ボローニャ留学記⑭
第十四章 持ち帰った時間
日本に戻った透子を迎えたのは、見慣れたはずの駅の明るさと、あまりにも正確に流れていく人の列だった。
ボローニャでの二年を終えたあとだからか、それとも単に離れていた時間が長かったからか、彼女にはその光景が少しだけ平板に見えた。
けれど、平板に見えるということは、もう自分の外側ではなくなったということでもある。
彼女はスーツケースを引きながら改札を抜け、しばらく立ち止まってから深く息をついた。
家に着くと、母はあまり多くを聞かなかった。
おかえり、と言って、お茶を出し、荷物を置く場所を示し、ただそれだけだった。
透子はその静かな迎え方に救われた。
説明しなければならないと思っていたことの多くが、実際には説明しなくてもよかった。
あるいは、いまの自分には、もううまく説明できないものになっていたのかもしれない。
部屋に戻ると、見慣れた机の上に、ボローニャで使っていたノートを並べた。
手帳、コピー、詩集、資料のメモ、母へ送るつもりで送らなかった便箋。
それらを見ていると、帰ってきたという感覚より先に、別の場所で暮らしたことの重みが立ち上がってくる。
透子は荷解きを急がず、ひとつずつ、これからの生活に置き直すようにしていった。
数日経つと、日常は少しずつ元の速度を取り戻し始めた。
だが透子は、以前と同じリズムには戻れなかった。
駅のアナウンス、コンビニの明るさ、職場で交わされる短い挨拶。
どれも確かに日本のものだったが、その中で彼女だけが、ほんの少し遅れているような感覚があった。
ボローニャでは、言葉が足りなくても、沈黙や間や表情が暮らしを支えていた。
日本に戻ると、言葉はあまりに充分で、かえって自分の中の曖昧さを置き去りにするようだった。
ある日、透子は近所の喫茶店でエスプレッソに似た濃いコーヒーを頼んだ。
カップを手にした瞬間、遠い匂いがした。
あの広場、あの回廊、あのバール。
ほんの一瞬だったが、身体が先にボローニャを思い出した。
記憶は頭ではなく、舌先や指先や、カップの熱を受け取る掌のほうに残っているのだと、そのとき彼女は知った。
透子はノートを開き、帰国してから初めて、新しい章のように記録を始めた。
まだ何を書くべきかははっきりしていない。
けれど、ボローニャで書いたものを読み返すうちに、そこには単なる留学の記録以上のものがあると気づいた。
土地に住むこと。
人とすれ違うこと。
名前を呼ばれること。
封の切られた手紙。
鍵の重さ。
冬の前の光。
そして、帰るという言葉が少しずつ別の意味を持ちはじめること。
それらは、彼女がこの先どこにいても、たぶん消えることはない。
職場では、復帰した透子に対して、皆が思ったよりあっさりと接した。
長く休んでいたわけではない。
ただ、彼女の中ではいくつもの時間が重なっていた。
会話の途中で、ふとイタリア語の単語が浮かぶことがある。
赤い屋根、回廊、広場、資料室、エレナの笑い声。
そうしたものが、仕事の合間に不意に差し込んでくる。
それでも彼女は、以前ほど戸惑わなかった。
別の時間が混ざっている。
それは不具合ではなく、いまの自分の一部なのだと、ようやく思えるようになっていたからだ。
母とは、以前より少し長く話すようになった。
特別な話ではない。
食事、天気、体調、近所のこと。
だが、そこに以前のような緊張は少なかった。
離れていたからこそ見えたものが、少しだけ会話をやわらかくしていた。
透子は、家族と完全にわかり合えるわけではないことを、もう不安に思わなかった。
わからないまま、近くにいる。
それもまた、暮らしのかたちだった。
ある夕方、彼女は机の引き出しから、ボローニャで買った小さなオレンジ色の栞を見つけた。
紙ではなく、薄い革のような素材でできたそれは、資料室の近くの店で何気なく買ったものだった。
透子はそれを手に取り、しばらく眺めたあと、ノートの最初のページに挟んだ。
その仕草が、彼女にとってはひとつの区切りだった。
ボローニャの時間を、ただ思い出として閉じるのではなく、これからのページへ静かに移していく。
そういうことが、ようやくできる気がした。
夜、彼女は久しぶりにこれまでのノートを読み返した。
最初の章には、外国に移り住むということの静かな変化が書かれている。
次の章には、エスプレッソの苦み、資料室の匂い、未開封の手紙、雨の広場、名前を呼ぶ声、冬の前の光、鍵の重さ、春の気配、終わりの支度、帰る朝。
どのページも、当時の自分がその瞬間に確かにそこにいたことを証明していた。
そして今、それを読み返している自分もまた、あの土地の続きにいる。
透子はページを閉じ、しばらく机の上の灯りを見つめた。
ボローニャで暮らした二年は、遠い外国での出来事ではなく、今の自分を支える地層になっていた。
自分がどこから来て、どこへ戻り、そしてどこに居続けるのか。
その答えはまだひとつではない。
けれど、ひとつでないからこそ、人は前に進めるのだろう。
窓の外では、日本の夜が静かに流れていた。
その静けさの中で、透子はふいに、ボローニャの朝の光を思い出した。
回廊を抜ける風。
市場の果物。
広場のベンチ。
エレナの「また明日」。
マルコの穏やかな声。
そして、自分の名前が初めてこの街にしっかりと置かれた瞬間。
それらはもう戻らない。
だが、戻らないからこそ、彼女の中で生き続ける。
透子はノートの最後に、小さく書いた。
――持ち帰った時間は、終わらない。
その一行を見つめ、少しだけ笑った。
そして灯りを消すと、部屋は静かに暗くなった。
けれど、彼女の中にはまだ、あの街の光が残っていた。
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