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ボローニャ留学記①

あらすじ


 日本で仕事をしていた29歳の女性・望月透子とうこは、人生の区切りをつけるようにして、イタリア・ボローニャ大学へ2年間の留学に出る。世界最古の大学がある学都で、彼女は翻訳資料の調査と学びのために暮らし始めるが、異国の生活は思った以上に静かで、思った以上に孤独だった。

 最初は街の石畳、回廊かいろう、カフェ、古い図書館を観察するだけだった透子は、やがて現地の人々との小さな交流や、言葉の壁、ふとした親しさの中で、自分が何を失い、何を求めてここに来たのかを少しずつ知っていく。

 予定された2年は、いつしか彼女の内側を組み替える時間になっていく。 これは、留学の記録でありながら、ひとつの街に住むことで別の人生へ移っていく女性の物語である。


主人公

役職:ボローニャ大学修士課程留学生/翻訳資料調査助手

名前:望月 透子(もちづき とうこ)

別名:トーコ、もちづきさん

年齢:29歳

性別:女性

誕生日:11月3日

血液型:A型

身長:162cm

体重:48kg前後


性格
慎重で観察好き。表向きは落ち着いているが、内側ではかなり感受性が強い。人にすぐ心を開かないが、一度信頼すると長い。

個性
物事をすぐに「記録」に変えてしまう癖がある。会話、匂い、光の色、通りの名前まで、ノートに残す。

特技
翻訳の下読み、要点整理、街歩きの記憶力。地図を見なくても道を覚えるのが早い。

能力・スキル
日本語・英語・イタリア語の運用。古書や資料の読解。文章を整える力。静かな場での聞き取り。

見た目
黒髪のロングからセミロング。派手ではない服装。目つきはやや涼しい。きちんとして見えるが、少し疲れていることが多い。

生い立ち
日本の地方都市出身。大学では文学部にいたが、卒業後は出版社関連の仕事に進み、のちに留学へ。

背景
もともとは小説家志望だったが、生活のために実務寄りの仕事を選んだ。ボローニャには、研究と翻訳資料の仕事、そして自分の人生を見直すために来た。

その他
毎朝コーヒーを一杯だけ丁寧に飲む。雨の日の散歩が好き。誰かに話しかけられると普通に返せるのに、自分からはあまり近づかない。留学当初は「2年だけ」のつもりだったが、次第に帰国のタイミングを失っていく。


序章「ボローニャ、二年」


外国に移り住むということは、ただ国境を越えるという以上の、もっと静かで、しかしそれゆえにもっと根深い変化を引き受けることであり、それは到着したその日からいきなり始まるのではなく、むしろ最初の数週間、あるいは数か月のあいだに、こちらがまだ自分ではない土地の空気を吸い込みながら、まだ名前を覚えきれない通りを歩き、まだ正確には聞き取れない言葉に囲まれ、しかしそうした不確かさのただ中で、郵便受けの開け方や買い物袋の持ち方や、朝に挨拶を返すべき相手と返さなくてよい相手の微妙な境目や、雨の日の石畳の滑りやすさや、窓の外で鳴る教会の鐘や、誰かの家から漂ってくる煮込みの匂いのような、最初は些細で取るに足らぬように思われるものたちが、実はその土地の時間の流れ方そのものを形づくっているのだと、こちらの理解がようやく追いつくにつれて、少しずつ、しかも後戻りのできない仕方で、その国は観光の対象ではなく生活の容れ物として、そしてやがては記憶の堆積として、こちらの内部に場所を占め始めるのである。

そして透子もまた、最初のうちはその変化に名前を与えようとはしなかったし、与えられるはずもないとどこかで知っていたのだが、朝、まだ通りが完全に目覚めきらないうちにアーケードを抜けてパン屋へ向かうとき、あるいは夕方、大学の回廊の奥で靴音だけが少しずつ遠ざかっていくのを聞きながら立ち止まるとき、あるいはアパルトメントの小さな台所で湯を沸かし、窓の外にある洗濯物の揺れや遠いバイクの音をただ眺めているときに、自分がここに来る以前の生活を思い出すのではなく、むしろ以前の生活のほうがもう薄く、あまりにも遠い紙片のように感じられ、かつては確かだったはずの帰る場所という概念さえ、いまや言葉としては理解できても身体の感覚としては掴みきれなくなっているのを知り、そうして彼女は、たぶん誰かに説明できるような劇的な断絶ではなく、日々の細部が静かに積み重なっていくことによってのみ人は本当に別の土地に属するようになるのだと悟りはじめるのである。

第一章 回廊の朝

透子がボローニャに着いてから最初のひと月は、まだこの街が自分のものだという感覚を持てずにいた。
空港から中心部へ向かう車窓の風景は、赤い屋根と古い壁と、思っていたよりずっと低い空のせいで、どこか昔見た絵はがきの延長のようにも見えたが、実際にアパルトメントの鍵を受け取り、重いスーツケースを石畳の上で引きずりながら細い路地に入ってみると、その印象はたちまち剥がれ落ち、街は観光案内に載るような顔ではなく、生活のためにだけ開かれた無数の小さな扉を持つ、もっと無口で複雑なものとして彼女の前に現れたのである。

彼女の住まいは、大学の建物からそう遠くない古い建物の三階にあった。
階段は狭く、上がるたびに壁がわずかに近づいてくるようで、荷物を運び込んだ初日は、まだ何も始まっていない部屋の匂いと、窓の外から流れ込む粉のような光と、下の階の誰かが回している洗濯機の低い唸り声だけが、その場所のすべてだった。
家具は最低限で、ベッド、机、椅子、そして小さな台所があるだけだったが、透子はその簡素さに妙な安心を覚えた。
物が少ないぶん、ここでは自分の沈黙がむき出しになる。
それが少し怖くもあり、同時に、ようやく余計な音から解放されたようでもあった。

