種、または自然環境により良く生存し続けるために十分ではない。
現代人はよく「学校で教わったことだけでは世の中に出て解決しない」というが、素朴に考えれば、これは、「自然科学や芸術だけを知っても社会科学の分野を利用しないと成功し得ない」ということだろう。しかし、厳密には、「自然科学や社会科学の分野を極めてもそれ以外の芸術的分野を考慮しなければ何も成就に至らない」ということである。
【芸術哲学の必要性】
モノの性質を究めた自然科学の分野、そして人間と人間の関係に注目している社会科学系の視点を経て、私たちが必要とするのは何だろう?それが芸術哲学であるという話をしたい。
世の中には愛と友情の歌が多い。広義にとらえれば讃美歌などすべての宗教歌も愛の歌である。科学を信仰する若者は言うだろうか?「恋も友情も、人間の種族保存の本能に基づく生物学的構造に過ぎない」と。仮に、人類の個体を採集しようとしている宇宙人がいたとして彼らはこういうだろうか?「人間は本能に従う愚かな生き物だから採集は簡単だ。幼体(赤子)を捕らえておとりにすればいくらでも釣れる」と。赤子を奪われた母親は、危険を冒してでも我が子を救おうとするだろう。私たちはそれを科学的に見つめるのだろうか。
人間の愛の中には、それが異性への恋愛だったにしても、それを「生殖本能に過ぎない」と斬って棄てることができない部分がある。私たちが愛する人を「美しい」と言った時に、それは「愛」である。では、この中から生物学的な物をとりのぞいて、「美」だけを抽出できないだろうか。その視点が芸術である。そしてそれは、その先には、私たちがたどり着き得ない「理想」「永遠」がある。それらは、「愛」同様、私たち人間の本質的指向性なので、その方向に進んで裏切られることはない。それは個人においてはもちろんのこと、社会全体においてもそうである。私達はそれを目指すことで、調和と平和に近づくことができるのだ。
今世界では、言いがかりや論破によって、簡単に破壊的行為に屈する人が多い。各国の法制度は決して完璧ではないし、SDGsやLGBTQ といった人間の本来の生き方にむしろ反する規範ができつつある。私達は肉を食べないと生存できない肉体を持って生まれてきているし、地球にとって究極的に害なのは人類であるということは誰もがわかるところであろう。これらの判断は、みな自然科学を確信した一部の(おそらくあまり科学者的ではない)人間がその論理をそのまま自分と等身大の人間に当てはめてしまったことから起きている。これは主に教育の問題である。
私達が学問を学び続けるのは、数字や言葉を通じて学ぶことで、数字や言葉で学べないこと習得するためだ。ここにおいて「数字的データを見ましょう」「客観的に俯瞰しましょう」ということの正しさと、「それってあなたの感想ですよね」「はい、論破」といった言い方とには、まったくの質の違いがあることに人は気がつかなければいけない。前者は、科学的態度であるばかりでなく、芸術哲学の立場でもある。後者は、数字と言語によって限定された理論と知識だけで、世界が成立しているかのような弁である。(つまり頭が固いのである。)社会的に成功するだけならこれで十分である。しかし、本当に世界を人間を良くしようと考えるとき、まったくの無力であり無責任である。幸か不幸か、人類はこうしたことを論じれられる段にまで至っている。私達はいつまで「それって人それぞれだよね」とか「人類みな同じ」といった台詞に幻惑され、思考停止状態に陥り続けるのか。これを越えてゆくのが芸術哲学である。
【論理的と科学的は同義ではない】
