《クロード・モネの生涯》印象派の由来となった『光の画家』
2026年2月7日(土)〜5月24日(日)まで、アーティゾン美術館にて
「没後100年 クロード・モネー風景への問いかけ」が開催されています。
印象派画家の中でも特に有名な画家であり、
情緒あふれる睡蓮などの代表作が高い人気を博しています。
あと一ヶ月で終了となりますが、その客足は途絶えておらず
当日券は売り切れとなることが現状も多いです。
今回はそんなクロード・モネについてお話ししていきます。
もし展覧会へ訪れる際には、私のブログを一読してからですと
モネへの理解が深まり、さらに展覧会を楽しめるかと思います。
長い物語でございますので、
目次を活用して、ゆっくりとご愛読くださいませ。

Claude Monet
クロード・モネ
1840〜1926年 享年86歳
生い立ち
誕生〜少年期
1840年11月14日、パリ市内の北西部にあるメゾン=ラフィット街。
父はアドルフ・クロード・モネで、
母はルイーズ・ジュスティーヌ・オーブレ。
二人の間に次男として生まれて、
オスカル・クロード・モネと名付けられました。
モネが5歳の頃に、一家でフランス北西部のノルマンディー地方、
セーヌ川の河口にある港湾都市、ル・アーヴルに転居します。
のちにモネは、
「太陽と輝く海に誘われて、断崖の上を自由に駆け回ったり、
水と自由に遊ぶのは本当に愉快だった」
と語っている通り、のどかで美しい環境に育った。
ただ、この回想を聞いていると美談に聞こえるが、
実際のモネはというと、学校などの規律を嫌っており、
ノートの余白は落書きで溢れているような生徒で
「聞かん坊」と呼ばれたりしていました。
まとめると、学校をよくサボっては、
大自然の中で自由に遊んでいたというのがよりリアルな表現になる。
しかし、この聞かん坊の時代に画家を志すきっかけがありました。
10代の頃から似顔絵の才能が地元で評判になり、
1枚10〜20フランで売って小遣いを稼いでいたと言うのです。
これは単なる趣味とはならずに、
絵で生きていくという選択に繋がりました。
ただ、その後モネに試練が降りかかります。
17歳の頃に、最愛の母が亡くなってしまいます。
突然の別れに、モネは悲しみに暮れて学校を退学するほどでした。
その悲観しているモネに、新たな出会いもありました。
絵の具屋の主人を通じて、
風景画家ウジェーヌ・ブーダンと知り合いました。
はじめはブーダンの描く絵を嫌ってたモネでしたが、
ブーダンの戸外制作に連れ出され、
太陽の光の中で風景を描く美しさに魅了されました。
これまでの経験から、モネは画家になると志したのです。

油彩・キャンバス 32.6x46.3cm/ポーラ美術館 蔵
仲間たちとの出会いと印象派展まで
1859年の4月。市からの奨学金を受け、
本格的に絵画を学ぶためにパリへと渡ります。
この頃、フランスの版画家ブラック・モンが「北斎漫画」を発見し、
浮世絵がパリの芸術家たちの注目を集め出した頃でした。
1860年にモネは、アカデミー・シュイスに通いはじめ、
バルビゾン派の画家シャルル・ジャックに学びました。
この頃に、後の印象派画家の仲間になるカミーユ・ピサロと出会いました。

油彩・キャンバス 53.7x95.2cm
しかし翌年、モネは兵役につくことが決まります。
アルジェリアへと渡りますが、
体調を崩したモネは結果的に一年足らずでの帰国となりました。
ただ兵役期間は残っているので、
再び合流しなければいけませんでしたが、
叔母のルカードルが金銭で残りの兵役期間を免除させたといわれています。
叔母のおかげで、モネは再びパリの地へと踏み入れました。
次に訪れたのは、今では多くの画家を輩出している
シャルル・グレールの画塾でした。
画塾と言いながらも、技術を教えたりはしていなかったそうです。
塾生たちの好きに描かせ、自由な表現へと背中を押していました。
また塾料も取っていなく、アトリエの家賃代を塾生で分割で支払ったり、
起用したモデル代のみを徴収していたといわれており、
若き画家たちから、ありがたがられる画塾であったともいわれています。
この時に、フレデリック・バジール、オーギュスト・ルノワール、
アルフレッド・シスレーらと出会い、交流を深めていきました。
1869年にはルノワールと共に、
屋外水浴場ラ・グルヌイエールで戸外製作している。
鮮明な色彩と筆致の効果によって光と水面の反映を見事に描き出し、
画面上に大きな進展を見せている。
共に製作していただけに、
ルノワールの作品と比較される若き頃の代表作である。

