憧れという感情について・序

それが恋とどう違うものなのか、それを考え初めてからもう5年が立とうとしている。
いまだにわからない。でも「恋」とラベリングできなかったものの殆どが「憧れ」の棚に分けられて、時折数を増やしながら、静かに並んでいる。
環境が変わって、付き合う人間の種類が変化しても結局は同じだった。
「憧れ」という感情の、何と罪深く醜いことだろう。この数年間で僕は思い知った。いや、まだ思い知ることになるだろう。
まず、これはあまりにもありふれた事実であろうが、「憧れ」の対象、それはほとんどの場合美しい。眩しい。煌びやかだ。そして、「憧れ」という感情そのものは美しいものではない。上澄みから出る言葉だけ見ても駄目だ。それだけでは美しく見えても、その感情の底、澱の部分にはジェラシーだの執着だの自己陶酔だの自己正当化だの願望だの、混沌と濁った感情が蠢いている。憧れだとか憧憬だとか、字面ばかりは綺麗に見えてもそれらは単なる尊敬とは違って、何かしら込み入った感情が絡んでいることが多数だ。
……それって僕だけ?
……まずい、僕だけかもしれない。いや、みんながそうなわけない。拗らせすぎているな、は自分でも思うから。
ただこの数年間で僕が得た学びは、

どんな感情を持ち合わせようと、正解の方向に舵を切ることはできる

ということである。
そしてどうすれば僕の思う正解に行けるのかというと、
「言わない」ということ。
夢を見たとして、せめて明晰夢であること。飲まれないこと。
自分の中で完結させること。
何て寂しいのだろう。
でもそうでなければ少しずつずれていってしまうとわかるから、そうする。
それは至極当然のこと。

そうやって何年も何年も捏ねくりまわしながら、大人しくもこの感情と闘ってきた話。

to be continued… 

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