ケアワーク(Care Work)はジョブ(Job)になり得るのか
今日は観察が多かった。
一つひとつは小さな出来事なのに、並べると、娘が少しずつ世界のルールを理解している途中経過が見えてくる。
朝、公園の遊具を見ながら娘が言った。私と一緒に遊具で遊んでいた時だ。
私が「この滑り台は狭いわ〜」というと、
「◯◯ちゃん(娘)用だね」
つまり、「これはパパのものじゃない」「子どものためのもの」。
ただ遊具を見ているだけじゃない。
自分と他人、自分が使うものと誰かが使うもの、その境界を少しずつ理解している。
じいじばあばの家では水遊び。
蛇口からホースを伝って流れる水を、じーっと見る。
何度も同じことを繰り返す。
大人からすると同じ遊び。
でも子どもにとって反復は研究なのかもしれない。
流れる。落ちる。触る。もう一回。
世界には法則があることを、自分の身体で確かめている。
ベランダでも水遊び。
器に水を入れて運ぶ遊びをしていたら、
「パパやって(運んで)」
と言われた。
少し考えた。
失敗が怖いのかな。もう挑戦しなくなってしまうのかな。
でも、違うのかもしれない。
子どもは時々、「できないから代わって」ではなく、「一緒に成功したい」と言う。
運ぶという目的はある。
ただ、こぼれる未来を先回りして調整している。
慎重さなのか、効率なのか、信頼なのか。
育児の中で、挑戦しないことだけは避けさせたいと思っているので、もう少し様子を見たいと思う。
最近面白いのはキッチン。
毎回、
「入っていい?」
と聞く。
これまで「危ないから入らないよ」と伝えていたら、禁止を覚えて、許可を取るようになった。
癇癪も少ないし、話も通じる。
単に聞き分けがいいというより、「ルールがある世界」を安心して受け取っている感じがする。
今日もう一つ驚いたのは、「英語」というカテゴリーを理解していたこと。
日本語の歌と英語の歌が流れる絵本を見ながら、「これは英語」と認識している。
単語ではなく、言語そのものをひとまとまりとして捉え始めている。
そして最近のブーム。
誕生日おめでとう。
先日、ばあばの家でみんなに祝ってもらった時間がよほど嬉しかったのか。
公園では砂場でケーキを作って歌う。
家ではぬいぐるみを並べて、一人ずつ順番に祝ってあげる。
子どもは楽しかった出来事を再現する。
でも再現しているのは歌じゃない。
「祝われた」「大事にされた」「誰かを祝う」という関係性そのものなんだと思う。
そこで今日、ふと思い出した。
『金持ち父さん』に出てきた、ワークとジョブの話。
ジョブは、価値を提供して報酬を得ること。
ワークは、その前段階にある営み。
勉強したり、練習したり、自分に投資したりする時間。
医者は医者として報酬をもらう前に、長い時間をかけて学び続ける。
ワークが先にあって、ジョブが後に来る。
最初は、育児は違うと思った。
育児って無給だし、報酬もない。
今日読んだ絵本も、水遊びも、誕生日ごっこも、お金には変わらない。
でも少し考えると、育児はジョブにならないんじゃなくて、自分に返ってこないワークなのかもしれない。
今日見たものを並べると、
危険だから許可を取ること。
英語という分類を理解すること。
助けを求めながら挑戦すること。
祝われた経験を誰かに返すこと。
全部、人として生きる基盤そのものだった。
親は毎日、その土台を少しずつ作っている。
医者のワークは未来の自分のジョブになる。
でも育児のワークは、未来の子どもの人生になる。
だから回収できない。
成果も見えない。
けれど、今日みたいに、祝われた経験がぬいぐるみに向かって再生される瞬間を見ると、
親のワークは消えていない。
別の誰かの世界の見え方として、ちゃんと残っている。
育児って、ジョブじゃない。
でも、人間を育てるという意味では、ものすごく大きなワークなんだと思った。