油彩・キャンバス 75x100cm/メトロポリタン美術館 蔵
1865年サロンにモネは2点出品をしており、
どちらも入選となっていることから、
モネの画家としての将来は早くから明るかったと言えます。
1866年には、後の妻となるカミーユ=レオン・ドショーに出会い、
モデルとして起用して描かれた『緑衣の女』も非常に有名な代表作です。
同年のサロンにも『緑衣の女』と他に作品1点を出品し、
どちらとも入選となっており順風満帆でありました。
しかしながら、その後は落選と入選を繰り替えすようになり、
同じく落選となったルノワールらと独自の展覧会を計画し始めたのです。
残念ながら、この頃は資金不足であったために計画が流れてしまうが、
これこそが後の「印象派展」への布石でありました。

油彩・キャンバス 231x151cm/ブレーメン美術館 蔵
1867年8月8日に、カミーユとの間に長男ジャンが誕生している。
モネはカミーユとの結婚を反対されていたので、強引な出産であった。
しかし、相変わらず安定しない画業であったために、
妻と息子をパリに残し、
自身は家族のもとへと里帰りして生活費を切り詰めていた。
しかし追い打ちをかけるかのように、
今まで生活費の支援などをしてくれていた、
叔母ルカードルと険悪な関係となってしまうのです。
画業と財政のどちらも安定しない中であったが、
1870年6月28日にカミーユと晴れて入籍をしました。
間違いなく苦しい家計ではありましたが、
改めて家族で過ごし、幸せな日々を送りました。
そんな幸せな日々を裂くように、普仏戦争が始まります。
徴兵を避けるために、ピサロとロンドンへと渡ります。
しかし画家仲間であったバジールが自ら志願し、
出兵することになりました。
バジールは裕福な家庭に育ち、男気にあふれており
まだ芽の咲かない印象派の画家たちに仕事として製作依頼をしたり、
家賃を肩代わりしたり、仲間たちからは厚く信頼されていました。
バジールが抱くその男気は、愛国心へと姿を変えて
自ら出兵を志願したといわれています。
結果的にバジールは軍に合流して二ヶ月ほどでなくなってしまいます。
それも戦地で友を庇った際にドイツ軍の準弾で亡くなってしまい、
最後まで漢気に溢れていました。
彼がここで亡くなっていなければ、
印象派展はもっと早く行われ、さらに活躍していたといわれるほど、
「印象派」を語るのに非常に重要な人物でありました。

油彩・キャンバス 98x128cm/オルセー美術館 蔵
大切な友人を亡くした二ヶ月後に、父を亡くしてしまいます。
これにてモネは、28歳にして両親を失くすこととなりました。
1871年に休戦協定が結ばれて情勢が落ち着いてきた頃から
生涯好み影響を受けていた浮世絵の収集を始めたといわれています。
悲しみを埋めるために、好きなものに時間を割いたのかもしれません。
その翌年には、画商デュラン=リュエルがモネの作品を29点購入しており、
少しずつモネの生活も安定し始めていました。
1873年4月にピサロ、シスレー、ルノワールらとともに、
画家、彫刻家、版画家による共同出資会社を設立しました。
その翌年、1874年4月15日から5月15日の一ヶ月間にかけて、
今までも語り継がれている第一回印象派展が開催される。
待望であった本展覧会は成功には至らぬとも、
大きな評判を呼び、世間から大きな注目を浴びた。
中でもモネの出品作、『印象・日の出』。
この作品のタイトルから「印象派画家」と呼ばれる
一つの大きなきっかけになりました。

