1-1――『交差する真実』
〈9701文字〉
市崎恵介は、低血圧には程遠い人物である。瞬きもなく仰向けの状態で目覚めた彼は、枕の上で首を回し、覚醒一番頭上にあたるベランダ窓に目を向けた。目こそ充血していたが、目覚める十分前から微動だにせず、さながら身体のほうは準備ができていて、そこに意識の到来だけを待ち構えていたかのようであった。遮光カーテンの端から漏れる朝日の加減で、時刻と空模様を読みとった彼は、ハンカチほどの大きさで身体を覆うタオルケットをはぎとった。折った肘を伸ばしてムクリと上半身を起こす。身体をベッドの側面側に向けて、裸足の足を床についた。椅子やソファのないワンルームの室内、コタツの不要なこの時期には、ココが部屋にいるときの彼の定位置となっていた。それから、腰をベッドからわずかに浮かせ、ローテーブルに手を伸ばし、コオロギを捕まえるカメレオンさながらにテレビのリモコンをつかみ取るや、中腰だった姿勢から、いきなり両足をなぎ払われたかのように、再びベッドに腰を落とした。そうして足を前に投げ出した状態のまま、テレビの電源を入れた彼は、股のあいだにリモコンを持った両腕を垂らし、予想した時刻の答え合わせをした。起床の際の、くだらぬ楽しみの一つであった。
七時四十七分――思っていたよりも十五分ほど早かった。時計の目覚まし機能を使わなくなって一年半になる。一日中部屋で過ごす生活を続けることで気づかされたのは、睡眠時間の規則正しさであった。昨夜はいつもより十五分早く布団に入ったのを、彼は思い出した。これという理由はない。小説を読むなり、テレビを見るなりしているときに、あくびが二回でたら、寝ることに決めているのだ。
カーテンを開き、眩しいというよりもうらめしそうに、降水確率一〇パーセントの青空を睨みつけると(つけたテレビの画面の隅っこに、そう表示されていたのである)、冷蔵庫から二リットルサイズのミネラルウォーターを取り出して、ラッパ飲みした。冷蔵庫の上には鏡が乗せてある。無精ひげを濡らした男が、自分を見つめていた。
「わかってる。わかってるさ。そんな目で見るなよ。おれだって、この状況に甘んじているわけじゃないんだ……確かにそう見えなくもないがね」
ここで彼の日常について、もう少し付言しておくと、ここ最近では生き甲斐どころか、何一つとして得るもののない空疎な毎日を過ごしていた。金銭的なものを含め生産性のあるものはなく、自己開発意欲さえ失い、ほぼ食べて寝るだけのデカダンな生活であった。たとえば、部屋を掃除したとしたら、たとえそれが三十分のことであろうと、その日の寝る間際、『充実した一日だった』と思い返す――そんな無益な日常だった。窓枠を拭くだけでも、『まぁやるだけのことはやった』と思ったことだろう。彼の嫌いな床屋にでも行こうものなら(というもの、おでこが広いためか、はたまた頭の形か、あるいは前髪の軽いくせ毛が原因なのか――本人が疑わしく思っている髪を伸ばし始めたのが遅かったからというのは理由にはなるまい――、いつも七五三よろしく坊ちゃん頭に仕上がってしまうからだ)、一月分の仕事をやり終えたような心持ちになったに違いない。
市崎は、小説家を志す、今年で二十八になる青年であった。そんな彼も、二年前までは人並みに会社勤めをしていた。そのとき、仕事上これといったきっかけもなく、突然会社を辞めて、誰にも内緒で小説家になることを決意したのだった。あいにく、辞めること自体にも、周囲の驚きを買うことはなかった。
