ボローニャ留学記⑥
第六章 名前を呼ぶ声
雨の夜が明けたあとのボローニャは、いつもより少しだけ音が澄んでいた。
前夜の湿気が石畳に残り、朝の光はまだやわらかく、回廊の影は長く細く伸びていた。
透子は窓を開け、冷えた空気を少しだけ部屋に入れてから、机の上に置いたままの詩集を手に取った。
昨夜はページをめくる余裕がなかったが、今日は少し読んでみようと思った。
意味は全部わからなくてもいい。
最近の彼女は、わからないまま置いておくことを以前ほど苦にしなくなっていた。
大学へ向かう途中、透子は広場の角で見覚えのある人影に気づいた。
マルコだった。
普段は資料室にいることが多い彼が、朝の広場で立ち止まって電話をしている。
電話を終えたあと、彼は透子に気づき、軽く手を上げた。
「おはよう。今日は早いね」
「少し、早く来てしまいました」
そう答えると、マルコはうなずいた。
それから何でもないことのように言った。
「君に見てもらいたいものがある。昨日の手紙の続きだ」
透子は少しだけ息を止めた。
昨日の手紙。
封を切ったあの束のことだ。
それが「続き」と呼ばれることに、彼女は妙な緊張を覚えた。
資料室に戻ると、マルコは昨日の箱とは別に、小さな紙束を机の上へ置いた。
そこには、同じ筆跡の手紙が数通、時系列で並べられていた。
どうやら封の切られていなかった一通だけではなく、関連する書簡が他にも残っていたらしい。
「整理の途中で見つかった。宛先も差出人も同じだ」
マルコはそう言い、透子に手袋を渡した。
彼の声は穏やかだったが、いつもより少しだけ慎重だった。
透子はうなずき、最初の一通を手に取る。
紙は前より少し古く、端がやわらかく折れている。
ゆっくりと文字を追っていくと、そこには、別れたはずの二人がなお互いを意識し続けている痕跡があった。
戻る、待つ、まだ間に合うかもしれない、あるいは、もう間に合わないかもしれない。
言葉はどれも短いのに、そのあいだに沈んでいる時間は長かった。
読んでいるうちに、透子の胸の奥に、昨日よりもさらにはっきりした感情が立ち上がってきた。
それは好奇心とも共感とも少し違う。
むしろ、名前を持たない誰かの未完の気持ちが、自分の中に形を変えて入ってくるような感じだった。
この手紙を書いた人たちは、もうとっくにこの世にいないかもしれない。
けれど、そこで交わされた言葉はまだ残っている。
そしてその残り方が、妙に透子自身の暮らしに似ていた。
いまの彼女もまた、誰かに向けてはっきり言えないまま抱えているものを、この街の中で少しずつ持ち直しているような気がしたからである。
「読めるかい?」
マルコにそう尋ねられ、透子は少し間を置いてから答えた。
「全部は無理です。でも、何を言おうとしていたかは、少しわかる気がします」
マルコはそれを聞いて、静かに笑った。
「それで十分だよ。資料というのは、全部が読めることより、読めないものが何を残しているかのほうが大事なこともある」
その言葉は、透子の中にしばらく残った。
読めないものが何を残しているか。
彼女は昨日、エレナの部屋でそうだったように、理解しきれないまま受け取ることの重さを少し知りはじめていた。
言葉のすべてを掴まなくても、そこにあった気配は消えない。
むしろ、掴みきれないぶんだけ、長く心に残るのかもしれない。
昼前になると、エレナが資料室に顔を出した。
彼女は別の課題で図書館に来ていたらしいが、透子の姿を見つけると、少しうれしそうに手を振った。
そして机の上の手紙の束を見て、興味深そうに眉を上げる。
「まだあの話、続いてるの?」
「ええ、少しずつ」
透子が答えると、エレナは椅子に腰かけ、封筒の端を見ながら言った。
「名前って不思議よね。呼ばれないと、そこにいるのにいないみたいになる。でも、呼ばれたら急に戻ってくる」
その言葉に、透子は思わず顔を上げた。
名前。
呼ぶ声。
彼女はここ数か月、自分の名前が日本でどれだけ頻繁に呼ばれていたかを、もう正確には思い出せなくなっていた。
仕事場では苗字で呼ばれ、大学ではときどき名前を覚え違えられ、それでも日常は進んでいた。
けれど、ボローニャに来てからは、誰かに正しく名前を呼ばれることが、前よりもずっと深い意味を持つようになっていた。
それは単に個人を指す記号ではなく、その場に自分を留める小さな輪郭のようだった。
午後、透子は一人で棚の整理をしていた。
書類を並べ、目録を合わせ、箱の中身を確認しながら、彼女はふと、自分の名前がこの街のどこに置かれているのだろうと思った。
書類の上か。
学生名簿か。
アパルトメントの郵便受けか。
それとも、まだどこにもないのか。
日本を出る前、彼女は「行く」という動詞でしか自分を捉えられなかった。
だがここでは、いること、呼ばれること、返事をすることのほうが、よほど大事だった。
その日、資料室を出るころには、空が少し白く曇っていた。
雨の気配がまた戻ってくるらしい。
透子は広場を抜け、回廊の下を歩きながら、マルコがさっき言った言葉を思い返していた。
読めないものが何を残しているか。
そして、呼ばれない名前が、どこで息をしているのか。
そんなことを考えながら歩いていると、背後から誰かが彼女を呼んだ。
「トーコ!」
振り返ると、エレナが少し離れたところから手を振っていた。
急いで追いついてきた彼女は、息を整えながら笑った。
「今夜、時間ある? 友だちが小さな集まりをするの。来ない?」
透子はすぐには答えなかった。
けれど、今度は前よりも少しだけ早く、うなずくことができた。
「行ってみます」
そう返した瞬間、自分の名前がこの街でたしかに呼ばれたのだと、彼女は思った。
それは大きな出来事ではない。
だが、静かで、確かな出来事だった。
名前を呼ぶ声が、彼女を少しだけこの土地に縫い止める。
そして縫い止められた場所から、暮らしはゆっくりと始まる。
夜、エレナたちの集まりは、小さな部屋で開かれた。
ワイン、チーズ、パン、手作りの料理、見知らぬ笑い声。
言葉はすべて追いきれなかったが、誰かが彼女の名前を呼ぶたびに、透子はその場にいる自分を確かめることができた。
最初はただ座っているだけだった彼女も、やがて少しずつ話に混ざり、笑い、わからない単語を聞き返しながら、夜の終わりにはほんの少しだけ肩の力を抜いていた。
帰り道、透子はひとりで歩いた。
だが孤独の質は、来たばかりの頃とは違っていた。
以前の孤独は、どこか外側から押し寄せるものだった。
けれど今の孤独は、日々の中で誰かに触れられたあとに残る静けさに近い。
完全に消えることはないが、前ほど鋭くもない。
ボローニャの夜風は冷たかったが、彼女はそれをあまり嫌だと思わなかった。
部屋に戻ると、透子は机に座り、今日のことを書きつけた。
手紙。
名前。
呼ばれる声。
そして、暮らしの中に少しずつ増えていく、返事の必要な相手たち。
ページの最後に、彼女はこう記した。
――ここでは、呼ばれた名前だけが、ほんの少しだけ自分になる。

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