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“何これ…?”が“もっと聴きたい!”に変わる瞬間、意味不明な音楽に惚れた話

最初に聴いたのは、ジョン・ケージの『4分33秒』。
何も起きない。ピアノは弾かれない。演奏者も静止している。会場も静か…じゃなかった。
誰かの咳払い、椅子の軋む音、外の車の音。それらすべてが“音楽”だと、ケージは言った。……って、いや、わからん!


次に聴いたのが、リゲティの『アトモスフェール』。
冒頭からノイズの壁。旋律なんてない。ハーモニーもない。あるのは、濃密な音の霧。
映画『2001年宇宙の旅』にも使われたけど、たしかに、宇宙で迷子になった気分になる。


それからシュトックハウゼン。クセナキス。ノーノ。
みんな、好き勝手やってる。音楽のルールなんて知らん顔。もう何が音楽で何が騒音なのか、境界線が溶けてる。
でも、そこからだった。私は気づいてしまった。音楽って、わかりやすい感情表現だけじゃないのかも。
「美しい旋律」「感動的な和声」「耳に馴染むリズム」…それがないはずなのに、聴いていると身体がざわざわする。

恐怖、混乱、焦燥、放心…むしろ“人間くささ”をむき出しにされた感じ。
武満徹の『ノヴェンバー・ステップス』を聴いたときもそうだった。
尺八と琵琶が、オーケストラと交わらず、ぶつかり合う。会話にならない、でも語りかけてくる。
その断絶感に、妙に安心する自分がいた。
“分からない”って、ただの拒絶じゃない。
“もっと知りたい”の入り口でもある。最初は、ちゃんと理解しなきゃって思ってた。
でも、だんだん分かってきた。「好き」と「理解」は、別の感覚だ。

モートン・フェルドマンの『Rothko Chapel』は、静謐すぎて呼吸も忘れる。
静けさのなかに、なにか崩れそうな不安定さがある。
でも、説明はできない。ただ、涙が出る。
「意味がわからない」と言う人は多い。

でもそれって、“説明できない感情”が動いた証拠かもしれない。「これ、聴いてみて!」とすすめるなら、
「理解しなくていいよ」と前置きする。
たとえば

ジョン・ケージ『In a Landscape』
 → 瞑想系。優しいミニマル。意外と癒される。
武満徹『Rain Tree Sketch II』
 → 音がぽたぽた落ちてくる感じ。空気が変わる。
スティーヴ・ライヒ『Music for 18 Musicians』
 → 繰り返しが恍惚。日常に流すと脳がとろける。
フェルドマン『For Philip Guston』
 → 4時間以上ある。寝てもいい。聴いてもいい。存在だけで美しい。


現代音楽は、生活に溶け込む“音の彫刻”でもある。
「意味を理解する」より「触れる」「漂う」くらいがちょうどいい。


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