【短編小説】借景のさくら
今年も桜を撮りにいきます。
あの角を曲がり、あの庭の。
私のこの子が健在なうちは。
ここを曲がる季節になりました。
いつもなら、まっすぐに向かう交差点を、今日は左に曲がりました。
カーブミラーの先に軽自動車のウィンカーが点滅していたので、これをやり過ごしてから、ゆっくりと歩き出します。
黄色い帽子をかぶり、ランドセルの重みで左右に揺れながら走る男の子が、私を追い越して行きました。
私は思わずカメラを握りましたが、男の子はすぐに細い路地に入っていってしまいました。
いつの時代も、子供は元気ですね。
この時間に散歩をするようになったのは、仕事を辞めてからです。
退職金が倍になると聞き、五十五歳で早期退職を受け入れました。
それまでは、大手の電機メーカーで働いていました。
今、手に持っているこのデジカメも自社製品です。
いや、違いますね……もう辞めてしまっているので、かつての自社製品ですね。
でも、私にとっては、単なる自社製品以上の思い入れがありました。
なぜなら、これは私が主体となって設計した初めてのカメラで、しかも他社に先駆けていち早くデジタルズームの機能を実装したものだったからです。
今となっては当たり前かもしれませんが、当時としては珍しかったのです。
そして、この先で咲き誇る桜の木は、この子の最初の被写体でした。
あの頃は、まだこの辺りにも空き地が多く、ここからでも見えていたのですが、いつの間にかマンションが立ち並ぶようになり、景観が変わってしまいました。
先ほどの細い路地も、このマンションと同時に出来たはずです。
私が目を凝らすと、遠くでランドセルが揺れていました。
丁字路の突き当りの家です。
低いブロック塀の向こうにありました。
今年も立派に咲いています。
例年より寒い日が続いていたので、今日くらいだとは思っていましたが、大当たりでした。
満開のそれは、青空に映えていました。
私はブロック塀に近づくとカメラを構えました。
昨年と同じ角度ですが、細い枝が少ないように感じました。
冬の間に剪定でもしたのでしょうか?
でも、花びらを携える枝は、昨年よりも健康そうに見えました。
十年……いや、もっと前でしょうか。
この桜の木は、もう少し庭の中央寄りにありました。
古い家で庭は大きく、鯉の泳ぐ池もあり、その脇で咲いていました。
あの頃は、舞い散る花びらが、水面に貼りつき、そのトンネルを鯉が通り抜ける様子が、とても美しかったのを覚えています。
しかし、ある時、池は埋められ、桜の木は庭の隅に植え替えられました。
縁側だった部分を塞ぎ、そこに子供部屋が増築されたようでした。
それから何年かは、満開とはならず、せいぜい六分咲きがやっとで、とても心配していました。
やはり植え替えは木への負担が大きいのか、このままダメになってしまうように思われましたが、一昨年辺りから持ち直してきました。
良い植木職人に巡り合えたのか、もしくは桜の木そのものの生命力なのか……
機械畑にいた私には分からないことでした。
私が夢中でシャッターを切っていると、不意に、桜の向こう……子供部屋に人影が写りました。
もう、何年も使われておらず、ずっと空き部屋だったはずです。
昔は、勉強机にちょこんと座り、宿題なのか真剣な顔付きで鉛筆を動かしていました。
ネコのキャラクターが好きだったようで、机や椅子、はたまた窓にまで、そのキャラクターのシールがびっしり貼ってあったのを覚えています。
ある時なんて、そのキャラクターの大きなぬいぐるみをベッドに持ち込んでいたようにも思います。
ただ、しばらくすると、そのぬいぐるみに変わって、テレビで人気だったロックバンドのポスターが、ベッドの脇に貼られていました。
私より少し年上でしょうか?
人影は老夫婦でした。
シールを剥がした後の白い部分を懐かしそうに指でなぞっていました。
すると突然、若い女性が部屋に現われました。
なるほど……帰っていたのですね。
小さい頃の面影がありますね。
池の鯉にいたずらをした後、得意げな顔で私を見て笑っていたあの顔と重なりました。
――いいえ、重なったのは、その若い女性ではありません。
若い女性が抱えている赤ちゃんにです。
小刻みに揺れながら、愛おしそうに抱っこしている赤ちゃんは、眠っているようですが、とても穏やかな顔をしていました。
そう言えば、思い出したことがあります。
老夫婦がまだ「夫婦」の頃だったでしょうか?
たしか、この子供部屋の主の名前にちなんで、桜の木を植えたと言っていたように思います。
池のほとりで満開の桜を指差して、走り回る子供にそう伝えていました。
……さくらちゃん。
漢字なのか平仮名なのか、私には分かりませんが、確かそう呼んでいました。
三人の笑顔が蘇りますね。
家に戻ったら久しぶりに、この頃の写真を少し探してみたくなりました。
そんなふうに思いながら、この子に収めていると、赤ちゃんがぐずり出しました。
少し眉毛を寄せて泣いているようです。
泣き方まで、お母さんにそっくりですね。
私は、自慢のデジタルズームを赤ちゃんの顔に向けました。
キラリと一粒の涙が光ります。
私は新しい家族にシャッターを切りました。
そういえば、さくらちゃんの赤ちゃんなら、「さくらんぼ」でしょうか?
まだ名前も知りませんが、これからの成長が楽しみです。
私のこの子も、まだまだ頑張らないといけませんね。
昔の部下にお願いして、部品を取り寄せておいた方が良いかもしれません。
来年には製造中止らしいですからね。
了
読後に少しでも何かが残ったら、スキやコメントいただけたら嬉しいです。
この作品は「倫理ホラー」というジャンルを意識して書きました。
あなたなら、この桜を撮りますか?
悪意無き倫理の越境は許されるのでしょうか?
あなたが一番ぞっとした場面、よかったら教えてください。
