渇きの果てに…禁断のコンダクター サイドストーリー
『渇きの果てに・・・禁断のコンダクター』の完結後、読者の皆さまから、
「アダムスの心の中も読んでみたい」
「まゆと別れたあと、彼は何を思い、どのように自分自身と向き合っていたのだろう」
という温かいリクエストをいただきました。
本作は、その声にお応えして綴ったサイドストーリーです。
「まゆ視点」の本編では描かれることのなかった、アダムスの葛藤や後悔、そして再生への歩みを、彼自身の視点から描いています。
物語は、鹿児島での二人の時間を終え、アダムスがホテルの部屋をあとにして、駐車場の車の運転席に座る場面から始まります。
本編とあわせてお楽しみいただければ幸いです。
サイドストーリー
(俺は……最低だ)
運転席に座ったアダムスは、エンジンをかけることもできず、両手で顔を覆った。
ホテル京セラの部屋を出てから、まだ数分しか経っていない。
それなのに、まゆさんとの時間が何度も脳裏によみがえってくる。
最後に抱き合ったときのことだった。
彼女が顔を歪めているのに、俺は腰を止めることができなかった。
「……あっ」
苦しそうに漏れた声。
身体を強張らせながら、それでも俺を受け止めようとしていた彼女の姿。
思い出すたび、胸の奥が締めつけられる。
(どうして止められなかったのか……)
あの瞬間、長いあいだ押し込めてきた欲望が、一気に理性を越えてしまった。
女性の気持ちに寄り添うこと。
急がず、安心してもらい、信頼を積み重ねること。
それが、俺の誇りだった。
そういう男でありたいと、ずっと思って生きてきた。
それなのに、まゆさんの前では、その誇りを守り切ることができなかった。
彼女が心を開いてくれたことに甘え、自分の欲望を抑えられなかった。
その事実が、何より苦しかった。
ハンドルを握る手に力が入る。
指先が白くなるほど握りしめても、胸の痛みは消えなかった。
俺はこれまで、
「優しい男」
「頼れる男」
であろうとしてきた。
相手を満たし、安心させることで、自分の価値を確かめていたのかもしれない。
けれど、今日の俺はそんな理想の自分ではなかった。
欲望に戸惑い、弱さを隠し切れなかった、一人の男だった。
その姿を受け入れることができず、俺は深く目を閉じた。
まゆさんが大阪へ帰ったあとの鹿児島は、驚くほど普通だった。
仕事はいつもどおり忙しい。
会社を回り、取引先を訪ね、笑顔で商談をこなす。
けれど、一人になると心にぽっかりと穴が開いたようだった。
思い出すのは、彼女の悲痛な顔だった。
そして、自分が彼女を傷つけたのではないかという思いだった。
後悔だけではない。
それ以上に、自分自身への失望が胸を離れなかった。
仕事中も、夜眠る前も、ふとした瞬間にホテルでの出来事がよみがえる。
俺は本当に、彼女に寄り添える男だったのだろうか。
そう問いかけるたび、答えは見つからない。
ただ一つ分かったのは、俺もまた、弱さを抱えた人間だったということだった。
その事実を認めることが、今の俺には何より苦しかった。
まゆさんが鹿児島から戻って一か月。
初夏の風を感じながら仕事を続ける日々の中で、俺は何度もまゆさんさんを思い出していた。
忘れられないのは、肌を重ねた感触ではない。
「もっと触れて」
そう震える声で、自分の本音を打ち明けた彼女の表情だった。
俺は彼女を導いているつもりだった。
だが、本当に救われていたのは俺の方だったのかもしれない。
そんなある日、大阪出張が決まった。
会おうと思えば会える。
だが、鹿児島以来、まゆさんからのLINEはめっきり減っていた。
俺は家庭のある男だ。
彼女も家庭のある女性だ。
軽蔑されても仕方のないことをしてしまった。
何度も文章を書いては消し、迷い続けた末に送った。
《来月、大阪出張が決まりました。》
《もし都合が合うなら、お会いできますか?》
……返事は来ない。
一日。
二日。
三日。
通知を待った。
