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ボローニャ留学記⑨

第九章 帰る道のない夜

冬が深まるにつれて、ボローニャの夜はひとつひとつ、前よりも長く感じられるようになった。
早く暗くなるというだけではない。
灯りのついた窓の向こうに、それぞれの生活が閉じていくのを見ていると、街そのものが静かに息をひそめているように思えた。
透子はその夜、いつもより遅くまで資料室に残っていた。
今週中にまとめなければならない翻訳補助の原稿があり、机の上にはメモとコピーと古い論文が重なっている。
すべてを読み切るには時間が足りない。
だが、足りない時間の中でどこまで行けるかを考えることに、彼女は少し慣れてきていた。
人が少ない夜の大学は、昼とはまるで違う顔をしていた。
昼には誰かの足音や声や紙のめくれる音で満ちていた廊下も、夜にはただ、遠い換気の音と、どこかのドアが閉まる鈍い響きだけが残る。
透子は資料を鞄に入れ、最後に灯りを消して部屋を出た。
外へ出ると、空気は鋭く、回廊の石は昼の熱をすっかり失っていた。
広場まで行く間に、指先が冷えはじめる。
マフラーを巻き直しながら歩いていると、彼女はふと、こういう寒さにもう日本語で名前をつけなくなっていることに気づいた。
寒い、で足りる。
いや、足りてしまう。
それは変化というより、少しずつ移されていく生活の一部だった。
広場の角で、エレナに会った。
彼女は一人ではなく、同じ研究室の友人らしい男と一緒だった。
二人は何かを話しながら歩いていたが、透子に気づくと、エレナが明るく手を振った。
男は軽く会釈し、すぐに去っていった。
残されたエレナは、透子の顔を見るなり、少し真面目な表情になった。
「今、少し時間ある?」
透子はうなずいた。
エレナは一瞬ためらってから、駅の近くにある小さなバーへ行こうと誘った。
大した話ではない、けれど少し座って話したい。
そう言うときの彼女は、いつもより少しだけ声が低い。
透子はその雰囲気に何かを感じたが、深くは聞かなかった。
バーは広くなかった。
木のカウンター、曇った鏡、少し色あせたポスター。
客は数人だけで、みな静かにグラスを傾けている。
エレナは透子に温かい飲み物を勧め、自分はワインを頼んだ。
しばらくは、大学の話や冬の食べ物の話をしていたが、やがて会話は少しずつ間を持ちはじめた。
透子は、エレナが何かを言いかけてはやめるのを見逃さなかった。
だが、問いただすことはしなかった。
相手が言葉を選ぶ沈黙は、無理に破っていいものではない。
やがてエレナは、グラスの縁を指でなぞりながら、ぽつりと言った。
「最近、家に帰るのが少し嫌なの」
透子はすぐに返事をしなかった。
嫌なの、という言葉はあまりに率直で、けれどそのぶん、何かを隠そうとしていないようにも聞こえた。
「何かあったの?」
エレナは肩をすくめた。
「大したことじゃない。家族と少し……話が合わなくなってきたのかもしれない。前は気にならなかったことが、今は気になる。ずっと一緒にいたから、逆に見えなくなっていたのかも」
透子はその言葉を聞きながら、自分の中にも似た感触があることに気づいていた。
故郷から離れている今でさえ、過去の家や家族がふいに遠ざかることがある。
近すぎたものは、離れてみて初めて輪郭を持つ。
だが、輪郭を持つということは、同時に傷つく可能性も持つということだった。
「帰りたい場所があるって、いいことだと思ってた」
エレナがそう言う。
「でも最近、それが少し重い。帰るというより、戻るって感じ。戻るって、案外むずかしい」
透子はうつむき、温かい飲み物のカップを両手で包んだ。
戻る。
その言葉は、この数週間、彼女の周りを何度も回っていた。
資料室の手紙。
鍵のついた保管室。
封筒に書かれた、部屋はそのままにしてある、という一文。
誰かが待っている部屋。
そこへ戻ろうとする気持ち。
だが本当に戻るというのは、思っているより複雑なのだろう。
自分が変わってしまっていたら、同じ場所に戻ったとしても、それはもう以前と同じではないのだから。
「私は、戻れるのかな」
透子は、思わずそう言っていた。
エレナは少し驚いたように彼女を見たが、すぐにやわらかく笑った。
「戻れるかどうかじゃなくて、戻ったときに何を持っているか、じゃない?」
その答えは、透子にとって少しだけ救いだった。
彼女はボローニャに来てからずっと、ここで何者になるのかばかり考えていた。
けれど、何者になるかではなく、何を持って帰るのか。
その問いは、まだ輪郭がぼやけているが、確かに自分の中へ入ってきた。
バーを出ると、夜はさらに冷えていた。
駅の方角から、列車がホームに入る低い音が聞こえる。
エレナとは途中まで一緒に歩き、広場の角で別れた。
彼女は「また明日」と言い、透子も同じように返した。
たったそれだけのやり取りなのに、別れ際の声には少しだけ温度があった。
人と会い、話し、別れる。
それを繰り返すうちに、街はただの背景ではなく、時間の置き場所になっていく。
ひとりになってから、透子は少し遠回りして帰った。
回廊の下は暗く、店はほとんど閉じている。
それでも、いくつかの窓にはまだ明かりがあり、台所で皿を洗う音や、テレビの薄い音が漏れていた。
彼女はそのひとつひとつを見上げながら、そこに自分の部屋が混ざっていることを思った。
日本にいたころ、夜道でこんなふうに他人の生活を気にすることは少なかった。
だがいまは、誰かの灯りを見るたび、その向こうにある暮らしの重みを想像してしまう。
それは留学のせいなのか、年齢のせいなのか、あるいは、単にこの街が人の生活を隠さないからなのかはわからない。
部屋に戻ると、暖房はついていたが、窓際はまだ冷たかった。
透子はコートを脱ぎ、机の前に座った。
今日の会話を、すぐにはノートに書けなかった。
戻る。
持って帰る。
それが自分にとって何を意味するのか、まだはっきりしない。
けれど、問いが生まれたということ自体が、もう変化なのだろう。
やがて彼女はペンを取り、短く書き始めた。
――帰る場所は、ひとつではない。
書いてから少し考え、さらに続ける。
――戻るたび、人は少しずつ別の自分でそこに立つ。
その二行を見つめながら、透子は、ボローニャでの暮らしがもう単なる滞在ではないことを、ゆっくりと受け入れ始めていた。
この街で出会った人々、読んだ手紙、触れた鍵、言葉のずれ、雨の広場、冬の前の光。
それらはどれも、帰ることの意味を少しずつ変えていく。
そしてその変化こそが、彼女がここで生きる理由になりつつあった。


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