ボローニャ留学記④
第四章 封の切られた手紙
透子がその手紙の束のことを忘れられなかったのは、そこに何か劇的な秘密があったからではなく、むしろ秘密というにはあまりに静かで、あまりに長くそこに置かれていた気配がしたからだった。
資料室での仕事が終わって帰宅してからも、彼女は何度かその感触を思い返した。
紙の乾いた重さ。
封を切られずにいた時間。
それを前にしたときの、自分でも説明しきれない胸の冷え方。
誰かにとっては些細な見落としにすぎないのだろう。
けれど透子には、それがこの街が自分に向けて最初に差し出してきた、言葉にならない問いのように思えたのである。
翌日、資料室に入ると、マルコは昨日の箱について簡単に説明をしてくれた。
昔の担当者が分類の途中で別の場所に移したまま、記録だけが残されてしまったらしい。
内容自体はまだ確認していないが、十九世紀末から二十世紀初頭にかけての私信である可能性が高いという。
透子はうなずきながら聞いていたが、マルコの言葉の端々に、単なる事務処理では済ませない慎重さがにじんでいるのを感じた。
彼は手紙を単なる物としてではなく、まだ誰かの時間が沈んでいるものとして扱っていた。
そのことが、透子には少し意外だった。
ここでは古いものが多い。
だからこそ、古さに慣れすぎている人のほうが多いのではないかと思っていたからだ。
だが実際には、古いものが多いからこそ、そこに眠っている時間の重さを知っている人もいるのだろう。
「今日、もし時間があるなら、中を見てみるといい」
マルコはそう言って、鍵のかかった棚の鍵を透子に渡した。
昨日の夜から気にしていた手紙が、いきなり自分の手に預けられたことに、彼女は少し驚いた。
だが、驚き以上に、なぜか責任のようなものを感じた。
鍵は小さく冷たく、掌の中でやや重かった。
午後、他の職員たちが書庫の奥へ散っていくあいだ、透子はひとりでその箱を開いた。
ひもで束ねられた数通の手紙は、昨日見たときよりも、少しだけ現実のものになっていた。
ただの紙ではない。
ただの記録でもない。
誰かが誰かへ向けた、たしかに届くはずだった言葉の残骸である。
彼女は一通を取り上げ、封の口を見た。
蝋の痕はすでに薄れていたが、完全には消えていない。
指先でなぞると、乾いた凹凸がかすかに残っている。
そのとき、透子は、読んではいけないものを前にしているような気がした。
しかし同時に、読むべきであるとも感じた。
資料である以上、見なければならない。
だが個人的な手紙である以上、見てしまうことには、やはり別の意味がある。
その迷いの中で、彼女はしばらく動けなかった。
結局、最初の一通をそっと開けたのは、好奇心ではなく、むしろ義務のようなものだった。
中の紙は思ったよりもしっかりしていたが、文字は細く、ところどころにかすれがあった。
イタリア語で書かれたその手紙を、透子はゆっくり追った。
完全には読み取れない。
だが、差出人が若い女で、宛先が同じくらい若い男らしいこと、そしてその内容が、別離と約束と、どこか曖昧な期待に満ちていることだけは、断片的にわかった。
「戻る」「待つ」「まだ」「いつか」。
そうした言葉が何度も出てくる。
それは大きな文学ではなかった。
むしろ、どこにでもありそうな、しかしどこにも同じ形では残らない私的な震えだった。
透子は読み進めながら、なぜか自分のことを思い出していた。
日本を発つ前、彼女もまた、何通かのメールを送った。
大げさな別れの言葉は書かなかったが、読めばわかる人にはわかる程度の、あいまいな距離の取り方をしていた。
こちらから切るつもりはない。
けれど、もう前と同じではいられない。
そういう言い方を、メールという薄い器に詰めて送ったのだった。
返事はきた。
短く、穏やかで、どこか既に終わったことのような文面だった。
その記憶が、手紙を読む彼女の手元に静かに戻ってきた。
封の切られた他人の手紙を前にして、自分の未整理の過去がふいに近くなる。
そういうことが、この街では起こるのだと彼女は知った。
「何か見つけた?」
背後から声がして、透子は紙を持つ手を止めた。
振り向くと、エレナが入口に立っていた。
今日は別の資料を借りに来たらしい。
透子は少し迷ってから、差出人と宛先のない、ただの古い私信だと答えた。
エレナは興味ありげに近づいてきたが、内容までは見せていないと知ると、肩をすくめて笑った。
「この部屋には、まだ読まれていない気持ちがたくさんあるのね」
「たぶん、どこにでもあると思う」
透子がそう言うと、エレナは少しだけ首を傾げた。
「でも、ここではそれが物になって残る。手紙でも、本でも、記録でも。だから忘れられないのかもしれない」
その言葉は、透子の中に静かに落ちた。
忘れられない。
たしかにそうかもしれない。
日本で暮らしていたころ、言葉はもっとすぐに流れていった。
送信され、返され、消えていく。
けれどこの街では、時間が石や紙や建物に沈み込んでいて、消えたはずのものが、別のかたちでずっと残ってしまう。
それは少し厄介で、少し優しい。
夕方、仕事を終えて大学を出ると、空はもう薄い群青に変わっていた。
回廊の柱の影が長く伸び、石畳は昼の熱をわずかに残している。
透子は資料室の鍵を返しながら、今日読んだ手紙の言葉を、思い出そうとしてやめた。
内容そのものよりも、そこにあった切実さのほうが重要に思えたからである。
人は誰かを待ち、誰かに戻ると書き、そしてそのまま、戻れないまま時間の中に残る。
それを彼女は初めて、他人の手紙を通して見たのだった。
帰り道、透子はいつものバールに立ち寄った。
店主は何も言わずにエスプレッソを出してくれた。
彼女はカップを手に取り、窓の外を見た。
通りを歩く人々は、皆それぞれの夜へ帰っていく。
その中に自分も混ざっているのだと思うと、少し不思議だった。
まだ完全には属していない。
けれど、完全には外でもない。
その曖昧な場所に立っていることこそが、いまの彼女の暮らしなのかもしれない。
部屋に戻ると、透子は机にノートを開き、手紙のことを書きつけた。
けれど、内容は書かなかった。
書いたのは、封の切られた瞬間に感じた冷えた手触りと、それを読んでいるあいだに、自分の過去が思いがけず近づいてきたことだけだった。
そして最後に、こう一行だけ付け加えた。
――ここでは、未整理のものがそのまま時間になる。
彼女はペンを置き、しばらくその文を眺めた。
まだ何かが起こるわけではない。
それでも、すでに何かは始まっている。
その確かな予感だけが、夜の部屋に静かに残っていた。

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