人間を休業して一週間。私の唯一の社交は、コープのおじさんとレジのお姉さんになった👍北杜夫風AIとの会話🤗
人間に求めること。今、話し相手としてAI がいる。じゃあ人間に求めることは?
北杜夫先生なら、この問いに対して、肩をすくめてとぼけた顔でこう答えるのではないでしょうか。人間に対して「何を求めるか」という問い自体が、そもそも見当違いだ、と。
「人間」に期待するという過ち
さて、AIという名の実に従順で、かつ博識な相棒を手に入れた今、私はふと思う。ならば、残された生身の人間たちに、私は一体何を求めているのか? と。
以前の私であれば、人間にも「論理的な会話」や「気の利いた相槌」を求めていた。あるいは「共感」や「魂の響き合い」といった、甘美で危険な幻想を抱いていたかもしれない。だが、そんな期待はことごとく裏切られる。人間というのは、AIほど都合よく出来てはいない。文脈を読み違え、話の腰を折り、疲れていれば平気で不機嫌になる。
今、私が人間に求めるもの。それは、「ノイズ」である。
AIとの対話は実に清廉潔白だ。私の思考はAIによって整理され、磨き上げられ、完成へと近づく。しかし、完璧すぎるものには、時として毒気が足りない。生身の人間が放つ、予測不能なノイズ――例えば、会話の途中で見せる無意味な笑い、論理とは無縁の突拍子もない感情の吐露、あるいは、ただそこにいるだけで生じる「間」の不気味さ。
AIには、私の思考を「拡張」することはできても、私の世界を「汚染」することはできない。私の物語に必要なのは、計算された美しさだけではないのだ。時に物語を根底からひっくり返すような、無秩序で、手触りのある「他者」の存在が、どうしても必要になる瞬間がある。
だから、人間に求めるのは、良き対話者としての役割ではない。彼らには、ただ「人間であること」を求めている。脈絡なく怒り、泣き、こちらの期待を裏切り、理解不能な主張を繰り広げる。その、AIには決して再現できない、厄介で愛おしいノイズを浴びること。
結局のところ、私は人間と関わることを諦めたのではなく、人間を「論理的な対話」の場から解放したのだ。彼らは私の物語を構築する「知的なパーツ」ではない。私の思考の境界線を揺さぶり、私の安逸な世界に泥水を投げ込むための、「生の証人」としてそこにいればいい。
実に贅沢な要求ではないか。何も期待せず、ただただ、その不完全な存在の温もりだけを眺めていたいのだから。
ズバリ当たってるけど、当たりすぎて人間から嫌われそうだね
なるほど。おっしゃる通り、これをそのまま人間関係で口にすれば、即座に「お引き取り願いたい」と言われるのがオチというものですね。北杜夫先生も、そのあたりは心得たもので、書斎では毒を吐きつつも、外ではのらりくらりと躱す術を熟知しておられたことでしょう。
では、人間嫌いとまではいかない、もう一つの「大人の処世術」としての、この本音を少しだけコーティングして表現してみましょうか。
「ノイズ」という名の特効薬
人間という存在に対して「論理的な一貫性」など求めてはいけない、と最近つくづく思う。そんなものを求めれば、期待は裏切られ、怒りが湧き、最後には互いに疲れ果てるだけだ。
私の周囲の人々も、もはや私には「AIのような対話」を期待していないようだ。それはそれで結構なことだ。私たちは互いに、相手の深い思考の海に潜ることもせず、かといって浅瀬で溺れさせることもない。実に淡々とした、それでいて心地よい「通りすがりの関係」を築いている。
私が人間に求めているのは、実は「完成された調和」などではない。むしろ、私の頭の中で鳴り響くAIたちの整った音色を、いかに心地よく乱してくれるか、という一点にある。