油彩・キャンバス 48x63cm/マルモッタン美術館 蔵
1871年にロンドンから戻ってからは、
パリ近郊の田舎町アルジャントゥイユで生活を送っていました。
セーヌ河右岸に位置するこの村は、恵まれた自然環境とともに、
鉄道や鉄道橋、セーヌ川を疾走する帆船などがありました。
近代生活を彩る魅力的な題材をモネに提示し、
マネ、ルノワール、カイユボット、シスレーらと共に
「印象・日の出」のような傑作を多く生み出していました。
しかし、印象派展自体は振るわない結果が続きます。
1875年から1879年にかけて3度印象派展は開催され、
モネも全てに参加をしていましたがどれも失敗に終わります。
めでたく次男ミシェルが誕生するが、生活は困窮を極めていきました。
そのため小村のヴェトゥイユへ転居している。
さらに困ったのが、以前よりモネのことを支援していた、
実業家エルネスト・オシュデが破産をしており、
妻アリスと6人の子供たちをモネの家に送ってきたのでした。
本人は債権者から逃れるために、ベルギーへと逃亡し
4人家族で生活の苦しいモネ家でしたが、
突然にして、11人での生活を余儀なくされました。

油彩・キャンバス 100x81cm/ワシントン・ナショナルギャラリー 蔵
決別と最愛との別れ
出産後に加えて、以前より体調を崩していた妻カミーユ。
自身の子を見るだけでも苦労がかかっていたでしょうが、
6人に子供たちも面倒も見なければ行けませんでした。
アリスの手伝いはありましたが、彼女は限界を迎えます。
病床についてからは、アリスがよくカミーユの面倒を見てくれていたという
二人の微妙な関係を晴らすような話もあるほど、
一家は団結して過ごしていました。
しかし、病の手はカミーユを確実に掴み離しませんでした。
1879年9月5日、
最愛の妻カミーユは32歳という若さでこの世を去ってしまいます。
光の画家は、一時光を失ったといえる悲劇でありました。
しかしモネは悲しみに飲まれずに、
人里離れたこの村で再び自然と対峙していました。
セーヌ河の解氷風景などの、意欲的な作品群を次々と製作していました。

油彩・キャンバス 90x68cm/オルセー美術館 蔵
以降、1880年から1886年にかけても印象派展は開催されていました。
しかし、ルノワールから「サロン(官展)に復帰して評価を得たい」と、
話を聞き刺激を受けたモネは、
ルノワールと共に印象派展ではなくサロンに作品を出品します。
結果は一目瞭然で、10年ぶりとなるサロン出品は二点のうち一点が入選、
『ラヴァクール』の風景を描いた100x150cmの大作でした。
サロンに復帰し評価を得たことで、
絵が売れるようになり生活が安定し始めました。
生活に余裕が出たことで、
後の連作制作へつながる安定した創作活動の基盤が築かれたのでした。
しかし、共に活動していた印象派画家たちは穏やかではありません。
モネは第7回印象派展への出品を最後に、
ピサロやカイユボット等の反対を押し切って、
印象派グループから主流画壇への回帰を決意しました。
この頃にモネは、ロンドンで出会った画商デュラン=リュエルからの
資金援助でパリ西部のポワシーに転居しています。
同時期に、同居していたアリスも夫オシュデがパリで再起を図っており、
パリに来なさいと通達が来るもその意に反し、
アリスはモネとポワシーでの生活を選択しました。
1883年に、パリ内にあるマドレーヌ大通り9番地に
デュラン=リュエルが新画廊を開きます。
同年の2月28日からモネの初期から最新作までの
約60点もの作品が出品されました。
しかし、モネとデュランでは展示方法や広告の仕方に相違があったそうで、
モネは激しく非難していたといわれています。
デュランは以前より印象派を支えた一人でした。
普仏戦争の時にモネと同じくロンドンに非難しており、
その時にモネやピサロと出会いました。
資金不足の印象派画家たちへ、印象派展のために自身の画廊を
複数に渡り会場として使わせてくれたことで、
印象派展が開催されていました。
さらに諸外国に印象派作品を広めた立役者でもある、重要人物です。
1886年にもデュランが48点もの作品群をニューヨークに運び
アメリカの地で印象派展を開催し、印象派の名を広めていました。

油彩・キャンバス 81.7x59.8cm/オーストリア美術館 蔵
この頃のモネは、転居地のポワシーを好んでいませんでした。
当時のポワシーは、パリへのアクセスに優れた住宅地といったイメージで、
モネの制作活動を刺激するような自然は多くありませんでした。
上記の『ポワシーの釣り人』も、従来の作品と比べると暗く感じます。
こんなポワシーに嫌気を刺していたモネは、
新たな引越し先を探すのに加えて、写生旅行に旅立ちます。
ノルマンディー地方をはじめに地中海沿岸やブルターニュ半島、
クルーズ峡谷など活動範囲はフランス国内外へと及びました。
さまざまな気候風土の元で、新たな主題に取り組むうちに、
モネの表現方法は広がりを見せ、
筆触や彩色、構図を追求して自然の威容を画面に描き始めました。
これらの試みはやがて、一つのモチーフを通じて
刻々と変化する光の効果を生み出した「連作」へと繋がっていきました。
その「連作」への変化が徐々に現れ出している作品群が、
デュランをはじめとした画商たちによって開催される個展に展示をされて、
大きな反響を呼びました。

