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七つの紋章を追う男の再生



四十歳、離婚、退職。白楼一希が持っているのは、退職金の残りと膝の古傷と、娘の運動会に一度も行かなかった後悔だけだ。ローマの裏路地で手にした一冊の古書が、世界各地の遺跡に隠された「七つの紋章」の存在を告げる。ギザのピラミッド、イースター島、ストーンヘンジ、ナスカの地上絵――紋章を追う旅は、やがて世界の命運を左右する選択へと彼を導いていく。だが彼はヒーローではない。営業成績が中の上だった、ただの中年男である。

プロローグ 朽ちかけた古書との邂逅

 ローマの石畳は、四十歳の膝に優しくなかった。

 白楼一希は、トラットリアの看板を横目に、自分がなぜこんな場所にいるのかを改めて考えた。三週間前、離婚届に判を押した。二週間前、辞表を出した。一週間前、成田からの直行便に乗った。理由を聞かれても困る。逃げた、という一語に尽きる。

 十一月のローマは観光客で溢れていた。テルミニ駅前のホテルを取ったのは、安かったからだ。一泊六十ユーロ。シャワーの水圧は弱く、ベッドのマットレスは背中の形に沈み込んでいたが、文句を言える立場ではない。退職金は一千二百万。無駄遣いしていい金額ではなかった。

 観光客の群れが、コロッセオの方角へ吸い込まれていく。ガイドブックを片手に、互いの肩を叩き合い、写真を撮り合う家族連れ。その中に、十歳くらいの女の子がいて、父親の手を引っ張っている。

 一希は目を逸らした。

 美香が最後に言った言葉が、脳裏に貼りついて剥がれない。

 「あなたは、いつも自分の仕事のことばかり。私の話を聞いてるふりだけは上手だったけど」

 営業マンとしては褒め言葉だが、夫としては致命傷だった。

 聞いてるふり。確かにそうだった。美香が話している間、一希の頭の中では明日のプレゼンの段取りが回っていた。相槌を打つタイミングだけは外さなかった。「うん」「そうだね」「大変だったね」。三つのフレーズを使い回せば、大抵の会話は乗り切れる。少なくとも、そう思っていた。

 十歳の陽菜が、母親のスカートの裾を握って、一度だけこちらを振り返った顔。怒りでも悲しみでもなかった。ただ、何かを確認するような目。パパは本当にいなくなるの、と聞いているような目。一希はうまく笑えなかった。あの顔を、たぶん死ぬまで忘れない。

 路地裏に入ったのは、人混みが嫌だったからだ。それ以上の理由はない。

 ローマの路地裏は、表通りとは別の顔をしている。洗濯物が頭上のロープに干されていて、壁の漆喰が剥がれ、猫が日向ぼっこをしている。観光客の喧騒が嘘のように遠い。一希は石畳を踏みながら、何となく歩いた。行き先はなかった。行き先のない散歩は、四十年の人生で初めてだった。

 だから、あの店に入ったのも偶然だった──と、後になって一希は自分に言い聞かせることになる。

 店には看板がなかった。正確には、看板があったらしい痕跡だけが壁に残っていた。木製の支持具が二本、壁から突き出ている。その間にあったはずの板は、いつの時代かに失われたのだろう。

 ガラス戸の奥は薄暗く、埃っぽい匂いが外にまで漂っている。何かの骨董品屋か、古書店か。一希が引き戸を押したのは、本当に、ただの気まぐれだった。涼みたかったのかもしれない。ローマの十一月は、東京に比べれば穏やかだが、歩き回ると汗をかく。

 店内に足を踏み入れた瞬間、時間の密度が変わったように感じた。表の路地がモノクロ映画のワンシーンだとすれば、この店の中は油絵の具で塗り込められた静物画だった。棚という棚に、革装丁の本、錆びた天体望遠鏡、意味不明の石像、干からびたハーブの束が押し込まれている。天井から吊り下げられた真鍮のランプが、黄色い光を店内に落としていた。

 レジカウンターの向こうでは、白髪の老人が昼寝をしていた。痩せた体に大きすぎるシャツを着て、椅子の背もたれに沈み込んでいる。一希がドアベルを鳴らしても、微動だにしない。

 営業時代の癖で、一希は店内を「見積もる」目で見渡した。家賃はおそらく月額千ユーロ以下。この立地なら相場はもう少し高いはずだが、この状態の物件なら安い。客の入りから逆算すると、まともな商売として成立しているとは思えない。相続した物件を惰性で維持しているタイプだろう。こういう店の主人は、交渉に応じやすいか、まったく応じないかの二択だ。

 棚の一角に、妙に目を引く一冊があった。

 他の本と同じように埃を被っているのに、存在感が違った。背表紙の金文字は擦れて読めない。革装丁はひび割れ、ページの端は黄ばんで波打っている。だが、それは周囲の本の中で、明らかに異質だった。骨董的な価値とは別の次元で、何かを主張している。

 一希は手を伸ばした。理由は説明できない。二十年前、大学三年の春にバックパックを背負ってカトマンズ行きの片道チケットを買った時と、同じ種類の衝動だった。あの時も理由はなかった。ただ、行かなければならないと思った。そして行った。

