湯気が揺れるあの場所と少しだけ裸の付き合い
結婚して間もない頃、温泉地に住んでいた。夫の転勤に伴った引っ越し先が、たまたま温泉地だったのだ。
そこで暮らすうちに私は、とある交流の場を発見する。その名も足湯コミュニティー(勝手に命名)。ひっそりではありながら、確かに住む人の拠り所となっている場所。そしてそこは、私のように突然やってきた人をも快く受け入れてくれる懐の深さがあった。
まず、初めて温泉地に住んでみて分かったのが、近くに温泉街があるからといって頻繁に温泉宿に泊まったり日帰り温泉に入ったりはしないということだ(ただし人による)。
だからこそ一番恩恵を受けたのは、あちこちにある無料の足湯スポットであった。
足湯の魅力は何と言っても、その手軽さにあるだろう。スッと靴下を脱いでズボンやスカートを少しまくれば瞬時に湯につかれる。バスタオルなど無くても、ハンカチがあればギリいける。それでいて効果はいつでも絶大だった。
寒い日や歩き疲れた日に5分でも足湯に入れば、全身はポカポカと暖まる。血流が良くなるおかげで、身体も軽く感じるから不思議だ。
だからその日も私はスーパーへ向かう途中、何気なく目にした足湯に気軽な気持ちで立ち寄ることにしたのである。持っていたハンドタオル1枚を横に置き、もぞもぞと靴下を脱いでズボンの裾をまくる。そこへ……
「あ、ちょっと! そっちはぬるいから、こっちにおいで。こっち、こっち」
突然の声に驚いて視線を送ると、先に湯につかっていた女性の1人が私に向かって手招きしている。そしてまだ、私がそちらへ移動するとも言っていないうちから、想定された私の尻スペースの為に必死につめてくれているではないか。
なるほど。こじんまりした足湯スポットでも温度の差があるのか。そして先輩方は、より熱い場所を推奨しているように見えた。
【郷に入れば郷に従え】
早速私はアドバイス通り、体操座りのまま指定された方に向かって、板の上で尻をスライドさせていく。
横に座る先輩方が平然と顔色一つ変えずに足をつけているので油断したが、湯に足をつけつみれば、その温度は私の想定よりはるかに熱かった。
「アッッッツツ〜!!(心の声)」
そんな私の様子など知る由もなく、隣では、さまざまな会話が展開していった。
「最近、林さん見ないねぇ」
「絵手紙教室が忙しいのかもね〜」
「林さん、教室通い始めたの?」
「通い始めたか、これから通い始めるのか。1ヶ月前くらいに、ここでそう言ってたわ」
ほほう、なるほど。ここでは地域の人が足湯につかりながら会話を楽しむ習慣があるようだ。
「また今度、林さんに会ったら見せてもらいたいねぇ。絵手紙」
「だいたい毎週この時間だね。来るなら」
会話を耳にしながら、ふと私は羨ましくなった。めちゃくちゃ楽しみにされているよ、林さん。絵手紙も見たいって、林さん。来るなら来週この時間だよ、林さん。
「こちらにお住まいの方ですか?」
しばらく私が林さんに思いを巡らせていると、ふいに先輩の1人に声をかけられた。
「あ、はい。でも最近引っ越してきました」
「じゃあ観光で来られた訳じゃないのね」
土日祝になると、この足湯スポットにも多くの観光客が訪れる。その日は平日だったけれど、足湯への慣れない様子から観光客だと思われたのかもしれない。さすがの観察力だ。
「もうすぐ雪の時期になるでしょ?早めに雪かきの道具を買っておくと良いですよ」
「どっさり積もりますか?」
「大きい道は融雪のパイプが通ってるけどね〜。駐車場や細い道は大変だから」
滅多に雪の降らない地域で生まれ育った私にとって、初めて雪国で過ごす冬だ。その日、私は足湯の先輩方から雪かきに必要な最低限の道具と、それがどこで安く買えるのかまで教えてもらうことになった。
思えば、引っ越して来たこの場所に職場があった夫とは違い、私にはこの土地と繋がる物が無かった。場所も人も。だから当然、心細かったはずである。夫以外の人と日常的な会話した思い出が、この足湯には確かにあった。
近くにある別の足湯スポットにも何度か足を運んだ。平日に行けば高確率で足湯コミュニティーは存在し、たいてい誰かが私に話かけてくれた。それは天気のことだったり、祭りのことだったり、ときにはスーパー特売のことだったり……。
もしかすると足湯には、会話が生まれやすい環境が揃っているのかもしれない。近距離に隣合わせで(向かい合って)座り、同じ湯につかる。共に血流が良くなってきて、ポカポカしてくる。気持ちが良い。気分が良い。自分も相手の顔色もほんのりと赤くなってくる。
足先だけの適度な裸の付き合いというのも影響しているのかもしれない。これが温泉や銭湯だったら。全裸の初対面。さすがに足湯のように会話が弾むとは考えにくい。
「それじゃあ、お先に〜」
「はーい。また〜」
足湯で身体がポカポカと温まったら、それぞれ自分のタイミングで、あがっていく。そのときの「お先に〜」は、なんか良い。私は憧れながら、一度も使えなかったけれど。言ってみたかったな「お先に〜」。
結局、林さんには会えなかったし、何度か足を運ぶうちに顔なじみの人が出来たり「最近ちくわさん見ないわね」と話題になるほど足湯常連にもならなかった。
それでも。あの土地で過ごした時間を思い出すと、記憶の後ろに優しい湯気がゆらゆらと揺れる気がする。
強烈ではないし、感情を揺さぶるような思い出ではない。誰かに自分を覚えて欲しい訳ではなくて、私が覚えていたい。些細だけれど穏やかで。けれどあのときの心細さをしっかりと受けとめてくれた。そんな場所だった。
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