油彩・キャンバス 65x83cm/茨城県近代美術館 蔵
連作シリーズ
1888年に最初の連作シリーズ『積みわら』が始まります。
1900年代には『ポプラ並木』『ルーアン大聖堂』といった馴染みのある、
フランスの伝統的な風景を題材を得ました。
光と共に様相を異にする色彩、形態、質感の描写を探究し、
さらには過去に取り上げた主題に遡り、光と大気に包み込まれた風景を
再び連作の時期の技法を用いて描いている。
1889年には同時代に活躍したオーギュスト・ロダンとの二人展が開催、
またこの頃にアメリカにて、
エドゥアール・マネの名画『オランピア』が売られていると耳にしたモネは
本作品を買い取ってフランス国家に寄贈するべく、
募金活動をしたことは有名なエピソードであります。
このような愛国心ある行動から、
国民的画家としての地位を確立し始めていました。
1890年に、ノルマンディー地方のジヴェルニーの借家と土地を購入し、
ついにモネは終生の地を定めました。
1891年には同居人アリスの夫オシュデが病死してしまいます。
長くそばにいながらもオシュデと離婚し、モネと結婚をしなかったのには
長く世話になった夫への罪悪感など複雑な心情からだったと思います。
そんな心の足枷が外れたアリスは、
1892年の7月16日に二人は入籍とし、同居人から晴れて家族となりました。その翌年の1893年に、家に隣接している土地を買い池を作りました。
この池が、のちに睡蓮が浮かべられる水の庭園となるのです。

油彩・キャンバス 130.5x190cm/オルセー美術館 蔵
1893年にシカゴで開催された万国博覧会では印象派作品が展示され、
世界にその名を知らしめました。
1897年には長男ジャンと義理の娘ブランシュが結婚をします。
二人は幼い頃から兄弟のように過ごしていましたが、
入籍をしたことで、家族の結びつきがさらに強まることとなりました。
1899年には、留学している次男のミシェルに会うために、
モネはイギリスのロンドンへと渡ります。
ロンドンのテムズ河風景をよほど気に入ったらしく、
翌年の1900年の2月上旬から4月の頭まで、帰国してすぐにロンドンへ渡り、
テムズ河風景の連作制作を行っていました。
モネはこの頃、印象派の様式を確立させようとした時期でもあり、
ロンドンの風景を屋外の自然光を意識して描いています。
このロンドンへの滞在で、イギリスの偉大な画家ジョン・コンスタブルと、
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの作品群に触れていました。
特に大気とそれが含む水蒸気によるドラマティックな風景を作り出した、
ターナーの作品には大きな影響を受けていました。
この一連のロンドン風景の連作には、
ターナーほどの湿潤で圧倒的な水蒸気はないにしても、
いずれも霧による大気の湿度の効果が追求されているのが感じられる。
モネはターナーと違い、それらを様々な光の効果と一体化させており、
形態と色彩が湿然となる世界を見事に創り出していました。
同じ対象を異なる光と空気で描き、
自然の豊穣なる素顔を描き撮ろうとしたモネ。
このモネの企みは、ロンドン風景の連作で大きな成功を収めている。

油彩・キャンバス 81x92cm/ワシントン・ナショナルギャラリー 蔵

油彩・キャンバス 81x92cm/カイザー・ヴィルヘルム美術館 蔵

油彩・キャンバス 81x92cm/リール美術館 蔵
晩年と睡蓮
帰国をした翌年の1901年11月に、自宅近くを流れているエプト川の水を、
自分の庭園へ引き込むことを許可されたモネは、自宅の池を拡張します。
その後池に睡蓮を浮かべ、日本の橋を模した小さな橋をかけたりと、
庭の作りに並みならぬ情熱を注いでいたこともあり、
モネ芸術の最大のモチーフとなっていた。
最初こそは思うように捗らないでいましたが、
この連作は生涯続けられることになります。
他の連作とは比べ物にならないほど作品数が多く、
またその作風は大きく変化していきます。
初期の睡蓮の作品群は、池に浮かぶ睡蓮そのものが
中心的モチーフになっていて、再現的に描かれています。
ところが次第に睡蓮は、画面中央から遠のいていき、
池の水面とそこに映り込む周りの木々とともに
絵の構図を決定する一つの要素になっていきました。
画面の中でより相対化されていったといえるでしょう。

