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ボローニャ留学記⑦

第七章 冬の前の光

ボローニャの冬は、突然やってくるのではなく、少しずつ部屋の隅に入り込んでくる。
朝起きたとき、窓ガラスがわずかに冷たくなっている。
昼になっても日差しが長く残らない。
回廊の石は、夏のあいだに蓄えた熱をすっかり手放し、足元からじわじわと冷えを伝えてくる。
透子はその変化に、ある朝ふと気づいた。
気づいたときにはもう、季節はかなり先へ進んでいたのである。

彼女はここ数週間、資料室の手伝いに加えて、大学の講義にも少しずつ慣れてきていた。
最初は教授の言葉を追うだけで精一杯だったが、最近では、わからない単語があっても、その前後から意味を拾えるようになってきた。
完璧ではない。
けれど、完璧でなくても、講義の中に座っていられる。
それは彼女にとって、小さくて、しかし確かな進歩だった。

その日、講義が早く終わった透子は、広場の近くにある古いカフェに入った。
窓際の席に座ると、外を歩く人々のコートの色が、冬の光の中で少し鈍く見える。
店内は暖かく、コーヒーと焼き菓子の匂いが混ざっていた。
彼女はエスプレッソを頼み、両手でカップを包むように持った。
熱はすぐに指先へ移り、冷えた身体の奥まで少しずつ浸みていく。
その感覚が、思いのほか安心を与えた。

向かいの席には、見覚えのある女性が座っていた。
何度か図書館で見かけたことのある、年上の学生だった。
名前はソフィアといった。
彼女は透子に気づくと軽く手を上げ、少し迷ったあとで、隣の席に移ってもいいかと尋ねた。
透子がうなずくと、ソフィアはコートを脱ぎ、深く息をついた。

「今日は外がずいぶん冷えるね」

「ええ。朝はまだ大丈夫でしたけど」

そんな何気ない会話から、二人は少しずつ話し始めた。
ソフィアはボローニャ出身ではなく、北のほうの町から来ているらしい。
最初は研究の話をしていたが、やがて住む場所のこと、アパートの家賃の高騰、冬に食べるスープのこと、バールでの小さな習慣の違いへと話が移っていった。
透子は聞きながら、自分がこの街でようやく「生活の話」をしているのだと気づいた。
来たばかりの頃は、街そのものを見るのに精一杯だった。
だが今は、家賃や暖房や買い物のことを誰かと話している。
それは観光客ではできない会話だった。

「あなたは、どうしてボローニャに来たの?」

ソフィアの問いは、これまで何度も誰かにされてきたものに少し似ていた。
透子は一瞬だけ視線を落とし、それから答えた。

「少し、生活を変えたくて」

「そういう理由、好きだな」

ソフィアはそう言って笑った。
理由が立派すぎないところがいい、とでも言いたげだった。
透子は少しだけ肩の力を抜いた。
留学、研究、仕事、未来。
そうした言葉で説明することはできる。
けれど実際には、もっと曖昧で、もっと個人的な理由が人を動かしていることを、彼女はここへ来てから何度も思い知らされていた。

カフェを出るころ、外には薄い光が広場に降りていた。
冬の太陽は低く、建物の壁を斜めに照らしている。
ソフィアは図書館へ戻るというので、二人は広場の角で別れた。
透子はひとりでゆっくりと歩きながら、街の光が夏とはまったく違うことに気づく。
夏の光は開かれていた。
だが冬前の光は、閉じようとするものの表面をやさしく撫でる。
そのせいか、どこか親密だった。

帰り道、彼女は市場の前を通りかかった。
すでに閉まりかけている店もあれば、まだ人の出入りがある店もある。
店先には、冬野菜、柑橘類、チーズ、干した肉、焼きたてのパンが並び、どの色も少し沈んで見える。
透子は立ち止まり、並んだオレンジをひとつ手に取った。
皮は冷たく、しっかりしている。
その重さが、なぜか今の彼女にはちょうどよく思えた。
季節が移るとき、人は大きな変化よりも、こうした小さな重さのほうを先に覚えるのかもしれない。

アパルトメントに戻ると、部屋の中は外より数段暗かった。
暖房はついているが、窓際にはまだ冷気が残っている。
透子は上着を脱ぎ、買ってきたオレンジを机に置いた。
しばらくその丸い形を見てから、指でゆっくりと皮をむく。
香りが立ちのぼり、部屋の空気が一瞬だけ明るくなった。
彼女はその匂いを吸い込みながら、冬になると、光も匂いも音も、少しだけ内側へ向かうのだと思った。
外に向かって広がるのではなく、守るように集まる。
この街の冬は、そんなふうに始まるのだろう。

机に向かい、透子は資料を開いた。
けれど今日は、手を動かす前に少しだけ窓の外を見た。
空は薄い灰色で、雲の奥にまだ午後の名残がある。
広場の向こうを、コートの襟を立てた人が急ぎ足で横切っていった。
彼らもまた、どこかの部屋へ戻り、湯を沸かし、食事の支度をするのだろう。
そのことを思うと、彼女は自分がこの街の時間にだいぶ馴染み始めているのを感じた。
まだ完全ではない。
けれど、冬の前の光を見て、そこに少しでも懐かしさに似たものを覚えるなら、もう十分なのかもしれない。

その夜、透子は久しぶりに日本の家族へ短いメッセージを送った。
元気でいること。
少しずつ寒くなってきたこと。
こちらではオレンジが安くておいしいこと。
それだけの、何でもない文章だった。
だが送信ボタンを押したあと、彼女は自分の生活の中に、二つの時間が重なっていることをはっきり感じた。
ひとつはここで進んでいる時間。
もうひとつは、遠くの誰かとゆるやかにつながったままの時間。
その二つは、どちらも消えない。
ただ、少しずつ同じ人間の中に収まっていく。

透子は机に肘をつき、深く息をついた。
冬の前の光はもうほとんど消えていたが、部屋の中にはオレンジの香りがまだ残っている。
彼女はその香りの中で、今日の会話や、カフェのぬくもりや、広場の低い光を思い返した。
そして、はっきりとではないにせよ、初めてこの街を「季節のある場所」として感じていた。
観光でも、留学でもなく、暮らす場所として。
その実感は、静かで、しかし確かだった。

――ボローニャには、冬に向かう光がある。
透子はそうノートに書き、しばらくその一行を見つめた。
それは、彼女の中で少しずつ固まりつつある、この土地への最初の理解だった。


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