伊予の弓
第一章「消えた一俵」

稲刈りの済んだ田は痩せて、切株ばかりが黒く残っていた。その上を俵を背負った男たちが列をなして歩く。留吉も列にいた。背の俵が肩の骨に食い込んで、一歩ごとに息が短くなる。
今年の年貢は去年より二割増えた。理由は誰も知らない。郡代所からそう触れが回り、村役人が青い顔で頭を下げただけだった。米を納めても足りず、足りぬ分は人の体で払う。留吉たちはこの半月というもの、朝は田を離れて山道の普請に出、昼からは海辺の掘割へ駆り出されていた。
「何を掘っとるんじゃ、あれは」
列の後ろで誰かが呟いた。海岸の崖下で、鶴嘴を振る男たちがいる。潮の引いた岩場を、黒田の手の者が指図して掘らせていた。何が出るのか、出たら誰のものになるのか、問う者はいない。問えば、次に名を呼ばれるのは自分だった。
普請の縄張りの端で、作造爺が石を担いでいた。齢は六十を越している。若い者と同じ数を運べと言われて、朝から一度も腰を下ろしていなかった。
その膝が、ふいに折れた。担いだ石が肩を滑り、鈍い音を立てて転がる。留吉が駆け寄ったときには、爺は土に頬をつけて動かなかった。口の端から薄い泡が糸を引いている。
「起きろ。起きんか、爺様」
揺すっても瞼は開かない。周りの男たちは手を止めたが、誰も声を上げなかった。声を上げれば咎めが来る。それを皆、体で覚えている。
馬上の下役が近づいてきた。倒れた爺には目もくれず、留吉に向かって、代わりの人足を日暮れまでに一人出せと言った。それだけ言って馬の腹を蹴る。蹄が上げた土埃が、爺の白髪に降りかかった。
その夜、村に灯りはほとんど点らなかった。油を買う銭がない。留吉の家では、母が空の米櫃の底を掌でなで、それから何も言わずに蓋を戻した。
山を一つ越えた先に、黒田の郡代所がある。石垣に囲まれた米蔵には、村から運ばれた俵が天井まで積まれていた。その蔵の錠前が、この夜、内側から外れることを、まだ誰も知らない。
第二章 竹筒の中の海

峠の道は、片側が崖、もう片側が杉の斜面という細さで、荷駄を通すには一列にならざるを得ない。黒田の荷が来るのは昼を少し過ぎた刻限だと、義三郎は前の日から知っていた。城下の米問屋に出入りする者の口から、荷の動く日はいつも漏れてくる。人は銭に困れば喋る。黒田が村から絞り取った銭が、めぐりめぐって義三郎の耳に道を教えていた。
先頭の馬が峠にかかったところで、権六が倒木を道へ落とした。太い幹が地を打つ音に、馬が前脚を上げていななく。護衛の侍が刀の柄へ手をやったが、抜くより早く、崖の上から一本の矢が飛んで、侍の足元の土に突き立った。二本目が、その一寸横に並んだ。
「動くな」
義三郎の声は、崖の上のどこからか降ってきた。「次は土には刺さらん」
侍たちの背が固まる。その隙に権六が道へ躍り出た。六尺を越える体が荷駄の脇に立つと、駄馬が小さく見えた。縄を切り、菰をはぐ。中は銭箱と、油紙にくるんだ帳面の束だった。
義三郎が崖を伝って降りてくる。帳面をひらくと、村々から取り立てた年貢の受領が、日付とともに並んでいた。去年の倍近い数字が、涼しい顔で墨に化けている。
「これだけありゃ、村の年寄りが石を担がされることもなかった」
権六が言った。義三郎は答えず、束の一番下に、帳面とは毛色の違うものが挟まっているのを見つけた。古い竹筒だった。両端を蝋で固め、その上から布を巻いてある。銭箱よりも帳面よりも、よほど丁寧に隠されていた。
縛られた手代が、その竹筒に目を留めた途端、顔の色を失った。銭箱を奪われたときには声も出さなかった男が、「それは」と言いかけて、口をつぐむ。義三郎は、その一瞬を見逃さなかった。
蝋を割り、布を解くと、中から巻いた紙が一枚出てきた。ひらくと、瀬戸内の島影が墨で描かれている。海図だった。ただし右の端が、まっすぐでなく、引き裂いたように断たれている。半分しかない。
島と島のあいだに、通いの船が使う道とは違う線が、細く何本も通してあった。潮の速い瀬戸を、わざわざ縫うように走る線。海を知らぬ義三郎の目にも、それが尋常の航路でないことは分かった。
「宝の地図か」
権六が横から覗き込む。「どこぞの島に、水軍の隠し金でも埋まっとるのかもしれん」
義三郎は紙を巻き直した。金銀に用はない。彼が欲しいのは村へ返す米であって、掘り出す小判ではなかった。こんなものは焼いてしまえばいい――そう思いかけて、手代の顔をもう一度見た。銭には動じず、この紙切れ一枚に色を失った、その顔を。
「その海図をな」
手代が、ようやく声を絞り出した。縄の下で肩が震えている。「郡代様は、蔵の銭がそっくり消えても、それ一枚さえ戻れば帳消しにすると仰せだ。……返せ。返さねば、俺の首が飛ぶ」
黒田が、銭よりも欲しがるもの。義三郎の中で、村の飢えとはまた別の何かが、初めて頭をもたげた。
峠を下りて、馬子の使う茶屋に寄った。義三郎が島影を見せると、白湯を運んできた老爺が、湯呑みを置く手を止めた。
「この線を読める者は、この辺りにゃ一人しかおらん」
老爺は声を落とした。「興居島の、海原惣太。……昔この海を仕切った水軍の、末の末よ。今はしがない漁師じゃがな」
義三郎は山の生まれだった。潮の匂いも、船の揺れも知らない。その掌の中の紙には、知らないはずの海が、細い墨の線で幾筋も描かれている。山の男が、海の地図を持っていた。越えたことのない一本の線が、そこにあった。