ボローニャ大学の校舎へ向かう道には、いつも回廊があった。
雨が降っていても、陽が強くても、人々はその下を歩くことができる。
石の柱が等間隔に並び、古い床は何百年もの靴音を吸い込んできたのだろうと思わせるほど、鈍く、しかし確かな深さを持っていた。
透子はその回廊を歩くたびに、自分の歩幅がまだこの土地のものではないことを意識した。
日本にいたころは、もっと早く、もっと無意識に歩いていた気がする。
だがここでは、速度よりも、歩いているという事実そのものが先に立つ。
見上げれば、アーチの奥に切り取られた空があり、振り返れば、さっき通り過ぎた角の向こうにもう次の時間が待っている。
街は急かさないが、しかし決して立ち止まりもしなかった。

留学生向けの事務室で、彼女は何度も同じような説明を受けた。
書類の提出期限、履修登録、図書館カードの申請、担当教員との面談、そして、わからないことがあれば遠慮なく尋ねるように、という言葉。
そのどれもが親切であるほど、透子には少しだけ遠く感じられた。
親切さというのは、言葉が理解できるほどに、かえって孤独を際立たせることがある。
聞き取れない部分はまだ助けを呼ぶ余地があるが、理解してしまった親切は、そこに自分が属していないことを静かに教えてくる。
彼女はそれを不快だとは思わなかった。
むしろ、その感触のほうがずっと現実的だった。
異国に来たのだという事実は、歓迎の言葉よりも、提出用紙の薄さや、カードの写真の写りの悪さや、事務室の棚に並ぶ古いファイルのにおいのほうが、はるかに正確に伝えてくるのだった。

彼女がここへ来たのは、翻訳資料の調査と、大学での学びのためだった。
もっと正確にいえば、どこかでいったん自分の人生を止めたかったのだ。
日本での仕事は、嫌いではなかった。
むしろ、手順を覚え、書類を整え、締め切りに合わせて動くことに、透子は自分でも驚くほど向いていた。
だが、その向いている感じが、次第に自分の輪郭を狭めていくようにも思えていた。
何かを選ばなければならない。
けれど、何を選んでも、その先に別の自分が待っているような気がした。
だから彼女は、選択の代わりに距離を取った。
日本語の看板が少なく、知人も少なく、過去の自分の習慣がそのまま通用しない場所へ来れば、少なくとも、何かを決める前に時間が稼げるように思ったのである。

けれど、時間は稼げるものではなかった。
少なくとも、この街では。
朝にはパン屋が開き、昼には広場が人で満ち、夕方になると誰かがエスプレッソを飲み、夜には窓が閉じ、どの時間にも、それぞれの理由と匂いと音があった。
透子は次第に、その時間割の中に身体を合わせていくしかなくなった。
初めのうちは、朝食に何を食べるべきかさえわからず、スーパーで買った安いビスケットをかじって済ませることも多かったが、ある日、近所の小さなバールで立ったままカプチーノを飲み、隣にいた老婦人が店主と交わす短いやり取りを聞いているうちに、彼女はふと、自分がいま目の前で起きていることを理解していなくても、ここにいていいのだという奇妙な許しのようなものを感じた。
理解は遅れてやってくる。
それはこの街では、むしろ自然なことのように思えた。

その日の午後、透子は大学の図書館へ向かった。
目的の資料はまだ借り出せる段階になく、閲覧申請だけを済ませるためだったが、図書館の奥に入ったとき、彼女は思わず足を止めた。
天井の高い部屋には、古い紙の匂いと、ほとんど聞こえない空調の音と、ページをめくる小さな気配だけがあった。
窓から差し込む光は斜めに伸び、机の上に細い帯をつくっている。
誰かが鉛筆を走らせる音がした。
別の誰かが咳をこらえた。
そのすべてが、ひどく遠いのに、ひどく近い。
透子は棚のあいだに立ち、なぜだか、自分が今まさに何かの内側へ入っていくところなのだと感じた。
留学という言葉の、制度的で無機質な響きとはまるで違うところで、彼女はこの土地の知の層に触れ始めていた。

それは、大きな出来事ではなかった。
だが、あとから振り返れば、ちょうどその頃から、彼女の内部で何かがゆっくりとずれ始めていたのかもしれない。
何かを失ったという感覚ではない。
何かを得たという実感でもない。
ただ、以前ははっきりと区別できていたはずの「自分」と「この街」との境目が、日ごとに少しずつ曖昧になり、朝の光、回廊の影、コーヒーの苦み、石畳の濡れた匂い、遠くで響く教会の鐘の音が、彼女の記憶の中に静かに入り込んできたのである。

そして透子はまだ知らなかった。
この街で過ごす二年という時間が、単なる滞在では終わらないことを。
自分がここで学ぶのは、言葉や制度だけではなく、住むこと、待つこと、誰かとすれ違うこと、そして何も起こらない日々を受け入れることそのものになるのだということを。
彼女はその日、図書館を出ると、薄い夕暮れのなかをゆっくりと歩いて帰った。
回廊の柱は長い影を落とし、街はまだ終わりを知らない昼の名残をわずかに抱えていた。
その光の下で、透子は自分がどこかへ帰る途中なのか、それともすでにどこかに着いてしまったのか、まだ判然としないまま、ただ石の上を歩き続けたのである。


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