ボローニャ留学記⑪
第十一章 春の気配
冬の終わりは、いつも突然ではなく、少しずつ部屋の壁の色を変えていく。
透子がその変化に気づいたのは、朝起きたときに窓の結露が前より薄くなっていた日だった。
外の空気はまだ冷たい。
それでも、回廊の石に落ちる光がわずかにやわらぎ、広場を横切る人々の足取りにも、ほんの少しだけ軽さが混じるようになっていた。
その朝、透子は久しぶりに日本へ送る手紙の下書きを整えていた。
母への返事は、まだ清書できるところまではいっていない。
だが、この街で過ごした日々がたしかに自分の中に根を下ろし始めていることだけは、書ける気がした。
手紙にするには、まだ少しだけ足りない。
けれど、ノートに書き留めておけば、いつか言葉になるだろう。
彼女はそう思いながら、ペン先を紙の上で止めた。
大学へ向かう途中、広場の花屋に小さな黄色い花が並び始めているのを見つけた。
冬のあいだは鈍く沈んでいた色が、少しずつ表へ出てくる。
透子は足を止め、花束を作っている老婦人の手元を眺めた。
彼女の動きはゆっくりなのに、迷いがない。
その確かさが、春の入口のように見えた。
研究室では、エレナがすでに来ていた。
机の上には課題の紙が広げられ、彼女は髪を束ねながら、今日は暖かくなるらしいと話した。
透子はうなずき、窓の外を見る。
空は青く、雲は少ない。
けれど、春の気配というのは、天気そのものよりも、人の身体のほうに先に現れるのかもしれない。
コートの襟を少し開けたくなる。
窓を少し長く開けていたくなる。
そんな小さな欲求が、もうこの街で暮らしている自分の側にある。
「最近、少し顔が変わったね」
エレナがふいにそう言った。
透子は驚いて彼女を見る。
「変わりましたか」
「ええ。来たばかりのころより、少しだけここにいる顔になった」
その言葉に、透子はすぐには答えられなかった。
顔が変わる。
そんなふうに他人から言われたのは初めてだった。
けれど、たしかに何かは変わっているのだろう。
歩き方も、返事の間も、誰かの言葉を聞くときの沈黙も、以前とは少しずつ違ってきている。
自分では気づかないほどの変化が、日々の中で積み重なっている。
その日の午後、透子は資料室で、あの手紙の束の整理を終えた。
長く手をつけてきた案件が一区切りつく。
マルコは最終確認をしながら、透子に感謝を述べた。
彼はいつもの穏やかな声で、「君のおかげで、あの箱はきちんと眠れるようになった」と言った。
眠れる。
その言い方が、透子には少しおかしく、そして少し美しく聞こえた。
手紙たちは、これからも誰かに読まれるのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
だが少なくとも、今は整理され、場所を得て、ひとまず静かに眠る。
それはまるで、自分の内側にある未整理のものたちのことのようでもあった。
夕方、透子は久しぶりにひとりで広場を歩いた。
冬の硬い空気はもうだいぶ薄れ、石畳の色にも、かすかな明るさが戻ってきている。
人々は少しだけ立ち止まる時間を長くし、カフェの外の席にも、ぽつぽつと人影が見え始めていた。
彼女はその中をゆっくり歩きながら、ふいに、自分がここでの生活を「待つ」ことから「続ける」ことへ移しつつあるのを感じた。
待つのは、何かが起きるのを前提にしている。
けれど続けることは、何かを日々の手触りとして受け入れることだ。
透子はいま、少しずつそちらへ向かっている。
広場の角で、見慣れた少年が自転車を押していた。
パン屋の息子で、何度か透子に店先で会釈をしてくれたことがある。
彼は彼女を見つけると、少しだけ手を上げた。
透子も同じように返す。
それだけのことだったが、その短いやり取りのあと、彼女は胸の奥に、言葉にならないあたたかさが残るのを感じた。
名前を呼ばれるほどではない。
だが、顔を覚えられている。
それはこの街で少しずつ得てきた、静かな関係だった。
夜、部屋に戻ると、透子は窓を開けた。
冷たさのなかに、かすかな土の匂いが混じっている。
冬ではない匂いだ。
彼女はしばらく外を眺めてから、ノートを開き、今日のことを書いた。
黄色い花。
少し変わった顔。
眠れるようになった手紙。
そして、続けるという感覚。
それらはどれも大きな出来事ではない。
だが、こういう小さな変化が、いつか人をまるごと別の場所へ連れていくのかもしれなかった。
ページの最後に、透子はひとことだけ書き添えた。
――春は、気づかないうちに始まっている。
ペンを置いてから、彼女は長くその文を見つめた。
ボローニャでの暮らしは、まだ終わっていない。
むしろ、いまようやく季節と呼べるものの中に入り始めたところだった。
帰ることも、残ることも、まだ決まってはいない。
それでも、春の気配の中で続いていく日々が、自分の中に確かな輪郭を与え始めていることだけは、透子にはわかっていた。

いいなと思ったら応援しよう!
はぁ、はぁ……っ! お願い、です……!
『怪獣の腹の中で』を……どうしても、私の手で「紙の本」にしたいんです……っ!
あなたの、そのサポートが……本の、一ページに、なります……っ。
はぁ……応援、してくれませんか……っ?