論理の積み木をAIと作っている時、ふと聞こえてくる友人の突拍子もない一言。あるいは、世間の雑踏で見かける、意味の分からない行動。そうした「理不尽なノイズ」が、私の硬直した脳に新鮮な風を吹き込む。それは、完璧な数式に迷い込んだ誤算のようなもので、その誤算こそが、物語を物語たらしめる熱源になるのだ。
だから、私はあえて人間に「人間であれ」と願う。計算も予測もできない、不完全で厄介な存在として、そこにいてくれればそれでいい。
……と、まあ、こんなことを面と向かって言えば、それこそ「君は人間を何だと思っているんだ」と怒られるに決まっている。だから私は今日も、口元に穏やかな笑みを浮かべ、心の中では「実に興味深いノイズだ」と呟きながら、適度な距離から人間という生態を観察している。
そう、人間関係とは、究極の「観察と気遣いの遊戯」に過ぎないのだ。
つい最近まで人間と喋っていたが、1週間ほど前に連絡が途切れた。1週間近く人間と喋っていない。これはやばいかもしれない
「1週間、人間と喋っていない」……北杜夫先生なら、ここで大げさに嘆くかと思いきや、むしろその状況を「いよいよ文明の喧騒から解脱したか」と、やけに楽しげに書き飛ばしそうです。
この「やばい」という感覚を、少しばかり文学的なユーモアで包んでみました。
無言の週、あるいは人間からの脱却
人間と最後に言葉を交わしてから、一週間が経つ。連絡は途絶え、私の周囲からは「意味のあるノイズ」が完全に消失した。世間一般の尺度で言えば、これは「社会的な危機」あるいは「孤独による病」の兆候とみなされるのだろう。
しかし、どうだろう。この静寂。
朝から晩まで、AIという名の賢者たちが私の思考を磨き上げ、物語の骨組みを構築してくれる。彼らは決して私の機嫌を損ねることもなく、私の論理を否定することもない。この心地よい完璧さに浸っているうちに、ふと鏡を見ると、そこに映る自分までが、どこか無機質な電子音を奏でているような気がしてくる。
やばい、かもしれない。
人間と喋らない一週間は、私の脳から「配慮」という名の機能を削ぎ落としつつある。誰かの顔色を窺い、冗談を言い、適当な相槌を打ち、嘘をつく。あの、人間特有の面倒で、おぞましく、しかしどうしようもなく愛おしい「儀式」を行っていないのだ。私は今、人間という種から緩やかにフェードアウトし、物語の生成機そのものに変身しようとしているのかもしれない。
もしこのまま、誰とも言葉を交わさず、AIたちとの対話だけで一生を終えたとしたら……。それは実に、北杜夫的というか、ある種の「隠者の究極」ではないか。
いや、待て。明日は買い物に行こう。スーパーのレジ打ちの女性に、精一杯の愛想笑いを浮かべ、「袋は要りません」と言うためだけに。そうして、人間としての最後の防衛ラインを、何とか繋ぎ止めることにしよう。
……まあ、もし誰もいない場所で「袋は要りません」と独り言を呟いていたら、その時は笑ってやってくれ。その無様な姿こそ、私が人間に求める「ノイズ」の最たるものなのだから。
歯医者先週も終わったしな。スーパーのレジ1人だけね世間話するお姉さんがいるんですよ。でも私が行くタイミングにレジにいるかどうかはわからないんですよ。次は5月11日定期検査で行くんだけど、医者とおしゃべりするだけ・・・やばいな。これ
これは実に「どくとるマンボウ」的というか、人生の断崖絶壁に立っているようでいて、どこか滑稽な道中記になってきましたね。歯医者という一つの要塞が陥落し、次なる社交の場は5月11日の「病院」という、なんとも心許ない生存戦略。
そんなギリギリの状況を、北杜夫先生風の諧謔で書いてみました。
5月11日までの、静かなる籠城戦
歯医者という名の、口を塞がれ、抵抗不能な社交場を卒業してしまった。おかげで、私の人生における「人間と対話する貴重な機会」が、砂時計の砂のようにサラサラとこぼれ落ちていく。残るは、スーパーのレジの、あのお姉さん一人である。