むろん、彼の中では一大決心があった……。ともかく、その契機となり得たのが、そのまた半年前、地元の公益財団が主催する文学賞の短編部門で(そのとき長編部門はなかった。しかも短編といっても、原稿用紙二十枚程度の超短編の部門であったが)、仕事はそっちのけで、一週間寝る間も惜しんでしたためた彼の作品が、最終候補に残ったことであった。たまたま寄り道した本屋で、その広告紙を見つけ、締めきり二週間前にもらって帰ったのだった。それから五日ものあいだ、裏返ってこそいたが、そのビラは捨てられることなく、テーブルの上にあり続けた。土曜日の雨降りの午後、午睡から目覚めた彼は、コップの下に敷かれたその存在にあらためて気づき、手に取って、募集要項を詳しく読みなおした。振り返ると、不思議でならなかった。あのとき彼には、買う予定の本などなかったのだから。そもそも、この数年はビジネス書を読むことはあっても、小説からはすっかり遠ざかっていた。話を戻すと、なにはともあれ、四年勤めた会社で、実際には受賞を逃したとはいえ、そのような好成績を収めたことが一度としてなく、毎回ノルマを達成できるか否かを繰り返していることこそが、その流れを導いたともいえた。残業のない仕事終わり、彼が辞表を提出した際、上司に驚かれこそしたが、儀礼としてでさえ引き止められることはなかった。友達とであれ、仕事であれ、彼は『信頼』との意味で用いられる『見返り』を求めるやり方ができなかったのだ。去りぎわ「いい決断かもしれないな」そう投げかけられた言葉の意味を、彼は何ひとつ良いほうには受けとめなかった。それも当時、一度として好成績を収められなかった一因と言えよう。彼がもう少し言葉数多く仕事をし、職を辞する際も上司に「小説家になろうと思います」と一言触れていたら、上司は断固として彼を引き止めたに違いない。上司は二十六の彼に、そんないばらの道の転職を容認したわけではなかったのだから。それどころか、実際には転職を容認するくらいには彼を買ってくれていたのである。
その後の二年間で、恵介は長編二作・短編一作をしたためた。中編寄りの長編・短編・長編の順である。三ヶ月前、懸賞に応募した長編はともかくとして、他の二編は懸賞の一次審査すら通らなかった。しかし、それもこれもすべては今回の(三ヶ月前の)小説の布石であったと考えるようにした。今回の小説に限っては、それほどの自信が彼にはあったのである。
さて、朝のささやかな恒例行事を済ますと、起床後数分にして恵介は、生理的な欲求に襲われた。横腹は、相変わらずスウェットの腰ゴムの上でぷっくりと膨れているが、前部が凹んで、悲鳴を上げ始めたのである。肩をならすように腕を振り回すと、彼はだしぬけにズボンを脱いで、着替えを始めた。ジーパンにベルトを通すと、Tシャツはそのままに、顔を洗わず、歯さえ磨かず、サンダル履きに適した裸足のまま、玄関へと向かった。ズボンに入ったままの鍵でドアを施錠し、徒歩でアパートを出た。運動不足な男の唯一の運動――それは、朝食のためのファストフード店通いであった。ソーセージを挟んだマフィンとコーヒーのセットが二百円で済むので、自ら用意するよりよっぽど安く済むのである。
大股の早足で歩きながら、深い腹式呼吸を試みる。そうやって彼は、まだ起きぬけ状態の身体の各部位を内と外から目覚めさせるのだった。ファストフード店までは、まず大通りの県道に出るまで四百メートル、そこから県道沿いに三百メートルの距離であった。どうやってやりくりしているのかわからない時計屋と、いつも辺り一帯を水浸しにする花屋、婆さんが通行人に睨みをきかす主に漬物と練り物、それに手当たりしだいの雑貨を売る店の前を通る。表通りに出たところで、信号を待って、横断歩道を渡ってから右折をした。あとは信号のない道を直進すれば、すでに見えているファストフード店の看板の下にたどり着く。
車線の多い県道沿いだけあって、道の途中には小学校(その小学校の奥隣には中学校もあった)や屹立する高層マンション、いくつもの事務所を構えるオフィスビル(地階はテナントで、彼には一生縁のなさそうなこじゃれた美容院が入っていた)、ほかにも中古車ディーラーの店などがあった。その中古車ディーラーの前に来たとき、彼は駆け寄ってきた女性に声をかけられた。後ろ髪を束ねた、背の低い、スカート姿の若い事務員だった。
