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カウンティングの話をしよう

ここで話すのは、トリックテイキングのカウンティングだ。

カードを出す前に、少し立ち止まって考えてしまう瞬間がある。何が残っているだろう。あの人はまだ切り札を持っているだろうか。この色を出せなかったということは。

その思考の正体が、カウンティングだ。場に出たカードを記憶し、残っている手札を推測する技術。カウンティングとは、霧を晴らす速度を上げる技術だ。

そしてその霧は二重になっている。


覚えている人が、なぜ強いのか

トリックテイキングには、マストフォローというルールがある。初めに出された色のカードを持っているなら、必ずその色を出さなければならない。

このルールが、情報を生む。

誰かがある色を出せなかった瞬間、その人がその色を持っていないことが確定する。何を出したかも情報だ。強いカードをここで使ったということは、もうそのカードは残っていない。1枚出るたびに、残っている手札の可能性が絞られていく。

覚えている人は、この絞り込みが速い。だから強い。

標準的なトランプ52枚という枚数は、カウンティングという技術が意味を持つ絶妙な強度だとゲーム研究家の草場純氏が言っていた。多すぎると予測が意味をなさなくなる。少なすぎるとスキルの入る余地がない。覚えようとする行為が、ちょうど結果に直結する。この絶妙さは遊んでいて体感できるものでもある。


全部覚えなくていい。何を覚えるかの話

カウンティングは、完全な記憶力を競うゲームではない。実際のカウンティングは、優先順位の話だ。

まず覚えるべきは切り札の残数だ。何枚あるかは最初から決まっているので、引き算すれば残りが分かる。「もう切り札は残っていない」「まだ強い切り札がある」という判断ができる。

次に、強いカードの生死だ。ただしこれは自分の手札との相対的な関係で意味が変わる。例えば12を持っているなら、13がまだ場に出ていないかどうかが決定的に重要になる。逆に、自分が3しか持っていない色の高いカードの行方は、追っても使い道が薄い。自分の手の中で最も強いカードの「上に何があるか」を追うだけで、判断の精度は大きく変わる。

そして、ボイドの把握だ。ボイドとは、ある色(マーク)を誰かが切らしている状態のことだ。誰かがその色を出せなかった瞬間に確定する。誰がどの色を持っていないかが分かると、「この色をリードしても切り札で取られる」という予測が立てられる。

どれも「覚える対象が、ゲームの進行によって自動的に確定していく」情報だ。暗記の努力ではなく、確定した事実の引き算で追える。だから負荷が低い。

全部を覚えることより、何を覚えるかを知っていることの方が、はるかに重要だ。


「記憶力ゲームにしたくない」という気持ち

「記憶力ゲームにしたくないのに、記憶力を使わされるのが嫌だ」という声が、一定数ある。

この感覚は自然だと思う。カードゲームを遊びたいのに、気づいたら暗記大会になっている。ルールを覚えるという最初の関門を超えた人が、次に直面するもう一つの壁としてカウンティングが立ちはだかる。そう感じる人は少なくない。

ただ実際のカウンティングは、完全な記憶ではない。覚えるべきものと覚えなくていいものを選別する、判断力の話だ。全部覚えようとするから溺れる。何を手放していいかが分かれば、負荷は激減する。

「記憶力ゲームにしたくない」という感覚は正当だ。ただそれは、カウンティングを全部覚えることだと思い込んでいるところから来ているのではないだろうか。

そして私はカウンティングは記憶力のゲームではなく、取捨選択のゲームだと思っている。


霧は二重になっている

トリックテイキングの面白さは「分からないものが、少しずつ分かっていく」ことにある。霧の中から始まって、トリックを重ねるうちに相手の手が見えてくる。

でもこの霧は、実は二重になっている。

一つは「相手の手札が見えない霧」だ。これは全員に等しくある。

もう一つは「相手がどこまで把握しているか分からない霧」だ。これは全員に等しくない。Aさんは切り札の残数を追っていて、Bさんは特定の色の行方だけを見ている、Cさんはほぼ覚えていない。そういう非対称な把握の状態で、ゲームが進んでいる。

「あの人はもう切り札が残っていないと気づいているか、いないか」という読み合いが、記憶の差から生まれる。同じカードが場に出ていても、それを見ている頭の中は人それぞれだ。その差を読むことがゲームになる。

誰も強制しない。覚えなくてもゲームは成立する。でも覚えようとする。その自発的な営みが、二つ目の霧を作る。


取ったカードを表向きで置くと、何が変わるか

表向きで置けば、カウンティングの負荷が下がる。それを好む人がいる気持ちは分かる。

ただ表向きにすると、「相手がどこまで把握しているか」という霧が薄くなる。場に出たカードは全員に等しく開かれているから、把握の非対称が消える。情報が全公開に近づくほど、後半は残り手札が誰の目にも明らかになり、ゲームが詰め将棋に近い様相になる。

将棋や囲碁なら、情報が完全に公開されていても問題ない。そもそも運要素がないからだ。でもトリックテイキングは違う。最初から配り運がある。全員の情報を均質化すると、その配り運がより直接的に結果に出る。カウンティングという技術は、運と実力の間のバランサーとして機能している。それを取り除くと、頑張れる部分が減る。

