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民主社会党(仮)

 自民党の強引さと社会党の頑迷さ、わが党内における強力な統一が取れなかったこと。1960年の安保国会の中でなぜ民社党が埋没したのか、当時の書記長曽祢益はこうした言葉を残しています。ときは岸信介内閣。革命路線ではなく議会主義によって民主社会主義を成し遂げると高らかに宣言し、当時朝日新聞がかなり好意的に報じた日本社会党右派で結成された民主社会党。日本社会党内の地方組織で左右の対立があまりに大きくなっていたこと、総評を離脱した全日本労働組合会議略して全労から全面的な支援を見込めた事、そうした背景もあって西尾に同情的な社会党右派の代議士、参院議員を含めて50名以上を超えた事。さらに社会党内閣において、首相を務めて社会主義者でありヒューマニストであり平和主義者だった重鎮、片山哲まで同調した事。「真の社会主義を達成できるのは、日本社会党ではなく民主社会党である」と主張する事は別に誇張ではなかったです。社会党左派の最大の問題点は、「議会制度において社会主義革命を達成した場合、ジャーナリズム機構を含めて根本的に変革する」という左社綱領が当然マスコミには警戒されました。はっきりと検閲すると宣言していると思われても仕方ないでしょう。こうしたイデオロギーは「日本における社会主義への道」いわゆる「道綱領」にも色濃く表れてしまい、結果として社会党の「頑迷さ」ばかりがそれこそ日本における社会主義への道を閉ざしました。
 さて便宜上、民主社会党を離党した右派グループを「西尾派」「河上派」と分けていますが、特に社会党内派閥「社会党再建同志会」を西尾末廣グループとしてこのnoteでは活用しますが、このグループに集まったのは西尾のリーダーシップに惹かれてというよりも西尾と同調して離党したという「同格」意識が強く、真の西尾末廣直系は片山哲内閣で西尾官房長官の下で官房次長だった曽祢益、西尾が兼任した国務大臣で秘書官を務めた池田禎治、ぐらいでした。西尾の戦前からの同志であり、映えある無産政党代議士の8人の中の1人である水谷長三郎も安保国会においては議員団長であり、当時としては反西尾と言っても差し支えのないほどの院内幹部の1人でした。実を言えば結党時に西尾よりも片山哲を委員長に担ぐという構想が河上派離党組から出て、西尾執行部はその声に配慮をした人事であり、西尾の徹底的な議会主義がかえって民社党の取れる選択肢を狭めてしまったという事が彼の最大の不幸でした。安保法案を通す前に解散して民意を問うべきというのが民主社会党の基本戦略であり、与党と議論を尽くしつつ、岸内閣が推し進める安保法案は反対なので社会党と一定の連携をしつつ法案が通る前に解散総選挙に持ち込む。そこで民意を問う。議会主義としてこれが理想だったのは間違いないです。ですが、そうならなかった。
 さて日本の保守与党、自由民主党は元々は違う政党が保守合同の名の下に集まった寄り合い世帯であり、岸内閣の強引な強行採決を野党代議士ばりに批判していた人も多かったですが採決の際はしっかりと党に従う。ただ有権者の目には同じ保守与党の間でも岸に批判的な人がいたという事実は残ります。これも民主社会党の存在感を希薄にしました。

 金権的でありながらもケインジアンで実際に「福祉元年」を内閣で遂行した田中角栄、協同組合主義という社会民主主義と極めて近い政治路線で「議会の子」と呼ばれた三木武夫など有権者には「岸の強引さ」とは違う、と見えていました。そして実際三木武夫などは安保法案の採決の時は欠席しています。議会制と普通選挙のなかで、そうしたテクニカルな手法で政権を維持した自由民主党は55年体制を引きずっているとも言えるし、マスコミへの見せ方やその野党翻弄国対のなかでアメリカ共和党やイギリス保守党よりもはるかに長けているとも言えます。さて、長い前置きはここまで華々しく結党され、むしろマスコミには期待された民主社会党がなぜ西欧社会民主主義を標榜する勢力になり得なかったのか?現代へどういう教訓があるのか?迫ってみましょう。