私たちは日常世界で「論理的」であることと「科学的」であることを同義で語ることが多い。しかし、哲学的な思考をした人であれば多くが気がついているが、「論理的」であることと「科学的」であることは同義ではない。「科学的であること」は「論理的であること」のほんの一部である。現代人はこのことに対して矜持をもって熟知していないとたやすく翻弄されることになる。「論理的」とは数学のような抽象的な領域においてであろうと現実社会のような具象的な領域においてであろうと、論理的に考えることである。その意味では、具象的なこの世界で抽象的な論理を通すことの方がずっと難しい。そして数字と言葉は非常に有効なツールとなっていることはたしかだ。しかし、その数字と言葉が氾濫する世界にAIやインターネットが入り込むことで、さらに余計に、あたかもこれらだけで人間社会が判断できると錯覚する傾向が顕著になってきている。仮にこうしたデジタル的技術がなかったとしても、遅かれ早かれ人類の文明がこのジレンマに衝突していただろうことは予測できる。
しかし、この分野の多くが、ーーその多くは「社会科学系」とされる分野だがーー、人が思っているよりも、偶然性によるところが多い。その「偶然性」とみなされるものは、いわゆる本当の偶然性と、個人の人間が自分の社会における個体としての在り方を十分把握もできずに成功してしまっている場合とがある。そして後者の場合、何よりもそれを本人が「当たり前のこと」と思っているからたちが悪い。それは、たまたま社会で成功してしまったインフルエンサーといった人々に顕著であり、実は自分が周囲から生かされていることは薄々気がついているのだろうが、それでもなお、自分の能力的な部分を科学的思考だと過信しているのである。
「経済学でなんでもわかる」「統計がすべてを物語る」「頭の良い人とは説明がうまい人」「成功する人の共通点」といった言説は一見面白く、話の肴くらいに考えておけばいいが、それ自体が本質的に論理性を持つものではない。そしておそらく私たち人間は、生物の個体としては、この位のカルい思考の内容を方便として使っていかないと上手く生き延びられないくらい軽薄な生き物なのかもしれない。
【論理的であることは冷静になることとは関係ない】
「論理的思考」と「感情」は一般に正反対のものとみなされることが多い。たしかに、普段の生活の中で、私たちはまず冷静になることが求められるような機会が多い。そのため、私たちは「感情」の対極にあるものが、「論理的思考」だと考えがちである。しかし、実はこの2つは本来両立するものでもある。
西洋占星学でも「知性」を司る「水星」はそのホームポジションを双子座(5月)と乙女座(8月)とされ、(冬と北方の象徴である)「土星」の遠く及ばない「熱い」ところにある。とてもクールなものではない。
ユングのタイプ論でも、「思考」「感情」「感覚」「直観」のうち「思考」と「感情」は同じ「合理的」な要素として互いに一種の対極のように説明されることが多いが、この二者が両立するところに真実への判断能力が生まれる。
なにか問題が生じた時に「冷静になれ!」というのは、人間の判断の最初の、一種の「原始状態」において言えることである。私たちはそこから「感覚」を取り込み「直観」を指針に、新しい判断を下すのである。
【科学者は論理的な思考しているとは限らない】
話が逸れかかったが、科学自体の方法は、対象を物に絞り、数字という既に確立された単位で思考を走らせることで、そこにはほとんど、感情も感覚も必要とされない。(直観は、思考の飛躍はあるのだから、ある。)では、数字を単位とした科学や数学の方法論を駆使して、いわば「科学的」に思考をしているとき、その人は「論理的」に頭を使っているのだろうか?これはむしろ違うかもしれない。なぜなら、すでに数字というユニットの中でただ次を追いかけるだけで論理的帰結は見出せるのだから、そこに人間の方から特別に論理的な思考をする必要はない。
その一方で、現実の人間がうごめき、偶然性に支配された世界において、次の判断をしなければいけない時こそ、抽象的な論理思考をする人こそが正しい判断を下すことができる。であるからいわゆる「理系の人」よりも「文系の人」の方がずっと思考が論理的だということもありうるのである。むしろ、理系の人はその才能を伸ばすためには、豊かな発想力という点で、論理的でない判断が必要になるのかもしれない。ニュートンやアインシュタインといった人の独創性もそのようなものから生まれたのかもしれない。