私は裏向きで置きたい。

霧が惜しいからだ。自分の頭で晴らした霧と、物理的に晴れた霧は、同じ霧の晴れ方ではない。「あの人はまだ気づいていないかもしれない」という読みは、記憶の非対称があって初めて生まれる。

そしてもう一つ、感情的な理由がある。

ずっと切り札を追っていた人と、何も見ていなかった人が、同じ情報にアクセスできる状態を、私は少し惜しいと思う。その日の集中力、経験の蓄積、卓の雰囲気——そういうものが自然に結果に滲み出る余地がある。覚えていた人が、覚えていたことで報われてほしい。それだけのことだ。


ゲームによって、カウンティングの性質が変わる

カウンティングが難しいかどうかは、ゲームの設計によって大きく変わる。
カードの総枚数が少なければ、覚えるべき情報量も少ない。配り切るかどうかも重要だ。全員に配り切るゲームは出たカードの総数から残りが計算できるが、ストックが残る設計では何が残っているかが最後まで不明で、カウンティングの精度に上限がかかる。

これは欠陥ではなく選択だ。設計者は、霧の濃さを選んでいる。

設計によっては、何を覚えるべきかが自然に見えてくるゲームもある。『ザ・クルー』がその典型だ。協力ゲームだから、まだミッションを達成していない仲間の色と、それより大きなカードの残数が自然と気になり始める。「何を追えばいいか」をゲーム側が示してくれる。遊んでいるうちに全員が自然とそこに辿り着く。

初心者が「何を考えればいいのか分からない」という壁にぶつかりにくい。そういう意味では、『ザ・クルー』はカウンティングを学ぶゲームとしても優れている。


考えどころが分かると、テンポが上がる

初心者のプレイが遅くなるのは、考えすぎているのではない。どこで考えればいいかが分からないから、全部のタイミングに時間をかけてしまうのだ。

マストフォローのルールを守ること、切り札の概念を把握すること……それだけで手一杯な状態では、カウンティングどころではない。その段階を抜けても、今度は「考えるべき局面」と「考えなくていい局面」の区別がつかない。全トリックすべてが等しく重く見える。

熟練者は「ここは適当に流していい」「ここは分岐点だ」という判断が速いから、テンポも崩しにくい。

逆説的だが、カウンティングが身につくとテンポが上がる。考えどころが分かるということは、考えなくていい場所も分かるということだからだ。その余裕がゲームを快適にする。卓を囲む他のプレイヤーへの配慮にもなる。

カウンティングは思考の負荷を増やす技術ではなく、思考を配分する技術だ。


二つ目の霧は、トリテの外にもある

二つ目の霧は、トリックテイキングの専売特許ではない。

先日、『宝石の煌き』を上級者たちと遊んだ。確保されたカードは、確保の瞬間には全員に見えている。でも裏向きになった後、他人が見ることはできない。上級者たちは当たり前のように覚えていた。私は他のことに頭を使っていて、ほどほどにしか覚えていなかった。取捨選択した、とも言える。

これは記憶力の差ではないと思っている(負け惜しみではなく)。慣れた人にとって、確保されたカードは「あの人の戦略の一部」として勝手に頭に残る。慣れていない私は、同じ情報を覚えるのに意識的なコストを払う必要がある。だから払わなかった。

ただ、「あの人は覚えているか」という読み合いは、ほとんど発生しない。相手が覚えていようがいまいが、当てにして手を変える場面がないのだ。トリテなら「あの人は切り札が枯れたことに気づいていない」と読めたら、その読みが次のリードを変える。把握の差があることと、把握の差を読み合えることは、別の話だ。

一度公開された情報が、記憶の中でだけ生き続ける。そこに把握の非対称が生まれ、読み合いが生まれる。トリテはマストフォローによってこの構造を鋭く研いだゲームだが、構造そのものは、裏向きのカードがあるすべてのゲームに眠っている。

余談だが、おかしな瞬間があった。『宝石の煌き』には山札から直接確保する、通称「ガチャ予約」がある。誰かがそれをやったとき、「ちょっと私に有利だな」と頭をよぎった。山札からの確保は、最初から誰の頭にも入らない。つまりあの一手は、覚えられる人の有利だけを目減りさせた。ハナから覚える気がない私は失うものがなかった。冷静に考えれば、私の勝率が上がったわけではない。縮んだのは、覚えられる人たちとの差だけだ。その発見は面白かった。


霧が自分の手で晴れるとき

カウンティングは義務ではない。

全部追える人でも、全部追わないことがある。疲れている日もある。

お酒を飲んでいる日もある。初めて遊ぶ人と同卓している日もある。

切り札だけ追う日もあれば、ほとんど何も追わない日もある。

それでもゲームは成立する。自分で濃さを調整できる。

私はその自由さも好きだ。

遊ぶほど、覚えるべきことが分かってくる。覚えるべきことが分かると、手放していいことも分かる。記憶力ではなく、経験が積み上げた「何を覚えるかのセンス」が機能し始める。

二重の霧は、どちらも完全には晴れない。相手の手札は最後まで見えないし、相手がどこまで把握しているかも分からない。でも霧の晴れ方は、遊ぶほど速くなる。

霧は最後まで晴れない。だから何度でも遊べる。

カウンティングとは、その霧を少しだけ早く晴らす技術なのだと思う。


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