強硬派!?春日一幸

 「社会党再建同志会」便宜上西尾派と評しますが、彼らは社会党内グループで大半が西尾末廣と共に民主社会党へ流れましたが、一部が残留しました。太田一夫もその1人です。元々名古屋鉄道労組の組織内だった太田は同じ選挙区に左派の伊藤好道がいて、伊藤の責任産別は当時上昇中のトヨタ自工労組でした。伊藤は社会党左右統一に心を砕いた代議士でそのストレスの最中に早逝。トヨタ自工労組と国鉄労働組合は後継に妻であった伊藤よし子を擁立します。議会活動は現実的だが戦前はバリバリの左派社会党の系譜の伊藤好道に対して、太田一夫は当然右派というより中間派のような立ち位置を取り、バランスをとっていました。西尾に同調しなかった理由は明確ではないですが、自らの支持者のことを考えると一定の歯止めとなる。伊藤よし子の代議士人生はWikipediaでも書かれており、それを参考にすればトヨタ自工労組はイデオロギーというより社会党の派閥抗争のさなか民社党支持へ変わっていった。それは「社会党再建同志会」にもそうした背骨があり、社会党と違う路線を模索した結果、そもそもの議会主義、民主社会主義が曖昧となり公明党や日本共産党に未組織労働者の支持を刈り取られ、融通無碍の自民党の国会戦術を前に議会活動も低調に見られてしまった。時代の空気はあり、「社会党再建同志会」にも同情する点はありますが国会議員を50人以上の大分裂を起こさず党内に残留すれば西尾ら当時の右派も必ず陽の目を見る世界はあったかもしれません。ただ歴史にifはないです。そして当然勝つためには多数派を取るしかない。当時、「社会党再建同志会」に所属し、河上派でありその切り崩しに貢献したのは後に3代目民社党委員長となる春日一幸でした。終戦後は社会党左派の愛知県議でしたが、かつての同志で愛知の社会党のベテランである赤松勇の刺客候補として右派社会党から代議士に当選。民主社会党においては「旧河上派」として国会対策委員長の議員団司令塔でした。さて春日といえば反共の闘士であり、「明日のために日本共産党に反対する」と演説をするほどの右派というイメージが当時の有権者にはありますが、安保国会においては水谷長三郎議員団長と同調した岸安保法案の民主社会党内反対派の急先鋒でした。
 民社党というより西尾末廣ら執行部を擁護するなら、自民党は強行採決ばかりで社会党左派はおろか右派もそのどこか問題で、どこが安全保障において有益になるのか議会で明らかにならない。それに対して社会党の国会戦術は審議拒否、院外闘争、挙句の果てには日本共産党も批判するような議員総辞職で総選挙に持ち込むという言論の府としては一線を超えたものでした。当時の民主社会党国会対策委員長であった春日一幸は体を張った実力阻止でした。当時の民主社会党国対幹部である中村時雄、武藤武雄は社会党国対委員長の山本幸一が褒めるぐらい安保断固拒否、審議拒否方針で国会内でも当然そうした行動を社会党と共にしていました。それが良いか悪いかはともかくです。社会党が暴力革命で、マルクス・レーニン主義的だが私達は議会主義である。と結党時にはそうした主張をし、国会活動は社会党と行動を共にする。当時は保革の違いが明確であり、その方針は当然乱闘もありきになるかもしれないという事は理解したうえで、当時の春日国対は言っている事とやっている事が違うと当時の有権者も思ったやもしれないです。春日を擁護するなら当時の読売新聞の論調はその議会主義的な西尾の方針を「それでも野党か!」「自民党と取引をした!」「岸は笑いがとまらない!」と政局をネタにするのはまだしも、その内容はスポーツ新聞のような煽るような文章であり安保自体は必要悪だと思っているが、岸のやり方は議会主義に反しているのに下世話なマスコミの論調に春日ら民主社会党党内は、西尾執行部の方針が中途半端に感じたのもまた仕方ない事やもしれません。その時代の空気を私は知っているわけではないので憶測にはなりますが。
 さてこの辺りから党内情勢は水谷、春日ら院団幹部と西尾、曽祢ら党幹部の対立が明らかになり、中間派を除いても水谷、春日支持派が党内の半数を超えるようになります。春日一幸の社会主義運動は西尾と違い「戦後」からです。その違いは小さいようで大きかったです。実際「戦後」派の佐々木良作は党の方針が最終的に西尾、曽祢がひっくり返すという事に我慢ならず教宣局長を抗議の辞職をしています。そして当時の世論もまだ戦後20年も経っていない段階で戦争の記憶が色濃く残っています。「戦後」派が強硬派になるのも当時の空気としては一定の理解もできますが、いかんせん結党時の議会主義を守るという言葉が党内において意思決定が若干鈍くなったのも否めないです。西尾は戦前の無産運動の闘士ですが、この時点で「評論家」になってしまった。これが民社党の未来を決めてしまったように思えます。西尾末廣が西欧の社会民主主義を模索していたのは間違いないです。彼は後継に定めた西尾派大幹部である西村栄一の公明党提携論にも距離を取っていたのですから、彼の考えは「社会民主主義」は当たり前でした。しかし党内においても民主主義である民主社会党は、寄り合い世帯であり統一した見解はなく