まゆさんからのLINEは届かない。
やはり嫌われたのだろう。
彼女をかき乱したのは俺なのだから。
そう諦めかけた夕方、スマートフォンが震えた。
《ありがとうございます。私もお会いしたいです》
思わず息を吐いた。
拒絶ではなかった。
彼女もきっと、自分の心と向き合った末に返事をくれたのだろう。
俺は短く返信した。
《嬉しいです。では大阪で。》
今度は誰かを満たそうとする男ではなく、一人の人間として会いたい。
そう思えたのは初めてだった。
約束の日
大阪での仕事を終え、ホテルラウンジへ向かう。
窓際には、まゆさんさんが座っていた。
まゆさんを見て、思わず息をのむ。
穏やかな笑顔だった。
以前のような悲壮感はない。
仕事や鹿児島の思い出を語り合ううち、不思議なほど自然に時間が流れていった。
「まゆさんさん、変わりましたね。」
「頑張るのを少しやめました。」
その一言が胸に響いた。
「僕はずっと、女性を満たせる男でいたかったんです。」
必要とされることで、自分の価値を確かめていた。
でも、それは人を救うことではなく、自分を支えるためだった。
まゆさんさんは頷いた。
「私たち、似てますね。」
その言葉で気づいた。
彼女も俺も、誰かに認められることで自分を保とうとしていたのだ。
俺は彼女を救ったつもりでいた。
違う。
彼女が自分の弱さと向き合う姿に、俺自身が救われていたのだ。
別れ際、
「まゆさん。幸せになってください。」
「アダムスさんも。」
握手も抱擁もない。
ただ会釈を交わし、それぞれ反対方向へ歩き出した。
振り返らなかった。
もう追いかける必要もない。
胸の奥では、あのテナーサックスが静かに響いていた。
それは誰かを導く旋律ではなく、迷いながら歩く人の背中をそっと押す音だった。
俺も、自分を受け入れられる男になろう。
そうすれば、もっと素直になれる気がした。
翌朝。
ホテルの窓から差し込む光を浴びながら、鏡の中の自分を見つめた。
目尻の皺も、白髪も増えた。
それでも、不思議と悪くないと思えた。
昨日のまゆさんさんも、今の自分を受け入れた穏やかな表情をしていた。
その姿が、俺の心を変えてくれた。
関西空港へ向かう電車の中で、昨日の言葉を思い返す。
「頑張るのを少しやめました。」
俺は何を頑張ってきたのだろう。
良い夫であろうとし、
会社では頼られる男であろうとし、
弱さを見せずに生きてきた。
だが、本当は自分も不安だった。
その弱さを隠すために、誰かを満たそうとしていたのかもしれない。
空港の売店に足を踏み入れた瞬間、 胸の奥で、まゆさんの笑顔と妻の顔が重なった。
棚に並ぶ菓子箱を眺めながら、俺はふと気づく。
――この数日、妻のことを一度でも思い出しただろうか。
まゆさんの横顔ばかりを追い、 彼女の言葉に救われ、 彼女の弱さに触れ、 彼女の変化に胸を揺らしていた。
その間、妻は俺の帰りを待っていたはずだ。
いつものように、夕食の支度をしながら。
俺の好きな味噌汁の味を、変わらず守りながら。
その想像が、胸に重く沈んだ。
手に取った菓子箱の軽さが、 まるで自分の裏切りの軽薄さを突きつけてくるようだった。
「喜ぶだろうか」
そう思った瞬間、喉の奥がひどく痛んだ。
まゆさんの前では弱さを見せられたのに、 妻の前では、俺はずっと “強い夫” を演じてきた。
その仮面のまま、裏切りだけを隠して帰るのか。
罪悪感は、甘い菓子の箱よりもずっと重かった。
それでも俺は箱を戻さなかった。
戻せば、もっと卑怯になる気がした。
妻に渡す土産は、償いではない。
嘘を塗り固めるための飾りでもない。
ただ、
「あなたを忘れていた時間があった」
その事実を抱えたまま、 それでも向き合おうとする自分の、 ささやかな誠意だった。
袋を手にした瞬間、心の奥がきゅっと縮んだ。
まゆさんとの時間が美しかったほど、 妻への罪悪感は濃くなる。
美しい思い出と、罪悪感を抱えたまま、 俺は搭乗口へ向かって歩き出した。
完
