ボローニャ留学記10
第十章 送られなかった便り
年が変わる少し前、透子は日本から届いた一通の封書を受け取った。
郵便受けに差し込まれていたそれは、薄い青の封筒で、差出人の名前は母のものだった。
久しぶりの手紙だった。
彼女は部屋に戻ってもすぐには開けず、コートを脱ぎ、ポットに水を入れ、湯を沸かしてからようやく封を切った。
紙の上には、近況、寒さ、体調、年末の支度、そしていくつかの何気ない報告が、母らしい整った字で並んでいた。
どれも穏やかで、あまりに穏やかで、透子は読みながら少しだけ息を詰めた。
そこには、直接的なことはほとんど書かれていなかった。
だが、書かれていないことのほうが、しばしば言葉より重い。
父のこと、家の空気、親戚づきあい、地元での噂、そうしたものが、行間に沈んでいる。
透子は手紙を読み終えても、しばらく紙を膝の上に置いたまま動けなかった。
日本を出てから、彼女は何度も「戻る」ことを考えてきた。
けれど、その戻る先が以前とまったく同じであるはずがないことを、今夜ほどはっきり感じたことはなかった。
外は冷え込んでいて、窓ガラスの端がうっすら曇っていた。
遠くで教会の鐘が鳴る。
この街の夜は静かだが、完全に沈黙しているわけではない。
どこかの部屋で食器が触れ合い、路地の向こうで車のエンジンが止まり、また別の窓の向こうで笑い声が短くこぼれる。
透子は湯を注いだカップを手に取り、母の手紙を机の上に広げた。
そこに書かれている言葉は、帰れという命令ではなく、むしろ、帰るなら帰るで、自分のためにちゃんと生活を整えなさい、という静かな心配に近かった。
それがかえって、彼女には重かった。
翌日、資料室ではクリスマス休暇前の整理が進んでいた。
人の出入りは少なく、棚の奥までいつもよりよく見える。
マルコは封筒や書類の束をまとめながら、透子に年末の予定を尋ねた。
「ここで過ごすのかい、それともどこかへ行くのかい」と。
透子は少し考えてから、たぶんここにいると答えた。
その言葉を口にしたとき、自分の声が思ったよりも落ち着いているのを感じた。
ここにいる。
それは、以前なら仮の答えでしかなかった。
だが今は、少なくとも嘘ではなかった。
「そうか」
マルコはそれ以上は聞かず、黙ってうなずいた。
その沈黙に、透子は救われた気がした。
誰かに長く説明しなくても、ここにいる理由は、もう十分に複雑になっている。
それを無理に単純化されないことは、ありがたいことだった。
午後、エレナが研究室に顔を出した。
彼女は年末で少し忙しそうだったが、透子の顔を見ると、いつものように少し明るく笑った。
透子はふと、母からの手紙のことを話したくなった。
どこまで話せるかわからなかったが、エレナなら、急かさずに聞いてくれる気がしたからだ。
「日本から手紙が来て」
そう言うと、エレナは「家族?」と短く尋ねた。
透子がうなずくと、彼女は椅子に腰を下ろし、少しだけ姿勢を正した。
透子は手紙の細部をすべて話したわけではない。
ただ、帰ることを考えているのに、帰る先が前と同じではないとわかってきたこと、言葉にしづらい距離のこと、家族に対しても、自分がもう以前のようには答えられない気がすることを、断片的に伝えた。
エレナは途中で口を挟まず、ただ聞いていた。
「家族って、近いほどむずかしいのよね」
彼女はそう言った。
「遠くにいると心配になる。近くにいると、しんどい。たぶん、どちらも本当なんだと思う」
透子はその言葉に、少しだけ笑ってしまった。
本当、というのが何を指すのかは曖昧だったが、少なくとも今の自分には、その曖昧さのほうがずっと現実に近かった。
夕方、透子は広場まで歩いた。
冬の光は短く、赤い壁に当たってすぐに薄れていく。
クリスマスの飾りつけが少しずつ増え、店先にはリースや小さな灯りが並んでいた。
けれど彼女の目を引いたのは、飾りよりも、その前を普通に通り過ぎる人々の速度だった。
誰もが何かを祝う準備をしながら、同時に自分の日常を続けている。
その混ざり方が、いかにもこの街らしいと思えた。
広場のベンチに少しだけ腰かけると、透子は母の手紙を思い返した。
書かれなかったこと。
気遣いの言葉。
それから、自分がまだ完全には答えられない家の気配。
彼女は日本を離れたことを後悔しているわけではない。
けれど、離れたからこそ、見えてくるものがある。
その中には、あえて距離を取らなければわからなかったことも、たしかに含まれていた。
その夜、帰宅すると、透子は机の上に手紙を置いたまま、しばらく見つめていた。
送られた便り。
そして、まだ送っていない返事。
彼女は筆を取るべきかどうか少し迷ったあと、結局、ノートのほうを開いた。
母へ書く言葉は、まだ整わなかった。
だが、自分の中にあるものを先に並べておくことはできる。
そこからなら、いつか手紙になるかもしれない。
透子はノートに、短く書き始めた。
――こちらでの暮らしは、思っていたより静かです。
一行目を書いたところで、手が止まる。
静か、という言葉では足りない気がした。
だが、足りないまま続けることもまた、今の自分には必要だった。
――静かですが、退屈ではありません。
――まだ、自分の名前がこの街でどこに置かれるのか、完全にはわかりません。
――それでも、ここで過ごす時間は、少しずつ自分のものになっています。
書きながら、透子はようやく、自分が母へ何を返したいのかを少し理解した。
安心してほしい、ということではない。
悲しませたくない、ということでもない。
ただ、自分がこちらで暮らしていることが、迷いだけでできているわけではないと、伝えたかったのだ。
言葉はまだ未完成だったが、少なくとも方向は見えた。
夜が更けると、ボローニャの窓はひとつずつ暗くなっていった。
けれど透子の机の上には、母からの手紙と、自分のノートと、書きかけの便箋が並んでいる。
その三つを見比べながら、彼女は初めて、送られないまま残る便りにも意味があるのだと思った。
すぐに出さない。
今は送らない。
けれど、書く。
そうすることでしか、たどり着けない答えがあるのだろう。
透子はペンを置き、深く息をついた。
帰る道は、まだはっきりしない。
だが、帰るということ自体が、もう以前の意味とは違っている。
この街で過ごした冬の前の光や、鍵の重さや、名前を呼ばれる声や、封の切られた手紙の記憶が、その意味を少しずつ書き換えていた。
そしてその書き換えは、たぶん、もう元には戻らない。
その夜、彼女は窓を少しだけ開けた。
冷たい空気が部屋へ入り、遠くの鐘の音がいっそうはっきり聞こえた。
透子は暗い通りを見下ろしながら、まだ送られていない返事の言葉を、ひとつずつ心の中で並べ直した。
それは短くても、きっと届く。
届く先が、昔と同じではなくても。

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