第三章 海の男

海は、山とは違う揺れ方をした。板子一枚の下で、大きなものがゆっくり寝返りを打っている。義三郎は舷を握る手に力を込めた。山では、足の裏が地面のどこに触れているか、目をつぶっても分かる。ここでは、立っている場所そのものが動いた。
惣太の名は、興居島の浜ですぐに知れた。網を繕っている男を指されて、義三郎は近づいた。四十がらみの、潮に灼けた男だった。むき出しの首筋に、古い痣のような痕が覗いている。
義三郎が懐から海図を出すと、繕う手が止まった。惣太は網を置き、紙を一目見て、それから義三郎の顔を見上げた。
「山の匂いがする」
低い声だった。「あんたか。近ごろ黒田の荷を襲っとる、山の鼠は」
「その紙を、どこで拾った」
「黒田の荷からだ」
「拾うたものを、なぜ俺のところへ持ってくる」
「読める者が、あんたしかおらんと聞いた」
惣太は鼻で笑った。「読めても、読まん。それは俺の一族の紙だ。山の者に見せる筋のもんじゃねえ」
惣太の祖先は、かつてこの瀬戸を差配した水軍だった。島と島のあいだの潮の道を知り、通る船から証を取り、海を仕切っていた。その水軍が世から消えて、もう幾代も経つ。残ったのは潮を読む目と、半分に裂けた紙の片割れの記憶だけだった。惣太はそれを、漁師の顔の下に隠して生きていた。
義三郎は引かなかった。この一枚のために黒田が何をしているか――村から米を絞り、島を掘らせ、年寄りに石を担がせていることを話した。惣太の目の色は変わらない。
「山の話だ」
「海も掘られとる。あんたの浜も、じきに来る」
「来たら、俺が追い返す」
言い合いは、渡し場の板の上で掴み合いになった。義三郎が紙を取り返そうとし、惣太がそれを奪おうとする。陸なら、義三郎は誰にも遅れを取らない。だが足元は濡れた板で、その下は海だった。惣太に足を払われ、義三郎はあっけなく水へ落ちた。
冷たい水が口へ入る。どちらが上か分からなくなる。這い上がったとき、惣太は舟の上から見下ろしていた。
「山では、あんたが強かろう」惣太は言った。「ここは、海だ」
そのときだった。浜の向こうから、幟を立てた一団が近づいてきた。黒田の手の者だった。先頭の侍が、繕いかけの網を蹴散らして怒鳴る。
「海原惣太。郡代様の召しである。神妙にいたせ」
惣太の顔が、初めて動いた。黒田は、海図を読める男が誰かを、すでに掴んでいた。銭で口を割る者は、山にも海にもいる。
義三郎は水を滴らせたまま、渡る前に岩陰へ隠しておいた弓へ手を伸ばした。矢をつがえ、先頭の侍の笠を射抜く。笠が飛び、侍が足を止めた。
「舟を出せ」義三郎が惣太へ言った。「あんたを捕らせたら、その紙を読める者がいなくなる。黒田の思う壺だ」
惣太は義三郎を睨んだが、櫓を握った。二人を乗せた小舟が浜を離れる。矢が幾本も水面に落ちたが、舟はもう、追う者の届かぬ潮に乗っていた。
沖へ出て、追手の姿が岬に隠れてから、惣太はようやく口をひらいた。
「あの紙はな」櫓を漕ぐ手は止めない。「宝のありかを描いたもんじゃねえ」
「では、何だ」
「道だ。島と島のあいだの、潮の道。ふつうの船が通れば岩に砕かれて終わる瀬戸を、水軍だけが縫って通った、その道が描いてある」
半分の海図に引かれた無数の線は、行き止まりではなく、通り抜ける方法を示していた。海の上に、誰にも見えぬ道が引いてある。
義三郎は、濡れた着物のまま、動く海を見た。陸から見れば、海はどこまでも一枚の面で、境目などない。だがその一枚の下に、通れる道と通れぬ道があり、それを分ける線がある。人が引いた線ではない。海そのものが引いた線だった。惣太は、その線を読む目を持っていた。
第四章 境目の女

城下の門を、おまきは朝と夕に二度くぐる。年貢の掛け合い、問屋への使い、名主の名代の用は尽きない。村の女で城下に顔がきくのは、おまきくらいのものだった。
その朝も門番の侍が笠の下から会釈をよこした。おまきは目礼を返す。城下では彼女は町方の娘だった。半刻ののち村の畦道を戻れば、百姓たちは道の端へ寄って頭を下げる。村では上の者だった。武士の側からも百姓の側からも、おまきは半分だけの目で見られていた。どちらの顔にも合わせるすべを、幼い頃から覚えていた。
義賊の噂が城下に立ち始めた頃から、その行き来にもう一つの用が加わった。黒田の荷がいつ動くか。どの道を通るか。城下の問屋で拾った切れ端を、村の祠へ置いてくる。次に誰が拾うのかは知らない。ただ置いた数日のあとで、飢えた家に米が戻っていることだけは、じきに分かった。
その日、問屋の帳場で番頭が声を潜めた。義賊が黒田の荷から妙な紙を一枚奪ったという。黒田は蔵の銭には目もくれず、その紙一枚を血眼で探している、と。
紙、とおまきは思った。銭ではなく、紙。勘定方が年貢の理由を問われるたびに目を逸らす、あの沈黙の底にあるものと、それは同じ匂いがした。
その夜、おまきは久しく開けない蔵の隅を探った。母から譲られた古い布がある。名主の家にいつからあるのか、誰も知らない。藍地に白い糸で波の文様が刺してある。祝いにも弔いにも使えない半端な布で、簞笥の底に押し込まれていた。
幼い頃、おまきはこの波を不思議に思ったことがある。波にしては、うねりが規則正しすぎた。まるで誰かが、何かを波の形に隠したように。
三日のあと、祠の前に噂の男が立っていた。