「あの、すみません。今から車が出ますので、ちょっとだけお待ちいただけますでしょうか?」
女性と会話したことといえば、直近では六日前、病院の薬局から出てきたばかりの老婦人に、バレーボールをしている高校生の孫としつこく間違えられたくらいだったので、朝一にきれいな女性と会話できたのを幸甚に思いながら、行く手をさえぎられたのだから『しょうがない』とばかり無言で承諾すれば済むところを、彼はわざわざ返事までして応じた。
「ええ、どうぞどうぞ」
ところが、そこから十五秒、二十秒……三十秒経っても、車が出てくることはなかった。事務所の入り口の前にはエンジンをかけたままの車が停まっているのだが、運転手は窓越しに男性の事務員を呼び戻し、新たな話題を持ちかけているのだった。事務員のほうは膝に手を置き、お尻を突き出して、相手に目線を合わせながら接客していた。運転手がたまにフロントガラスのステッカーを指差しているところを見ると、車検の話をしているようである。二人とも、彼女が先走って、出庫の準備をしていることに、気づいている様子はなかった。
つまるところ、彼女は出てくるタイミングを読み違えたようである。どうやら、彼女はまだ、入社したての新人のようであった。あたふたした様子で、戻って接客に加わるべきか、この場に留まるべきか、肩幅に開いた黒いパンプスの各々に重心を移して悩んでいたが、結局はあきらめたように肩を落とし、靴をそろえて、彼を振り返った。
「ごめんなさい、まだ来ないようでした。どうぞ、お通りになってください」
そのとき恵介はといえば、若くして、気品ある顔立ちをした女性のすぐ背後に立つことを許され、彼女の横顔と後姿(特に野鳥の長い尾羽を思わせる艶のある美しい後ろ髪)に見入っていたので、そもそも時間の概念など吹き飛んでいた。目を合わせたときの第一印象で気づいたことがあった。彼女はモデルであり、歌手でもあり、最近はバラエティ番組にも登場し、時には司会の手腕を発揮するマルチタレントの女性に、そっくりなことであった。唯一の違いは、彼女はそのタレントに比べ、おそらく十五センチは背が低いことであった。加えて言うなら、彼女の丁寧な言葉遣いの中にあって、どこかしら、そういうタレントが私的な、撮影以外のときに見せるような、若干険のある雰囲気すら備えていた。しかし、彼の彼女に寄せる好感には、別のものもあった。それは、もてなすべき相手に対する積極的な気配りである。道をさえぎられたとはいえ、彼にはどちらかと言えば、快く思えたくらいであった。会社員時代、よく彼もそんな空回りをやらかしたものだった。
労わりの笑みを返して、彼は言った。
「いや、かまわな――アッ、それより、車が出るようですよ」
身長差からして、まったくその必要はなかったが、恵介は首を伸ばして、女性の背後に注意を誘った。そのときになって、ようやくギアをドライブに入れた車が、門戸から進み出た。
彼女は気持ちを取り直し、出てくる車の方向指示器の向きを確認すると、歩道と車道のきわに立って、運転手に背を向け、両腕をL字に伸ばした。明らかに、彼以外の歩行者も、車の往来もそのときはなかったのだが、あえてそうまでしたのは、出庫する運転手の警戒心を解き、心地良い出発を演出してあげるためであろう。何より立派なのは、恵介がそばに居てなお、気恥ずかしさの欠片も見せなかった点である。
整備され、洗車をし、朝一番に納車されたスポーツワゴン車(傷の修理かなにかで預けられていたのだろう)は、歩道で一時停止することなく、後輪をきしませながら道路に乗り入れ、信号でできた渋滞の隙間に猛スピードで割り込んだ。その際、軽いホーンを鳴らしたのは、彼女のためというより、事務所の門前に立つ男性従業員に向けられたものだろう。その担当員の高らかな感謝の挨拶とともに、その場で彼女も最敬礼をし、渋滞の列に隠れた車に深々と頭を下げた。八メートルほど離れた位置で、従業員二人は目を合わせると、男性のほう(恵介と同世代か少し上の年齢に思えた)は、奇妙な生き物でも見るように恵介を眺め、彼女をうながすように、顎を払い、無言で事務所に戻っていった。
