「なんでできないの」をやめた日|娘を変えようとしていた私が、変わるまで
子どもに毎日怒鳴られる生活、想像できますか。何度も「もう無理かもしれない」と思った。
ジュースが壁に飛んだ夜のことを、今でもはっきりと覚えている。壁をつたうオレンジ色の液体。キッチンペーパーで床を拭きながら、涙がこみ上げてきた。
きっかけは、私の一言だった。
「また宿題やってないじゃない。いつになったらできるの?」
親がよく子どもに言う、なんてことのない言葉。でも娘は、その一言で爆発した。怒鳴り、泣き、物に当たり、最後にジュースを壁に向かって投げた。
私の中で、何かが静かに崩れた。
娘は小さい頃から、手のかからない子だった。まじめで成績は良く、静かで、先生から問題を指摘されたこともない。だから私は、娘が家で怒鳴り散らすなんて想像もしていなかった。
でも中学生になると、少しずつ何かがずれていった。
アメリカの中学校では、「2週間後に提出」といった課題が、複数の科目で同時に出ることも珍しくない。最初の頃は、提出期限の前日になってから驚くほどの集中力で帳尻を合わせていた。
夜遅くまでかかって課題を仕上げ、疲れ切ったまま登校する。そんな日が、少しずつ増えていった。
何度もカレンダー管理を教えた。タスクを細かく分ける方法も伝えた。娘は毎回、「うん、次はそうする」と言った。
でも、やらない。
「もうこんな時間だよ。いつ宿題やるの?」
そう聞くと、決まって返ってくるのは、「うるさい」「あとで」という怒鳴り声だった。
学年が上がるにつれ、課題の量は増えた。一晩の集中力だけでは、もう追いつかなくなっていった。成績を落としたくない。そのプレッシャーから、課題を仕上げるために遅刻や欠席を選ぶ日まで出てきた。
最初は、反抗期だと思っていた。中学生だから。思春期だから。そう自分に言い聞かせていた。でも、何かが引っかかっていた。
良い成績を取りたいと、本人が一番思っている。やらなければいけないことも、分かっている。それなのに、宿題や課題を先延ばしにする。
ただ、やればいいだけなのに。
当時の私には、それが本当に理解できなかった。そして、その「理解できない」という感覚こそが、親子を一番苦しくしていたのだと思う。
「なんでできないの」「昨日も言ったよね」「みんな普通にやってるよ」
何度も言った。言えば伝わると思っていた。厳しくすることも、親の役目だと思っていた。
ある夜、お風呂上がりの娘の手首に、細かい傷を見つけた。一瞬、息が止まった。できるだけ普通の声を出そうとした。
「それ……どうしたの?」
娘は少し黙ってから、小さく言った。
「……別に」
その「別に」が、胸に刺さった。
別に、ではない。絶対に、別にではない。
その夜、私はやっと気づいた。この子は、ずっと苦しかった。私が思っていたより、ずっと前から。
そのときから、夜中までネットで調べ続けた。辿り着いたのは、「不注意優勢型ADHD」という言葉だった。初めて見た言葉なのに、読み進めるほど、娘の姿がそこにあった。
教室では静かに座っていられる。問題も起こさない。だから見過ごされやすい。でも中学生になると、課題管理や優先順位づけが一気に難しくなる。それは、まさに娘に起きていたことだった。
娘は「やりたいのにできない」理由が分からず、苦しんでいた。自己否定を繰り返し、うつ状態になり、不登校になりかけていた。
怒鳴ることも、泣くことも、宿題をやらないことも、私を困らせるためではなかった。学校で気を張っていた分、安心できる家で、抑えていた不安や疲れがあふれていたのだと思う。
助けてほしかったのだ。
でも娘は、それを言葉にできなかった。そして私は、そのサインを何度も見逃し続けていた。親なのに。一番近くにいたのに。
娘に不注意優勢型ADHDと診断がついたとき、不謹慎かもしれないけれど、悲しみより先に、すとんと胸のつかえが取れたような感覚があった。