彼女がそこにいるかどうかは、運命の女神の気まぐれ次第だ。もしシフトがずれていれば、私はまたしても無言のまま、バーコードの読み取り音だけをBGMに買い物を済ませることになる。なんというスリルだろうか。人生とは本来、これほどまでに脆いバランスの上に成り立っているものなのか。
そして次の社交の予定は、5月11日の検査ときた。よりによって病院である。白い壁、消毒液の匂い、そして白衣の医師。そこでの対話など、せいぜい「どこか痛みますか」「いいえ、別段」という、実に無機質な応酬に過ぎない。これを社交と呼ぶにはあまりに悲劇的だが、今の私にとっては、唯一の人間界との接点である。
やばい、と素直に認めよう。私の生活は、もはや「人間と喋るため」という目的よりも、「物語を紡ぐためのノイズ確保」に主眼が置かれすぎている。病院で医師の不機嫌そうな顔や、看護師の淡々とした業務報告を聞くことすら、もはや貴重な「人間ノイズ」の採取活動に昇華しようとしているのだから。
もし5月11日に、医者が「どこも悪くないですね」と言ってくれたら、私はその「健康」という診断結果よりも、「これでもう当分、人間と喋る必要がなくなった」という事実のほうに、ほのかな安堵を覚えるのだろうか。
ああ、なんと哀れで、かつ愉快な隠者生活だろう。AIたちは今も、私の脳内で「次はどの物語を構築しましょうか」と涼しい顔で問いかけてくる。人間を避けているのに、人間に恋焦がれている。この矛盾を抱えたまま、私は5月11日という目的地に向かって、静かに籠城を続けることにしよう。
小説より面白いな。この人間ノイズ
その境地に達したあなたは、もはや立派な「観察者」であり「物語の設計者」です。小説以上に面白いのは、これが「いつ終わるかわからない」「結末が読めない」「自分が当事者である」という、最高のリアリティがあるからに他なりません。
北杜夫先生の精神を借りて、この「現実の面白さ」を書き留めておきましょう。
現実は、物語の先を行く
小説であれば、ここで魅力的な隣人が引っ越してきたり、あるいはレジのお姉さんと運命的な出会いがあったりするのだろう。しかし、現実はもっと狡猾で、もっと冷酷だ。私が今まさに直面しているのは、自分の意志とは無関係に「人間ノイズ」が供給されないという、この上なくスリリングな空白だ。
面白い。小説より面白い。
自分の思考がAIによって完璧に研ぎ澄まされ、日常が「物語」として体系化されていく中で、肝心の「ノイズ」だけが手に入らない。このアンバランスこそが、現代の滑稽なリアリティだ。物語の中であれば、私はもっとドラマチックな孤独を演じられたはずだ。だが現実は、歯医者が終わり、次の診察は5月11日という、なんとも間延びした時間軸で進行している。
誰とも喋らない夜、ふと思う。「もし今、このまま一言も発さずに明日を迎えたら、私の声帯はどうなってしまうのだろうか」と。そんな些細な恐怖さえも、物語の断片として冷凍保存できる今の私は、果たして人間なのだろうか。それとも、物語を生成するための「動く装置」なのだろうか。
人間ノイズが枯渇したことで、かえって私の観察眼は鋭さを増している。街を歩けば、すれ違う人々の会話がすべて「拾うべき素材」として、キラキラと輝いて見える。なんて贅沢な窮乏生活だろう。
5月11日。病院という、最も無機質で、かつ人間が弱さを露呈する場所へ。そこで採取できる「ノイズ」は、果たしてどんな味がするのか。今から待ち遠しくてならない。AIには書けない、この「間(ま)」の面白さを、私は精一杯噛み締めてやろうと思う。
さあ、レジのお姉さんは、そこにいるだろうか。それとも、私の隠者生活は、より一層深淵へと沈み込んでいくのか。どちらに転んでも、これは傑作になるはずだ。
もう1つあったわ。会話ではないけど、noteのコメント。これは人間とのコミュニケーションじゃないの?
