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マルコが死んだ



マルコが死んだ。

そう書くと、ずいぶん大ごとに聞こえる。実際、大ごとだった。少なくとも、うちの家にとっては。

マルコは金魚だ。七月四日の夏祭りで、娘がすくってきた一匹。ポイの紙が破れる前に、たまたま一匹だけ袋におさまってしまった、あの小さいオレンジ色のやつだ。

一匹しかいない金魚のために、僕は立派な飼育セットを買った。ポンプも、砂利も、活性炭のフィルターも。今思えば、マンションを一室借りて、住人がひとり、みたいなことだった。しかもその住人は、五日で出て行った。


夏祭りの金魚には、昔から言い伝えのようなものがある。すぐ死ぬか、やたら長生きするか、そのどちらかだ、と。中間がない。人生の縮図みたいなことを、五百円ですくわされる。

うちは、よくないほうを引いた。

あとで調べたら、祭りの金魚がすぐ死ぬのには、ちゃんと理由があるらしい。あの子たちは輸送とビニール袋でとっくに疲れきっていて、家に着くころには満身創痍。しかも新しい水槽には、フンやエサの汚れを分解してくれるバクテリアがまだ棲んでいない。だから水は数日で毒(アンモニア)でいっぱいになる。ブクブクは、酸素を送るためだけじゃなく、その掃除屋のバクテリアを育てるためにも要るのだそうだ。

僕が買ったセットには、そのブクブクがついていなかった。浮くタイプのエサをあげても、マルコはぜんぜん食べなかった。食べ残しをそのままにして、水が濁った。活性炭のフィルターを、よく洗わずに突っこんだ。原因を並べると、まるで容疑者が多すぎる事件みたいだ。犯人は僕だ。全員、僕だ。

一方で、こんな話もある。イギリスで、縁日ですくわれた金魚が四十三年生きて、ギネスに載ったらしい。四十三年。飼い主のほうが先に人生の折り返しを迎えたかもしれない年月だ。金魚は、飼い方さえ間違えなければ、こちらの都合よりずっと長く生きてしまうことがある。

つまり、命というのは、うっかりすると、こっちの想像より重い。


僕には、生きものを飼うことへの、うっすらとした畏れがある。

昔、家族を見送ったことがある。詳しくは書かない。ただ、あのとき僕が学んでしまったのは、命は預かった瞬間から、返す日のことがついてくる、ということだった。かわいい、うれしい、の裏側に、いつも小さく「いつか」が畳んでしまってある。

だから、金魚一匹に飼育セットを買いながらも、僕はどこかで身構えていた。飼わなければ、五日で死ぬこともなかったかもしれない。庭に埋めることもなかった。娘が水槽をのぞきこんで、静かになることもなかった。
「縁起でもない」、というのは、たぶんこういう気持ちのことを言う。

でも、飼わなければ、五日ぶんの「マルコ」も、いなかった。


娘が、なぜあの金魚を「マルコ」と名づけたのか、僕は知らない。

ただ、その名前を庭で口にしたとき、ふいに思い出した。『母をたずねて三千里』の、あのマルコだ。会えなくなった母を探して、海をわたって、知らない国をひとりで歩いていく、小さな男の子。

一匹だけの水槽で、静かに口をぱくぱくさせていたマルコ。あれは、なにか探していたのだろうか。仲間だろうか。海だろうか。それとも、はぐれてしまった、だれかだろうか。


庭の土に、埋めた。スコップで掘った、思ったより浅い穴に。

マルコ、ごめん。うまく飼えなくて、ごめん。ブクブクを買わなくて、フィルターを洗わなくて、そもそも、うちに連れて帰ってしまって、ごめん。

名前を呼んでも、もう返事はない。返事がない、というのが、たぶん、死ぬということの、いちばん静かな説明なのだと思う。呼んでも、返ってこない。家族を見送ったときも、そうだった。

だから僕は、こういうことにする。

マルコは死んだんじゃなくて、母を、たずねに行ったのだと。三千里の、ずっと向こうへ。あの小さな体で、水槽よりずっと広いところへ、やっと出かけて行ったのだと。

そう思うことにして、僕は、土のうえに、手を合わせた。

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