なぜ「離婚」できないのか ―― 組織設計という名の監獄
思わぬ出会い
自分のリベラル論を書いていたとき、AIに「この論と近しい論考を探してほしい」と求めたところ、すぐに見つかった。シノドス編集長・芹沢一也の論考だ。
「『リベラル』と『レフト』の不幸な結婚を終わらせよう」(SYNODOS、2025年12月)
https://synodos.jp/opinion/politics/30566/
芹沢氏はレフト側の論者による「リベラルはレフトとは違う」という批判的絶縁状を好機と捉え、胸を張って受け取れと言う。自分もその方向には同意する。しかし問いはその先にある。
なぜ、この「離婚」はこれほどまでに難しいのか。
芹沢論文が示す「絶縁」の論理
芹沢氏の論旨はこうだ。リベラリズムが嫌われる最大の理由は「レフト」との混同にある。異論を許さない不寛容や過剰なアイデンティティ政治は、本来リベラルが尊ぶ「個人の自律」や「多様な価値への寛容」と真っ向から対立する。だからリベラルは「私たちはレフトではない」と明確に宣言し、この絶縁を活かすべきだという。
これはレフト側が差し出した離婚届だ。しかし言説の次元で判を捺せても、現実の「組織」という身体は切り離せない。そこに問題の根がある。
問題は「意識」ではなく「設計」にある
リベラルを標榜する個人とレフト系組織は、選挙協力・市民運動・抗議活動を通じて、長年、深いところで絡み合ってきた。この関係を維持しているのは思想の一致ではなく、組織の設計である。
なぜ断ち切れないのか。ここで効いてくるのが、レーニン主義を起源とする「民主集中制」だ。
決定事項への異論は「分派活動」として排除される。この仕組みが組織の根幹として組み込まれている以上、内部から「それはおかしい」という声が出ることは論理的にありえない。異論を出さないことが、その組織内では最も合理的な選択になるからだ。
これは構成員の心理の問題ではなく、組織の設計図の問題なのだ。
そしてリベラル側もまた、この構造に依存している面がある。
そもそも、リベラルと「デモ」という行為自体の相性は悪い。個の自律を重んじるリベラルな人間が、集団で旗を掲げ、同じ声を上げることには、本質的な違和感がある。組織を持たず、動員力もない。
デモの申請、機材の調達、人員の確保といった実装の段階で、レフト組織の持つ動員力がスッと入り込む。リベラルな個人は声が「大きく見える」誘惑に負け、レフトの拡声器を借りる。一方、レフトは「多様な市民に支持されている」というアリバイを手に入れる。
自前で組織を設計するコストを惜しんだ瞬間、個人の純粋な意思はレフト組織の実績へと回収されていく。
設計の問題は、現実に機能している
これは抽象的な話ではない。
2026年3月、辺野古沖で17歳の女子高生が死んだ。抗議船が転覆した事故だ。運航団体には共産党の地方組織が深く関わっていたが、党幹部は会見で関係性を濁し続け、2週間にわたり事実を伏せた。
党内から公的な批判は一切出なかった。
東京都清瀬市でも同様の構造が現れた。共産党系市長が就任3日で公約を断念した際、支持層は自らの検証を棚上げし、前市政への批判に終始した。
党内から「それは筋が違う」という声は、やはり出なかった。
これらは個別の失敗ではない。組織の設計が、個人の良心を封殺している結果だ。
「絶縁状」は届かない
芹沢氏の論はここまでだ。しかしその先に、もう一段深い問題がある。
日本において相手が離婚を受け入れないこと。
絶縁状を出しても、彼らはリベラルを名乗り続ける。辺野古で人が死んでも、清瀬で公約が崩れても、党の論理が優先され、内部から異論は出ない。その組織は「リベラル」という看板を下ろさない。
言説の次元での絶縁は、現実の看板を変えない。
おわりに
不幸な結婚が続く理由は、感情でも惰性でもない。組織設計という、極めて具体的な問題だ。
絶縁状を出し続けること、リベラルという言葉の返還を求め続けることは必要だと思う。カウンターデモという戦略も有効だろう。
ただ、自分にはまだ答えが出ない。
リベラルの本質は個の自由にある。集団の論理で個を縛ること(デモ)と、それは根本から相容れない。しかしその隙に、レフトの組織力が入り込んだ。世の中が心配で声を上げたいリベラルな個人が、レフトの掲げる旗に引き寄せられていった。
しかし民主主義は個の集まりだ。個を殺さない集団のあり方が、どこかにあるはずだと思っている。
絶縁状を出し続けながら、個と集団の間にある何かを模索している。その先に、自分が信じるリベラルの未来があるかもしれない。
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