民社党の虚像と実像

 民社党は社会党と違う現実主義の政党だった。と言った元民社党書記から新聞のインタビューが出ていますが、果たしてそれがどれだけ実像に近いのか?社会党の非武装中立論が有名ですが、民主社会党は「駐留なき安保」が主要政策でした。後に日米安保の強化に転換しますが、70年代まで基本的に米軍基地は縮小し、独自の軍隊を保持する。この防衛政策は保守系の新自由クラブなど、中道新党構想が生まれては消えた原因にもなりました。現実主義であるかどうかは別として、社会党との差別化を図るために一部保守派も拒絶するぐらいのタカ派路線に軸足を移す。最終的に自民党と民社党が連立を組む事ができなかったのは、ある意味社会党以上に安全保障政策が違いすぎるという理由です。そして社会党と差別化を図るために官公労のスト権制限や公務員削減を唱えたのも後の民社党でした。こうした路線はナショナルセンター全労から同盟に組織改変された後も続きましたが、同時に自分たちの手足をもぐと同義でした。ここに民社党の80年代の実像があらわになります。大原社会問題研究所が毎年発刊している日本労働年鑑には社会党、民社党、共産党の細かいデータがかつては掲載されていました。

https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/research/dglb/rn/rn_list/rn1982-450.pdf

 民社党の党員は約50000人、その中で労働組合の党員は9割を超えるというものです。主力はゼンセン同盟であり党員数は10000人を超えます。また基本的に企業別労働組合がまるまると党員になるケースもあり、山口県武田薬品光工場では組合員の9割が民社党員であり、国鉄内の鉄道労働組合もその発祥となった新潟地本で3分の1を占めています。1000人以上の党員が所属する県連は12、500人未満はそれより多い17。1960年総選挙で、西尾末廣が「幹部の機動力に欠けた」と敗戦の弁を語っていますが、党員がばらつきがあるのに、そこに集中せず全国区で頑なに選挙戦を戦おうとした。そのせいで当落線上の争いには競り負ける事が多かったです。
 社会党左派の書記でその政策決定に力を振るった横山泰治は、民社党綱領を読んだ時、これは社会党は今に民社党に喰われてしまう。と思ったそうです。この文章をそのまま遂行されると負けてしまう。しかし、基本的に民社党は躍進する時もありましたが、ついぞ社会党を追い抜く事はできませんでした。「実態は企業別労組」横山は民社党の防衛政策の自民党以上にタカ派になったのは、重工業労組の背景を指摘しています。社会党もしくはそれ以上に労組に依存し、政策決定も変わってしまう。最終的に米沢隆、吉田之久ら労働組合出身者が主導権を握るという日本社会党と同じ結果を招いています。労働組合と政治運動の難しさも感じますが、組織外党員の輪を広げようとしなかった民社党も「成田三原則」をしっかりと自党に浸透させる必要がありました。ですが、その機会は永遠に訪れませんでした。