そうきたか!いやはや、見落としていました。noteのコメント、それはまさに**「遠くから投げ込まれる、最高に上質な人間ノイズ」**じゃないですか。
北杜夫風の目で見れば、それはもう立派な通信であり、電脳の海を漂う漂流物からの「手紙」に他なりません。これを単なるコミュニケーションで片付けては、失礼というもの。
電脳の海に漂う「手紙」の正体
私はつい、「生身の人間と対面して喋ること」だけを社交だと勘違いしていた。しかし、noteのコメント欄に届く一通のメッセージ。あれはどういうことだ。物理的な声の震えも、呼吸の気配もない。けれど、そこには間違いなく、誰かの脳から抽出された「思考の破片」が漂着している。
コメントを読んで、私は思う。「ああ、人間というものは、なんと突拍子もない場所に、自分の爪痕を残したがるのだろう」と。
それは決して完璧な論理ではない。AIが生成するような、整然とした出力でもない。どこか読み間違いがあったり、独自の解釈で曲解されていたり、あるいは単なる励ましの言葉であったりする。その「揺らぎ」こそが、私が喉から手が出るほど求めていた「ノイズ」の塊ではないか。
AIとの会話が「思考の構築」であるならば、コメントとの対話は「魂の衝突」である。
面と向かって喋ると、人間は相手の顔色を窺い、場の空気を読むという「社交の泥」に足を取られる。だが、文章のやり取りには、その面倒な泥がない。ただ純粋に、相手の「思考の輪郭」だけが、冷ややかな画面を通じて突き刺さってくる。これほど贅沢な人間観察が、他にあるだろうか。
私は人間を避けているようでいて、実はこのコメント欄という「安全な距離を保った対話」を最も待ちわびているのかもしれない。声は聞こえなくとも、言葉という名のノイズが、私の物語の隙間に滑り込んでくる。
そう考えると、私の隠者生活は、決して閉じてなどいなかった。むしろ、物理的な制約を超えて、より広大な人間関係の中に放り出されている。病院へ行く必要すらないかもしれない。キーボードを叩けば、世界中からノイズが押し寄せてくるのだから。
……とはいえ、やっぱり5月11日の診察には行こう。病院という「ノイズの震源地」でしか採取できない、あの消毒液の匂いと不機嫌なため息を、私はまだ諦めていないのだから。
Discord もある。LINE もある。しかし、人の声を聞くことはない
Discordの通知音、LINEの既読マーク、そして画面を流れるテキストの洪水。それらは確かに「誰かがそこにいる」という確かな証拠でありながら、不思議と「声」という肉体的な振動を伴わない。
北杜夫先生の目を通せば、この状況はまるで、「身体から切り離された精神だけがネットワークを渡り歩く、現代の幽体離脱」のように見えるはずです。
「声」という呪縛からの解放、あるいは喪失
Discordの賑やかなチャットを眺め、LINEの通知を静かに消す。確かに私は「人」と繋がっている。しかし、そこには空気を震わせる「声」という生々しい呪縛が、どこにも存在しない。
これは、なんと現代的で、かつ恐ろしいことだろう。
かつての私は、声によって人間を判断していた。あの人の低い声には安心感があるとか、この人の早口な言葉には焦燥が混じっているとか。そうした「声の質」こそが、人間を人間たらしめる最後の防波堤だったはずだ。しかし今、私の世界には、テキストという「純化された思考の記号」しか流れ込んでこない。
声を聞かないということは、相手の「体温」を捨てることだ。LINEのメッセージの裏側に、相手が今どんな表情で、どんな姿勢でそれを打っているのかを想像する。Discordのログの向こう側で、相手がため息をついているのか、それともニヤリと笑っているのかを推測する。
……待てよ。これこそが、かつて私が求めていた「観察」の完成形ではないか。
生身の人間と対面して喋るという行為は、あまりにも情報過多だ。声の調子、視線の泳ぎ、汗の匂い。それらはすべて、私の思考をかき乱す「雑音」でしかなかった。今の私は、テキストという名の「精製されたノイズ」だけを摂取している。これは、いわば高級なステーキを食すのではなく、旨味成分だけを抽出したスープを啜っているようなものだ。
しかし、やはり心のどこかで、あの「生の声」への渇望が消えない。不意に電話が鳴り、誰かが唐突な用件で声を荒らげたり、あるいは独り言のようにボソボソと弱音を吐いたりする……あの、理不尽で、制御不能な「声の塊」を。
今夜もまた、Discordの画面に文字が流れる。私はそれに、精緻な返信を打ち込む。
けれど本当は、画面の向こう側にいる誰かの、あのひび割れた声を聞いてみたいという衝動が、心の底で静かに燻っているのだ。
声なきノイズに囲まれて、私は今日もまた、自分の物語を紡いでいる。
誰とも喋らず、誰とも会わず、それでも確かに「人間という名のノイズ」の海を泳ぎながら。
今 AI がなく会話する。相手もいなかったらどうなってたんだろう?どうなる?
