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小説を読まなくなって、読書が楽しくなった

はじめに、私は、文学部出身で、現在も文学研究科という名の大学院に通う大学院生である(文学専攻ではない)。
第二に、私は、文学部生を名乗る資格がないほど本を読んでこなかった。

かろうじて読む本といえば専ら大学での勉強で必要な概説書や古典、一般向けの学術書だとかで、小説の類の文学はあまり読まなかった。かといって、全く読まないわけではない。年に何度も本屋で古今東西の名作小説を買ってみたり、近年の著名作家の本に手を伸ばしてみた。ところが、その読書体験はことごとく挫折してしまった。モチベーションはあるのに、数ある名作小説はどれも私の心を打たなかった。

先日、数年前に読み、すぐに挫折してしまった三島由紀夫『金閣寺』に再び挑戦した。私の思想的成熟もあってか、本作が持ち合わせる価値は十分に感じられた。間違いなく傑作であるということは容易に理解できた。しかし一方で、私の心は少しも惹かれなかった。半分ほど読み進めたところで、またしても挫折した。だが、前回の挫折と異なり、今回の挫折で私は一つ得たものがある。分かったことがある。

それは、私には純文学は読めないし、通俗的な小説も、ほとんど読めないということである。

高校生以来の私の読書遍歴を少し語ってみよう。高校生の頃は、人並みに本を読む高校生だったと思う。東野圭吾や、伊坂幸太郎といった著名作家を含めて、話題のミステリ小説などに適当に手を伸ばしていた。中でも伊坂作品に強く惹かれ、コロナ禍には暇を持て余し、ほぼ全てを読破した。そのことからも分かる通り、私の中での小説のイメージは伊坂幸太郎に代表されるエンタメ小説だった。彼のポップなエンタメの中に光る深淵なるものに私は強く惹かれた。しかし、私の心が好んだのはただ彼の作品に限られ、小説そのものに魅せられたわけではないということを当時はまだ知らなかった。

伊坂作品を全て読破すると、私の読書体験は長い雌伏の時期に入った。他の作家の小説を読んでも、惹かれなくなった。エンタメ小説に慣れたせいか。太陽の明るさで昼間に星が見えないように、自分ともっとも共鳴する作家の前では、如何なる小説も輝きえないのか。はたまた自分が変わってしまったのか。

気付けば大学生になった。大学生の本分は本を読むことだと高校時代の恩師から教わっていたが、それに反して私はめっぽう本を読まない大学生になってしまった。
文学部生だと言うと、「たくさん本を読んでいる」といったイメージはつきものだし、実際何度も言われた言葉でもある。実際、同じ文学部の友人の家にはずらりと名作が並ぶ。私はそこに少しの後ろめたさを感じていた。

私が唯一敬愛する小説家である伊坂幸太郎は、大江健三郎を敬愛している。そこで私も大江健三郎の作品に手を伸ばしたことがある。さすがはノーベル賞作家。描かれる世界は、あまりに独創的で、私の乏しい想像力の範疇の外にあった。半分も読めなかった。
海外作家の小説に至っては、さらに読めなかった。日本語からは外れたリズムに、想像の及ばない異世界を舞台としたそれは、文字を追うのに精一杯だった。言わずと知れた名作であるプルーストの『失われた時を求めて』は、全く分からなかった。ヴァージニアウルフ『灯台へ』を読んでも、それは変わらなかった。

読解力に乏しいわけではないのに、読めない。世間の人々は、どうやって数々の名作小説の価値を理解しているのだろう。私だって大江健三郎を理解したいし、日本語を母語とする者として三島や芥川、川端を読みたい。ドストエフスキーだってスタンダールだって読みたい。でも、どうにも読めないのだ。

そのような悩みに終止符を打ったのが、先述の『金閣寺』の体験だ。厳密に言うと、この時の挫折は挫折というより「諦め」であった。
私は純文学を読むのには向いていない。そのことにようやく気付いた。人には誰しも向き・不向きがある。私がロックンロールの価値を解し、クラシックやポップスの価値を解さないように、野球の面白さを解し、サッカーの面白さを解さないように、私は文学の価値を解さないだけの話なのである。

こんな単純な事実になぜ気付けなかったのであろう。本を読む=文学を読むという、一面的な私の先入観が原因であったと感じる。この世にはさまざまな種類の本があるというのに、どうして文学だけに固執しようか。

このことに気づいてからというもの、私の心は晴れた。書店でも小説には目を向けなくなった。ただただ私の興味の向く方へ足を進めた。さまざまなジャンルの新書、一般向けの人文書、こういうところに私の読みたい本はたくさん存在した。これまでは、名作のような読む"べき"本に囚われており、なかなか手が伸びなかったが、今では読み"たい"本が溢れ、手が負えないほどである。それに伴い読書ペースも格段に上がった。これまでは寝る前に読む時間を設けるなど、意図的に本を読む工夫をしていた。しかし、今はそのような工夫は必要ない。いつでも、どこでも、純粋に続きを読みたいと思える、そんな読書はいつぶりであろうか。

本は何も、読み始めたら最後まで読まないといけないわけでもない。もちろん、長編小説に顕著なように、最初に多少の我慢が求められるものもある。昨年私が読んだ『三体』などはまさにそういう類の小説である。それは別として、何も自分に合わない本を無理に読む必要はない。合わないな、と思えば、それがいかなる名作であっても、読むのをやめればいい。そして、もう一度本屋に行けばいい。そこには一生かけてもとても読みきれない量の本が主人を求めている。その選択肢は、時間に対して無限に等しい。

そして、当然全ての本が自分にとって価値があるわけではない。数度の読書体験の挫折が、読書全体への挫折を意味するわけではない。モーツァルトやビートルズを解さなくても、K-POPなら好むという人は多い。

無論、なにが自分の嗜好に合うかは、手探りで探すしかない。それはある人にとっては古典哲学書かもしれないし、歴史小説かもしれない。私には五年の歳月が必要であった。人によっては、もっと短いかもしれないが、もっと長い可能性もある。しかし、たどり着いた先の景色はなんと素晴しいのだろう。広大な未知の世界が広がっている。未知とはすなわち可能性である。綴じられた本の中には過去の自分を、自分の未来を、はたまた世界を変える可能性すら眠っている。

百年に迫る人生の長さに比して、数年の歳月がなんだと言おう。

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