義三郎は思っていたより静かな目をしていた。おまきが布のことを話すと、男は懐から一枚の紙を出した。裂けた海図だった。右の端が引き裂いたように断たれている。
「合わせてみろと言うのか」
義三郎の声は低い。おまきは答えず、祠の板の上に海図を置いた。その断ち目へ、袂の布をそっと重ねた。
白い糸の波が、墨の島影の切れ目に触れた。そして続いた。布の波は、海図の潮の道の、その先だった。糸と墨が一本の線につながる。祠の薄闇の中で、二枚は初めから一枚だったもののように合わさった。
おまきの指が、わずかに震えた。波に見えていたものは波ではなかった。海の道の、隠された半分だった。
黒田が銭より紙を欲しがる理由が、そこにあった。彼は宝を掘っているのではない。この海に引かれた道と、その道が守った何かを掘り当てようとしている。年貢も人足も、掘るための口実にすぎない。飢えていく村は、黒田が海の底を探るための、ただの掘り賃だった。
だがそれは、まだおまきの中で像を結びかけた疑いにすぎない。確かめねばならなかった。黒田その人の口と目で。
義三郎が、つながった二枚を見下ろしていた。
「あんたは名主の娘だろう。黒田に付いていれば家は安泰だ。……なぜ、こんな真似をする」
おまきは答えられなかった。城下で会釈を返す自分と、祠で義賊に布を渡す自分。どちらが本当なのか、うまく言葉にできなかった。
祠を出ると、道の右手に村の灯りが点り、左手に城下の方角の闇が沈んでいた。おまきは長いあいだ、その二つの間の道を歩くことで身を守ってきた。どちらにも属さぬ者は、どちらからも咎められない。
布を袂へ戻し、おまきは村の灯りのほうへ歩き出した。波に見えて波ではなかった布。その端が、袂の中でまだ指に触れている。境目を歩いているつもりで、いつのまにか片側の土を、踏もうとしていた。
第五章 黒田の目的

郡代所の門は分厚い。村の祠とは比べものにならない。おまきはその前で一度足を止めた。
名主の名代として掛け合いに上がるのは珍しくない。年貢の減免を願うのも村役人の役目だった。門番はいつものように彼女を通した。おまきはいつもと同じ顔で敷居をまたいだ。心づもりだけが違っていた。
布のことはまだ誰にも言っていない。今日ここへ来たのは黒田が本当は何を掘っているのかを確かめるためだった。噂でもなく勘定方の沈黙でもなく、黒田その人の口と目で。
座敷でしばらく待たされた。床の間の脇に絵図が広げてある。瀬戸内の島影を墨で写したものだった。ところどころに朱の丸が付き、傍に日付が小さく書いてある。掘った場所と掘った日だ。おまきは目だけを動かして覚えた。
やがて黒田兵衛が入ってきた。
削いだような体つきの男だった。歳は五十がらみ。身なりは郡代にふさわしく整っている。だが袖から覗く手の甲だけが仕立てと釣り合わない。節が太く皮が厚い。若い頃に鍬か櫂を握っていた手だった。
おまきは畳に手をついて村の窮状を述べた。年貢を納めてなお足りない。人足に取られて田が荒れる。先日は作造という老爺が石を担いだまま息を引き取った。
黒田は瞼を半分落として聞いていた。老爺が死んだという件で、その瞼がわずかに上がった。
石の重みなら黒田は知っていた。誰よりも知っていた。四十年前、この男も普請の石を担いでいた。下士の子に生まれ、名も家格もない。担げるのは石だけだった。同じ列の男が膝を折って死ぬのを幾人も見た。そのたびに下役が馬の腹を蹴った。代わりの人足を日暮れまでに出せ。そう言い捨てて。
黒田はその列から這い出た。追従し、賂を贈り、踏むべき者は踏んだ。そうして線の向こう側へ渡った。渡ってしまえば担ぐ側と担がせる側は同じ人間に見えなくなる。老爺が死んだと聞いても胸は動かない。動かさぬことを四十年かけて身につけた。だが忘れてはいない。忘れていないから、二度とあの列へは戻らぬと決めていた。
文机の抽斗に江戸からの書状が入っている。かつてこの海を仕切った水軍の帳面を探し出して差し出せ。そう記されていた。帳面には瀬戸内を通った船から取り立てた証がある。その銭がどこの誰へ流れたかも代々にわたって記されているという。手にした者は、誰が何を奪ってきたかを握る。上の方々が欲しいのは金ではない。人の弱みだった。
黒田はその帳面を掘り当てねばならない。当てられなければ、これまで踏みつけてきた者たちが今度は黒田を踏む。線の向こう側は、しがみついていなければいつでも足を掬われる。落ちれば待っているのはあの石の列だ。だから村を絞り海を掘らせる。飢える百姓の顔は見えても、昔の自分の顔だけは見ないようにして。
黒田は娘の願いに曖昧に頷いた。それから何気ない声で問うた。
「そなたの家は古い家柄と聞く。……蔵に昔の絵図か、古い布のたぐいは残っておらぬか。水軍の頃のな」
おまきの指先が袂の中で布の端に触れた。この布を出せば黒田の探し物は半分見つかる。名主の家は褒美を受け、少なくとも自分の家は安泰になる。父もそれを望むはずだった。
「いいえ」
顔を上げて言った。「うちの蔵に古いものなど何も。虫の食った俵と欠けた膳ばかりでございます」
言ってしまってから、自分がどちらの敷居を越えたのかを知った。門番に会釈を返す娘は、もうそこにいなかった。
黒田は娘の目を見ていた。四十年、人の顔色を読んで生きてきた目だった。石を担いでいた頃、上役の機嫌を一瞬で測れねば死んだ。娘の声は落ち着いていた。だが「いいえ」の前の半瞬。その間が長すぎた。
