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ボローニャ留学記⑧

第八章 鍵の重さ

冬の朝は、透子にとって目覚めることそのものが少しだけ仕事のようになっていた。
布団の中はまだ暖かいのに、起き上がればすぐに部屋の冷えが身体に触れる。
窓の外では、通りを掃く音がしていた。
それは毎朝のことだったが、毎朝少しずつ違って聞こえた。
季節が進むにつれ、音の向こうにある空気もまた変わっていくからだろう。
このところ透子は、資料室での作業に加えて、教授から頼まれた小さな翻訳補助もしていた。
正式な仕事というほどではない。
だが、古い論文の要約を日本語に移すことや、書簡の一部を読んで意味を取ることは、彼女にとって意外なほど充実感があった。
単に語を置き換えるのではなく、誰かの考え方や時代の呼吸を、別の言葉の中へ少しだけ連れていく。
その感覚が、彼女には合っているようだった。
その日、マルコは資料室の奥から古い棚の鍵束を持ってきて、透子にひとつの扉の開閉を頼んだ。
普段は滅多に使わない保管室で、冬のあいだは湿気の確認が必要になるという。
鍵束は思ったより重かった。
ひとつひとつの金属が小さな歴史を持っているようで、掌の中でわずかに冷たく鳴る。
透子は鍵を受け取りながら、こういう重さを自分はいつのまにか好きになっていたのかもしれないと思った。
役目のある重さ。
責任のある重さ。
そして、戻すべき場所がある重さ。
保管室は、資料室よりさらに奥まっていて、扉を開けるとひんやりした空気が流れ出した。
棚には箱が並び、ラベルの色は古く、端は少しめくれ上がっている。
透子は湿度計を確認し、マルコの指示に従って窓の具合を調べた。
何気ない作業だったが、その場所には独特の静けさがあった。
書かれていない時間が、箱の中でじっと眠っているような静けさ。
その気配に触れるたび、彼女は自分がいま、この街の見えない背骨のようなものに手を置いている気がした。
作業の途中、棚の一角で小さな引き出しが見つかった。
鍵は開いていた。
中には、整理途中のカードと、古い館内地図が一枚入っている。
透子がそれを持ち上げると、紙の下から一通の封筒が滑り出た。
白くはない。
少し黄ばんで、角がやわらかくなっている。
宛名はない。
差出人もない。
ただ、封を切られていないまま、引き出しの奥に置かれていた。
彼女は思わずマルコを振り返った。
マルコは棚の別の側を確認していて、まだ気づいていない。
透子は封筒を手に取ったまま、少しのあいだ動けなかった。
あの手紙の束のことが、一気に蘇ってきたからである。
未開封の手紙。
届いたのに、読まれないまま残った言葉。
それはこの街では、もう珍しいものではないのかもしれない。
だが、彼女にはやはり特別に思えた。
人が誰かへ向けて書いたものは、たとえ開かれなくても、そこに意志として残る。
そして意志は、ときに物よりも長く時間を越える。
「それ、どうしたの?」
マルコの声に、透子は少し肩を揺らした。
彼は封筒を見て、すぐに表情を変えた。
「ああ、それは……たぶん、昔の寄贈資料に紛れたものだろう。捨てるわけにもいかないが、まだ確認もされていない」
「開けてもいいですか」
透子は自分でも少し驚くほど、静かな声でそう言っていた。
マルコは一瞬だけ彼女を見て、それからゆっくり頷いた。
「君なら、いいだろう。必要なら記録だけ取ってくれ」
透子は封を切った。
中の紙は、以前読んだ手紙よりさらに短かった。
一枚だけ。
イタリア語で、たぶん急いで書かれたものだった。
けれど内容は奇妙に明確だった。
「鍵は渡した。あなたがまだそこへ戻るなら、部屋はそのままにしてある。」
そんな意味の文が、そこにあった。
それは別れの言葉ではなく、待つという姿勢の記録だった。
戻る場所が残されている。
そう書かれた紙を前にして、透子はしばらく息を止めた。
鍵。
部屋。
戻る。
その三つの言葉が、ひどく重く感じられた。
彼女はここへ来てから、何度も鍵を受け取ってきた。
アパルトメントの鍵、資料室の鍵、棚の鍵、郵便受けの鍵。
けれどそのどれもが、ただ扉を開けるためだけではなかった気がする。
鍵とは、入るための道具であると同時に、どこかへ属するための印なのだ。
そして今、彼女はそのことを、未開封の一通の手紙から教えられていた。
昼を過ぎるころ、外は少しだけ明るくなった。
冬の光は相変わらず弱かったが、雲の切れ間から差すと、保管室の埃が金色に見えた。
透子は手紙の内容を記録し、封筒ごと所定の箱へ戻した。
その作業のあいだ、彼女はずっと、紙に書かれた「戻る」という語を考えていた。
日本に戻る。
ここへ戻る。
過去へ戻る。
誰かの部屋へ戻る。
ひとは、何かを置いてきた場所に、いつまでも戻れるわけではない。
けれど、戻りたいと思う気持ちは、時に場所そのものを延命させる。
それが、透子には少しだけわかるようになっていた。
作業を終えて資料室へ戻ると、エレナが来ていた。
彼女はマフラーを手で直しながら、透子の顔を見るなり笑った。
「今日は忙しそうね」
「少し、古いものを見ました」
「この街では、古いものに出会うのは普通のことよ」
エレナはそう言って、机の端に置かれた帳簿をのぞき込んだ。
その横顔を見ながら、透子は思った。
この街で普通のことは、彼女にとってまだ普通ではない。
けれど、普通ではないものに囲まれて暮らすうちに、自分のほうが少しずつ変わっていく。
それが留学という時間なのかもしれない。
学ぶことはもちろん大事だが、それ以上に、普通の定義が変わることのほうが、彼女には大きかった。
夕方、透子はいつものバールでエスプレッソを飲んだ。
カップは小さく、熱は短い。
だがその短さが、冬の彼女にはちょうどよかった。
店主は何も言わずにカップを置き、彼女は軽く会釈を返す。
その一連のやり取りの中に、ここでの暮らしのかすかな手触りがある。
すぐに大きくはならないが、確実に積み重なっていくもの。
それが何かに名前を与えるのだろう。
帰り道、透子はポケットの中の鍵を感じながら歩いた。
今日は保管室の鍵を返したはずなのに、手のひらにはまだ、別の場所の重さが残っているようだった。
自分が開けた扉は、実際には物理的な扉だけではなかったのかもしれない。
封の切られていない手紙。
戻るための部屋。
待つという時間。
それらがひとつにまとまり、彼女の中でゆっくりと形を持ちはじめていた。
部屋に戻ると、透子は机の上にノートを開いた。
そこへ、今日読んだ手紙の一文だけをそっと書き写す。
それから、しばらくその言葉を見つめた。
「鍵は渡した。部屋はそのままにしてある。」
彼女はペンを置き、窓の外を見た。
冬の夜は早く、通りの灯りはもうほとんどついている。
この街では、誰もが何かの鍵を持っているのだろう。
部屋の鍵、記憶の鍵、帰る場所の鍵。
そして透子もまた、そのひとつを少しずつ預かりはじめているのかもしれなかった。
それが何を開けるのかは、まだわからない。
だが、重さだけは確かに手の中にあった。


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