見出し画像

ボローニャ留学記⑮

エピローグ 光の残り

その後しばらくして、透子は机の引き出しの奥から、ボローニャで使っていた小さなノートをもう一度取り出した。
表紙は少し擦れ、角はやわらかく丸くなっている。
ページをめくると、あの街で書いた文字が、まだ完全には過去になりきらない顔で並んでいた。
雨の広場、エスプレッソの時間、未開封の手紙、鍵の重さ、春の気配。
どれも、読み返せばすぐに当時の空気が戻ってくる。
それは懐かしさというより、身体のどこかが静かに反応する感覚に近かった。
透子は窓を少し開けた。
日本の春は、ボローニャよりもいくぶん湿っていて、風の匂いも違う。
それでも、季節が変わりつつある気配だけは、どこにいても似ているのかもしれない。
遠くの街で暮らした時間は、帰国したからといってきれいに切り離されるわけではない。
むしろ、日常の隙間に不意に顔を出し、そのたびに今の自分を少しだけ書き換える。
彼女はノートの最後のページを開き、しばらく何も書かなかった。
書くべきことは、もうたくさんある。
けれど、いま必要なのは記録ではなく、ただ思い返すことだった。
ボローニャの朝の光。
回廊の柱の影。
広場を掃く音。
名前を呼ぶ声。
そして、帰る朝の静けさ。
それらはもう目の前にはない。
だが、ないからこそ、透子の中でひとつの層として残りつづけていた。
机の上では、家の電話が鳴らないまま静かに置かれている。
外では誰かの子どもが笑い、遠くの車が通り過ぎる。
透子はその音を聞きながら、あの街で学んだことのいくつかを、ようやく言葉にしなくても持てるようになってきたのだと思った。
暮らすことは、必ずしもどこかに定着することではない。
時には、別の土地で過ごした時間を、自分の内部にしまって生きていくことでもある。
そしてそのしまい方は、年月とともに少しずつ変わっていく。
彼女はノートの最後に、短く一行だけ書いた。
――ボローニャは、もう遠い街ではない。
書いてから少し考え、さらに続ける。
――あの街で過ごした二年は、今の私が静かに呼吸するための、目に見えない部屋になった。
透子はペンを置き、書いた二行を見つめた。
それで十分だと思った。
物語はここで終わる。
だが、終わるということは消えることではない。
むしろ、静かに残るために終わるのだと、彼女はいまならわかる気がした。
窓から入る春の風が、ページの端をわずかに揺らした。
透子はノートを閉じ、しばらくその手触りを掌に残していた。
遠いボローニャの光は、もう見えない。
けれど、見えないまま、確かにここにある。
彼女はその気配に小さく頷き、部屋の灯りを落とした。
暗くなるのは部屋だけで、時間はまだ静かに続いていく。


いいなと思ったら応援しよう!

LaLaLa はぁ、はぁ……っ! お願い、です……! 『怪獣の腹の中で』を……どうしても、私の手で「紙の本」にしたいんです……っ! あなたの、そのサポートが……本の、一ページに、なります……っ。 はぁ……応援、してくれませんか……っ?

この記事が参加している募集