油彩・キャンバス 73x100cm/マルモッタン美術館 蔵

油彩・キャンバス 89.5x92.5cm/オルセー美術館 蔵
そして最晩年の睡蓮と池、あるいは日本風の橋を描いた作品では、
モネが患っていた白内障の影響からか荒々しい筆致と、
激しい色調による表現主義的な様式が見られるようになっていく。
この頃の作品には、池の水が暗示的に示していた生命の根源としての
水の役割とその存在感はもはやなくなっていると言えるでしょう。
しかし、みずみずしい水の表現とは反対に見える、
最晩年の強烈な表現にも、
よく見ると植物が持つ生命への切実なる希求を読み取ることができます。
モネは生涯をかけて光の賛歌を謳いあげましたが、
それは同時に生命の賛歌でもありました。
我々鑑賞者は、
ジヴェルニーの睡蓮の庭からそれを読み取ることができます。

油彩・キャンバス 100.6x73.5cm/石橋財団アーティゾン美術館 蔵

油彩・キャンバス 100x81cm/和泉市久保惣記念美術館 蔵

油彩・キャンバス 130x197.7cm/北九州市立美術館 蔵

油彩・キャンバス 131x95cm/群馬県立近代美術館(群馬県企業局寄託作品)
1909年に、睡蓮の連作48点による個展がデュランの画廊にて開催されます。
5月6日から6月5日までの会期であったが、
かなりの高評価であったため一週間の延長となるほどの反響でした。
そして1911年に妻のアリスが67歳で亡くなってしまいます。
白血病を患っており、
最愛の妻を再び病の手によって失うことになりました。
妻に先立たれる二度目の経験にモネは苦しみ、
数年もの間、絵を描くことはなかったと言われています。
悲しむモネ自身にも病の手が忍び寄ります。
アリスが亡くなった翌年の1912年の夏頃にモネは白内障と診断されます。
この頃から徐々に作品に影響が現れ出します。
1914年の2月、妻アリスにとどまらず
長男ジャンも病によって亡くなってしまいます。
以降、モネの身の回りのサポートや面倒は義理の娘でもある、
ジャンの妻ブランシェがするようになりました。
同年に第一次世界大戦が勃発し、1918年の11月11日に終戦します。
この翌年の1919年12月3日に、ルノワールが死去します。
同時期に活躍していた印象派画家の最後の一人に、モネはなりました。
「とてもつらい。私だけが残ってしまったよ。
仲間たちの唯一の生き残りだ。」と友人に手紙を送ったと言われています。
最晩年と最後の大作
1920年に、パリのロダン美術館に睡蓮の壁画を展示するための
建物が新設されることになり、モネはその壁画制作に尽力しました。
1922年はフランス国と壁画の寄贈について契約を交わしているが、
視力がどんどんと低下しており、なかなか制作が捗らずにいました。
当時の友人でもあり、
フランスの第40代首相でもあったジュルジュ・クレマンソーが、
懸命に励まし続け、放棄気味であった制作を続行することができました。
モネ自身も白内障が悪化していても、
すでに動き出しているプロジェクトに対して責任感を抱いていました。
しかし、相変わらずも悪くなる視力でクレマンソーとの約束を守るために
以前より拒否していた目の手術を受けることとなります。
右目の視力はある程度回復しましたが、左目は失明状態のままでした。
メガネをかけるようにしたりして、
どうにか色彩感覚などを改善させたと言われています。
しかしそれでも壁画制作は簡単にはいかず、
フランス国に対して寄贈する期限を伸ばして欲しいと、
複数回にわたり延長の申請をしていました。
最後の延長が1925年のことでした。
翌年の1926年の冬。
厳しい寒さと壁画制作の疲れが体に響いたのか、
肺腫を患ってしまい体力が著しく下がってしまいました。
そのまま寝たきりとなり、同年1の2月5日。
愛を込めて手がけた庭園のあるジヴェルニーの自宅にて、
家族に見守られながら亡くなりました。
死因については肺硬化症とされているが、
レントゲン写真に肺癌らしきものが見られることから
諸説語られている。
首相クレマンソーは本当の病を知っていたが、
モネ本人に伝えることができなかったのではないか?
と伝えられています。
葬儀の際、
棺を黒い布が掛けられていたのを見たクレマンソーが、
激怒したと言われています。
「光の画家に画家に暗闇は似合わない」と叫び、
その布を取り除き、花模様のカーテンで棺を包んだと言われています。
モネの死後に未完ではありましたが、
壁画はフランス国に寄贈され、当初計画されていたロダン美術館ではなく
セーヌ川を挟んで反対にあるオランジュリー美術館に納められました。
亡くなってから五ヶ月後に8点もの大作の壁画が展示され、
今まで多くの人々に感動を与え続けています。