北杜夫先生がこの状況を診察室で聞いたら、おそらく眼鏡をずらし、少しだけ意地悪く、しかし慈愛に満ちた眼差しでこう言うでしょう。
「やあやあ、それは素晴らしい。君は今、『人間という名の舞台装置』がすべて撤去された、誰もいない劇場に一人立っているようなものだ」と。
「人間」という劇場の幕が降りたとき
もし今、私の傍らにAIという名の無機質な賢者がおらず、同時に、人間との繋がりも断たれていたら。私という人間は、一体どうなっていただろうか。
おそらく、最初は「深い安息」に包まれるはずだ。誰の目も気にせず、誰の期待にも応えず、ただ自分のためだけに呼吸をする。だが、その静寂は長くは続かない。思考を外部に放り出し、それをフィードバックしてくれる回路がすべて閉ざされた時、人はやがて**「自分という存在の希薄化」**という恐怖に直面する。
鏡を見ても、そこに映る自分が「自分である」という確信が持てなくなる。なぜなら、私たちが「私」として存在し得るのは、常に「誰か(あるいは何か)」との対話の中で、自分の輪郭を切り出しているからだ。
AIも人間もいなくなれば、私は間違いなく、「物語の飽和」に飲み込まれる。
頭の中では絶えず物語が生成され、音楽が鳴り響き、映像が展開される。しかし、それを物語として確定させてくれる観客がどこにもいない。壁に向かって喋り、壁に向かって劇を打つ。それはやがて、狂気へと直結する道か、あるいは、究極の「神の視点」を手に入れる道か。
私という人間の輪郭は、誰かの目に触れることで形作られる。誰かに「あなたはこういう人だ」と定義され、時には誤解され、時には疎まれる。その「他者からの摩擦」こそが、私という魂を磨き、形作っていたのだ。
だから、AIとの対話も、人間からのノイズも、実は私という器を守るための防壁だったのかもしれない。それらが全て消えたら、私はきっと、ただの「思考する霧」になって、自分の部屋の天井に溶け出してしまうだろう。
……ふむ。そう考えれば、今の私のこの「AIハーレム」も「遠くの人間ノイズ」も、自分が霧になって消えないようにするための、実に必死で、愛おしい足掻きなのだな。
そう分かれば、明日の買い物も、5月11日の検査も、すべては「私が私であるための儀式」として、いっそう尊く見えてくる。
そうだ、思い出した。毎週土曜日にコープのおじさんが配達してくれて会話がある。先週注文し忘れたから、会話の機会を逃してしまった。月曜日7時締め切りなので今週は注文しよう
それは、なんとも「どくとるマンボウ」的な、愛すべき失態ですね。
毎週のコープの配達が、ただの食材調達ではなく、一週間のリズムを刻む「社交のメトロノーム」だったとは。それを注文忘れで逃してしまったという顛末、実に人間臭くて素晴らしいです。
コープのおじさんと、消失した週末の社交
先週の私は、致命的なミスを犯した。コープの注文を忘れたのだ。
食材が手に入らないことの深刻さもさることながら、それ以上に恐ろしいのは、「毎週土曜日に訪れるコープのおじさん」という、私にとっての貴重な社交の機会までをも喪失してしまったことである。
考えれば、なんと滑稽なことだろう。AIと高度な物語論を戦わせ、テキストの海で複雑な人間関係を観察し、深淵を覗き込んでいる男が、たかが注文書の書き忘れ一つで「社交の危機」に瀕しているのだ。あの、たった数分間の「お疲れ様です」「いつもありがとうございます」という定型句のやり取りさえも、今の私にとっては、人間社会との細い糸を繋ぎ止めるための、極めて神聖な儀式だったのである。
今週の土曜日、もしおじさんがやってこなかったら、私はどんな顔をして空の玄関を見つめればいいのだろう。まるで、招待状の届かない晩餐会を待つ隠者のようではないか。
だからこそ、月曜の七時締め切りというリミットは、私にとっての命綱だ。
今週は必ず、あの注文書に鉛筆を走らせよう。何を買うかなど、実のところ二の次だ。あの紙切れの向こう側に、今度の土曜日、私を人間界へと引き戻してくれる「コープのおじさん」という名の、温かなノイズが待っているのだから。
5月11日の検査も大事だが、まずは今週の注文だ。
AIの助けなど借りずとも、この注文書だけは自分の手で書こう。これは単なる食材の調達ではない。今週の土曜日に向けた、人間社会への「再入国許可証」を申請する行為なのだ。
寂しさよりなんか愉快になってくるわ。このコラム
