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ボローニャ留学記③

第三章 通訳のいない午後

その週の終わり、透子は大学の掲示板で小さな案内を見つけた。
図書館の古い資料室で、簡単な整理作業を手伝う人を探しているらしい。
正式な職員ではなく、短期の手伝いに近いものだったが、透子はその紙を何度か読み返してから、少し迷い、結局申し込むことにした。
研究のためでもあり、生活のためでもあり、何より、ただ机に向かっているだけではこの街の奥へ入れないような気がしたからだった。

案内された資料室は、大学の本館からさらに奥へ入った静かな建物の地下にあった。
扉を開けた瞬間、古い紙、埃、乾いたインク、そして長い時間そのもののような匂いが鼻をかすめる。
棚は天井近くまで伸び、箱に収められた書類や、背表紙の色あせた本や、札の付いた束が、部屋の中にいくつも層をつくっていた。
透子は思わず息を止めた。
ここには、人が長く触れてこなかったものの気配がある。
しかし同時に、それらは確かに誰かによって守られ、分類され、残されてきたのだとわかる。
その事実が、彼女には奇妙に心強く思えた。

作業を指示してくれたのは、年配の司書だった。
名前はマルコといった。
太い眼鏡の向こうの目は穏やかで、言葉の端々に急ぎがない。
透子がイタリア語の説明を聞きながらメモを取っていると、マルコは何度か同じことを言い換え、ゆっくりと、しかし決して子ども扱いはせずに話してくれた。
彼女はその配慮に少し驚き、少し安心した。
異国では、優しさがあまりに速いと、かえって置いていかれることがある。
だが、この人の話し方は遅かった。
遅さの中に、ちゃんと相手を待つ意志があった。

その日、透子に与えられた仕事は、古い目録の番号を照合し、箱の中身と記録を合わせることだった。
単純な作業だが、扱うものは十九世紀の手紙や、講義記録や、学生たちの名簿らしいものまで含まれていた。
紙は驚くほど繊細で、少し力を入れただけで割れてしまいそうだった。
透子は手袋越しにそっと持ち上げ、記録と見比べながら、ひとつずつ番号を確認していく。
名前が並んでいる。
だが、それは単なる名前ではなかった。
そこには、学んだ人、教えた人、残した人、消えかけた人の時間が貼りついていた。
そう思ったとき、彼女は不意に、自分がいま誰かの過去に手を触れているのだと感じた。

「これは、戦前のものかな」

透子が英語まじりで尋ねると、マルコは少し首をかしげ、それから紙の束を見て、頷いた。

「いくつかはそうだね。ボローニャは長いから、古いものがまだ新しい顔をして残っていることがある」

長いから。
その言い方が、透子には妙に印象に残った。
長い街。
長い大学。
長い時間。
ここでは、古いことがそのまま不便や重荷になるのではなく、むしろ現在の中に自然に折り重なっている。
日本でも古い建物や資料はあるが、透子はそこに、もっと切り離された保存の感じを覚えていた。
けれどボローニャでは、古いものは保存されるだけでなく、今もなお人の足音や呼吸の中に混じっているようだった。

昼休み、資料室の小さな窓のそばでサンドイッチを食べていると、別の職員が入ってきた。
まだ若い男で、名前はルーカといった。
彼は透子を見ると、少しだけ驚いたような顔をしたあと、にこりと笑った。
そして、机の上の紙束を見て言った。

「それ、最初はみんな嫌がる仕事だよ」

透子が苦笑すると、ルーカは肩をすくめた。

「でも、やってみるとわかる。ここでは、書類を並べることと、人を思い出すことが、あまり遠くないんだ」

彼の言葉は、軽い冗談のようにも聞こえたが、透子には妙に深く響いた。
書類を並べることと、人を思い出すこと。
彼女はその午後、番号の揃わない一束の紙を見つめながら、しばらくその意味を考えていた。
資料を整理する仕事は、ただ保存のためにあるのではない。
そこに触れる人間の記憶を、静かに支えるためでもあるのだろう。
そう考えると、彼女の手元の作業は、単純な労働ではなく、小さな記憶の保全のようにも思えてきた。

午後の終わりごろ、透子はひとりで奥の棚を確認するよう頼まれた。
地下の部屋は外より一段暗く、棚の奥へ進むほど、声が遠のいていく。
彼女は慎重に箱のラベルを読みながら、低い天井の下を歩いた。
そのうち、壁際の一角で、目録に載っていない古い箱を見つけた。
埃をかぶった木箱で、蓋の端が少し浮いている。
透子はマルコに確認しようとしたが、部屋の反対側で別の電話が鳴っていたため、すぐには声をかけられなかった。
しばらく迷ったあと、彼女はそっと箱を開けた。

中には、束ねられた手紙が入っていた。
ひもで結ばれたまま、誰にも開かれずにいたらしい。
封筒の一部は変色し、宛名の文字はかすれている。
透子はそのうちの一通をそっと手に取り、差出人の名前を見た。
もちろん彼女には、その名前に何の意味もない。
だが、その紙の重さと、未開封の時間だけは、はっきりとわかった。
彼女は胸の奥が少し冷えるのを感じた。
それは好奇心というより、誰かの沈黙に偶然触れてしまったときの気配に近かった。

マルコが戻ってきたのは、その直後だった。
箱のことを伝えると、彼は珍しく少し眉を上げ、それから手袋をつけて中を確かめた。
そして低い声で言った。

「これは、昔の担当者がしまい忘れたのかもしれない。封を切る前に、登録をし直そう」

責める調子はなかった。
ただ、そこにあるべき順番へ戻すというだけのこと。
透子はうなずいたが、手紙の束から目を離せなかった。
未開封の手紙。
それは、読まれなかった言葉であると同時に、届いたはずの時間でもある。
彼女はふと、自分がこの街に送ったものは何だったのだろうと思った。
住所だけで届くもの。
しかし本当に届いているのは、書類でも荷物でもなく、まだ形の定まらない自分自身ではないのか。

その夜、部屋に戻ると、透子は机の上にノートを開き、今日見た箱のことを書きつけた。
古い手紙。
封の切られていない言葉。
資料室の匂い。
マルコの遅い説明。
ルーカの冗談。
どれも些細なことだったが、その些細さの中に、この街の輪郭が少しだけ濃く浮かび上がっていた。
彼女はペンを止め、窓の外を見た。
夜のボローニャは、昼よりもずっと静かで、けれど完全に眠っているわけではない。
どこかの窓からテレビの音が漏れ、遠くでバイクが一台走り抜ける。
その音の下で、街は古い手紙のように、まだ誰にも読まれていない顔をしていた。

透子はその静けさの中で、初めて、自分がただ学びに来たのではないのかもしれないと思った。
何かを読むために来たのではなく、むしろ、読まれずに残っているものの側に立つために。
それは大げさな言い方に聞こえるかもしれない。
だが、その夜の彼女にはそう思えた。
そして思った瞬間から、その感覚はもう、彼女のものになり始めていた。


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