黒田はそれ以上問わなかった。笑みさえ浮かべて、願いは追って沙汰すると言った。娘を帰し、廊下の足音が遠ざかってから家来を呼んだ。
「名主の家を洗え。蔵の隅までだ」
門を出たおまきは、覚えてきた朱の丸と日付を袂の紙へ書き写した。黒田がいつどの島を掘ったか。これは証になる。飢えが口実でしかなかったことの証に。
振り返ると、厚い扉が閉じていくところだった。その向こうで自分が一本の線を引いてしまったのを、おまきは感じた。今日まで境目を歩いていた。どちらの側にも属さぬことで身を守ってきた。だが人は境目に立ち続けられない。いつか片足をどちらかへ踏み下ろす。
村の道を来たときより速く歩いた。背の後ろで、洗え、と命じる声が追いかけてくる気がした。
第六章 境界の地図

興居島の入り江に、惣太の小舟が舫ってある。夜だった。潮の引いた岩の上で、義三郎は海図を広げた。その断ち目におまきが布を重ねる。半分と半分が一枚になった。
惣太は、その一枚を長いこと見ていた。漁師の顔ではなくなっていた。
「……これで揃った」
惣太の指が、島と島のあいだを縫う線をたどる。「俺が知っていたのは半分だけの道だ。潮に乗って島を抜ける。そこまでは親父に叩き込まれた。だがその先がなかった。道がどこへ通じているのか、俺も知らなんだ」
揃った線は瀬戸のあちこちから始まり、一点へ集まっていた。無数の潮の道が、たった一つの入り江を目指している。
「ここだ」惣太の声が掠れた。「水軍が最後に隠れた港。誰も知らねえはずの入り江よ」
おまきが袂から紙を出した。郡代所で覚えてきた、黒田の掘った場所と日付だ。朱の丸を書き写してある。義三郎は二枚を並べた。
黒田の丸は海図のあちこちに散らばっていた。だが道の集まる一点には、一つも無い。
「見当違いを掘っている」義三郎が言った。「黒田はこの地図を持っていない。だから島を片端から掘るしかない。年寄りに石を担がせて、当てずっぽうにな」
義三郎は、集まっていく線を見た。
「黒田がこれを欲しがる意味も分かった。水軍はこの道を通る船から証を取っていた。通す通さないを決めていた。つまりこの道を握る者は、海の関所を握る。誰を渡らせ誰を渡らせぬか、それを決められる」
海に関所を引く。陸と海の境を、武士と百姓の境を、いまより高くする。黒田の欲しいものは宝ではなかった。境を引く権利そのものだった。
惣太が低く笑った。
「馬鹿な話だ」
「なぜ」
「海に関所なんぞ引けやしねえ」惣太は舟べりを叩いた。「潮は毎日変わる。今日通れた道が、明日は岩になる。線を引いたつもりでも、次の満ち引きで消えちまう。海は誰のものにもならねえ。読むしかねえんだ。水軍が知っていたのはそれよ。関所じゃねえ。海には初めから境なんぞ無えってことだ」
義三郎は黙って、動く海を見た。山では道は動かない。関所も藩の境も、置かれたまま動かない。人が引いた線は、山では石のように残る。だが海の線は、潮が毎日引き直す。
人が引いた境と、そうでない境。義三郎はその違いを、初めて目の前の黒い水の上に見た気がした。
「黒田より先に、ここへ行く」義三郎が一点を指した。「道を読めるのは、あんただけだ」
惣太は義三郎を見た。山の鼠、とは、もう呼ばなかった。
そのとき入り江の口で、松明の灯りが揺れた。一つ、二つ、三つ。岸伝いにこちらへ近づいてくる。おまきの家を洗った黒田の手は、もう海際まで伸びていた。
第七章 追われる者たち
名主の家を洗え。黒田の下知は、その日のうちに村へ届いた。
役人が蔵の戸を蹴破り、俵を裂き、膳を割った。古い布を探していた。おまきの父は框に座らされ、娘はどこだと問われた。知らぬ、と父は答えた。ほんとうに知らなかった。おまきはそのとき、布を袂に入れたまま、裏の竹藪から山を目指していた。
自分が招いたことだった。あの座敷で「いいえ」と言った半瞬が、父を框に座らせ、自分を追われる身にしている。おまきは走りながら、その悔いごと抱えて斜面を登った。
だが峠の手前で足が止まった。尾根に松明が見える。一つではない。黒田の網は山越えの道にもう先回りしていた。城下から道後、海際まで、逃げ道はおまきが思うより速く塞がれていた。山へは入れない。踵を返し、登ってきた斜面をまた下る。行き着く先は人の世で、追う者の多いほうへ戻るしかなかった。
権六は、その網をわざと引き寄せた。
六尺の大男に身を隠す芸当はない。ならば隠れぬまでだ。権六は道後の湯の町を、わざと役人の目につく往来ばかり選んで歩いた。義賊の片割れがいると声が上がれば、捕方はこぞってそちらへ雪崩れる。誰かの逃げ道が、その分だけ空く。
案の定、捕方が湧いた。権六は路地を縫い、橋の上で足を止めて振り返る。追手が出そろうのを待ってから、欄干を蹴って川へ落ちた。冷たい流れが体を巻く。下流はやがて海へ出る。捕方の足がみな川沿いを追い始めるのを、権六は水の中で見届けた。それでいい、と口の端で笑う。子分の務めだった。
義三郎は山の際に立っていた。背を向ければ、そこは庭だった。獣の道も、水の湧く岩も、目をつぶって歩ける。山へ入れば、黒田の捕方などついて来られない。奪って、返して、山へ帰る。それが今日までの義賊の身の丈だった。今日もそうやって消えればよかった。
だが動けなかった。斜面の下、道後の方角で松明が固まっている。その明かりに追われて、山へ入りそこねた娘が、人の世へ押し戻されていく。義三郎の目には、それが見えた。