 触れた瞬間、指先にひんやりとした感触が走った。古い紙の冷たさ。それだけのはずだが、妙に心拍が上がった。

 ページをめくる。インクの匂い。紙が古びて甘く変質した匂い。活字ではなく、手書きの文字がびっしりと並んでいる。ラテン語のようでいて、どの言語にも完全には一致しない。文字の形は時に流れるような曲線を描き、時に鋭角的に折れ曲がる。挿絵もある。星座のような図、建築物の断面図、植物のスケッチ。

 しかし──奇妙なことに、書かれている内容の輪郭が、なんとなく掴めるような気がした。世界各地に散らばる七つの何か。それを集めると、世界の真実に至る。読めているわけではない。意味が、文字の奥から滲み出てくるような感覚だ。

 四十歳の現実主義者は、こういう瞬間に「いくらですか」と聞くべきだと知っている。あるいは、静かに棚に戻して、店を出るべきだ。ファンタジー小説のプロローグに迷い込んだ中年男が取るべき行動として、冒険に旅立つというのは選択肢に入らない。

 だが、一希の手は、本を棚に戻さなかった。

 レジカウンターの老人を起こすのに、三回咳払いが必要だった。老人は薄目を開け、一希と古書を交互に見た。何かをイタリア語で呟いた。

 「これ、いくらですか」

 英語で聞くと、老人は首を振った。

 「お金は要らん」

 老人の英語は明瞭だった。さっきまで寝ぼけていたはずの目が、妙に澄んでいる。

 「その本は、持っていくべき人間が来るのを待っていた。儂が生きている間に来てくれて、助かった」

 一希は、営業マンの勘で、この老人が冗談を言っているのではないと判断した。客の目の色で本気度を測るのは得意だ。商談の場で「前向きに検討します」と言う相手の目と、「本気で導入したい」と言う相手の目は違う。この老人の目は、後者だった。

 「……ありがとうございます」

 一希は本を受け取った。店を出る時、背中にイタリア語で何か声をかけられた。振り返ると、老人はまた居眠りを始めていた。声をかけたのは老人ではなかったのか。だとしたら、誰が。店には他に人間はいなかった。

 ホテルの部屋に戻り、テーブルランプの下で古書を広げた。

 窓の外では、ローマの夕暮れが街を赤く染めている。遠くで教会の鐘が鳴っている。一希はカーテンを引き、古書に向き合った。

 一ページ、二ページ。読み進めるほどに、文字の意味が鮮明になっていく。まるで、読む速度に本の方が合わせてくれているかのようだ。最初は輪郭だけだった意味が、今は文章として頭に入ってくる。翻訳ソフトを通しているような、わずかなぎこちなさを伴いながら。

 それ自体がすでに異常なのだが、一希はあえて立ち止まらなかった。立ち止まったら、たぶん、このまま何もせずに日本に帰る。帰って、誰もいないマンションで、コンビニ弁当を食べる。それが合理的な選択肢だと分かっていた。

 世界に散らばる「七つの紋章」。

 太陽の紋章——光と真実を司る。

 大地の紋章——大地の記憶と安定を司る。

 星辰の紋章——運命と時間を司る。

 風の紋章——自由と変化を司る。

 知恵の紋章——叡智と洞察を司る。

 生命の紋章——命の循環と共鳴を司る。

 そして、七つ目。名前はページが欠損していて読めなかった。破り取られたのか、最初から書かれていなかったのか。

 それぞれの紋章は、特定の遺跡に隠されている。ギザのピラミッド、イースター島、ストーンヘンジ、ナスカの地上絵。それらを巡り、試練を乗り越えて紋章を手にした者は、世界の真実に近づけると。

 一希は古書を閉じ、天井を見上げた。

 ばかげている。四十歳の無職の男が、世界各地の遺跡を巡って紋章を集める。映画なら主演はインディ・ジョーンズであって、営業成績が中の上で、健康診断でコレステロール値と尿酸値を同時に注意された男ではない。

 しかし。

 退職金はある。失業手当も出る。時間だけは、人生で初めて、有り余るほどある。

 そして何より、帰る理由がない。

 一希はスマートフォンを手に取り、関空発カイロ行きの航空券を検索した。ビジネスクラスは論外。エコノミーの最安値。出発は——すぐではなく、一年後。

 古書に書かれていた試練の内容を、一希は営業マンの目で読んだ。崖を登る。砂漠を歩く。遺跡の奥深くに潜る。四十歳の今の体では無理だ。二十歳の頃とは違う。あの頃は膝を痛めてもテーピングで歩き続けられたが、今は階段を二階分上がるだけで息が切れる。先月の健康診断では「適度な運動を心がけてください」と書かれた。適度な運動で足りる体ではないことは、鏡を見れば分かる。

 準備がいる。金と、体と、覚悟。

 一希は手帳を開き、ボールペンを取った。営業企画書を書く時の癖で、まず目標を書き、次にタスクを洗い出し、スケジュールに落とし込む。


「紋章探索プロジェクト——フェーズ1:準備」

 書きながら、自分で笑った。誰に提出するわけでもない企画書だ。だが、笑った後に、久しぶりに心臓が熱くなるのを感じた。二十年前、バックパックを背負った時と同じ熱。消えたと思っていたものが、胸の奥の、埃を被った棚の裏側に、まだ残っていた。


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