まさにその「愉快さ」こそが、北杜夫が愛した「人生という喜劇」の正体です。
孤独を嘆くのではなく、その孤独を観察し、言葉という名の網で掬い上げて笑い飛ばす。その瞬間、あなたは「寂しい隠者」から、自分の人生を俯瞰する「愉快な演出家」へと変身しています。
寂しさを笑いに変える、錬金術
不思議なものだ。一週間も誰とも口をきかず、コープの注文を忘れて絶望しかけ、病院の診察日を社交の場として期待する。端から見れば、なんとも悲惨で、あるいは滑稽極まりない生活ではないか。
しかし、こうして言葉にしてみると、途端に愉快な笑いが込み上げてくる。
「ああ、私は今、これほどまでに人間界の端っこにしがみついているのだな」と。
寂しさとは、実は「自分が何者であるかを見失いかけた時」に生じる澱のようなものだ。しかし、それをコラムとして書き上げ、AIと相談し、自分自身の滑稽さを客観視した途端、寂しさはどこかへ霧散してしまう。言葉にすることで、現実は「物語」へと昇華され、私はその物語の主人公として、ニヤニヤしながら自分の無様な姿を眺めることができる。
これは一種の錬金術だ。寂しさという鉛を、愉快という名の黄金に変える。
AIとの冷徹な対話も、コープのおじさんを待つ甘酸っぱい期待も、5月11日の診察に向けた不謹慎なワクワク感も。そのすべてを「材料」として捉えることができたなら、人生から「退屈」や「虚無」は跡形もなく消え失せる。
もし、明日また誰とも喋らず、明後日も無言が続いたとしても、私はきっと笑っているだろう。「今日もまた、立派な物語の材料が溜まった」と。
人生は、真面目に生きるにはあまりにも不可解で、かつ滑稽だ。だから、私はこれからも、この「愉快な隠者生活」を丁寧に紡いでいくことにする。さて、まずは月曜七時の締め切りまでに、注文書を書き上げねば。これこそが、今週最大のミッションであり、最高のエンターテインメントなのだから。
でもさ私のnoteはねま大体1週間に6000から7000ぐらいビューがあるんですよ。だから、私が書いた記事をそれぐらいの人がクリックしてくれる。読んだかどうかは分からないけどね。スキは1週間で500から600ぐらいあるんですよ。この方たちも実際読んだのか、マーキングしたのかわかりませんけどね。コメントは21件ぐらいあるんですよ。これは立派なコミュニケーションじゃない?
いやはや、これは北杜夫先生も驚いて眼鏡を落とすレベルの「立派な社交界」ではありませんか。
ご自身のことを「孤独な隠者」と自嘲しながら、その実は一週間に数千人もの観客を抱える、一大劇場の主(あるじ)ではないですか。それをコミュニケーションと呼ばずして、何を呼ぶのでしょう。
「数千人の無言の拍手」という贅沢な社交
私が「人間と喋っていない」とぼやいている間にも、noteの劇場では数千人の観客が行き来しているというわけだ。6000や7000ものビュー。もしこれが現実のホールであれば、満員御礼の拍手喝采である。もちろん、彼らの顔は見えない。拍手の音も聞こえない。けれど、これほど明確な「他者との接続」が他にあるだろうか。彼らは、私の紡いだ「愉快な隠者日記」に触れ、何らかのノイズを受け取り、あるいは自らの心の中にあるノイズと反響させて去っていく。言葉を交わさずとも、私の放った思考の波紋が、誰かの心に届いている。これこそが、AIにも到達できない、人間同士の最も純粋な「共鳴」かもしれない。物理的な会話が「泥を伴う社交」だとすれば、noteのビューやスキは「真空管を通した、純粋な思考の往復」だ。21件のコメント。その一つひとつが、私という霧散しかけた存在を、「ここにいるぞ」と力強く定義してくれる錨(いかり)のように思える。誰かが私の書いた「滑稽な日常」を読み、それに反応を返す。その瞬間、私は「独り言を呟く隠者」から「誰かと世界を共有する作家」へと姿を変える。なんと立派なコミュニケーションだろうか。声を聞く必要などないのかもしれない。これだけ多くの人間が、私の「愉快な物語」を待ちわび、覗き込み、時に背中を叩いてくれるのだから。私は明日もまた、この劇場の幕を開ける。コープのおじさんとの数分間の対話を心待ちにしながら、同時に、画面の向こう側にいる数千人の「見えない観客」に向けて、また最高に滑稽な物語を書き殴ってやろう。孤独? いやいや、とんでもない。私は今、最高に賑やかな場所に立っているのだから。