であるから、科学に携わっていることで他の人と比べて過度に特別意識を持つ人は、科学に関わっている自分にうっとりしているだけだという場合もあるだろう。「科学的とは」といった本を一般向けに書いている人の中にはこうした人が時折見受けられる。第一線の科学者は現実の魑魅魍魎と戦っている。そんなことにイキるひまはない。現場の科学者は熱血である。よって頭を使っている科学者は自己の感情を利用しているのであり、冷静を気取る自称科学者は頭を使っていないということになるのは自明の理だ。
【アメリカのある中学校の授業で】
アメリカの中学校のある意味ほほえましい授業で、以下のようなものがある。「数字と言葉、(そしてそれ以外のもの)は、どれが一番正確でしょうか?」というものである。これはもちろん中学生の素朴な回答として「数字は決して民族や国家によって変わることがないから一番たしかです」というのが模範解答である。そしてそれでよい。
しかしながら、この学習は厳密には正しくはない。数学や科学は「物」を対象にしているから私たち人間にとっては絶対に見えるというだけである。そして言葉は対象に「人間」が加わってくるから同じ人間の一個体である私たちにとっては不安定な要素が増すのである。さらに言えば、人間でなくても「動物」ならかなり不安定要素が増す。なぜなら科学で金属を錬成できたとしても動物を無から錬成できたことはないし、その本能もただ観察するのみだからである。これが生物学の分野である。
一方、もし私たちより高等な宇宙人が存在したとすれば、私たちの存在をコントロールするにはほとんど数学と科学だけでできるかもしれない。宇宙人は人間と同種の存在の別個体ではないから、彼らにしてみれば、私たちは限定された本能で動く動物以上の存在ではない。化学物質を一滴垂らせば死んでしまうかもしれないし、それ以上の内面の心理は、多くの場合他の種族には意味を構成しないからでもある。
この授業での問題点は、数字という媒体が絶対不変だという信仰に基づいているところである。今のところはそれでほとんどの学問が成立しているのでそれはそれでよいのだが、ではゲーデルやハイゼンベルクの論はどうであろうか?前者の不完全性定理は純粋に数学が数学の内部においては無矛盾性を証明できないということであるし、後者の不確定性原理はおそらくは人間の認識能力の限界の問題とどこかで交錯している。つまり、私たち人間は自分たちが創り出した思考ユニットのいずれについても「完全」ではないのである。これらは、反科学主義の好事家たちによって安易に「科学や数学は不完全だ」としてもてはやされたが、ここではそのような似非科学やオカルティズムに賛同する立場ではない。先端の科学者たちは誠実に、知のフロンティアからこうした可能性を投げかけてくれたということなのだ。
この授業に問題点があるとするなら、こうして、人間が自分たちの共通認識の範囲内で科学を、絶対的なものと仮定してしまい、いわゆる「科学教」を形成しかねないということだ。どのように頭の良い人でもこの宗教にハマった時点で思考は停止する。この似非宗教が許されるのは、ガリレオのようにまさに反勢力と戦っている時のみである。戦いには一時的に一神教が必要になる。
宗教と言えば、江戸時代に屋久島へ上陸した司祭、シドッチと会見した新井白石がその博学に感心しながらも、一度キリスト教の話になるとまったくその論理性をなくしてしまうことに驚いていた。宗教の中に真理はあるかもしれないが、それは別の次元から利用されやすい。宗教は科学と融合しているとも相反しているとも言えるが、現代世界の私たちがものを考えるとき、不完全な人間という存在にとってこうした分野がどのように有意であるか、そのことをまさに「論理的に」考えなければならない。
【芸術鑑賞は思考である】
では、私が唱えている「芸術哲学」の分野における芸術作品への集中・没頭は、ユング流にいうのであれば「感覚」や「感情」「直感」を使うのだということは容易にわかるであろう。では、「思考」は使っていないのか、というと、その人が集中している限りはたしかに使っている。