彼女は振り返ると、丁寧に頭を下げた。
「すみません。お待たせしてしまって。ありがとうございました」
「いいよ、どうせ時間は有り余ってたから」
「エッ?」
彼女の驚き顔は次第に困惑顔へと変わっていった。
「いや、ごめん……」彼女への心遣いのつもりで余計なことを口走ってしまった彼は、下を向いたまま歩きだし、すれ違いざまに言い残した。「がんばりなよ、きみには素質がある」
なにせ彼女には、彼にはなかった愛嬌が――万人受けもする愛嬌があるのだから。
次の日から、毎朝ディーラーの前を通るとき、彼女の存在が気になって、ガラス張りの店内にいる彼女の姿を目で追うようになった。
三日後(その前は一度だけ、奥で事務整理をする彼女を見かけることができた)、彼女が外観のガーデニングに水を撒く場面に偶然出くわした。先日の客は、預けていた車を朝一に取り戻す必要があった予約客で、普段はこうしてのどかに一日が始まるものらしい。いくら前回、口を利いた間柄とはいえ、彼には挨拶であっても自分から声をかける勇気はなかった。ただでさえ、彼女は今、歩道に背中を向けて、注意深く鉢一つひとつへの水やりに専念していた。声をかけられないのなら、この場にいるのは体裁が悪い。恵介は逃げるように足を速めた――と、その背中に、水風船さながら弾けるような声が投げかけられた。
「おはようございます!」
恵介の両肩がギクリと持ち上がり、踏み出した足がつま先立ちになった。実際、五メートルほど先を行く、やかましい小学生の一団をも黙らせ、一斉に振り返らせる声量だった。挨拶そのものは丁寧ながら、彼女の顔にいたずらっぽい笑みが垣間見えるのは、彼女のほうにも驚かせる気がなかったわけではないらしい。恵介の存在に気づいたのは、おそらく、湾曲した巨大なガラス面が、鏡代わりとなって、早足で逃げる彼の姿が、かえって彼女にその存在を知らしめる結果となってしまったのだろう。そうでなければ、丹念に植木鉢に水をやっていた彼女が、サンダルに指を食いこませ、足音を消して歩く恵介の存在に気づくはずがなかったから。
ところで、それと同時にまた別な点で、彼を驚かせたことがあった。恵介は前回、彼女の持つ雰囲気を、カメラの回っていないときの女優の印象と重ねた。むろんこれも真実とは程遠い、恵介のイメージによるものであるが。つまり、仕事とそうでないものを峻別し、そうでないものには、決して自ら機嫌を取りにいくようなことはせず、事務的で、無駄口を好まない――言うなれば、お堅い女性のような印象を、この声をかけられる直前まで彼女に抱いていたからであった。
立ち止まった彼は、先日もそうだったにもかかわらず、このときになって初めて顔を洗って来なかったことを後悔した。またこうして面と向かうなど思ってもみなかったのだ。この三日間、通りがかりに彼女の姿を目で追ったのは、懸命に働く彼女の姿を見たいがためで、こうして会話の機会を得たかったわけではなかったのだから。
彼のほうは約二分前(おおよそ二百メートル前)から彼女の存在に気づいていたのだが、いま気づいたというような驚きをカモフラージュして振り返った。
「オッ、やぁ、おはよう……ございます」
相手は明らかに、四つないし五つは年下に違いないのだが、非社会人としての立場が、彼に丁寧語を使わせた。しかし、今だけは、そんな格差など排除するよう己に強いた――『今はそう、彼女だって仕事前のはずだ』。
ブリキのジョウロを足元に置くと、彼女はエクステリアの庭を横切ってわざわざ近づいてきた。
「いいお天気ですね」
