【短編小説】「ジャズの旅」④
第三章:静かなる魂、そして新たな衝動
ルーシーは、演奏が終わると、汗を拭いながら六三郎に近づいてきた。
「あんた、日本人? あんたの目、死んでるわよ」
六三郎は、思わず息をのんだ。ハーヴェイの「騒がしい」という言葉とは真逆の、しかし同じくらい強烈な言葉だった。彼女の瞳は、まるで燃える炎のようだった。
「…なぜ、そう思うんですか?」
ルーシーは、ドラムスティックを指で回しながら、六三郎を上から下まで見つめた。 「言葉で説明なんてできないわ。ただ感じるのよ。あんたの魂が、どこかに閉じ込められているように見える」
彼女は、六三郎の持つノートパソコンを指さした。 「あんた、それで何書いてるの? 誰かに見せるための、きれいな言葉の羅列? それとも、自分の魂をぶちまけるための、生きている言葉?」
ルーシーは、六三郎が何も答えられないでいると、くすっと笑い、再びステージへ戻った。そして、信じられないほどの速さで、ドラムを叩き始めた。その音は、まるで心臓の鼓動そのもので、六三郎の身体の奥底に直接響いた。
それは、ヴィンセントの緻密な理論でも、ハーヴェイの静かな土台でもなかった。ただただ、感情の赴くままに叩きつけられる、純粋な「衝動」だった。
六三郎は、彼女の演奏を聴きながら、自分の人生を振り返っていた。教授に言われた「ソウルがない」という言葉。それは、この衝動的な「炎」のような感情が、自分の文章に欠けていることなのかもしれない。
彼のノートパソコンの画面には、書きかけの物語がまだ残っていた。そこに、ハーヴェイから学んだ「土台」と、ルーシーから教えられた「衝動」を、どうやって共存させればいいのか、六三郎は考え続けた。
ルーシーが再びステージから降りてくると、六三郎は迷わず声をかけた。
「あなたのドラムは、どうしてそんなに情熱的なんですか?」
ルーシーは、冷たいビールを一口飲むと、肩をすくめた。 「情熱的? そんなの、私にとっては呼吸するのと同じよ。だって、このドラムは、私がこれまで感じてきたすべての怒りや悲しみ、喜びを、叩きつけるためのものだから」
彼女は、自分のドラムセットを誇らしげに指さした。 「ジャズは、理屈じゃない。生きることそのものなの。あんたの書いてるものも同じでしょ? 頭の中だけで考えて、きれいな言葉を並べているだけじゃ、誰にも届かない。あんたの魂を、文字にぶちまけるのよ。めちゃくちゃになってもいい。それが、本物の言葉になる」
彼女は、六三郎の前にあったビールのグラスを手に取った。 「あんたの文章は、このグラスと同じよ。きれいで、透明で、中身がよく見える。でも、それだけじゃ何も起こらない。中に氷を入れなさい。泡を立てなさい。色がついて、音がして、めちゃくちゃになって、それで初めて魂が宿るのよ」
六三郎は、ルーシーの言葉に、思わず息をのんだ。彼の文章は、まさに彼女の言う通りだった。完璧なまでに整理され、しかし何の色も熱も持たない、ただの透明なグラスだった。
「ジャズは、理屈じゃない。生きることそのものなのよ。あんたの魂を、ぶちまけなさい」
彼女の瞳は、まるで燃える炎のようだった。六三郎は、ジャズには、静かにすべてを包み込む「土台」の魂だけでなく、感情の赴くままに衝動をぶつける「炎」の魂もあることを知った。
その夜、ホテルに戻った六三郎は、手持ちのノートパソコンを広げた。昼間にすべて削除したはずの画面は、もう一度、彼の前に白く広がっていた。しかし、六三郎はもう迷っていなかった。ハーヴェイが教えてくれた「土台」の上に、ルーシーが与えてくれた「衝動」を乗せる。そのイメージが、彼の中で明確になっていた。
彼は、これまで決して書くことがなかった、自分の心の中にある最も醜く、最も正直な感情を、キーボードに叩きつけ始めた。それは、誰かに見せるための美しい言葉ではなく、ただただ自分の魂をぶちまける行為だった。
まるでドラムを叩くかのように、彼の指はキーボードの上を激しく駆け抜けていく。言葉は不器用で、表現は荒削りだったが、そこには確かに熱があった。怒り、悲しみ、喜び、そして絶望。すべての感情が、音になり、文章になっていく。
夜が明ける頃には、六三郎のパソコンの画面には、書きかけの物語が、もう一度、生き生きと息づいていた。それは、これまで彼が書いてきたどんな物語よりも、はるかに荒削りで、はるかに美しかった。
ルーシーとの出会いを経て、六三郎は、自分の文章に欠けていた「衝動」を自覚した。彼はハーヴェイの「土台」の上に、ルーシーの「炎」を乗せようと決意した。彼の心は、ニューオーリンズの街のジャズのように、様々な魂で満たされていく。
その日の夜、老トランペッターは六三郎を、街で最も有名なジャズクラブへと連れて行った。そこは、世界中から最高のミュージシャンが集まる、ジャズの聖地だった。ステージの上では、一人のサックス奏者が、観客の視線を集め、冷たく、そして完璧な音を奏でていた。
彼は、鋭い眼差しと、完璧に整えられたスーツを身につけている。他のミュージシャンとアイコンタクトをとることもなく、ただひたすらに自身のサックスから完璧な音を引き出していた。
「レオンだ」と老トランペッターが言った。
演奏が終わると、レオンは静かにステージを降り、客席に座ることもなく、クラブの入り口へと向かった。六三郎は、彼の完璧な演奏に圧倒され、思わず後を追った。
クラブの外で、レオンは静かにタバコを吸っていた。六三郎が勇気を出して声をかけると、レオンは一瞥するだけで、何も言わなかった。
「あ、あの...あなたの演奏、とても...完璧でした」
六三郎の言葉に、レオンは初めて口を開いた。彼の声は、サックスの音のように冷たかった。
「完璧? それはつまらない言葉だ。完璧は、死を意味する」
六三郎は、その言葉の真意を掴めず、ただ立ち尽くした。レオンは、タバコを地面に落とし、静かに踏み潰すと、六三郎に背を向けた。
「お前は、この街で何を探している?」
「僕は...小説の、魂を...」
レオンは、六三郎の言葉を遮るように言った。
「魂? 魂は、言葉の外にある。お前が探しているものは、ここにはない。」
その言葉を残し、レオンは夜の闇に消えていった。六三郎は、彼の言葉の重みに、ただただ立ち尽くすしかなかった。
つづく
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