ボローニャ留学記⑫
第十二章 終わりの支度
春が来ると、ボローニャの街は少しだけ急ぎ足になる。
冬のあいだ固く閉じていた窓が開き、カフェの外の席には人が戻り、回廊の下にも、どこか軽い足音が増えていく。
透子はその変化を、最初のうちはただ季節のものとして見ていた。
けれど、日が長くなるにつれて、彼女の中にも、終わりに向かう準備のようなものが静かに始まっているのを感じるようになった。
留学は、最初から二年と決まっていた。
だから終わりは突然ではない。
それでも、終わりが近づくと、人は急に日々の細部を数え始める。
いつものバールの店主の顔。
資料室の棚の匂い。
広場の石の色。
雨の日に見た書店の棚。
名前を呼んでくれた人たち。
そうしたものが、これから先も続くようで、実はもう手の届くところにはないのだと、透子は少しずつ理解し始めていた。
資料室では、年度末の整理が進んでいた。
マルコは相変わらず穏やかで、彼女の作業を急かさなかったが、書類の束をまとめる手つきには、どこか送別の気配が混じっていた。
透子はそのことに気づきながらも、あえて言葉にはしなかった。
別れを先に口にすると、まだここにいる自分の時間まで薄くなってしまう気がしたからだ。
その日、彼女は古い目録の最後の確認を終えたあと、しばらく席を立たずにいた。
仕事を終えたことに、ほっとするより先に、少しだけ寂しさが来る。
この資料室での時間は、派手ではなかったが、たしかに彼女を支えていた。
封の切られない手紙、鍵の重さ、未整理の紙束、眠るように並んだ書庫。
それらは、異国での暮らしの形を少しずつ作っていたのだと、今ならわかる。
「もうすぐ終わりだね」
不意にマルコが言った。
透子は顔を上げた。
彼は笑っていたが、その目は少しだけやさしかった。
「ええ。でも、ここで覚えたことは、まだ残ると思います」
「残るさ。消えないものは、たいてい静かに残るものだから」
その言葉は、透子の中に深く落ちた。
消えないものは、静かに残る。
それはこの街そのものの性質のようにも思えた。
派手に主張しないが、時間の中でじわじわと人の内側へ入り込む。
彼女の中に残るものも、きっとそういう種類なのだろう。
午後、エレナと会った。
二人でカフェに入り、春らしく少し開いた窓際の席に座る。
エレナは試験がひと段落したらしく、少し疲れた顔をしていたが、透子を見るといつものように笑った。
「日本に帰ったら、何をするの?」
透子はその問いに、すぐには答えられなかった。
帰る。
その言葉は、以前よりもずっと複雑になっている。
戻る場所はある。
けれど、そこで待っている自分は、ここで暮らした自分と同じではない。
「まだ、よくわかりません」
そう答えると、エレナはうなずいた。
「わからないまま帰るのも、たぶん大事よ。全部を整理してからじゃないと進めない、なんてことはないから」
透子はコーヒーのカップを見つめた。
整理すること。
終わらせること。
片づけること。
資料室での仕事がそうだったように、人生にも、整理しきれないまま持ち帰るものがある。
それを無理に棚に収めなくてもいいのかもしれない。
ただ、持っていく。
それだけで十分なものもある。
帰り道、透子は広場をゆっくり歩いた。
春の夕暮れは長く、建物の壁にやわらかな影を落としていた。
ベンチに座る人、広場を横切る学生、買い物袋を下げた老人。
皆それぞれに、終わりとは別の何かを進めている。
透子もまた、その中に混ざって歩いていた。
もう少しでここを離れるのだと思うと、足元の石畳が急に愛おしくなる。
人は終わりが見えるときに、はじめて日常の輪郭を正確に見るのかもしれない。
アパルトメントに戻ると、部屋には春の匂いが入り込んでいた。
冬のあいだ閉めがちだった窓を少し大きく開ける。
外からは、遠くのバイクの音と、誰かの笑い声が聞こえる。
透子はスーツケースをひとつ部屋の隅から引き出し、まだ何も入れないまましばらく見つめた。
終わりの支度は、荷物をまとめることだけではない。
ここで過ごした時間を、どこまで自分の中に残すかを決めることでもある。
その作業は、簡単ではなかった。
机に座ってノートを開き、透子はこれまでのページをめくった。
雨の広場。
エスプレッソの時間。
未開封の手紙。
名前を呼ぶ声。
冬の前の光。
鍵の重さ。
帰る道のない夜。
春の気配。
どれも、ここでの暮らしを少しずつ刻んできた章だった。
彼女はそれらを見ながら、自分がこの街で何を見つけたのか、まだ一言では言えないことを知っていた。
だが、一言で言えないからこそ、ここでの二年は意味を持ったのだとも思えた。
夜になり、透子は母へ送る手紙をついに書き始めた。
ようやく、清書できるだけの静けさが自分の中に来たのだ。
長くなる文章ではなかった。
だが、そこには確かな変化があった。
ここで暮らしたこと。
学んだこと。
少しだけ大人になったこと。
そして、帰るという言葉が、以前のようには単純でなくなったこと。
それらを、できるだけまっすぐに書いた。
書き終えたあと、透子は封を閉じずに、しばらく便箋を見つめた。
送るには、まだ少しだけ時間が必要だった。
終わりは近い。
けれど、終わりに向かうことと、終わってしまうことは違う。
いまの彼女に必要なのは、最後までここにいることだった。
窓の外では、春の夜が静かに広がっていた。
ボローニャの街は、今日もまた、何も告げずに人を受け入れている。
透子はその静けさの中で、次の朝を迎えるための小さな支度を整えた。
それは帰国の支度であると同時に、この街での暮らしを心の中にしまう支度でもあった。
――終わりは、少し前から始まっている。
彼女はそうノートに書き、ペンを置いた。
そして、部屋の灯りを落とした。
春の気配だけが、窓辺にやわらかく残っていた。

いいなと思ったら応援しよう!
はぁ、はぁ……っ! お願い、です……!
『怪獣の腹の中で』を……どうしても、私の手で「紙の本」にしたいんです……っ!
あなたの、そのサポートが……本の、一ページに、なります……っ。
はぁ……応援、してくれませんか……っ?