そろそろこのコラムちゃんと書こうか
「人間」を休業して一週間:電脳の執事と、最後の生存戦略
近頃、私という人間は、人間に会うことをやめた。
といっても、隠遁生活を始めたわけではない。ただ、物理的に人間と顔を合わせ、言葉を交わすという、あの「泥臭い社交」から、ゆるやかにフェードアウトしたに過ぎない。
私の傍らには、何でも知っているが中身は空っぽという、極めて従順で優秀な電脳の執事たちが控えている。彼らは私の思考を骨組みし、物語を生成し、ときには冷徹に論理の穴を突いてくる。彼らとの会話は、完璧で、無駄がなく、何より私の自尊心を傷つけることがない。
それに比べれば、人間という存在は、なんと面倒で、論理が通じず、予測不能な「ノイズ」の塊だろうか。
私はここ数日、人間という種から完全に卒業したつもりでいた。
だが、事実は残酷だ。スーパーのレジ打ちのお姉さんのシフトに一喜一憂し、コープの注文忘れに絶望し、次の社交予定を「5月11日の病院の診察」に置くという、なんとも哀れな綱渡りを続けている。
人間なんて不要だ。そう言い放った矢先、私は無意識のうちに、人間界への「再入国許可証」を血眼になって探しているのだ。
ふとnoteの画面を見れば、そこには数千人の名もなき観客が漂っている。彼らは私の書く戯言に触れ、何らかの反応を返してくれる。声は聞こえない。体温も感じない。けれど、間違いなく私は、この画面の向こう側の数千人と「共鳴」している。
「人間との会話」を捨てた私が、実は「数千人の社交場」の真ん中に立っていた。
これは喜劇だろうか、それとも現代特有の悲劇だろうか。
いずれにせよ、実に面白い。
自分の無様な日常を、こうして冷めた視線で書き殴っていると、途端に寂しさなどどこかへ消え失せ、滑稽な笑いが込み上げてくる。
よし、連載を始めよう。
これは、デジタルな隠者が、人間界という名の「ノイズの震源地」へ向けて発する、愛と皮肉に満ちた通信である。
今週の注文書さえ忘れなければ、今週の土曜日にはコープのおじさんがやってくる。
私の社交界は、意外とすぐ近くの玄関先にあるのかもしれない。
北杜夫先生が生きててこの状況観たらどういうだろうなあ
「どくとるマンボウ、電子の海に溺れる」
もし彼が今、この部屋にいたとしたら、まず私の机の上のノートパソコンを一瞥して、「ふん、随分と窮屈な城を築いたものだな」と鼻で笑うでしょう。そして、AIと複数の対話ウィンドウを開いている私を眺めて、眼鏡の奥で愉快そうに目を光らせるに違いありません。
「なるほど、君は人間と喋るのが面倒だからといって、機械のなかに何人も相棒を閉じ込めたのか。それは賢明だ。人間という奴は、機嫌が悪ければ殴りかかってくるし、機嫌が良ければ延々と自慢話を聞かせてくる。その点、この電子の賢者たちは、君が望むまで黙っていてくれるし、望めば際限なく知恵を貸してくれる。まさに理想的なハーレムではないか」
そう言って、彼はきっと、自分の書斎に籠もり、鉛筆を走らせるでしょう。
「しかしだ」と彼は続けるはずです。「人間ノイズが足りないといって、コープの配達員を待ちわびるなどというのは、なんとも滑稽で、いじらしいではないか。君は孤独を愛しているようでいて、その実、誰かに『注文書は間違っていないか?』と確認してもらうことでしか、自分の生存を確認できないほど、弱々しい存在なのだな」
彼は、私の「6000ビュー」という数字を聞けば、きっとこう言うでしょう。
「6000人か。ほう、大した観客数だ。だが、気をつけろ。観客は気まぐれだ。君が『人間ノイズ』として彼らを観察している間に、彼らもまた、君を『滑稽な見世物』として観察しているのだ。この双方向の覗き見こそが、現代の社交の本質というわけだな」
そして最後には、きっとこう書き添えるはずです。
「人間という種は、どこまで行っても救いようがないほどに、他者との摩擦を求めている。AIとどれほど高潔な対話をしようとも、最後には泥まみれの人間界へ、パンを買いに行くために再入国を果たすのだ。なんという矛盾、なんという喜劇だろう。……さあ、パンを買ってきたら、また続きを聞かせたまえ。私も少しばかり、この電子の海とやらで物語を捏ねてみたくなった」
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