山は逃げ場であり、境の内側だった。そこへ帰ることは、いつでもできる。義三郎はしばらく、その内側に足を置いたまま動かなかった。それから山に背を向け、松明のほうへ斜面を下り始めた。逃げ込める側を捨てて、追われる側へ。弓を担ぎ直し、庭を後ろに置いて、一歩を踏み出した。
海際で、惣太は舟の舫いを解いていた。
一族の紙は揃った。守るべき道は、もう義三郎の懐にある。ここで沖へ出れば、惣太一人は助かる。水軍の末裔として海の記憶を抱え、また漁師の顔に戻ればいい。それだけなら、たやすかった。
だが川下から流されてくる大男が見えた。岸を追われて海へ逃げようとする者たちの気配を、惣太は潮の匂いのなかに嗅いだ。守るのは紙だけか、と思った。櫓を握り、舟を、逃げる沖ではなく追われる岸へ向ける。海の男が、初めて陸の側の者のために、海から手を伸ばした。
山の男は山を出た。海の男は岸へ寄せた。名主の娘は、属さぬための境目を捨てて、片側へ足を踏み下ろした。それぞれが立っていた側を離れ、同じ一点へ向かい始めていた。潮の道の集まる、あの隠れ港へ。黒田の松明もまた、同じ海際を目指して伸びてくる。
第八章 水軍の洞
隠れ港の口は、岩と岩のあいだの、舟一艘がやっと通る隙間だった。ふだんはそこで潮がぶつかり、白く砕けている。近づく舟はみな岩へ叩きつけられる。だから誰も、その奥に入り江があるとは思わない。
惣太は櫓を止め、潮の色を読んでいた。やがて満ちていた水がわずかに緩む。引きに変わるその一呼吸を、惣太は待っていた。今だ、と低く言い、櫓を差す。舟は砕ける波の下をくぐり、岩の隙間を滑って、静かな入り江へ抜けた。
義三郎は舷を握ったまま息をついた。同じ海が、読む者の手にかかると、これほど違う顔を見せる。
舟には権六がいた。川を流されて海へ出たところを、惣太が拾い上げていた。ずぶ濡れの大男が、恨めしそうに海水を吐く。おまきは義三郎の傍にいる。道後の外れで追い詰められたところへ義三郎が下りてきて、二人で岸まで走り、惣太の舟に拾われた。四人が、初めて一つの舟に乗っていた。
*
入り江の奥に、洞の口があった。ふだんは水に沈んでいる。引き潮のいまだけ、黒い口を開けていた。惣太が松明を掲げて先に立つ。「潮が満ちれば、また塞がる。長居はできねえ」
洞には人の手が入っていた。壁沿いに棚が組まれ、朽ちかけた木箱が積んである。松明を近づけると、箱の隙間から鈍い光が返った。金だった。銀もある。古い胴丸、錆びた槍、火薬の樽。かつてこの海を握った者たちの蓄えが、そっくり時に置き去りにされていた。
権六が箱の一つに手を突っ込み、小判を掬い上げた。「義三郎、これだけありゃ……」
義三郎は見もしなかった。金に用はない。村へ返す米にはなるが、これを担いで山を越える気はなかった。「先がある」とだけ言って、洞の奥へ目をやる。
*
奥に、もう一つ低い口があった。かがんで抜けると、そこは乾いていた。海の湿りの届かない、洞のいちばん深い懐だ。棚に金も武具もない。桐の箱がいくつか、丁寧に並べてあるだけだった。
惣太が箱の一つを開けた。中は帳面と、巻いた紙の束だった。松明を寄せ、一枚を広げる。惣太の手が止まった。
海図だった。義三郎の持つ半分と、おまきの布の続き。その全部が一枚に描かれた、元の図。潮の道が、瀬戸の端から端まで余さず引いてあった。
帳面には、びっしりと文字が並んでいた。惣太は読み進め、声を落とす。「……村の名だ。この海の、村という村の名が書いてある」
水軍が守った村だった。潮の道を使わせ、通行料を取り、その代わりに海賊や飢饉から庇った村々の記録。誰をいつ助けたか。何俵を融通したか。惣太の祖先がこの海で何をしていたかが、そこにあった。
別の帳面には、違う種類の数字が並んでいた。通行料の一部が、代々どこへ運ばれていたか。海を通る船から取った銭が、どの武家へ、どの商人へ、どの寺へ流れたか。年号は古いものから、そう遠くない昔まで続いていた。
義三郎は一冊を手に取り、終わりの数枚をめくった。近い年号のところに、見覚えのある名がいくつも記されている。城下の名家。国の勘定に連なる家。そしてその上に、江戸の名まで連なっていた。
「黒田が掘っていたのは、これだ」義三郎は言った。「金じゃない。この帳面だ。誰が海から何を吸い上げてきたか、代々の証がここにある。おれたちが世に出せば、黒田の一人や二人じゃ済まん。黒田を使っている手の、その先まで焙り出せる」
宝は金ではなかった。誰が何を奪ってきたかを、覆せぬ形で残した記憶だった。金は担げば減る。だが記憶は、写せば増える。
*
惣太は、村の名の並ぶ帳面を、まだ手放さずにいた。長いこと、彼はこの洞に金銀が眠っていると思っていた。祖先の誇りは金の重さで測れるものだと、どこかで信じていた。だがここにあったのは金ではなかった。自分たちがかつてこの海にいて、何を守っていたか。それが、朽ちもせず残っていた。
「……まだ、あったんだな」惣太が呟いた。誰に言うでもなかった。「俺たちが、ここにいたって、跡が」
義三郎は何も言わなかった。惣太の声が、それ以上を言わせなかった。
そのとき、洞の口のほうから権六が呼んだ。「義三郎。表だ」
入り江の外、岩の隙間の向こうに、松明の列が見えた。海際まで伸びた黒田の手が、とうとうこの海の口へ届こうとしている。潮は、少しずつ満ち始めていた。洞の口を、また水が塞ごうとしていた。