「いや、私は芸術鑑賞中に思考しているという実感はない」という人は多いだろう。しかし本当にそうであろうか?そんなふうに言う人は思考というものが数字や文字を単位として考える場合の事だけを想定しているのではないだろうか?たとえば、あなたが病気のとき、テレビ番組は気晴らしに見ることができたが、好きな音楽は聴けなかったという経験はないだろうか。そうであればそれは、人は音楽鑑賞に明らかに知的エネルギーを使っているということになる。(それならば、集中を要する弓道やカーリングなども「思考」になるのかというと、そうはならない。現実との接触や呼応があるものをここでは「思考」の分野に入れるべきではないからだ。)
あなたがひとたび野山に出て危険にさらされ生き延びなければいけない時に、本能的に判断し動くであろうが、それは言葉や数字にばかり寄っているだろうか。その時にいわゆる「頭を使う人」と「頭を使わない人」ではどちらが生存率が高いだろうか?そこでは、数字や文字以外の論理が介入して、人に考えさせているのだ。
現代人はその要素を忘れ、自分が言葉や数字を操るだけで論理的に思考している気になっている。情報の溢れるこの現代において、そのような状態にさらされていると、「男が女になれるか」とか「人間の力で地球温暖化を防げるか」といった問題において、自分の夢想と現実に根ざした思考との区別がつかなくなるのである。つまりは、数字と文字以外の分野で論理的に思考ができないと、一種の相対論に陥っている自分に気がつくことができず、他の狡猾な目的を持つ存在にたやすく利用されるのである。SDGsなどはその格好の罠である。
具体的に言うと、以前の章で述べた「探求芸術」は自分の感覚・感じ方を徹底的に追及することができるツールであり、「共感芸術」は、かなり効率は落ちるがそれを自分の感情のありかたと他の個体への伝播性において可能なのである。大切なことはこれらが一過性のものでなく、何度も同一の作品の鑑賞で再現できることにあり、また、それを通じて人間にとっての普遍性を追求することができるからである。数字や思想が普遍的だということはすでに認められるところであるが、もう一つの人間の普遍性への重要なカギがここにあるのである。
【芸術鑑賞の思考化】
個人的には私は、芸術鑑賞が酒に酔った状態のように感情にとらわれるだけで足りるとは考えたことがない。感動や感情にとらわれた状態は、芸術体験のもっと大切な第一歩だが、それでもなお、その感動や感情は玉石混交である。それを「芸術体験だ」と言うのは一向に構わないことなのだが、そこから安易に普遍性を見いだして芸術とは何かを主張するのだけは避けていただきたい。「感動」は芸術体験の一部だが、それはスポーツでも仕事の後の夕焼けでも得られるからだ。むしろ、その感動を体験に対して、論理的に探求することが芸術哲学の始まりである。
また、芸術鑑賞が普遍的論理的思考への一つのアプローチになるとするならば、では芸術が好きであれば、芸術を愛する心があればそれで十分なのかといえば、そうであるともそうではないともいえる。自分の感じているものが自分の思考でもあるのだということに「気がつく」、その量・割合・頻度のよって、それは思考としてあなたの役に立つかたちになる。
これらの意味で、芸術鑑賞力は論理的思考力だと言うことができる。まだ腑に落ちないという人もなんとなく感じるところがあるという人も、ぜひご自分の芸術体験で理解を深めていただきたい。この文明化された社会で、今も休日には後学のコンサートや美術展に足を運び、若者はマンガやバンド演奏で自己探求をしている。それはなぜなのか。私たちにはまだ数字と文字以外に求めるべき思考単位があるからである。
【さいごに】
現代日本の「知」の問題において、比較的与しやすく、しかも最も重要な課題と言える「教育」を話題に取り上げました。そして人間の最も先端の「美意識」のありかたと芸術哲学の重要性について述べさせていただきました。にわかには受け入れがたい部分もあるかと存じますが、読者の皆様の日常生活の中で多少なりとも、気に留めていただければ幸いです。
