ボローニャ留学記⑤
第五章 雨の広場
雨が降り出したのは、透子が大学を出て十分もしないうちだった。
最初はほんの細かい粒が石畳に落ちるだけで、傘を開くほどでもないように見えたが、広場へ出るころにはもう空全体が低く沈み、街は昼の輪郭を少しずつ失いはじめていた。
ボローニャの雨は激しすぎず、しかし優しくもない。
建物の赤茶けた壁を濡らし、回廊の下を行き交う人々の足を少しだけ急がせる。
透子は鞄の中から折りたたみ傘を取り出し、開きながら、今日の予定がこの雨で少しだけ先へずれたことを静かに受け入れた。
彼女が向かったのは、中心広場の近くにある小さな書店だった。
特に買いたい本があったわけではない。
ただ、資料室で見つけた古い手紙のことが頭から離れず、活字の並ぶ場所に身を置きたかったのである。
書店は細長く、奥に進むと床がわずかにきしんだ。
新刊の棚の向こうに、翻訳書と古典と、地元の小さな出版社の本がきちんと並んでいる。
透子はイタリア語の題名をひとつずつ目で追いながら、意味のわからない文字列に妙な安心を覚えた。
理解できないものが、ここではかえって彼女を落ち着かせることがあった。
店内の片隅で、ひとりの老人が椅子に座って新聞を読んでいた。
店主らしいその男は、透子が入口で雨を払い終えるのを見て、軽く会釈をしただけだった。
彼女は棚のあいだを歩き、イタリア文学の棚の前でしばらく立ち止まった。
ダンテ、ボッカッチョ、カルヴィーノ、エーコ。
すでに何度も目にした名前が、雨の午後にはやけに濃く見える。
その中に、透子は一冊の詩集を見つけた。
装丁は古びていたが、背表紙の金文字はまだ残っている。
彼女は意味をよく知らないまま、その本を手に取った。
そういう選び方を、最近の彼女はするようになっていた。
わかるから選ぶのではなく、わからないまま手に入れてしまう。
この街では、それがしばしば正しい気がした。
レジへ持っていこうとしたとき、カウンターの近くで、誰かが小さく声をかけた。
振り返ると、エレナだった。
今日は上着のフードを深くかぶっていて、濡れた前髪が頬に張りついている。
「こんなところで会うなんて」
「雨だから来たの」
透子がそう答えると、エレナは笑った。
本当にその通りだ、というように。
彼女もまた書店に寄ったのだという。
レポートの参考文献を探しているらしいが、実際には気晴らしも兼ねているようだった。
透子は少しだけ安心した。
この街では、偶然に人と会うことが、思ったよりも自然に起こる。
それでも、誰かと同じ雨に捕まると、不思議とひとりではない気がする。
二人は本を一冊ずつ抱え、店を出た。
広場はすでにしっとりと濡れ、鳩たちが石の端で身を寄せ合っている。
雨の匂いと、近くのカフェから漂うコーヒーの匂いが混じって、街全体が少しだけ温かくなったように感じられた。
エレナは傘を少し傾けながら、透子に言った。
「今夜、時間ある?」
透子はすぐには答えなかった。
何か特別な予定があるわけではない。
だが、異国にいると、夜を誰かと過ごすことにも、まだ少し慎重になる。
それは警戒というより、習慣の問題だった。
けれど今日は、あの資料室で見た手紙の束のことが、いつもより強く彼女をひとりにしなかった。
「あると思う」
そう答えると、エレナはうなずいた。
「じゃあ、うちに来ない? 母が送ってくれたソースがあるの。パスタを作る」
その申し出は、何でもないようでいて、透子には少し特別だった。
食事はこの街で暮らすための基本であり、誰かの家でそれを共にすることは、観光では決して手に入らない時間だったからだ。
彼女は少し考え、そして頷いた。
エレナのアパートは、透子の部屋から歩いて十分ほどのところにあった。
古い建物の二階で、階段を上がる途中からすでにトマトとオリーブオイルの匂いがしていた。
扉を開けると、狭い廊下の先に小さな台所があり、テーブルの上にはすでにパンとオイルと、赤い瓶に入ったソースが置かれている。
エレナは慣れた手つきで鍋を出し、水を張り、塩を入れた。
透子は言われるままに玉ねぎを刻みながら、台所という場所が、ただ料理をするためだけの部屋ではないのだと思った。