「そ、そうだね……ただ、夕方頃には強めの雨が降るらしいけど」
今朝はちょうど天気予報の時刻に目覚めたのだった。それを聞いた彼女の顔が、またたく間に影を帯びて暗くなった。『親しみを込めて話しかけたつもりが、馴れ馴れしく受けとめられたのでは……』そう思って後悔を覚えた恵介であったが、彼女が落ち込んだ理由は別にあった。
「そうだったんですか? ちゃんと見て来るんだった……わたし、洗濯物干して来ちゃった」
思わず口から出てしまったらしいが、彼のほうは余計な詮索から顔を真っ赤させて、目のやり場に困ってしまった。一瞬でも若い女性の洗濯物を想像してしまったこと、それに彼女の発言はどんな意図もない独り言に過ぎなかったのだが、聞きようによっては依頼とも受けとめられかねない内容で、いくら暇そうに見えようとも(実際暇でも)、彼が代わりに彼女のベランダまで洗濯物を取り込みに行くわけにもいかないので。うつむく眼前の大男を受けて、彼女にもようやく彼の邪推の一部が理解できたらしい。しかし、少なくとも彼女の顔に、恥じらう様子は見られなかった。恥じらいは共感を意味する――そう彼女は思いついたのかもしれない。
「すみません、くだらないことを言って。では、その、いってらっしゃい……」
どちらかと言えば、その最後の言葉にこそ、戸惑いが露わになり、一瞬だが彼女は斜め下に目を逸らした。彼のようなしどけない格好の人間に――先日聞いた『時間が有り余っている』という発言も脳裏をよぎったようだ――、この場合、どういった挨拶をすべきか、入社時に受けたビジネスマナー研修では教えてはくれなかったから。
「あっ……うん」
彼のほうも返す言葉が見つからず、無意味に二度うなずくと、未練を断ち切るようにその場を歩き去った。実のところ、彼には最初からわかっていたのである、こういう別れ方になってしまうことが。だからこそ、会社勤めしている頃なら、靴ひもでも結びなおすふりをして立ち止まるところを、寝た子を起こさぬ忍び足で、背後を通り過ぎようとしたのだ。
しかしながら、彼女の振る舞いは、またしても好印象となって、温かみを持って彼の胸中に留まることとなった。あのとき彼女が共通認識を持って恥じらわなかったからこそ、彼は救われたのである。『印象は悪くない。体裁は保たれた』と彼に思わせた。その日から彼はディーラーの前を通るとき、歩くスピードを緩ませてまで、彼女の姿を探すようになった。彼女が美しくも愛らしいというのもあったが、そもそも単純に人恋しかったからでもあった。仕事を退職して以降、女性とはもちろん男性とも、二度挨拶を交わすような仲になったことは一度もなかった……。
翌日、運よく交渉用のテーブルを拭く彼女とガラス越しに目が合い、目顔で挨拶をした。そのときは彼女のほうが若干早く頭を下げた。三日後、同じくガラス越しに顔を合わせた際には、どことなく彼女の笑顔が薄れ、彼のほうが早く頭を下げていた。その二日後、彼女の姿はまったく見えなくなったが、ニヤつく男性社員と目が合った――出庫時にいた男性社員であった。その翌週の月曜日、この前のように男性社員と目が合った。どこか待ち構えていた感があり、その男が事務室に声をかけると、彼女がチラリと姿を見せて、すぐに消えた。
火曜日、道路の対岸で信号待ちをしているときから、芝生に立って鉢植えに水をやる彼女の姿が目に入った。信号が変わると、彼は競歩なみの早足で店舗の境界まで近づき、そこから牛歩のように歩きだした。気づかれぬまま突っ切ってしまいそうだったら、隣接する建物のブロック塀のところで立ち止まり、振り返って一言だけ『おはよう』と挨拶し、すぐに歩き出そう――そんなことを考えていた矢先、絶好のタイミングで彼女が向かい合うように振り返った。彼女が心持ち荒く靴音を立てていることなどつゆと気づかず、彼は喜びに舞い上がらんばかりだった。
「お、おはよ――」