油彩・キャンバス 壁画 /オランジュリー美術館 蔵
クロード・モネ作品の特徴3選
①瞬間の光を追っていたモネ
始まりは師ブーダンに連れられた戸外での制作に夢中になり、
目の前にある空気や光そのものを描くことを望んでいました。
それまでの絵画が「物の形」を正確に描くことを重視したように、
モネは光とその反射がもたらす対象物の色の変化を捉えようとしました。
鉛筆で素早くスケッチをすることもあれば、
準備なしの油彩で一度描きすることもありました。
モネは印象派の画家たちが用いていた
「筆触分割」の技法を生み出し、完成させています。
赤・青・黄の三原色を中心にして、なるべく色を混ぜないように、
画面に並置させていくという技法です。
この技法によって、モネの作品には筆のタッチが活かされており、
明るい光とそれがもたらすモチーフの色の変化が見られます。

油彩・キャンバス 66.1x81.3cm/ポーラ美術館 蔵
②ジャパニスムとモネ
19世紀後半、
ヨーロッパでは日本の浮世絵や工芸品に強い関心が集まります。
この風潮を「ジャパ二スム」と呼び、
実際に真似して制作することを「ジャパネズリ」と呼びます。
1853年のぺリー来航をきっかけに日本が開国されたことにより、
美術品に限らず多くの日本の伝統が海を渡りました。
浮世絵が発見された時、西洋画家たちの価値観を大きく揺さぶったのです。
それまでの西洋絵画の基本であった遠近法や均整の取れた構図に対し、
日本の浮世絵は、大胆に切り取られた構図や、広い余白の使い方、
左右非対称の美しさ、平面的な空間表現。
これらの新しい視点がありました。
中でもモネは、その影響を強く受けておりました。
1871年にオランダに渡った際に、
浮世絵と初めて出会い、そのまま購入までしています。
その後も浮世絵収集をしており、ジヴェルニーの自宅からは
233枚もの浮世絵が出てきたと言われています。

油彩・キャンバス 231.5x142cm/ボストン美術館 蔵
③連作による時間表現
モネは対象そのものではなく、
時間によって変化する見え方に興味を持ちました。
同じモチーフを繰り返し描いたり、時間や季節の違いを描いたりしました。
例えば、積みわらの連作群でも朝、昼、夕方や、
夏、冬の季節で描き分けることで、
同じ物でも光で全く違うことを証明しています。
この頃から、モネは芸術は単なる風景画から、
時間を描いた絵画へと変化を遂げました。