ここでは、人は立ち話をし、今日あったことを少しずつこぼし、明日のことをまだ確信しないまま食べる。
それはとても単純な行為なのに、なぜだか心の奥に長く残る。
「日本では、誰と住んでたの?」
突然そう聞かれ、透子は包丁を止めた。
少しだけ考えてから、
「ひとりのことが多かった。仕事の関係で」
と答えた。
エレナはそれ以上詮索せず、代わりに麺を鍋へ入れた。
泡立つ湯の音が、短い沈黙をやわらげる。
透子はその沈黙をありがたく思った。
質問にすぐ答えられないとき、説明しきれない過去を急かされないことは、彼女にとって思った以上に大きな安堵だった。
食卓に着くと、ソースの赤が皿の上で強く光った。
二人はしばらく、食べることに集中していたが、やがてエレナが、大学の講義で出された課題の話や、最近母親と電話したときの話をぽつぽつし始めた。
透子は聞きながら、時々うなずき、時々短く笑った。
会話は特別なことを言っているわけではない。
けれど、こういう何でもないやり取りの中にこそ、暮らしは根を下ろしていくのだと、彼女はうっすら感じ始めていた。
窓の外では、雨がまだ静かに続いていた。
雨粒はガラスを細く打ち、通りの向こうの灯りをにじませる。
透子は皿の上のパスタを見つめながら、ふと、これまでの自分は「いる」ことよりも「離れている」ことに慣れすぎていたのではないかと思った。
日本でも仕事でも、彼女はいつも少しだけ距離のある場所に立っていた。
それは悪いことではなかった。
だが、いまこの狭い台所で、誰かと同じ食卓につき、同じ鍋から取り分けられたソースを食べていると、その距離が少しだけほどける。
無理に近づくわけではない。
ただ、離れたままでは見えないものが、そこにはあった。
食後、エレナは古いレコードをかけた。
静かな声の歌だった。
透子には歌詞のすべてはわからないが、メロディだけで十分だった。
雨音と混ざり、部屋の空気をゆっくり満たしていく。
エレナは窓際に立ち、コーヒーを二杯いれ、ひとつを透子の前に置いた。
その所作は自然で、気遣いがあるのに押しつけがましくない。
「ここで暮らすの、少しずつ慣れてきた?」
透子はカップを手に取り、少し考えた。
「慣れたというより、まだ驚いてる」
エレナは笑った。
「それはいいことよ。驚かなくなったら、たぶんどこでも同じになってしまうから」
その言葉を聞いて、透子はふいに、初めてこの街に降り立った日のことを思い出した。
空港の明るさ、タクシーの車窓、石畳、回廊、鍵の重さ。
あれからまだそれほど長くは経っていない。
けれど、すでに何かは変わっていた。
観光ではない。
一時的な滞在でもない。
この街で誰かと食卓を囲み、雨を気にしながら帰り道を歩き、誰にも説明しないまま日々を重ねること。
それは、住むということの最初の形だった。
帰り道、雨は少しだけ弱まっていた。
透子は傘を差したまま、濡れた石畳をゆっくり歩く。
広場の灯りが水たまりに映り、揺れている。
彼女は今日の食事のこと、エレナの笑い方、レコードの古い音、そして書店で選んだ詩集の重さを、ひとつずつ思い出していた。
それらはどれも小さい。
けれど、小さいものが積み重ならなければ、土地は人のものにならないのだろう。
部屋に戻ると、透子は本を机に置き、ソースの匂いが少し残る指先を見つめた。
雨はまだ屋根を打っていたが、さっきまでよりも遠い。
彼女は窓を少し開け、冷たい夜気を入れた。
すると、石の匂いと湿った土の匂いが入り込み、この街が今日も確かに生きていることを知らせた。
透子は椅子に座り、ノートを開く。
そこに何かを書き始めようとして、しばらくペンを止めた。
書くべきことはたくさんある。
だが今夜は、無理にまとめる必要はない気がした。
彼女はただ、今日の雨のことと、ひとつの食卓と、まだ完全には自分のものではないけれど、少しだけ近づいた街の温度を記しておこうと思った。
そしてその思いのまま、ゆっくりと最初の行を書きつけた。
――この街では、雨もまた、人をひとりでは終わらせない。

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