言い終わるより早く、彼女が声をかぶせてきた。これまで一度として聞いたことがない、冷たく慇懃な声だった。そういえば、振り返ったときから、彼女は無表情そのものだった。
「おはようございます。何か、わたしに、ご用がおありなのですか?」
尾てい骨を蹴られでもしたように背筋を反り返らせると、緩んだ恵介の表情がにわかにこわばった。
「エッ、いや、別に……」
しばしの沈黙。青ざめ、息を呑む恵介を、彼女は大きな瞳で睨みつけた。
「……だったら、やめていただけませんか?」
「エッ……」
彼が即座に認識しえたのは、おそらく彼女は、日常的な『挨拶』――それだけを言っているのではあるまいということだった。しかし、それ以外に何のことか、彼にはさっぱりわからなかった。
「わたし、その……気があるように思われたのなら――」一旦逸らした視線を、挑みかかるように向き直すと彼女はいっさいを退けるように言い放った。「心外です」
「い、いや、決してそんなつもりでは……」
言下に取り乱した恵介は、無意識に彼女側に一歩踏み出したが、あわててその足を引っ込めた。彼女はその場を動かず立ち続けたが、右足が靴の中で数ミリ後ろに引かれたのを彼は見逃さなかった。いくら気丈に振る舞っても、彼に恐怖心を抱いていた証に他ならなかった。その微かな仕草が、何よりも彼を傷つけた。
「……ともかく、そういうことですので……」
彼女は水やりも途中のままジョウロを持って、ショールームの脇にある従業員用の出入り口に引き返していった。
「あの、その……」心が千々に乱れた恵介は、口を開けばしどろもどろになる言葉を呑みこんで、喉に力を込め、去りゆく彼女の背中に向けて一言だけ叫んだ。「ごめん!」
謝罪の言葉を耳にした彼女は、背を向けたまま立ち止まった。早足だったため、ジョウロの中で水が揺らぎ、垂らした右腕だけが、容器の水をこぼさぬよう無意識に揺れ動いた。恵介としては、『そんなつもりじゃなかったんだ!』と言ったつもりだったが、まったく別の意味に受け取られかねない、いやその公算のほうが高い一言だった。彼女は再び足を速めて、建物の中へと入っていった。
そのときこそ、彼女の変貌ぶりに度肝を抜かれた恵介であったが、部屋に帰りつく頃には、なるべくしてなったことであると深く反省した。彼女の立場になってみれば、当然のことである。彼の行為は、この十日間で次第次第に偶然の出会いを装った、不可避な挨拶の強要へと移行していた。ストーカーと見まがわれてもいたしかたないことだった。その帰り道、なぜともなく思い出したことがある。彼が小学生の頃、クラスメートの前で一人の男子生徒をからかったことがあった。その子は人見知りがちな、内気な生徒だった。からかったわけはくだらないことで、単純に馬鹿するといったものではなく、確か、授業参観の次の日、母親が女優の誰某に似ているとかいった、冷やかしが目的だった。だから、当時の恵介にしてみれば、その子をいじめている感覚はなく、皆の注目を浴びさせていることに悦になって、その子自身も決まり悪そうにしながら内心は喜んでいると思い込んでいた。恵介が周囲をはやし立て、三度同じことを口にしたときだった。突然その生徒が憤然として席を立ち、恵介に罵声を浴びせ、流行りのアニメの缶ペンケースを投げつけたことがあった。缶ペンケースは恵介からまるきり外れ、床に落ち、中身は四方に飛び散ったが、教室はシーンと静まり返り、しばらくそれを拾うものもいなかった。ふいに、そのときの情景がまざまざと彼の脳内によみがえったのだった。その子とはのちにお互いの家に遊びに行く仲にまでなった。その子の名前も家の場所も忘れてしまったのに、不思議とそのアニメのキャラクターが何だったかだけは、決して忘れることができないのだった。
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