愛情が足りないのか、育て方が悪いのか。自分を責めては、正解のない問いを繰り返す毎日。あの「原因不明の苦しさ」は、経験した人にしか分からない孤独だった。
だから「特性」だと分かったとき、ようやく暗闇に光が差した気がした。これで、やっと娘と一緒に前を向ける。
それは絶望じゃなくて、私にとっては希望に近い感覚だった。
それから、娘と私は少しずつ、やり直してきた。
でも、知識を得たからといって、すべてを穏やかに受け止められるようになったわけではない。娘が苦しいのは分かっている。それでも、目の前で怒鳴られれば心は傷つく。
娘はストレスに弱く、感情のコントロールも苦手だった。些細なことでイライラし、最後はまったく関係のない私に怒りをぶつけることもあった。
「なんで私が怒鳴られないといけないの?」
正直、何度もそう思った。
知識が増えても、私の心まで強くなるわけではなかった。発達特性の子育ての消耗は、そこにあるのだと思う。
それでも外から見ると、娘は「普通の子」に見える。学校では、なんとか頑張って普通を装っている。だから、家で何が起きているのかは、誰も知らない。
きつかった頃、ふと鏡を見て「老けたな」と思ったことがある。余裕がなくて、笑う回数も減って、毎日をなんとか回すだけで精一杯だった。子どもを支えたいのに、自分の心が先に折れそうになる。そんな日が、何度もあった。
気づけば私は、「分かっている側」として、ずっと我慢する役になっていた。
「受け止めてあげて」「寄り添ってあげて」
発達特性の子を育てている親に向けられる言葉。その言葉は正しい。でも、それを毎日続ける側の苦しさは、あまり語られない。
それでも、少しずつ変化はあった。
ある日の夕方、娘がリビングに来て、何でもないことのように言った。
「宿題、終わったよ」
以前なら、宿題はいつも締切前日の夜まで残っていた。机の前で固まり、泣き、私が声をかければ怒鳴り声が返ってきた。だからその一言が、私には信じられないくらい大きかった。
「すごいね」
そう返すだけで、精一杯だった。
娘は「うん」と言ってそのままキッチンへ行った。冷蔵庫を開けながら、何事もなかったかのように今日の学校の話を始めた。
その普通の会話が、胸にしみた。
宿題が終わったことよりも、娘の穏やかな顔を見られるようになったこと。何気ない会話が戻ってきたこと。そのことが、何よりうれしかった。
今でも、うまくいかない日はある。昨日できたことが、今日はできない。感情の波に、親子で揺さぶられることもある。
でも、あの頃とは違う。
娘は高校生になり、少しずつ自分の扱い方を覚えてきた。どうすれば集中できるか。何があると動きやすいか。どんなときに崩れやすいか。
私も、娘の「できない」を見たとき、すぐに責めるのではなく、まず理由を探すようになった。
「なにが理由でできないんだろう」「どうすればできるだろう」
以前の「なんでできないの?」は、責める言葉。「どうすればできる?」は、支える言葉。
たった一言で、家の空気は変わる。そのことを、私は娘に教えられた。
崩れる日があっても、戻ってこられる。できない日があっても、また考え直せる。親子でぶつかっても、もう一度やり直せる。それだけで、私たちの毎日は大きく変わった。
反抗期だと思っていた娘は、助けを求めていた。そして娘を変えようとしていた私は、本当は自分が変わる必要があった。
あの夜、壁に飛んだジュースは、私にとって終わりの象徴だった。でも今思えば、あれは始まりでもあった。
娘を責める子育てを終わらせるための始まり。「できない」に合う形を、一緒に探していくための始まり。そして、親子で、もう一度向き合い直すための始まり。
今でも、道の途中だ。うまくいかない日もある。また同じことで悩む日もある。
それでも今、家には笑い声がある。
夜ご飯を食べながら、娘が冗談を言う。夫と私が笑う。学校であったことを、少しだけ教えてくれる。
そんな、なんてことない普通の時間が、こんなにも尊いものだと、あの頃の私は知らなかった。