第九章 海へ

潮は待ってくれない。洞の口を、水がもう半分まで塞いでいた。
惣太が先に舟へ飛び乗り、櫓を構えた。「帳面を濡らすな。それが濡れりゃ、何もかも無駄だ」
権六が桐の箱を油紙で包み、胸に抱える。義三郎とおまきが乗り込むと、惣太は舟を岩の隙間へ向けた。外では黒田の小早が、入り江の口へ近づいている。松明の火が水に映って揺れていた。
惣太は、また潮を読んだ。満ちてくる水は、岩の隙間で一度渦を巻き、外へ吐き出される。その吐く流れに乗れば、舟は自分の力の何倍もの速さで押し出される。惣太は渦の緩む隙を待って、櫓をひとつ差した。舟は水に蹴られたように隙間を抜け、黒田の小早の脇をかすめて、沖へ躍り出た。
小早の兵が槍を突き出したが、届かない。舟はもう、追う櫓の届かぬ潮に乗っていた。
*
だが沖には、小早の比ではないものが待っていた。
黒田の大船だった。安宅とまではいかぬが、この瀬戸には不似合いなほど大きい。櫓の数も、積んだ兵の数も、義三郎たちの小舟とは比べようもない。黒田はとうとう宝のありかを突き止めた。海図の写しか、掘り出した端くれか、あるいはおまきの残した気配からか。ともかく大船を仕立て、兵を積んで、この海へ乗り出してきた。
その舳先に、黒田兵衛が立っていた。遠目にも分かる。海を、自分が渡るべき一本の道と見ている立ち姿だった。
*
義三郎は岸の地形を読んだ。入り江の口の先で、瀬戸が細くくびれている場所がある。両岸から岩が張り出し、そのあいだを潮が速く抜けていく。海の難所だった。
「あそこだ」義三郎が言った。「大船を、あの瀬戸へ引き込めるか」
惣太が頷く。「引き込めりゃ、あの図体は仇になる。潮に押されて、舵が利かなくなる。だが誘い込むにゃ、こっちが囮になって、鼻先を見せ続けにゃならん」
「囮は舟が引き受けろ。おれは岸へ上がる」
義三郎は弓を担ぎ直した。山では高みから射て、獣の足を止めた。海でも同じことができる。くびれた瀬戸を見下ろす岩の上に立てば、大船の甲板は丸見えだ。兵の動きを、矢で止められる。
海の操船と、山の弓。別々の場所で権力に抗ってきた二つの技が、初めて一つの絵の中に置かれた。
「帳面は、ここで下ろす」義三郎はおまきを見た。「あんたと権六で、岸伝いに運べ。写しを取って、方々へ撒け。おれたちがここで沈んでも、それが残れば黒田は終わる」
おまきは箱を受け取った。もう、どちらの側に立つのかと問う顔はしていない。「あなたたちが沈む前提で、話をしないで」
義三郎は少しだけ笑った。「善処する」
*
舟が岸へ寄せ、おまきと権六が箱を抱えて岩場へ上がった。二人の姿が松林へ消えるのを見届けてから、義三郎も舟を降り、瀬戸を見下ろす岩へ登っていった。潮の匂いのする高みだった。足の下は山ではなく海だった。それでも、高みから見下ろす目の使い方は変わらない。
惣太は一人、舟に残った。櫓を握り、沖の大船へ舳先を向ける。黒田を、あの細い瀬戸へ誘い込む囮だった。
黒田の大船が動き出した。まっすぐに、迷いなく。海を、力で押し渡れる道と信じて進んでくる。
惣太は、その進み方を見て、静かに息を吐いた。黒田は海を、自分の下に敷こうとしている。だが海は、誰の下にも敷かれない。今日通れた道が、明日は岩になる。海はただ、読む者にだけ、通り道を貸す。
惣太は櫓を差した。舟が、大船の鼻先へすっと出る。黒田の船団が、それを追って、細い瀬戸のほうへ向きを変え始めた。
潮が、変わろうとしていた。
第十章 潮の決戦

夜明けの前、海がいちばん暗くなる刻限に、潮が変わった。
惣太はそれを肌で知った。舟の下で、水の重さが向きを変える。満ちていた潮が引きへ傾く。その変わり目に、細い瀬戸の潮は牙を剝いた。惣太が半年に一度しか通らぬ、暴れ潮の刻だった。
惣太は囮の舟を、瀬戸の口へ滑らせた。黒田の大船が、鼻先の小舟を追って入ってくる。図体が大きいぶん、舵を切るのに間がいる。惣太はその間を計り、ぎりぎりまで引きつけて、瀬戸の奥へ奥へと誘った。
瀬戸の中ほどで、潮が一気に走り出した。大船が横から潮に殴られる。舳先が振られ、舵が利かなくなった。漕ぎ手が必死に櫓を入れても、水そのものが船を押していく。その先に、白く波の砕ける瀬があった。暗礁だった。
崖の上から、義三郎は甲板を見下ろしていた。
夜明け前の薄明かりに、兵の動きが影絵のように浮かぶ。船を立て直そうと、兵が右舷へ走った。義三郎は矢を放つ。走る兵の足元の板に突き立った。兵がたたらを踏む。もう一本、逆の舷へ。兵たちは、どちらへ動いても矢が来ると知って、動けなくなった。
櫓が乱れる。船を救うべき手が、崖の一人の弓に縛られて動かない。大船は、自分の重さと潮に任せて、暗礁へ寄っていった。
山では、こうやって獣の群れの足を止めた。高みの一人が、谷筋の何十を押しとどめる。海が相手でも、理屈は同じだった。
潮の浅いところで、権六が敵船の艫へ取りついた。ずぶ濡れの大男が舷を乗り越えると、甲板の兵が浮き足立つ。権六は刀を抜かなかった。ただ、櫓を次々と海へ放り込んでいく。漕ぐ手を奪えば、船はいよいよ潮の言いなりだった。
黒田は、崖の一人が誰かを見た。
傾く甲板の上で、黒田兵衛は舳先を降り、傾いだ船縁を伝って、崖に近い岩場へ跳んだ。刀を抜いている。船を救うことより、あの弓を黙らせることを選んだ。矢の主が、いつも自分の荷を奪ってきた山の男だと、黒田には分かっていた。
