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【PREP研究評】公正な学習への挑戦:生涯学習時代の課題

読書の世界をもっと楽しみたい、でも次に何を読めばいいのかわからない――そんなあなたのために、「PREP研究評」をお届けします。

この企画では、私が読んで勉強になった研究の概要やポイントを、PREP手法(Point(主張)・Reason(理由)・Example(具体例)・Point(再主張)でぎゅっと整理します。

今回ご紹介するのは、Shoko Yamada(山田祥子)氏の論文『Can we achieve equitable learning beyond hierarchical measurement? Challenges in the era of lifelong learning』(International Journal of Chinese Education, 2024)です。

私はこの論文を読んで、「教育の公正=学校へのアクセス」と思い込んでいた自分の思考が、静かにしかし根本から揺さぶられました。

学校という“箱”と点数という“物差し”を前提にした議論から、一歩外に出てみる。

その瞬間に見えてくる“公正”の姿は、ずいぶん違うのではないか。

本稿はその問いをあなたと共有する試みです。

Point(主張)

資格競争をあおる“平等”から、動機と文脈に寄り添う“公正”へ

教育の公正さを「学校に通えたか」「標準テストで何点取れたか」という共通モノサシで測る発想自体が、世界的な序列化と終わりなき競争を強めている。

だからこそ、公正の基準を“学校”や“点数”から切り離し、学習者それぞれの動機・文脈・成長に合わせて再定義する必要がある。

Reason(理由)

世界文化としての『学校』+標準化テスト=公正観の固定化

1948年の世界人権宣言以降、「教育の権利=学校に行く権利」という前提が、政策担当者から保護者、子どもまで“常識”になった。

EFA や SDGs の流れで、国際社会は就学率や学力テストといった「扱いやすく比較しやすい指標」に投資し続けた。

結果、教育の成果=学校年数・点数という代理変数が定着し、「何を学んだのか」「どの能力が育ったのか」という本質部分が後景化した。

TIMSS や PISA は、各国を同じ試験で並べ、ランキング化することで政策の収斂を促進した。

フィンランドが“視察ツーリズム”の聖地になったのは象徴的だし、多くの国が PISA 型の「問題解決力」育成へとカリキュラムを改訂した。

統計上、分散は必ず生じる。

そこに価値判断を乗せれば、どれだけ“エクイティ(公正)”を唱えても、結局は優劣の再生産になる。

しかも知識経済化により知識の賞味期限は短縮。

学校卒業後も学び続けることが不可避なのに、公正の議論は未だ“学校という箱”に縛られている。

教育を“権利”とみる立場も、“投資”とみる立場も、どちらも同じ「学校=教育」という暗黙の前提を共有している。

その前提自体を問い直す必要がある――これが山田氏の問題提起だ。

Example(具体例)

コロナ禍で露呈した二重のギャップ:アクセスと設計思想

2020年以降のパンデミックで、世界中の学校が閉まり、学びは“学校以外”で起きることを前提に組み直された。

タブレットやネット環境がない家庭では学習が止まった一方、EdTech による個別最適化は「興味・進度に合わせた学び」を大規模に実装し得ることを示した。

私自身、社会人向けのオンライン講座(統計、AI活用など)を必要な瞬間にピンポイントで受講し、「使える知識を使える形で得る」感覚を体験した。

そこに必要だったのは学位でも偏差値でもなく、“使用価値”と“過去の自分との比較による成長実感”。

地方の小規模校では、児童の興味に合わせて課題を設計する先生の工夫が光る一方、ICT 機器が行き届かない家庭では「学びの窓口」自体が閉ざされがちだった。

つまり、公正を考えるときには、単なるアクセス格差だけでなく、「動機と文脈を尊重する設計があるか」という視点が不可欠だ。

“ディプロマ病”の現在形:中央アジアからエチオピアまで

Dore が指摘した “diploma disease(学歴病)” は、中央アジアの大学生調査でも根強く確認されている。

学位は知識ではなく“交換価値”として求められ、個人も国家も「年数×専攻」で投資効果を測ろうとする。

一方で、エチオピア縫製業の労働市場分析では、学校歴とスキルが別物として作用することが示された。

つまり「学校にいたこと」と「できること」は切り離して考えるべきなのだ。

“野球を見る前提”への違和感:有名図の読み替え

Equity vs Equality の有名な壁と箱の図。

あの3人は本当に全員、野球を見たいのだろうか。

もし彼らの興味が違うのなら、必要なのは高さの違う箱ではなく、そもそも「別の活動」かもしれない。

この比喩は、共通物差しで“平等”を語ることの危うさを直感的に示している。

学びの成果を“個人内差分”で測る試行

医療リハビリでは、患者の回復度合いを他人と比べず“本人比”で追うのが当たり前。

スポーツでも、自己ベスト更新が最大の評価軸になる。

教育でも、ポートフォリオ評価やコンピテンシー・ベース評価(CBE)など、個人内差分を重視する方法論が芽吹きつつある。

評価の“エビデンス”は、ビッグデータの比較軸だけではないはずだ。

Point(再主張)

“他者との相対位置”ではなく、“自分の過去との距離”で学びを測ろう

標準化された学校中心の評価軸だけでは、公正な学びを守れない。

必要なのは、学習者自身が「なぜ学ぶのか?」を問い、その答えに合った学習機会へアクセスできる社会的仕組み。

成果の測定は、共通モノサシでの比較ではなく、個人の文脈内での進捗(個人内差分)で捉える発想転換だ。

山田氏の論文は、教育の権利を「入学できるか」「点が取れるか」という狭い枠から解放し、「学び続ける権利」をどう支えるかという根源的な問いを突きつけてくる。

そして、私たち実践者・研究者・政策担当者に、「測り方そのものを刷新しよう」と迫っている。


きゅうさんの本棚:さらに研究に興味をお持ちの方へ

この記事をお読みいただき、さらに原文に興味を持たれた方は、ぜひ論文本文を参照してほしい。

理解が深まり、あなた自身の“公正な学び”の定義がアップデートされるはずだ。


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