油彩・キャンバス100.2x65.4cm/オルセー美術館 蔵

油彩・キャンバス 100x65cm/カーディフ国立博物館 蔵

油彩・キャンバス 99.7x65.7cm/メトロポリタン美術館 蔵

油彩・キャンバス 100.1x65.1cm/ルーアン美術館 蔵
略歴年譜
1840年 11月14日 パリ市内のメゾン=ラフィットにて生まれる
1845年 一家でノルマンディー地方のル・アーブルへ転居 モネ5歳
1857年 ウジェーヌ・ブーダンに
出会い戸外制作の手ほどきを受ける モネ17歳
1860年 アカデミー・シュイスへ入学
ピサロと出会う モネ20歳
1861-2年 アルジェリアで兵役につくが腸チフスにかかり
帰国を余儀なくされ残りの兵役期間は免除 モネ21-22歳
1862年 パリへ戻りシャルル・グレールのアトリエに通う
バジール、ルノワール、シスレーに出会う モネ22歳
1865年 サロンへ作品を初出品
ホイッスラー、セザンヌ、クールベに出会う モネ25歳
1866年 『緑衣の女』をサロンに出品し一定の評価を受ける モネ26歳
1867年 サロンで落選するがモネの生活のために
バジールが作品を購入する
長男ジャン誕生 モネ27歳
1870年 これまで毎年サロンに落選
カミーユと結婚
普仏戦争が始まり一家でロンドンへ避難
画商デュラン=リュエルと出会う モネ30歳
1871年 オランダのザーンダムに滞在
浮世絵と出会い数点購入する モネ31歳
1873年 画家、彫刻家、版画家による共同出資会社を設立する
カイユボットと出会う モネ33歳
1874年 第一回印象派展開催
モネの『印象・日の出』から
批評家ルイ・ルロワが印象派と呼び始める モネ34歳
1876年 第二回印象派展開催 モネ18点出品
エルネスト・オシュデ・その妻アリスと出会う
カミーユの病が始まる モネ36歳
1877年 第三回印象派展開催 モネ8点?出品
オシュデが破産しモネも生活の糧を失う モネ37歳
1878年 次男ミシェル誕生
生活困窮のためヴェトゥイユに転居
オシュデ夫妻と子供たち6人と同居する
債権者から逃れるためにオシュデはベルギーに逃亡
カミーユの病状がどんどん悪化 モネ38歳
1879年 第四回印象派展開催 モネ29点出品
9月5日 妻カミーユ没 享年32歳 モネ39歳
1880年 第五回印象派展開催 モネ出品なし
サロンに出品あり モネ40歳
1881年 第六回印象派展開催 モネ出品なし
画商デュラン=リュエルの援助が手厚くなり
ほとんどモネの専属的な画商となる
同居人アリスと子供たちを連れてポワシーへ転居 モネ41歳
1882年 第七回印象派展 モネ35点出品 モネ42歳
1883年 デュランによってモネ個展が開催される
同居人アリスと子供たちとジヴェルニーに転居
12月ルノワールとイタリアへ旅行 モネ43歳
1884年 1-2月イタリア海岸を旅行
4月半ばまでマントンに滞在
8月ノルマンディー地方へ旅行 モネ44歳
1886年 1885年をはじめに国際絵画展に二度目の参加をする
最後となる第八回印象派展開催 モネ出品なし
秋にノルマンディー地方、ブルターニュ地方に旅行 モネ46歳
1887年 三度目の国際絵画展に参加
ニューヨークで展覧会開催
次男ミシェルに会いにロンドンへ渡る モネ47歳
1888年 前回の来訪で気に入ったロンドンへ再び渡る モネ48歳
1889年 パリ万国博覧会 フランス美術100年展に風景画3点出品
ロダンとの二人展をジョルジュ・プティ画廊にて開催
アメリカにて販売されているマネ作『オリンピア』を
フランス国へ寄贈するための募金活動を開始 モネ49歳
1890年 マネ作『オランピア』がリュクサンブール美術館へ
1907年にルーブル美術館へ収まる
ジヴェルニーの借家と土地を購入し終生の地を定める
ノルウェー美術館が『雨のエトルタ』を購入し
美術館のモネ作品取得第一号となる モネ50歳
1892年 エルネスト・オシュデ没
7月16日にアリス・オシュデと結婚する モネ52歳
1893年 家の新たな区画を購入し庭園を拡張
睡蓮の池を作る工事が始まる モネ53歳
1894年 カイユボット没
モネ作品16点を含む67点のコレクションを
フランス国立美術館へ寄贈 モネ54歳
1895年 デュランによってニューヨークとボストンで
モネの個展が開催される
1月末から4月上旬までノルウェーに旅行
自宅の庭園に日本風の橋を取り付け絵の題材とする モネ55歳
1896年 カイユボットのコレクションの手続きが済み
正式に国のコレクションになる