黒田は岩を登った。義三郎の立つ高みへ。義三郎は次の矢をつがえたが、放たなかった。
黒田が刀を構え、間合いに入る。義三郎はしばらく黒田を見ていた。それから、つがえた矢を外し、弓を足元の岩へ置いた。
「なぜ捨てる」黒田の声が掠れた。「射れば、済むだろう」
「あんたを射れば、おれもあんたと同じになる」義三郎は言った。「線を引いて、向こう側の人間を殺す。あんたが四十年やってきたことだ」
黒田の切先が、わずかに揺れた。
「世の中には」黒田が言った。「越えてはならぬ境界がある。守る者がいなくなれば、世は崩れる」
「その境界で、人が死ぬなら」義三郎は動かない。「越える」
黒田は、目の前の男を見た。線を越えて、なお立っている男。かつて自分も、あの列から線を越えた。だが越えた先で、黒田は線の番人になった。この男は、越えた先で、まだ自由だった。同じ一歩の行き着く先が、これほど違う。黒田の刀が、下がった。
そのとき、背後で船が鳴った。
大船が暗礁に乗り上げ、竜骨の裂ける音が海に響いた。潮が船腹を叩き、傾いた船体が、ゆっくりと横へ倒れていく。黒田が振り返る。仕立てた大船が、積んだ兵が、海に呑まれていく。黒田が握ろうとした海が、黒田の手のものを、残らず攫っていった。
黒田は岩の上に、一人取り残された。刀を提げたまま動かない。討つべき相手はまだ目の前にいる。だが黒田には、もう振り上げる理由が、どこにも無くなっていた。
東の空が白み始めた。潮が引いていく。砕けた船の板が、静かな入り江のほうへ、ゆっくりと流れていった。
義三郎は足元から弓を拾い、肩に担いだ。黒田には目もくれず、崖を下り始めた。海には、境界を越えた者だけが通れる道がある。黒田はとうとう、その道を読めなかった。
第十一章 宝を分ける
海が凪いだのは、その日の昼過ぎだった。
引き潮の底から、洞の口がまた顔を出す。惣太が舟で入り、桐の箱と、金銀の詰まった木箱を運び出した。黒田の大船が砕けた瀬戸には割れた板が漂っていたが、兵の多くは浅瀬へ泳ぎ着いて命を拾った。黒田も、岩の上から動かぬまま村の者に縛られ、城下へ送られていった。
運び上げた金を前に、権六が唸った。「これだけありゃ、一生遊んで暮らせるぞ」
義三郎は首を振る。「おれたちのものじゃない」
義三郎が最初に金を持っていったのは、作造爺の家だった。
石を担いだまま死んだ老爺の、残された孫娘が、土間に立っていた。歳は八つか九つ。爺が普請に取られてからは、この子が畑に出ていたのだろう。義三郎が小判を数え、欠けた膳の上に置いた。娘は、それを見ても手を出さない。
「爺様の分だ」と義三郎は言った。「返しに来た」
娘はしばらく金を見て、それから小さな声で聞いた。「これで、爺様は帰ってくるの」
義三郎は答えられなかった。金は、奪われた米を返せても、担がされて死んだ体は返せない。膝を折り、娘と目の高さを合わせた。
「帰ってこない」正直に言った。「だが、二度と、あんたが石を担がされることはない。それだけは、返す」
娘は頷いた。泣きはしなかった。泣くことも、この半年で、どこかへ置いてきたようだった。
金は、そうやって一軒ずつ配られた。年貢に潰された家。荒れた田。掘割で腰を折られた漁師には、舟の直し賃が渡った。義三郎は、黒田が奪った先を一つずつ辿り、奪われたぶんだけを返していった。米俵に書いた、あの一言のとおりに。盗んだものを、返しただけだ。余った金は山道の普請と漁具の直しへ回し、独り占めのための金は一枚も残さなかった。
帳面と航路図は、村へは配らなかった。あれには、金とは違う使い道があった。
おまきは、三晩をかけて写しを作った。灯りの下で、名家の名を、勘定に連なる家の名を、江戸の名を、一字ずつ書き写す。筆を握る指が、夜更けには強張って動かなくなった。それでも指を揉んでは、また筆を取った。書き写した名の数だけ、黒田を庇う手がある。その手の一つでも欠かせば、証は生き延びる。
三通目を懐に、おまきは隣国へ向かった。関所では、名主の使いだと名乗る。門番は名主の娘の顔を疑わなかった。城下でも国でも顔がきくことが、これほど役に立った日はない。おまきは、目付の役宅の門を、自分の足でくぐった。
戻ってきたおまきに、義三郎が聞いた。「渡せたか」
「渡した」おまきは言った。「黒田の上の家が、これから何年、震えることになるか。……いい気味」
初めて、おまきが笑った。
惣太は、金には手をつけなかった。
持ち帰ったのは、水軍の帳面のうちの一冊だけだった。村々を守った記録の、その一冊。惣太はそれを、興居島の古い船小屋の、梁の上へしまった。誰の目にも触れぬところだった。
「金は、使えば消える」惣太は梁を見上げて言った。「だが、これは消えねえ。俺の親父も、その親父も、この海にいた。それが、ここに書いてある」
長いあいだ、惣太は祖先の誇りを、金の重さで量ろうとしていた。洞に金銀が眠ると信じて探していた。だが持ち帰ったのは、一枚の紙だった。金より軽く、金より重い紙だった。
村の寄合で、おまきは袂から、あの布を出した。
藍地に白い糸の、波の文様。名主の家の簞笥の底に、何代も眠っていた布だった。おまきがそれを広げて見せると、寄合の隅で、いちばん年寄りの婆が腰を浮かせた。
「その柄は……」婆の声が震えた。「わしのばば様が言うとった。名主の家の蔵に、海の道を隠した布があると。ただの言い伝えと、みな笑うとったが」
