藍色のパレット
「ねえ、私の髪型、どうかしら」
麻美(あさみ)は鏡の前で、新しく切ったばかりのボブヘアに触れながら言った。それは夫の健一(けん一)が好む、どこか古風で上品なスタイルだった。
ソファで文庫本を読んでいた健一は顔を上げ、微笑む。
「うん、よく似合っているよ」
その声に嘘はない。けれど、麻美の心には、さざ波のような寂しさが広がる。
健一はいつも優しい。
麻美が彼の色に染まろうとするたび、彼はそれを嬉しそうに受け入れる。
しかし健一自身は、出会った五年前からほとんど変わっていない。着る服の好みも、休日の過ごし方も、自分の部屋の本棚の並びさえも、頑ななまでに「健一の世界」のままだ。
麻美は、かつて読んだフランスの作家、ジャック・シャルドンヌの言葉を思い出す。
『男は愛の中でも独自の特徴を保っている。女は愛のためにいつも変わる。恋する女は誰でも同じものになる』
(本当にその通りね、シャルドンヌさん)
心の中でそうつぶやく。
健一を愛するようになってから、麻美の趣味はすっかり変わった。彼が好きなジャズを聴き、彼が美味しいと言う珈琲を淹れ、彼好みの服を着る。
麻美のパレットは、健一という色で塗り重ねられていく。
それが嫌なわけではない。むしろ、愛する人に染まることは幸福だった。
それなのに、健一は愛の中にあっても、どこまでも「健一」のままだ。彼は麻美を愛している。だが、自分の世界に招き入れるだけで、自分自身が麻美の色に変わることはない。
その日の夜、二人はリビングで静かに過ごしていた。窓の外では、雨が静かに降っている。
健一が淹れてくれた珈琲を飲みながら、麻美はふと、胸の奥にあった疑問を口にした。
「ねえ、健一。健一は、私と結婚して、自分が変わったなって思うところはある?」
健一はカップを置き、少し意外そうな顔をする。それから、真面目に考え込んだ。
「変わったところ、か。そうだね。前より部屋がきれいで居心地がよくなった。君の作るご飯は美味しいし、毎日がとても穏やかだよ。感謝しているんだ」
その答えは、あまりに整っていた。
だが、麻美が求めていたものとは少し違う。
彼が変えたのは「環境」であって、「心」や「生き方」ではないからだ。
「そう。ありがとう」
麻美は寂しさを隠すように微笑んだ。
そのとき、健一の視線が、麻美のスマホの横に置かれていた古いノートに止まる。それは学生時代から使い続けている日記帳だった。
「麻美、そのノート、まだ使っているんだね。物持ちがいいな」
「あ、うん。ただの習慣よ。思ったことを、ときどき書き留めているだけ」
「どんなことを書いているの?」
健一が手を伸ばす。その手を、麻美は反射的に遮るようにノートを引き寄せた。
「だめ。これは私の秘密だから」
健一は驚いたように目を見開く。いつも自分に合わせて微笑む麻美が、はっきりと境界線を引いたからだ。麻美自身も、自分の行動に戸惑っていた。
部屋に沈黙が落ちる。雨音だけが、やけに大きく響いた。
シャルドンヌは、愛についてこうも書いている。
『愛、それは愛よりも遥かに豊か。ほんの単純な感情でありながら、どうしたら正体がつかめるだろうか。そこには決まって、ほかの物が入り混じっている。肉情につづいては魂が、あるいは年齢が、または悩みが…』
麻美は、隠したノートを見つめる。
(私は、健一にすべてを捧げて、健一の色に染まったつもりでいた。でも、私の心の中には、健一には絶対に見せない、私だけの青い炎がまだ燃えている。そして健一も、私に見せない影をきっと持っている)
愛とは、お互いが完全に一つになることではないのかもしれない。
混ざり合おうとしても、どうしても混ざりきらない「孤独」や「悩み」が残る。
健一は、隠されたノートと麻美の顔をじっと見つめていた。その瞳には、いつもの穏やかな優しさだけでなく、かすかな切なさや焦りが混じっている。
彼は今、麻美が自分の手の届かない「別の人間」であることを突きつけられているのかもしれない。
やがて健一は、小さく息を吐いて微笑んだ。
「そっか。秘密か。……じゃあ、無理に聞かないよ。でも、いつか教えてもらえるくらい、もっといい夫にならなきゃな」
そう言って、少し照れたように珈琲をすする。
その姿を見て、麻美の胸の奥が、ちくりと、それでもどこか温かく痛んだ。
彼は変わらない。けれど、彼なりに、この混ざり合えない愛の形を受け入れようとしている。
「ふふ、どうかしらね」
麻美は髪を耳にかけ、微笑む。
二人のあいだには、相変わらずそれぞれの「独自の特徴」という壁がある。けれど、その壁があるからこそ、二人は互いを求め、手を伸ばし続けるのかもしれない。
窓の外の雨は、いつの間にか静かに上がっていた。
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元々「五人目の食卓」は、以前書いた、「結晶の檻(おり)—人類の記憶、その最後の抵抗—」をkindle出版用に書き直した作品です。
4人の食卓で繰り広げられる。哲学とそれを吸い取る謎の結晶の物語。
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