民社党が残したもの

 民社党末期に旭化成労組出身の米沢隆と党書記局出身の理論派である大内啓伍の2つの党内グループがあったそうです。社会党もそうですが、民社党も派閥の争いが党職員も2分する。ただ大内の場合は、理論家肌で相手を議論で圧倒するだけならまだしも木っ端微塵に言い負かすスタイルで実際に大内派の党員は非常に少なかったです。そもそも労働組合に党員獲得も依存した組織です。また大内はマスコミ好きの性格で党内の中々表に出ない事情をサービスよく喋る性格でした。それ自体は悪いことではないですが、後に8党連立政権で厚生大臣に任命されるのに、国民福祉税構想を所管大臣なのに全く知らなかったのは当時の政権内の実力者である小沢一郎が大内のスタイルを警戒したものでした。「党内にややこしい奴がいる」米沢隆が多分、大内啓伍を指して、そう評しました。民社党の場合はイデオロギー以上に人間関係で派閥が決定される要素が大きかったです。例えば佐々木良作は公明党の一部代議士と朋友関係で三木武夫と一時新党構想がありましたが、春日一幸の場合は公明党とは距離を取り、田中角栄、金丸信、河野謙三などとむしろ主流派と接触しています。春日は江田三郎に期待する一方でそのライバルである佐々木更三などとも連絡をとり続けた話もあります。皆、個人個人で動いてしまい政局ばかりで日常活動は疎かになる。塚本三郎や大内啓伍など一貫して党の最高幹部に近いのに落選も多かったのは、こうした民社党の体質でした。さらに同盟と民社党は重要な支援団体でしたが、党の綱領を書いたイギリス労働党の紹介者、関嘉彦が全国区で立候補当選し、電力労連の会長が落選したとき一定のいざこざはありました。当時ナショナルセンターである同盟は良くも悪くも党内で一定の反主流派がいる民社党に中間派の役割を果たしてもらっていたので、仲が拗れる事は党の命運にかかりました。水谷長三郎の後継者である永末英一が、安保国会において水谷議員団長を支えた腹心とも言える春日一幸の「長老支配」を批判する。これは民社党が党内民主主義を保つための装置でありながら、有権者とのズレにもなりました。
 民社党が是々非々の態度を取れば「それでも野党か」と言われるが、自民党の非主流派が苦言を呈すれば、「勇気ある発言」と称えられる。この辺りは現代でも教訓になるのかもしれません。「日本の政界は自民か非自民である」と誰かが言ったと言われますが、この言葉は真実味もあります。自民党も保守としての理念の中核はないに等しいですが、社会党、民社党もそれに変わるほどのパワーを持った政策があったかと問われると何もありません。革新勢力の最大の弱点は、結局躍進するも敗北するも自民党の党内政局に大きく左右されるという点は現在の野党も考えないと。何かあれば「政界再編を」とついつい言ってしまう旧民主党勢力は、いい加減にしっかりと自分達が目指す社会像をはっきりさせないと何度やっても数年で自民党政権が返り咲くという事を肝に銘じないと。新党報道が出るたびに民社党のブレーンだった蠟山政道が1960年に言った言葉を思い出します。「政党は他の政党を審判する裁判官ではない」

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