言い伝えは、ほんとうだった。名主の家が、知らぬまま、水軍の記憶の片割れを、何代も守り続けていた。おまきは、その片割れを、村人の前で開いた。もう、境目を歩く娘ではなかった。どちらの側かと、自分に問うこともなかった。
その晩、村と浜の者が、同じ庭に集まった。
山の百姓と、海の漁師。ふだんは市の日にすれ違うだけの者たちが、一つの筵に並んだ。惣太の獲った魚を村の女が煮て、村の米を浜の子どもが頬張る。
筵の端で、山の百姓の一人が、隣の漁師に、ぎこちなく徳利を差し出した。漁師は、一瞬ためらってから、盃を受ける。二人は何を話すでもない。ただ、酒を注ぎ合った。それだけのことが、この村では、今日まで一度も無かった。
義三郎は、その輪の端から眺めていた。山と海のあいだには、ふだん、見えない線が引かれている。武士と百姓のように。城下と村のように。だが今夜、その線を跨いで、一つの膳が並んでいた。線は消えたわけではない。ただ、越える者がいれば、跨げるものだった。
権六が、義三郎の隣に腰を下ろした。「なあ、おれたちも、ここに残っちゃいけねえのか」
義三郎は、賑わう庭を見たまま、しばらく黙っていた。黒田は捕えた。だが、盗みは盗みだ。黒田を庇っていた手は、今度は義賊を捕える口実を探すだろう。義三郎たちが留まれば、この庭の灯りに、また累が及ぶ。
「明日だ」義三郎は言った。「今夜だけは、飲め」
庭の灯りが、山と海の顔を、同じ色に照らしていた。
第十二章 境界の向こう

黒田兵衛が失脚したという報せは、雪の降る前に村へ届いた。
おまきの運んだ帳面は、隣国から江戸へ渡っていた。名を書かれた家々は、握りつぶそうとして、握りつぶせなかった。写しが方々にあると知れれば、消したほうがかえって疑われる。黒田は郡代を解かれ、財を取り上げられ、罪を問われて江戸へ送られた。守ろうとした線の内側から、黒田は突き落とされた。落ちれば待っているのはあの石の列だと、恐れていた、そのとおりの場所へ。
だが、それで世が義三郎たちに味方したわけではなかった。
春になって、城下と村の辻に、新しい高札が立った。義賊の一味を召し捕るべし。墨も黒々と記してある。黒田を庇っていた手は、今度は義賊を消す口実を探していた。奪われた者が奪い返してよいと知ってしまうのを、上に立つ者は何より恐れる。黒田は落ちた。その黒田を落とした義賊が、落とされる番になっていた。
惣太は、海へ戻った。
興居島の浜で、義三郎は惣太を見送った。もう、山の鼠とは呼ばれない。義三郎も、海の男の顔から、初めて会った日の険を、探さなくなっていた。
「あんたの弓は山のもんだ」惣太が言った。「俺の櫓は海のもんだ。……だが、あの瀬戸じゃ、一つになった」
「ああ」
「また境目に用ができたら、浜へ来い」惣太は舟を押し出した。「潮を読んでやる」
舟が沖へ出ていく。惣太は一度も振り返らなかった。振り返らぬのが、この男の別れ方だった。義三郎は、舟が島陰へ消えるまで浜に立っていた。
権六とは、峠の茶屋で道が分かれた。
大男は、しばらく西の国でほとぼりを冷ますという。「二人でいると、目立っていけねえ」と権六は笑った。「冷めたら、また探すさ。あんたは、どうせ境目にいるんだろう」
「探せるかな、そんなもの」
「あんたなら、いる」権六は大きな背を向けた。「いちばん、人が越えたがらねえ場所に、あんたはいつもいた」
おまきは、峠の下まで見送りに来た。
名主の家は、黒田の一件で咎めを受けずに済んだ。おまきの運んだ証が、家を救う形になっていた。おまきはこれから城下に残る。名主の娘として、村と城下のあいだで、また顔を使い分けて生きていく。
「残ればいい」おまきは言った。「うちの家なら、あなた一人、匿える。高札の一枚くらい、どうとでもなる。……もう、追われなくていい」
それは、線の内側への誘いだった。境の内側で名を隠し、静かに暮らす。多くの者が望む場所だった。義三郎は、しばらくおまきを見ていた。
「おれが内側に入れば」義三郎は言った。「おれはもう、越えられなくなる」
おまきは、それ以上引き止めなかった。この男が、境の内側に入れば死ぬ種類の男だと、もう知っていた。
「どこへ行くの」おまきは聞いた。
「境目だ」
「どこと、どこの」
義三郎は答えなかった。少しだけ笑って、山道のほうへ足を向けた。答えは、どこと、どこの、ではなかった。境目は、人が線を引いた、そのすべてにあった。
義三郎は、山道を登っていった。
おまきは峠の下から見上げていた。義三郎の背が、木々のあいだで小さくなる。一度も、振り返らなかった。やがてその姿は、尾根の向こうへ消えた。
人は、土地に境界を引く。身分に、富に、生と死にさえ、境界を引く。城下と村を分け、武士と百姓を分け、持つ者と持たざる者を分ける。線は石のように残り、その線の上で、人が飢え、人が死ぬ。
けれど、山に降った雨は、そんな線を知らずに谷を下る。谷の水は川になり、川は海へ落ちる。海から上がった雲は、また山へ雨を降らせる。山と海のあいだに、水は境目を引かない。
義三郎の消えた尾根から、瀬戸内のほうへ、一陣の風が吹き下ろした。山の匂いを含んだ風が、海のほうへ流れていく。どこにも、境目は無かった。
(了)


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