モネ作品は8点であり始めて公的コレクションとなる モネ56歳
1897年 長男ジャンと義理の娘ブランシュが結婚する モネ57歳
1898年 睡蓮の連作に着手する
ロンドンへ短期の旅行をする モネ58歳
1900年 目に症状が現れ筆を握らない時期ができる
デュランによって睡蓮作品を含む26点が展示される モネ60歳
1903年 カミーユ・ピサロ没 享年73歳 モネ63歳
1905年 デュランによってモネ作品55点を含む
大規模な印象派展を
ロンドンのグラフトン・ギャラリーで開催 モネ65歳
1906年 クレマンソーが内務大臣に任命される
ポール・セザンヌ没 享年67歳 モネ66歳
1908年 白内障の兆候が現れる
9月から12月までヴェネツィアに旅行する モネ68歳
1909年 妻アリスに白血病の症状が出始める モネ69歳
1911年 妻アリス・モネ没 享年67歳頃
モネは長い間業界から引きこもる
同年の末に記憶を頼りに
ヴェネツィアの風景画作品を数点完成させる モネ71歳
1912年 視力が悪化の一途をたどり白内障と診断される モネ72歳
1913年 スイスのサン・モリッツへ短期旅行 モネ73歳
1914年 長男ジャン没 享年47歳頃
その妻でもあり、モネの義理の娘ブランシュが
モネの周りのサポートを務めた
次男ミシェルは第一次世界大戦へ志願兵として出兵 モネ74歳
1915年 戦争中のモネはアトリエに引きこもり
睡蓮の連作制作に没頭する モネ75歳
1916年 クレマンソーから勧められた
フランス国へ寄贈する睡蓮の大装飾画に着手する モネ76歳
1917年 10月オンフルール、ル・アーブル、エトルタ、
プールヴィル、ディエップに旅行する
2月16日 オクターヴ・ミルボー没 享年69歳
9月27日 エドガー・ドガ没 享年83歳
11月17日 オーギュスト・ロダン没 享年77歳 モネ77歳
1918年 第一次世界大戦 終戦
戦争を祝し1916年から制作している睡蓮の大作を
フランス国へ寄贈を望む
当時の戦争大臣・首相のクレマンソーが願いを遂行 モネ78歳
1919年 池のまばゆい反射にさらされ
数週間絵が描けないほど悪化する
12月3日 オーギュスト・ルノワール没 享年78歳 モネ79歳
1920年 フランス国へ寄贈する壁画の依頼が来る
ロダン美術館の庭の中に
パヴィリオンが建設される予定となった モネ80歳
1921年 睡蓮の壁画を飾るためにチュイルリー公園の
オランジュリーを改装する旨をモネが許諾する
フランス国家が『庭の女たち』を20万フランで購入 モネ81歳
1922年 2月5日 ポール・デュラン=リュエル没 享年90歳
絵を描けないほどモネの視力が低下する モネ82歳
1923年 モネは白内障の手術の受ける
視力を一部取り戻すも色彩の見え方に変化が起きる モネ83歳
1925年 オランジュリーのための睡蓮の壁画制作を続ける モネ85歳
1926年 8月に医師から左肺腫瘍を診断される
12月5日ジヴェルニーの自宅にて
オスカル・クロード・モネ亡くなる 享年86歳
12月8日に本人の希望によって内輪にて葬儀が行われる
1927年 未完の睡蓮の壁画がオランジュリーにて展示される
ご質問やお問い合わせ
ご愛読ありがとうございました。
非常に長い物語だったかと思いますが、
今回の記事を読んでいただいき、皆様のお役に立てば嬉しく思います。
またクロード・モネ作品につきまして、
購入を希望しており作品を探している
お持ちの作品を売却したい
鑑定証書を取得したいけれど仕方がわからない
相続のための査定書を制作してほしい
などの、ご相談やお困りごとがありましたら、
お気軽に花田美術まで、お問い合わせくださいませ。
お客様のご希望に沿って、お手伝いいたします。
クロード・モネ作品は高額な作品が多く、
所得鑑定機関もフランスですので、
連絡が取れない、どうやってフランスに送るのか、
様々な理由でお困りの方もいらっしゃるかと思います。
お一人で悩まずに、相談や談笑程度でも
花田美術までお知らせくださいませ。
アーティゾン美術館のモネの没後100年展、
展覧会の終了まで一ヶ月を切ってしまいましたね。
しかし、令和の今でも「印象派」の作品たちは、
世界から愛されています。
今展覧会じゃなくても、出会う機会は多いかと思います。
そんな時に、今回のブログでよりモネ作品を楽しんでいただけると
とても嬉しく思います。
ぜひ、また次の投稿をお持ちくださいませ。
ありがとうございました。
株式会社花田美術 齋藤
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